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小ネタTOPにもどる ■月影に君想う 「私に触れないで。もし何かしたら、あなたを殺す」 親の決めた許婚に初対面で言われた台詞がこうだった。どういう内容かは察しがつくが、噂話で俺のことを聞き及んでいたようだ。 彼女とは今では気心の知れた良い友人だ。 「お前のことは気に食わないが、近づくなという脅しに屈したと思われるのは癪に障る」 頼みもしないのに俺の回りから身分の低い他所者を廃除しようとする親族の動きは昔からのこと。 ただ、それを返り討ちにして、苦々しそうにこちらに手を伸べられたのは初めてのことで。 そいつも後に信頼できる友人となった。
「最初に悪いと言ったろう」 「悪いと思うなら部屋に入らず、そのまま扉を閉めれば良かったんじゃないか?」 「なるほど、その発想はなかったな」 「……この人にそれ以上何を言っても無駄よ」 肌掛けを器用に胸元で合わせドレスのように纏った女友達は、どこか投げやりな溜息をつきながら寝台から降り、卓の水差しに手を伸ばした。 琥珀色の液体で杯を満たすとこちらに寄越し、向かいの椅子に座る。礼を言ってから、あいつの好きな苦味のある軽口の酒を口に運んでいると、これ見よがしにもう一つ溜息をつかれた。 「早かったじゃない。戻りは明日じゃなかったの?」 「月明かりがあったんでな。近在で一泊するよりはと、馬車を急がせた」 「……で? また気後れしちゃって何もできなかったのね?」 まったくアリティアくんだりまで、何をしに行ったんだか……と、呆れ気味に続いたので、弓の訓練をつけに行っただけだな、と答えたら、半眼で冷たい視線を返された。 「あいつに対しては過保護なんだからなぁ……きっとこの先も何もできやしないさ。いいかげん諦めろ。いちいち泣き言を聞かされるこっちも迷惑だ」 片割れも容赦ない物言いだ。こちらもそこまで深刻ではない。気心の知れた友人と少し話がしたかっただけなのだが、ここまでつれなくされると、つい愚痴めいた言葉が口をつく。 「お前たちはいいよな。こうしていつだって会える」 「……そうも言っていられないのよ」 声音に含まれる緊張を感じ、目を合わせると、女友達は寝台の上の恋人に視線を移した。 「明日からしばらく遠征でな。皇帝陛下の国内巡察のお供だ」 友人は肩をすくめ、だるそうに息を吐く。 「勇者や傭兵の隊を伴って国内巡察?」 俺の言葉を受け、友人の表情に翳りがさす。 このきな臭さには覚えがある。先の戦争の折にも感じていた、胸の悪くなるような予感。 アリティアを離れるとき、弟子が不安気にこちらを見上げて言った。冬至も一緒に過ごせるといいですね、と。今まで約束を違えたことなどなかったというのに、まるで叶わない願いであるかのような心細さを湛えた瞳で。 あの時は王子の暗殺未遂事件のせいかと思っていたが、あいつは目端が利く。確たる証があるわけではないが、不穏な空気を感じ取っていたのかもしれない。身のうちが震えた。 杯の中身を一気にあおり、席を立ち女友達の傍らに立つ。 「邪魔したな。酒を馳走になった」 手をとり軽く口づけると、寝台の上の友人が咳払いをする。 「夜はまだ長い。そう臍を曲げるな。……また時間がとれたら話をしよう」 「ああ、またな」 笑みを浮かべて言葉を交わしたが、お互いに『また』というのがいつになるのかは分からなかった。 薄暗い廊下を抜けて中庭に出ると、足元に影ができるほどの明るさで月明かりが射していた。自分が俯いていたことに気付き、改めて空を振り仰ぐ。 今日は満月だと、弟子が言っていた。あなたの道を照らしてくれますようにと、旅の無事を祈ってくれた。 あの唇に、いま、触れたいと思った。 ひとり草むらに寝転がり、夜空を仰ぎ見るのが好きだ。 遠くに燃える白い火を見ていると、頭の中が空っぽになるから。 星読みに詳しい先輩騎士のおかげで、暦や方角に明るくなった。王子に従って遠い国で隠れ暮らしていたときに得た知識で、門前の小坊主なんとやらという程度だけど、それでも空に迷うことはない。 朴訥で温かな人柄のその先輩は、足元が不安なときは、空を見ろと助言をくれた。お前の心を映す鏡だからと。 定められた期限となり、あの人がここを去って数日が経った。明日にはパレスに到着の予定だから、今頃は旅の空の下、同じ月を見ているのかもしれない。旅の最後の夜は望月になると伝えたぼくの言葉を覚えていてくれるだろうか。それとも、明日からの忙しい日常に思いを廻らし、ぼくのことなど思い出しもしないだろうか。 不意に、得体の知れない不安が胸に帰来する。 戦争は終わり、人の力を超えた邪悪な存在も封印されたというのに、ここのところずっと付きまとっているこの感覚は何なのだろう。 手をかざし視界から月だけを隠すと、暗い空には無数の星々が浮かび上がる。望の空は光が溢れすぎて、こうしないと星の声は聞こえない。 星の囁きと同じくらいに小さく幽かに、大切な人の名前を口にする。そして気付く。あの人を想うのは、空の光を求めるのに似ていると。 大事なのは、何が起こるかじゃなくて、それに向かう心の強さと、基になるこの想い。 不吉な予兆は、近いうちに現実の災厄として降りかかるだろうと、心のどこかで確信している。それならばぼくは、もっと強くならなくてはと思った。 大丈夫。 あの人に会うためなら、どんな闇も寒さも越えていけるから。 気持ちが楽になり、腕を下ろすと、眩いばかりの月の光に包まれる。 そして、ふと、あの人の温もりを思い出し、唇に指でそっと触れた。 |