『名前を探る旅』への招待状

 長崎市の平和公園を訪れる場合、ほとんどの人が、電車通りからの道をたどる。その方が分かりやすく、車で行く場合は駐車場もあって便利だからだ。しかし私は、公園をはさんで反対側の、細い路地から、ゆっくりと歩いて行くほうが好きだ。

港町の長崎は、平地の少ない坂の街でもある。石畳の緩やかな斜面を踏みしめると、長崎の息吹が感じられるようだ。道の両側には緑の樹木が生い茂り、強い日差しを和らげてくれる。かつて、一面の廃墟となった土地を、自然が癒してくれている。

 戦後半世紀を迎えた年のこと、長崎を訪れた私は、いつものように、小道をたどって平和公園まで歩いて行った。しかし公園に着いて、展望が開けたその時、目の前に現われた光景に驚いた。

公園のシンボルとなっている平和祈念像は、以前のままの姿を見せている。台座を含めた高さが十四メートル近くある、北村西望作の坐像である。高く天を指差している右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平和を祈っているという。その眼は、戦争犠牲者の冥福を祈って閉ざされている。だが、彼がもし眼を見開いていたとすれば、装いを新たにした公園の姿をどう思うだろうか。

緑の芝で目を休ませてくれていた公園の広場が、石のブロックで覆われている。緑の木陰を作ってくれた豊かな木々は、姿を消していた。長崎市は、公園の地下に観光客用の大規模な駐車場を作り、同時に都市公園として整備したのだった。

 こうした取り組みを、複雑な気持ちで見つめている被爆者は少なくない。彼らは「平和」を、そして「原爆」を、観光資源にしてほしくないのだ。原爆の日の平和祈念式典はあまりに仰々しく、身の置き所がないと言う。原爆の惨禍を今に伝えてきた遺構を、県や市が取り壊したり、平和行政の名のもと、新しい施設の整備を進めたりするたびに、気持ちのずれを感じるというのだ。

こうした被爆者は、今や観光施設と化した平和公園を訪れることはほとんどない。彼らは八月九日を迎えると、自分が被爆した場所の近くに祀られている、ささやかな慰霊碑を訪ねてはそっと手を合わせ、亡くなった家族や友人、職場の同僚の冥福を祈っている。そして彼らの多くは戦後半世紀以上が過ぎた今でも、原爆について沈黙を守るか、あまり多くを語ろうとはしないのである。

青空に向かって吹き上がる噴水が虹を作り、観光客が散策する公園の姿は、確かに平和そのものである。しかし私には、公園に敷き詰められた石のブロックが、被爆者の沈黙を覆い隠しているように感じられたのである。彼らは好き好んで沈黙しているのではない。堅い石のブロックに覆われて、語りたくとも語れないように思えてならなかった。

 都市は生きものであり、時代とともに変化して、新しい顔を見せる。それと同時に、戦争の爪痕は、次々と消し去られてゆく。確かに、負の遺産である原爆の遺構は、生産的な価値を持っているわけではない。しかし、いくら戦災の跡が消えようと、広島、そして長崎という都市が積み重ねてきた歴史を考える時、二つの街に原爆が投下されたという事実そのものを、消し去ったり、相対化したりすることはできない。

戦後、原爆について、その破壊力をはじめ、放射線が人体に与える影響や、被爆者の生活実態など、様々な角度から調査や研究が行なわれた。二度とこうした戦争を繰り返さないという精神の証として被爆者団体が強く求めていた被爆者援護法も、国家補償の精神が盛り込まれなかったという批判を受けつつも制定された。

こうしたことから、現在の核拡散の問題に対する関心はあるものの、広島、長崎の被爆者問題は、すでに過去のものとして受けとめている人も多いだろう。しかし沈黙する被爆者の向こう側には、今なお絶望の深い闇が横たわっている。

 核兵器には、様々な側面がある。一つはもちろん、究極の兵器という側面である。わずか一発の核兵器が、敵に与えるダメージは強烈で、破壊効率はそれまでの兵器の比ではない。

 核兵器は、一般兵器という概念も生み出した。核兵器が完成したことによって、どんなに残虐な兵器であろうと、生物、化学兵器を除いて、核兵器以外は、ひとくくりに一般兵器とされたのである。たとえ戦争になって、放射能を振り撒く核兵器の使用は回避したとアピールすることで、「人道的な戦い」という、奇妙な戦争の位置づけがなされるようになる。

 しかしそれだけではない。核兵器は人類を、核兵器を体験した者と、まだ体験していない者に二分したのである。被爆者は、人間が人間に対してどこまで残酷になれるかを思い知らされた存在なのだ。地獄のような焼け跡を体験した被爆者は、亡くなった被爆者を助けることができなかったという負い目の気持ちを持ち続けている。戦後は、結婚相手にふさわしくないなどとして差別を受ける場合もあった。そして社会からの孤立感を味わった人々は、自らの人生について沈黙する。     

その沈黙という海峡を越えることで、被爆者の視線から、核の傘に覆われた戦後の社会を相対化し、その真実の一面を、垣間見ることができるのではないか、戦争を知らない世代の私は、彼らを取材するなかでそう感じ始めた。

本書は、名もなき被爆者二人の記録である。彼らは、原水爆禁止運動や被爆者援護運動のリーダーでもなければ、悲劇のドラマの主人公でもない。しかし被爆の惨状を目のあたりにした彼らは、会社のかつての同僚や、父親が校長を務めた学校の生徒など、何らかの形でつながりのある原爆犠牲者に、自らの内なる声に突き動かされるようにして関わって行った。彼らは、原爆で亡くなった人々の死を、わがこととして引き受けねばならなかった。

そして彼らは長い沈黙を破り、自分たちなりの方法で鎮魂歌を歌い始めた。それが彼らのつぐないだった。二人は原爆で、身体や心に傷を負った被害者であるにもかかわらず、原爆で亡くなった犠牲者に、つぐないの気持ちを持ち続けていたのだ。

長崎で記者の経験を持つ私は、二人と付き合いを重ねるにつれて、彼らの記録を本に残しておきたいと思うようになった。彼らの取り組みは、社会のあり方を変えたわけでもなく、歴史を塗り替えたわけでもない。しかし、彼らによって魂が鎮められた人々が現実にいるのもまた、事実である。そんな彼らの、沈黙に耐えた声に耳を傾けることで、今の社会のもう一つの顔が見えてくるように思えるのである。

二編の詳しい内容は、「ナガサキの絆・・・人間の論理」

「ヒロシマの絆・・・父から子へ」でご覧下さい。

『名前を探る旅〜ヒロシマ・ナガサキの絆』

(石風社)定価2000円(税別)

問い合わせは石風社、電話092(714)4838まで。

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