“本島発言とナショナリズム”

         〜辺境としての長崎が育んだ思想〜

第一章   本島発言をめぐって

一九八七年(昭和六十二年)九月一日、那須御料邸から帰京した天皇裕仁が倒れ、開腹手術を受けた。大手術で経過が心配されたが、天皇はその後、驚異的な回復力をみせ、翌年正月二日の一般参賀では、皇居宮殿で参賀者に手を振って応えるまでになった。しかし一九〇一年(明治三十四年)生まれの裕仁はその時すでに八十六歳の高齢である。天皇死去の日が現実味を帯びてきた。マスコミ各社はその日をXデーとし、死去にあたっての原稿や紙面作り、放送計画など事前の準備を急いだ。
そして一九八八年(昭和六十三年)九月十九日夜、天皇が吹上御所寝室で吐血した。ちょうどその時、ソウル・オリンピックが開催中だったが、テレビは番組を中断してこのニュースを伝えた。この時から、Xデーはまさに秒読み段階に入り、テレビや新聞は連日、天皇の病状を報道した。
天皇倒れるの報は全国に思わぬ波紋を呼んだ。様々な行事の自粛問題である。長崎では長崎くんちがその俎上にあげられた。
江戸時代の一六三四年(寛永十一年)にはじまった四百年近い伝統を持つ長崎くんちは、旧長崎市街八十八カ町の総氏神である諏訪神社の秋の大祭で、国の重要無形文化財にも指定されている。中国の文化と日本の伝統が融和した華やかな踊りとだしものは、長崎市民の自慢である。この時期、長崎の町は、太鼓とチャルメラの音に包まれるはずだった。
天皇が吐血してから六日後の九月二十五日、諏訪神社の社務所に踊町や年番町、神輿守町といった、その年の行事に参加する町内会の関係者、それに諏訪神社の代表が集まって会合が持たれた。この席で、昭和天皇の容態悪化を踏まえ、万一のことを考えたとして、この年の長崎くんちは神社が行う神事のみとし、奉納踊りやおのぼり、おくだりなどの賑やかな行事は中止とすることが決まったのである。
この年の奉納踊りのため南蛮船を新たに作った銅座町ではすでに五千二百万円の費用を使い、その他のまちも三千万円も使っていたという。それらはすべてお蔵入りとなった。
この時期に長崎を訪れる観光客は二十五万人をこえ、その観光収入はその頃で七億五千万円ちかくにものぼるという。基幹産業の造船が不振のなか、観光は長崎にとって重要な産業であり、長崎くんちはその最大の売り物なのである。
人の不幸を悼むという面から言えば、一九八二年(昭和五十七年)、死者行方不明者あわせて二百九十九人を出した長崎水害の年にも中止とならなかった長崎くんちが、いとも簡単に中止とされたのだった。
市民の感情は複雑だった。「やっぱり、やってほしかった」、それが大半の人々の本音だったと私は思う。しかし表立って、そう言うことは誰もできなかった。「自粛」という言葉が一人歩きしだし、人々の願いとは違った方向に進むにもかかわらず、マスコミは各地の様々な「自粛」を報道し、自粛の動きに拍車をかけた。長崎くんちの自粛は、その先頭を切るものでもあった。
皇居の出入り口には、マスコミ各社の記者とカメラマンが張り付き、二十四時間体制で出入りする車と人物をチェックした。皇族やその関係者、あるいは侍医などの出入りをチェックするのである。特に夜間に緊急な動きがあった場合はあわただしくなる。宮内庁や病院に取材し、大きな異状がないかどうか確認するのである。各社とも、本社の記者やカメラマンでは体制が不足し、全国の支局から応援を集めて厚い取材体制を組んだ。私も長崎から駆り出されて、皇居前で夜を明かした口である。私が行った時はもう冬で、毛布にくるまりながら、その頃はまだ数が少なく、しかもかなり大きくて重かった携帯電話を手に、警戒にあたったことを覚えている。天皇の容態が少しでも変わったという一報をとるため、全国の多くの記者がそれぞれの持ち場を離れ、眠れぬ夜を過ごしたのである。NHKの総合テレビも放送の時間帯が二十四時間放送とされた。それまで夜間は放送が行われていなかったが、いったん事が起きた場合、放送設備を立ち上げて放送ができるようにするまで、数分の時間がかかる。その数分の遅れも許されないと、終夜放送に切り替えたのである。Xデーに備えるといえば、予算の関係で普段は通らないようなことでも、すべて許された。そんな状況だった。

一九八八年(昭和六十三年)十二月七日、長崎市の十二月定例市議会で共産党の柴田議員が、天皇の病気回復祈願記帳所や戦争責任問題について質問し、本島等市長(当時六十七歳)が次のように答弁した。
「お答えをいたします。戦後四十三年たって、あの戦争が何であったかという反省は十分できたというふうに思います。外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際に軍隊生活を行い、特に軍隊の教育に関係をいたしておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任はあると、私は思います。
 しかし日本人の大多数と連合国側の意思によって、それが免れて、新しい憲法の象徴になった。そこで私どもも(記帳所開設などは)その線に沿ってやっていかなければならないと、そういうふうに私は解釈をいたしているところであります」
質問した柴田は、共産党長崎市議団の最長老で、その人柄から党派や思想の違いを超えて市民に支持されていた議員である。そうはいっても野党であった共産党議員の質問に、自民党から推薦を受けて当選した市長が重大発言をすることは、従来の慣例からみてあまりない。なぜなら新聞やテレビでニュースになりそうな発言については、市長は与党議員の質問に対して行うという、いわば馴れ合いのサービスをするのが普通だからである。柴田の質問も、昭和天皇が病に倒れた中で、共産党議員として、他の各地の議会と同様行われたものと理解された。
その頃、長崎市の放送局の記者として、長崎市政記者クラブを担当していた私も、その日の議会には特に注意を払ってはいなかった。テレビ各社も、テレビカメラによる映像取材は念頭になく、この発言そのものの映像記録は残っていない。しかし、他の議会と違っていたこと、それは本島が自らの信念にもとづいて、議会という公式の場で、率直に語ったことだった。
本会議終了後、本島は記者の質問に答えて次のようにも語った。
「天皇が、重臣らの上奏に応じて、終戦をもっと早く決断していれば、沖縄戦も、広島、長崎の原爆投下もなかったのは、歴史の記述などからも明らかです。私自身、軍隊時代、西部軍管区教育隊におり、『天皇のために死ね』と教えていました。友人は『天皇陛下万歳』と言って死んでいきました」
取材していた私たちにとって、予想外の発言だった。なぜなら、マスコミを含め、一般市民の持つ本島像は、選挙上手の保守政治家というものだったからである。彼は、政治家人生をスタートさせた県議会議員時代、選挙に初当選した際は、社会党の議員だった。しかし二期目からは自民党に鞍替えし、自民党の地元議員では最高の地位である、自民党長崎県連幹事長のポストにまで登りつめた人物である。市長選挙では、社会党や共産党と激しく対立し、ということは革新系を支持した被爆者団体を向こうにまわし、ぎりぎりのところで選挙戦を勝ち抜いていた。その裏には、保守系の政治家につきものの、土建業者との癒着も噂された。
また本島は被爆者ではなく、そもそも出身地は長崎市でもない。長崎のはるか沖合いに浮かぶ五島(ごとう)という離島の出身である。この五島地区は、一般に長崎県本土よりも生活条件が厳しく、それゆえ長崎市に移り住む人たちが多かった。しかし彼らは、五島出身という誇りを捨てず、五島人会という組織を作り、それなりの結束を保っていた。五島出身者のハングリー精神は、長崎市で次々と頭角をあらわし、経済界でも独自の地位を築いていた。
さらに本島はキリスト教徒だった。五島は隠れキリシタンが移り住んだ島で、本島はその末裔だったのである。長崎市にはキリスト教徒が多いが、もともとキリスト教徒がまとまって住んでいたのは、浦上地区だった。この地区は以前は浦上山里村といい、一九二〇年(大正九年)に長崎市に編入されたのである。従って、同じ長崎市民といえども、江戸時代に天領だった旧市街、いわゆる港長崎の人々の意識と、浦上地区の人々との間には、歴史的な対立があった。「旧市街の人々は、浦上の『切支丹』を『クロシュウ』あるいはたんに『クロ』と呼んだ。浦上のカトリック信者は、逆に旧市街の異教徒を『ゼンチョ』と呼んだ。いずれも侮蔑のひびきがある」(高橋真司)という。そして本島は、選挙でキリスト教団体からの支持を取り付けていた。
つまり本島は、長崎の経済界本流とは一線を画す五島人会に根をおき、旧市街の人々と対立したキリスト教団体の支援を受けた、長崎の伝統的な保守本流とは言いがたい政治家なのである。長崎におけるマージナル、つまり辺境の政治家と言えるかもしれない。
ふだんから本島を取材していて私が感心したのは、意見や思想の違いに関わらず、本島は市長室を訪ねてきた市民に時間の許す限り、必ず会って話を聞いていたことである。市民の代表たる市長である以上、当然のことといえばそれまでだが、その当然のことをしていない市長が大半であろう。しかも県庁所在地の市長といえば、業務は多忙である。その合間を縫うように、本島は市民に会い続けた。彼の記憶力は抜群で、それを隠すために、時折とぼけたような表情を見せる。彼自身、記憶力は母から受け継いだと語っている。その記憶力は選挙上手にもつながる。とにかく顔をよく覚えている。毎日が選挙運動のようなものだ。面会した市民の中には、自分の気持ちをうまく伝えることのできない人もいる。そんな人にも本島はよく耳を傾け、「それはこういうことですか」と相手の言葉を整理し、意見をまとめてあげたうえで、現在の市長の立場としてできることと、できないことを説くのである。狸親父のような風貌でひょうひょうとしていて、笑顔で気さくに市民と語り合う。
利権政治が批判されても、本島は批判する人たちと同じ席で語り合う。しかし市長の日々を取材する私たちにも、彼の本心はどこにあるのかわからない、そんな人物でもあった。政治家として選挙を勝ち抜くためには、自分の本心を隠さねばならなかったのであろう。その本島が、「天皇に戦争責任がある」と言った。このニュースはまたたくまに国内を、そして世界を駆け巡ったのである。

一体、天皇の戦争責任とは何なのか。政府の立場では一九八九年(平成元年)二月十四日参議院内閣委員会で内閣法制局長官の味村治が次のように答弁している。
「戦前、天皇は大日本帝国憲法第三条で、神聖不可侵で無答責とされ、国内法上、一切の法的、政治的責任を負うことはない。国際法上は、極東軍事裁判で訴追を受けなかった。これは、すでに決着した問題である」
 しかし一般庶民の眼から見れば、昭和天皇に戦争責任がなかったなどということはありえない。帝国憲法下で天皇は日本の元首であり、宣戦の詔勅の署名を行い、つまり天皇の名において戦争に突入し、天皇の名において戦争終結の聖断を下した。確かに連合国は、戦後の日本をスムーズに統治するため、極東軍事裁判にかけることもなく、退位を求めることもせず、天皇を免責した。内閣法制局長官が言うように、天皇は訴追を受けなかった、すなわち免責されたのであって、責任が無かったということではない。それが常識というものであろう。しかし保守、そして右翼の陣営は本島発言を容認しなかった。彼らは言う。
「個人的に天皇の戦争責任を言うのは構わない。しかし市長という市民を代表した公の立場での発言としては許されない」
 普通の人々にとっては常識にすぎない発言が大ニュースとなる、そんな時代だった。

同じ被爆都市である広島市長の荒木武は、その前年の広島市議会で、天皇の戦争責任を問われたが、明確な答弁を避けていた。彼は本島発言について、その年十二月十六日に、「公務についている時、自分の考えを述べるべきではない」と述べ、本島とは一線を画した。
さらに革新知事である福岡県知事の奥田八二にいたっては、十二月二十八日の定例記者会見の席で、「歴史論として天皇の責任問題を議論するのはかまわないと思うが、政治の場で、今頃なぜ(天皇の責任を)持ち出したのかはわからない」と、本島を批判するかのような発言さえした。
 こうした発言について本島は、「発言について時期が悪かったとか、何も市長が発言すべきではないという意見もある。今日も市役所は右翼の宣伝カーに取り囲まれている。しかし、言論の自由は時とか場所で制限を受けるものではない。世の中にはいろいろな意見があるので、私は異なった意見にも敬意を表する」と、感想を述べた。そして発言を断固として取り消さなかった。
「発言撤回の声が自民党やいろんな団体からあがっているが、日頃考えていたことを発言したまでで私の信念だと思っている。発言を撤回することになれば私の政治家としての死を意味する」
同じ被爆都市でありながら、広島市長が発言を避けたのはなぜだろうか。それは広島の問題というよりも、長崎という歴史と風土の特質の問題であり、それをある形で体言したのが、本島という人物だったのではないだろうか。

一九八八年十二月十七日、自民党長崎県連は本島の県連顧問解任を決定した。県連の党規委員長の松田九郎は、「自民党国会議員は(本島市長からの)陳情に応じない」、「誰のおかげで市長になったのかを思い出させてやる」とまで発言した。
十二月二十一日になると、発言に抗議して右翼二百六十人、街宣車八十二台が長崎市に集結する事態となった。そして発言に抗議する市民が十二月二十九日、「本島市政を刷新する会」を結成した。
同じ十二月二十九日、ニューヨーク・タイムスのスーザン・チラ東京支局長が本島に対して行った次のようなインタビュー記事が、ニューヨーク・タイムスに掲載された。
本島 「一九四九年一月十三日ニューヨークタイムスは、東京裁判の判決全体を支持しながらも『被告席には欠席が一人あった。それは天皇である。天皇は裁判にかけられないことになり、人命が救われ、占領を容易にしたが、このことが良かったかどうかは未来にまたなければならない』と書いている。そのことが今出てくることになった」
 チラ 「偶然か、以前から考えていたことか」
 市長 「四十年間考えつづけていた」
 チラ 「大胆な発言という意識は?」
 市長 「決して勇気ある発言ではない。純粋に民主主義の言論の自由が守られている社会であればニュースになる問題ではない。天皇を美化し、戦前回帰の動きがあるなかで、天皇問題がタブー視されていることに、マスコミは危機感を持っていたのではないか」
 この記事のなかでニューヨークタイムスは、日本では発言の自由が抑制されていると報じた。
明けて一九八九年(昭和六十四年)一月五日になると、 ナイフを携帯して市長に面会を迫った、福井県の二十五歳の右翼団体構成員が、銃刀法違反などで現行犯で逮捕されるという事件が起きた。本島発言に対する反発は、本島個人に対する暴力という形であらわれるようになってきた。
そして一月七日、午前七時五十五分、テレビ中継で藤森宮内庁長官が、「天皇陛下におかせられましては、本日午前六時三十三分、吹上御所において、崩御あらせられました」と告げたのである。
天皇の死去に伴い、本島は次のようなコメントを発表した。
「長い激動の時代を務められ、特に新憲法下では人間天皇として今日の繁栄に努力されたことは感謝にたえません。ご冥福をお祈りし静かに喪に服したい」
 このコメントを逆に読めば、旧憲法下で、天皇が国家において責任をもっていた時代には、やはり戦争責任があったのだということを暗に語っているようにも思える内容である。
右翼陣営からの攻撃にさらされる本島を支援しようと、一月八日には長崎大学教授で、後の原水禁議長の岩松繁俊ら発言を支持する市民が「言論の自由を求める長崎市民の会」を結成した。その活動で十ヵ月後には全国から本島発言を支持する三十八万人の署名が集まるなど、支援の輪も広がりつつあった。

天皇死去に関する報道が一段落したその年の四月、私が本島に取材したメモが残っている。本島はいつものとおり、たんたんと応えてくれた。
「やはり過剰報道だったと思うね。輸血とか、下血とか、あんなに詳しく報道する必要があったでしょうか。内容的にも単調な繰り返しが多かったと思う。それも宮内庁の発表だけでしょう。天皇に関する報道が大切なことはわかるが、国民は毎日の生活がある。天皇以外の毎日の営みに必要なニュースをきちんと出して欲しかった」
 しごく普通の感覚であろう。特に天皇死去の一月七日から翌日にかけて、テレビは天皇報道一色に塗りつぶされ、過剰報道批判は頂点に達した。この二日間にNHKだけで、一万八千件にものぼる苦情の電話が殺到したという。どのチャンネルも天皇に関する番組でうまり、うんざりした視聴者はレンタルビデオ店に殺到し、ビデオ店は大繁盛した。NHKの職員に対し、「次回の受信料は、ビデオ代を差し引くぞ!」という不満の声をぶつける人もあったという。また「それまでは、漫然とテレビをつけていたが、これを機会にテレビ離れができた」という皮肉な声もあった。それほど、一般の意識と、放送の送り手の意識はかけ離れていたのだった。
本島にはあわせて、いわゆる本島発言についても聞いてみた。
「いえ、何もありません。今もどれだけの価値があるのか、判断がつきません。ありふれたことを言ってきただけと思ってきました」
 では本島発言に関する報道についてはどう思ったのか。
「テレビを観ていて、『市長はこう言った』と伝えるだけで、戦争責任そのものについての話がなかった。様々な反応のあるのはわかったが、戦争が終わった直後は、今よりもっと自由に(天皇の戦争責任についても)語った。テレビも以前はもっと語っていたと思う。例えばテレビの解説で『(天皇に戦争)責任はある』と言っていいじゃないか。もちろん別の解説委員が『責任はない』と言っていい。テレビも含めて自粛することが、美化されすぎた。いずれにしても私の出番は終わったと思う」
 しかし本島に対する暴力による威嚇は終わらなかった。一九八九年(平成元年一月二十二日、市長公舎に銃弾を同封した脅迫状が送られてきた。三月三十一日には、市役所一階の収入役室のガラス窓に、けん銃を撃ち込まれるという事件が発生した。こうした事態を受けて、警察は本島を二十四時間体制で警護し、厳重な保護のもとに置かれた。しかしその後、脅迫はやみ、夏になり、秋になっても表面上は不穏な動きは見られなかった。そこで警察は十二月十一日をもって、市長の警護を二十四時間体制から、随時行うという体制に切り替えた。しかしこの移行が、結果的に惨事を招く背景ともなったのだった。
一九九〇年(平成二年)一月十八日午後三時すぎ、本島は長崎市役所玄関付近で狙撃され、銃弾は本島の胸を貫いた。普通の人なら、肺に血がたまり、死に至っても不思議ではないケガだった。しかし本島は若い頃、結核を患い、肺の組織の一部がつぶれていた。銃弾が傷つけた場所は偶然にもその部分であったため、肺からの多量の出血を免れ、全治一ヵ月の重傷で命拾いしたのである。事件から一週間後の一月二十五日、入院中の代表取材に応じて、本島は次のように語った。
「不思議だなあと思う。私が述べたたった十数文字が、世界を駆けめぐるわけですから。われわれは異状な、あるいは異常に近い社会の入り口にいたのかということをお互い考えてみなければ」
犯人として長崎の右翼団体、正気塾の構成員で本島と同じ五島出身の田尻和美が逮捕された。田尻は犯行を認め、殺人未遂で懲役十二年の実刑が確定した。
一九九一年(平成三年)四月二十一日、本島は市長選で四選に挑戦した。本島には、過去の選挙で得られた自民党からの推薦はない。その代わり、従来は対立候補を立ててきた社会党と共産党が支持にまわり、公明党が推薦した。一方、対立候補は、かつて本島のもとで助役を務めたことのある自治官僚の宮川雅一で、自民党と民社党が推薦にまわった。海外の新聞からは、「都知事選よりも注目すべき選挙」と書かれた選挙だった。
 その結果、本島は十一万七千票、宮川十万九千。本島は「庶民の勝利」と、胸をはった。過去の選挙で約一万票を出してきた共産党が本島を推薦したことが、接戦を制する結果となった。
こうして県議会議員を五期、長崎市長を四期務め、銃弾に撃たれても自らの発言を撤回しなかった本島とは、いったいどういう人物なのだろうか。

第二章   本島等とは
 
本島は、五島列島の一番北にある長崎県南松浦郡江袋で、一九二二年(大正十一年)二月二十日に生まれたとされる。山が急激に海に迫り、きつい傾斜の山肌に30戸ほどの農家がへばりついている所だ。禁制のキリシタンを追い払いたい大村藩と、貧しい五島藩の暗黙の合意のうちに、大村藩外海(そとめ)地方、現在の外海町から幕府の弾圧を逃れた多くの農民が海を渡り、五島列島へ移住した。本島の故郷は、そうした隠れキリシタンの子孫であるカトリック信徒ばかりの村である。本島は隠れキリシタンの末裔なのだ。
遠藤周作の小説『沈黙』では、主人公のロドリゴをマカオから手引きした転びのキリシタン、吉次郎がこの五島の出身である。小説でも、五島の切支丹の門徒衆が描かれている。
長崎県は北方領土を除いた全国で、海岸線が最も長い県である。九州の西の果てという地理的条件もあって、中央集権の支配が及びにくい土地柄といえる。その一方、遣唐使として中国に渡った空海が帰朝したのは五島で、由緒ある真言宗の寺もある。基本的には温暖で肥沃な土地柄だが、荒れた土地も多い。五島藩はそんな土地でキリシタンを受け入れた。みな貧乏でご馳走に縁はなかったが、それでも飢えることはない土地だった。
本島の祖父は、キリシタンとして迫害にもあったという。本島の母親は「教え方」という役割だった。集落のなかでも、これはという賢いこどもを選び、乏しいなかからみんなでお金を出しあって学資金を作り、カトリックの伝道学校へ送り出す。そこで三年間の学業を終えると、集落に帰って、村人やこどもたちのために三年間、自分が学んだものでお返しをするのが、教え方の仕事である。その母はカトリックの修業をしていて、神父の手伝いもしていた。父は隣村の立串の出身である。彼はキリスト教徒ではなく、エンジン付きの小さな船を操って、魚や海藻を長崎に運ぶ仕事をしていた。
「教え方」の時は、結婚してはならない決まりがあった。神の教えを説くものは、身を清らかに保つべきだという考え方だった。しかし母は等を産んだため、地元にいられなくなる。結局母は、生後十一ヵ月の等を置いて、佐世保に嫁いだ。一方、本島の父は、本島が生まれたは、五島にいられなくなり、対馬に渡っていた。こうして私生児となった本島は、祖父母の元で育てられたのである。
本島の生まれは、役場への届け出を見ると二月二十日となっているが、江袋教会で受洗したのは二月一日である。キリスト教徒にとって、洗礼を受けた日こそ、本当の誕生日で、役場への届け出は二十日間もほっておかれた。この節の冒頭、「二月二十日に生まれたとされる」としたのは、そういう理由からである。
本島の洗礼名はイグナチオ・ロヨラ、イエズス会の創始者の名前である。やがて本島は五島のなかでも、少し大きな村にある小学校高等科に通うようになったが、貧しい五島の中でも特に貧しい地区で、そしてキリスト教徒として育ったことで差別を受けたという。
「今の私のものの見方や考え方は、たぶん少年時代のきびしい躾と、キリスト教徒ゆえにクラスのみんなからバカにされた、くやしい生活体験が土台になっているでしょう」
きびしい躾とは、カトリックとして信仰をゆるぎないものにするための修業、「公教要理」の暗唱のことだという。
 やがて五島を出た本島は、新聞配達、銀行の給仕、印刷所の文選工見習い、魚市場での魚箱片付け、鍛冶工見習い、歯医者の書生と働き口を点々としながら、勉学を忘れることなく、夜学に通った。そして、旧制佐賀高校理科甲類に入学する。その学生時代の一九四三年、本島二十一歳の時、徴兵された。
軍では砲兵の観測小隊の隊長となった。数学の三角法や対数の専門が、軍隊という場で生きた。粗食にはなれている。成績も優秀で、品行も良かった。しかし上官には、次の一言で突き放された。
「偉くなろうと思ったら間違いだぞ。ヤソはぜったい偉くなれん」
神を一人しか認めず、それ以上の権威を認めないキリスト教と、天皇を頂点とする国家観との相克が、若い本島の心に生まれた。
「私はクリスチャンで、幼いころはまわりの人に『天皇とキリストとどちらが偉いと思うか』と問われてつらい思いをしたこともある」
開直りの人生だった。
「あまり喜ばれずに生まれてきたんだし、言うべきことはいうぞ」
やがて本島は、見習い士官となり、砲兵生徒隊の副官となった。大砲の撃ち方を教えた。
つまり人殺しの方法を教えた、敵を殺せと教育したのだと本島は回想する。
「戦争責任は私たち一人一人にあり、ヤソと差別された私にも、二重に重たく存在している。だから戦争責任を天皇お一人、または軍部とか、他のだれかに押しつけて、自分は何の責任も感じないですまそうなどと考えたことはありません」

敗戦で軍隊が解体されたあと、九月末に浦上を訪ねた。その被爆の惨状に、本島は言うべき言葉がなかった。汝殺すなかれという戒律を持つはずのキリスト教徒の本島は、「戦ってはならない、人が人を殺してはならない」という単純な真理を得るために、むごたらしい現実と向き合わねばなければならなかった。
京都大学土木工学科に入学した本島は、マルクス主義の洗礼を受けた。
「マルキシズムを支えているのは正義の観念で、抑圧者と被抑圧者の関係を切り離せないものとして正義をとらえている」
結局本島は党員とはならなかった。
「ぼくのようなものにとって、正義というのは、本質的にキリスト教的観念で、マルキシズムは二次的としか思えなかった」
この発言から理解されるのは、本島は抑圧者と被抑圧者を分けて考えないということである。あいまいなままにしておく。永井隆の浦上燔祭説に通じる可能性のある見方とも受け取れる。そこに後の政治家としての強さとマイナス面が同居しているとも思われる。
一九四九年(昭和二十四年)に大学を卒業した本島は、長崎で県立高校の教諭となった。
学校では英語、国語、理科、数学など、何でも教えた。
一九五〇年代半ばに遠縁の白浜仁吉(のちに郵政大臣)が衆議院議員に当選すると、請われて秘書としてなり、上京した。
四年後に長崎へ戻り、母校の旧夜間中学の教師、美容学校の講師、造船短大の講師などを勤めた。教員をしていた関係で社会党に入り、選挙に打って出た。一九五九年(昭和三十四年)長崎県議会議員に無所属で立候補し初当選したのである。議会では社会党の会派に属したが、その三年後の知事選挙を機会に、自民党入りした。白浜から「自民党に入ってくれ」と頼まれ、それに応えたのである。本島はシカゴ大学東アジア言語文化学教授のノーマ・フィールドにこう語っている。
「その時考えたんだ。社会主義者でも一生それで通す人と、途中で曲がる一と、二つに別れるやろ、俺は途中で曲がる人になろうと」
 遠藤周作は小説『沈黙』の中で、次のように書いている。
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏絵を踏んだかもしれぬ」
さらに遠藤は、最晩年の小説『深い河』の中で、その考えを一層深化させ、主人公に次のように語らせている。
「ぼくはここの人たちのように善と悪とを、あまりにはっきり区別できません。善のなかにも悪がひそみ、悪のなかにも良いことが潜在していると思います」
本島にも、そうした性質が見て取れる。強さと弱さ、善と悪が共存する。人間くさい人間である。本島はノーマ・フィールドのインタビューに答えて、日本の民主主義についてこう語っている。
「ここの民主主義は、アメリカの民主主義でもフランスの民主主義でもない、自由と平等の旗じるしのもとで発展した民主主義ではない。ほんものじゃないんです。こういってまずければ、アメリカ式でもフランス式でもないということですよ」
再び『沈黙』を引けば、遠藤は宣教師に次のように語らせている。
「この国の者たちがあの頃信じたものは、我々の神ではない。彼らの神だった。私は二十年の布教の後に日本人を知った。我々の植えた苗の根は、知らぬ間に少しずつ腐っていたことを知った」
では本島は、今の社会をどう見ているのだろうか。
「平和と民主主義を尊重する考え方は、新しい日本国憲法に盛られ、それまでの日本人の考え方に大きな変化を与えました。しかし今のおとなたちは、あのころの心の歪みはどうやって直したか、歪みがまだ残ってはいないか、あるいは、もしかしたら、歪みが肉体的な成長とともにますます大きくなってはいないか、終戦からそろそろ半世紀たった今、そういう自己チェックはもう必要ではなくなったのでしょうか。そんなことはありません。私には歪みもまた成長していると思えてならないのです。げんに、そういう人間的にいびつな部分こそが、自分たちと思想信条が合わないというそれだけの理由で、生きて動いている私にピストルを向けたのではなかったのか。旧い時代の戦争の亡霊が、この私を撃ったのです」
少なくとも本島は左翼ではない。県議選に最初に出る時、社会党に入ったのも、教員の組織があったからであり、思想のゆえではない。そして差別を受けた苦しみが、彼の生の基本にある。彼は、長崎県原爆被災者協議会の会長を務めた山口仙二との対談で、「私は市長として原爆を語るが、体験のない私にはあなたの何百分の一、何千分の一もわかりはしないのだ」と語っている。これは被爆者の相手に対する配慮ではなく、被爆後に浦上を観たリアリストとしての本島の本音だ。
「いくら歴史が積み重ねられてゆき、人類の知的・文化的伝統も広く、厚く深々と創られてゆくといっても、一人の人間の成長にとっては、おのずからセオリーみたいなものがあります。それはなにか。経験です。人間の成長にとて必要なのは生活経験なのです。こうした体験を経て身についたものは、その人の財産といっていい」
ここから見て取れるのは、リアリストであり、経験至上主義である。それが本島発言の背骨ともなっている。
「せっかくこの世に人間として生まれてきたんだから、こう生きたいとおもう内容を生きてほしい。個々それぞれに生きる場はちがうでしょう。でも人間らしく緊張する場を一人一人にもって生きてほしい」
 私生児という出自、貧困、差別体験、五島、カトリック、そして被爆地ナガサキという階層的な差別の構造に気付くなかで、最終的に彼がよって立つところは、生まれて生きた土着の土地である。それはナショナリズムに結びつく思想である。だから彼は、忠魂碑に玉串をささげることに何の矛盾も感じない。
一九九二年(平成四年)十二月十八日、長崎忠魂碑訴訟控訴審で福岡高裁は、忠魂碑への長崎市の補助金支出を一部違憲とした一審判決を覆し、合憲とした。
被告の長崎市長たる本島は、「大多数の兵隊は国家のために戦争に駆り出された。侵略戦争の犠牲者だ。今の平和の礎であり、尊崇の念をもって冥福を祈らなければならない。指導的立場の人たちに罪はあっても、戦死した人たちには罪はない」とコメントした。
これに対し、原告の岡正治牧師は、「被爆実態調査に協力せず、平和公園で発掘された被爆遺構を破壊した。本島氏は本当に平和市長なのか」と批判した。
岡の言う被爆遺構とは、その年四月二十日、平和公園で見つかった旧長崎刑務所浦上刑務支所の被爆遺構について、本島市長は「あれは被爆遺構ではない」と述べた問題である。市民団体が反発し、長崎大学教授の岩松繁俊が抗議のため、一九八一年から続けていた平和宣言起草委員への就任拒否を表明した。
岡は、朝鮮人被爆者の発掘、救援活動にかかわってきた経緯を踏まえ、国家に踏み躙られた人間性回復を求める立場に立つ。岩松ら市民グループも個人の立場から発言する。
一方、本島は国家を前提とした価値判断に立っていた。戦争責任発言も、国家責任の立場からの発言と解釈できる。誤った戦争であったが、国家の戦争によって死んでいった者たちを自らの国家意識に従って引き受けようとする指向である。なぜなら、彼らは国を、そして仲間を守るために死んだのだから。戦争で死んでいった国民の感情を全面的に引き受けること、それが本島にとって、使命と考えていたのではないか。そうした国民感情を代弁するのはまさにナショナリストとしての気概であり、その発言を撤回することなど出来ないわけである。
「われわれ極東アジアの人間は、何千年、何万年も緑のなかで暮らしてきた民族です。民族固有の文化も、森や草の緑のなかで育まれてきたものなのです。それがわずかにここ数百年のあいだに急激に都市への集中が始まり、都市がまわりの森や原っぱをほろぼし、農地や山地を呑み込んでしまった。太古の記憶が生きている人間の肉体は、さかんに森へ帰りたがっているのではないでしょうか」
 本島自身の何重もの被差別体験も、天皇を頂点とする国家体制のもとで差別を受けたものだ。結局、本島が忠誠を尽くすのはの天皇裕仁ではなく、天皇を戴く日本という国そのものではないだろうか。
「そこで愛国心とは何か、と話す。それはふるさとを愛し、父母を愛し、伝統や歴史を愛することだ。それから言うんです。それは隣の韓国お人たちも同じようにもっている感情だ。日本のよくなかった点は、ナショナリズムに走って、われわれは比類のない、選ばれた民だなんて思い込んだことで、それが侵略への道を進ませたのだ、と。ぼくがみんなに力説するのは、自分の家庭やふるさとを愛して、ほかの人々の家庭やふるさとをおなじように尊重できるようでなくてはいかん、ということですよ」
 この本島の発言を聞くと、否定された故郷、否定された出生、否定されたカトリシズムなどからの自由を求めている。「〜からの自由」である。本島は、その自由を得るために政治家をめざしたようにも思われる。しかし彼は「〜への自由」の理念を生み出さなかった。彼は「経験至上主義」であり、同時に「曲がること」を辞さない人間だった。それが長崎の利権を保持する人々と結びつき、現状肯定へとつながることは容易であった。
 本島の本領は大衆政治家である。彼は多数の動く方向へ動く。その意味で、本島はまさに民主主義政治家である。本島は、保守と革新のバランスを体験的に嗅ぎ取りながら、平和行政と土建屋市政を矛盾なく進めた。

一九九五年四月二十三日、本島は五選を目指したが敗退する。対立候補で自民党の推薦を受けた伊藤一長の主張は、多選批判に加え、市勢浮揚など暮らしの改善で、天皇の戦争責任や平和問題は争点とはならなかった。
市長を退任した後、講演会活動などで忙しい本島だが、一九九七年に広島の原爆ドームの世界遺産登録について、注目すべき発言を行った。
「原爆ドームの世界遺産登録は、ヒロシマの被害ばかりに目を向けた自己中心的なもので、アジアへの加害の歴史を考えれば決して喜ぶべきことでない。原爆ドームは侵略戦争に対する反省や謝罪の碑であるべきだ」
ここで本島は、原爆投下は侵略戦争の仕返しだというアジアの感情に配慮すべきだとの持論を展開するのである。日本がアジアの人々に対して行なった加害責任を反省するなかで日本のなかの責任を追及するとすれば、天皇にも責任があり、指導層に責任があり、民衆にも責任があった。軍隊の指導層の一員であった自分も責任の一端を負うとの趣旨である。しかしマスコミで、天皇の責任がクローズアップされすぎたため、本島が主張したかった、アジアの人々を虐待したり、強制連行したりして、そのことの責任を我々が反省していないという批判は、ぽっかりと抜け落ちてしまったという。
ナショナリズムは反米、反近代化と結びつきやすいが、本島の場合はカトリックという特殊な、しかし国際都市長崎にあっては必然的な事情から、「言論の自由」という近代思想を違和感なく同居させている。そこには、支持者のウイングを広げたいという政治家本島の指向も加わり、「本島発言」の特異な状況が生まれたのである。
本島発言と「天皇の戦争責任」が単純に結び付けられ、「本島は反天皇」であるというイメージが定着したことから、保守・右翼は本島を憎悪し、左翼・市民グループは本島の本質との乖離に違和感を抱いた。しかし本島の平和への信念、あるいはカトリックに対する迫害の歴史を踏まえた平和への認識、そしてそれは左翼も、あるいは右翼も意味しない。そこにあるのは、軍隊経験者としての歴史観を踏まえた人間としての信念である。
さらに本島は、自分の発言は「天皇の戦争責任」についてであり、言論の自由についてではないとも語る。この時の取材者がノーマ・フィールドという外国人であっただけに、、日本のマスコミに対する批判は痛烈である。
「これは天皇制と昭和期についての新しい本ですけどね。全国の人々がわたしを支持して立ち上がったのは、言論の自由を守りたかったからだ、という見方をしている。だがそういうことじゃない。ぼくは天皇の戦争責任を言ったんだよ。新聞の社説はこの問題を取り上げるときはいつも、言論の自由についてしか言わない」
論点ずらしとの批判である。菊のタブーに触れなかったマスコミが、本島発言のみを報道する奇妙さを、本島は皮肉っているのだ。
 こうして本島等という人間を観てみると、彼は長崎の負の歴史を見事に体現した人物であったと言えるだろう。そして本島の強さは「個人の論理」であり、経験に裏打ちされた思想である。その思想のために、文字通り身体をはったのである。「祈りのナガサキ」とは、原罪を背負った人間が、原爆という悪に攻め滅ぼされようとしている中で、それにナガサキの被爆者は耐えて行かねばならないというものだ。本島は、被爆者だけでなく、日本国民がそれに耐えて行かねばならない、という「祈りのニホン」を訴えたのではないだろうか。


参考文献・資料

ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』(一九九四年、みすず書房)
遠藤周作『沈黙』(新潮社)

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