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小ネタTOPにもどる ■鼓動 「いち、に、さん……」 閃光からの間を計ろうと数を数えるぼくの声を掻き消すように、お腹に響くほどの大きな音が鳴る。 「……かなり近くなってきましたね。このままここで遣り過ごしましょう」 所用で隣街まで出向く師匠に随伴した、その帰路で雷雨に遭った。大きい街道なのが幸いして、およそ一刻に進める距離ごとに旅人が休息をとれる場が設けてあり、簡素な東屋に束の間の安息を得ることができた。軒は大きくはり出していて、繋いだ馬たちもおとなしくしている。 次の地点なら小さいながら宿もあり、もっと快適に過ごせただろうけど、贅沢は言っていられない。落雷の心配もなく、雨をしのげる屋根があるだけ上等だ。裏手には泉もあり、人馬が喉を潤すこともできる。 そもそも予定通りなら、もうとっくに帰りついているはずだった。木製の長椅子に座り、ちらりと隣の師匠を見ると、再三の足止めをくらったせいで機嫌が悪そうだ。とばっちりを受けないように、ぼくは身を小さくして、手配に落ち度のあった新任の担当者の指導についてつらつらと考えていた。 日没まではまだ間があるはずだけど、垂れ込めた雷雲のせいで辺りは薄暗い。吹き込む風に雨の染みこんだ服が冷やされ、時折ぶるっと身震いをした。 「どうせ濡れ鼠だ。先を急いだ方が良くないか?」 痺れをきらしたように、師匠が口を開く。 「このあたりの街道沿いには高い木が多いから、危険です。雷を受けた木の近くにいるだけで、灼かれることもあるんですよ」 「雷撃の魔法のように?」 ええ、と頷いたとき、辺りが真昼のように照らされた。 と、ほぼ同時に轟音が響く。 「……怖いのか?」 「あ……」 声を掛けられて気がつくと、ぼくは師匠にしがみついてしまっていた。 「ち……違います! いきなりだから、びっくりしただけです!」 「なるほどな、鼓動が早い」 ぼくの首に添えた手で脈を読んだらしい。からかうような口調で、よしよし、と宥めるように背に手が回される。抱き寄せられるままに師匠の胸に頭を預けて、ぽつりと呟く。 「……あなたの鼓動も、いつもより早いですよ」 濡れた服越しに、そっと胸に指を這わせる。 「怖いんですか?」 お返し、とばかりに笑みを浮かべて師匠を見上げた。雨音はひときわ強まる。走る青い閃光と、轟音。 軽く唇が重ねられた。 顔を離すと、師匠は口の端を上げる。穏やかなのにどこか艶めかしい表情にどきどきする。 「“勇気の出るおまじない”なんだろう? お前はしてくれないのか?」 「しょうがないですね……」 こんなやり取りのとき、ぼくがどうあがいたところで、この人の方が一枚上手だ。照れを隠してなんでもないように振舞うぐらいがせめてもの虚勢なのだろうけど、ぼくの指は微かに震えている。満足そうに細められた目に見つめられて、自分の頬が赤くなるのを感じた。 軽く、浅く、啄むように、角度を変えながら、幾度か口づけを交わした。服は濡れそぼって肌も冷えていたが、互いの身の内の熱が次第に滲んでくる。 ふぅと大きく息をついて、もういちどその胸に頬を寄せた。 「ねぇ……ジョルジュさん」 「ん?」 「昔から、不思議に思っていたことがあるんですよ」 目を瞑ると、さっきよりも落ち着いてきた彼の鼓動が聞こえる。 「……ひとりでいる時や、眠る前の静かな時間が多かったんですけど──急に胸がどきどきするんです。それは、走った後のような胸苦しさとは違って、自分の中にもうひとつ心臓ができたみたいな独特の感覚で……。 ふたつのどきどきは、やがてゆっくり重なっていって、最後にはひとつになるんです。 いつの頃からか、これは誰か別の人の鼓動に共鳴しているんじゃないかと思うようになりました。ぼくの鼓動は、いつか出会う大切な人の命と、繋がっているんじゃないかって……」 「その運命の相手が、俺なのか?」 「ふふ……分かりません。あなたといると、どきどきしますけど、それはきっと、ぼくがあなたを好きなだけですから」 「好きな“だけ”? それで充分じゃないのか?」 身を離すと、二人の間を風が吹き抜けた。 「たとえば、あなたが傍にいるのにぼくの胸の内が静かになったなら、違ったんだということなんでしょうね」 「単に気持ちが冷めるということではないのか」 「それだけは、あり得ませんよ」 立ち上がろうとして少しふらついた体を、後ろから支えるように抱き寄せられた。 「傍にいろ。運命なんか関係ない。俺にはお前が必要だ」 「……ずっと、お傍にいます。運命の人であろうとなかろうと、ぼくには、あなたしかいませんから」 この人は、思い違いをしている。 彼の運命の傍観者にすぎず、理をねじ曲げてまで縋りついているのは、ぼくの方なのに。 煩いぐらいに自分の鼓動が叫んでいる。 あなたが好きです。誰にも渡したくない。ぼくだけのあなたでいてください。 それは、どうしても消すことのできない、穢い、ぼくの本心。本当にあなたのことを思うなら、決して望んではいけないことなのに。 いつの間にか雨足は弱まっていたが、空を切り裂くように大きな光の枝が見えた。 「……じゅう、じゅういち……」 遠くで太鼓のような音が鳴る。 「もう、大丈夫ですね」 笑顔で振り返ると、師匠はほっとしたような表情になり、手が解かれた。ふたり並んで東屋を出る。 「随分と様になってきた」 ぼくが馬に乗る様子を見て、師匠がにやりと笑う。努力家なところは昔から変わらない美点だな、と、からかうように一言添えて。 ただ純粋な憧れだけを抱きその背中を追っていた遠い日のぼくの姿は、この人の中でいつまでも消えないのだろう。 それは、救いなのだろうか。呪いなのだろうか。 「そりゃあ、頑張りますよ。あなたの傍にいるために、必要なことですから」 言ってしまってから、嫌みっぽかったろうかと思った。師匠は黙って馬を寄せてきて、通りすぎざまに、ぽんぽん、とぼくの頭を撫でた。 ああ、参ったな。この人は、こういうところがずるいんだ。じわりと目の奥が熱くなる。 「優しいところは、昔から変わりませんね。大好きですよ」 小雨のなか、馬を駆り先を行く彼は、こちらを振り返らなかった。 それでも、そのとき急にぼくの胸はどきどきした。 まるで、もうひとつの鼓動が重なったように。
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