札幌ドームで開催された、今年七月二十四日のプロ野球オールスター第三戦。北海道では初の球宴とあって、観客の応援にも熱がこもる。試合中盤の五回表、ツーアウト、ランナー二塁でバッターに巨人の清原。ここで場内アナウンスが、オールパシフィックのピッチャー交替を告げた。 「ピッチャー、盛田。背番号二一」 スタンドからこの日一番の、割れるような拍手と歓声の渦がまきおこった。脳腫瘍の手術を乗り越えて奇跡の復活を果たした男。それが、マウンドに立った大阪近鉄バッファローズの盛田幸妃(こうき)(三一歳)である。北海道出身の盛田が、オールスターという晴れ舞台で、故郷に帰ってきた。清原との対戦は、盛田の希望だった。野球の厳しさ、そして素晴らしさを知り抜いたベテランどうしの対戦として、まさに最高の舞台が整った。 所は変わって、大阪のマンションの一室。自宅のテレビに映し出される盛田の凱旋登板をひとり、まんじりともせず見つめる男がいた。盛田と二人三脚で、復活への長い道のりを歩いてきた理学療法士の栗田聡(さとし)(三七歳)である。栗田は一般の視聴者と同じように、「奇跡の復活」ドラマの感傷に浸る暇はなかった。足の状態はどうだろうか。投げ方はいつもと変わりないだろうか。冷静に盛田のピッチングフォームを観察する。セットポジションからの一球目は一三七キロのストレート。二球目からは得意のシュート攻め。 「いい投げ方をしている。調子は良さそうだ」 ファウルでねばられたあと、盛田は六球目を外角低めのカーブで決めて三振を奪った。見事な投球だった。脳の障害を乗り越えるために訓練した筋肉の使い方やピッチングフォームは、栗田との共同作業の賜物である。栗田の頭の中でイメージした盛田の姿が、現実のものとしてそこにあった。いつしか栗田は、オールスターのマウンドに立つ盛田に、ついに一軍のマウンドには立てなかった自分の姿を重ねあわせていた。叶わなかった自分の夢。そこには若き日の無念の思いがあった。 一九八六年一一月のドラフト会議。その年のペナントレースで優勝した広島カープは、三菱重工神戸のエースだった栗田を一位で指名した。栗田は甲子園の出場経験こそないが、実業団時代には都市対抗に二回、日本選手権に三回出場した。新聞の栗田評は「ストレート、カーブの切れは一級品。安定感がつけば第二の大野に」。将来を期待された器だった。 栗田の母は、息子のプロ入りに強く反対した。漫才師だった父は家庭を顧みずに離婚し、栗田は調理師をしていた母の手ひとつで育てられた。苦労を知る母だけに、安定した職場で永く勤めて欲しいと願ったのだ。それでも最後には、「あなたの人生だから好きにしたらいい。後悔だけはしないように」と、励ましてくれた。 年が明けて八七年二月、晴れて広島のユニフォームを着た栗田は、はじめてのキャンプに臨んだ。そこで実感したのは、選手の層の厚さだった。その頃の広島は投手王国と言われただけに、特にピッチャーは北別府、大野、川口、津田ら、そうそうたる顔ぶれである。ピッチングコーチから、「先発ピッチャーは揃っている。お前の生きる道として、中継ぎをやってみろ」と指示があった。 中継ぎで求められるのはコントロールだ。「このバッターを抑えてくれ」という場面で登場するだけに、フォアボールは許されない。栗田はピッチングコーチに相談すると、「もう少し、ひじを下げるように」とアドバイスされた。それまではオーバースローの本格派だったが、スリークォーターにすることで投球フォームのバランスが良くなり、コントロールが安定する。変化球も投げやすくなった。しかしそれが結果的に栗田のつまずきの、最初の原因となった。投げ込みを続けて一ヵ月ほどで、肩に痛みを感じるようになった。痛みは激しさを増し、日常生活にも困るようになった。夜、寝返りをうっても痛い。実はスリークォーターという投げ方は、ボールを握る手の位置が、オーバースローと比べて身体の軸から遠ざかるため、物理学的に言えば回転軸から力点が遠くなることで、肩に対する負担が増すのである。 やがて膝も傷めた。上半身はスリークォーター、しかし下半身はそれまでのオーバースローのスタイルだったため、当然バランスが崩れてくる。その不安定さを修正するため、膝に余分な負担がかかっていたのである。 栗田はコーチやトレーナーに相談した。だが彼らから受けた指示は、「痛みが引くまで休んでいろ」、「投げるな」というものだった。なぜ障害が出たのか。対策をどうとれば良いのか。そんなアドバイスはまったくなかった。その頃は広島に限らず多くの球団が、選手のケガや障害の対策について認識不足だったのである。 「(彼らは)結果論なんですよね。試合で抑えればナイスピッチング。打たれるとダメ。自分ではいいボールを投げていると思っても、たまたま打たれると、あのフォームはダメだと言われる」 コーチから指示された位置でひじを固定するためには、身体のどの部分を鍛えればいいのか。栗田は相談相手もないまま、ひとり悩んだ。とにかく、筋力をつけるのが先決だ。そう考えた栗田は、独学でウエィトトレーニングに励んだ。その結果、確かに大胸筋や三角筋といった筋肉はついた。しかしボールのスピードは落ちていった。それは、ウエィトリフティングには役立つが、ピッチャーとして必要な筋力ではなかったからである。 栗田が広島で過ごした四年間は結局、ケガや障害との戦いだった。肩やひじが痛くなり、我慢しているとひどくなる。休んで、少し良くなっては、またあちこちを傷める。その繰り返しだった。栗田は自分で自分がわからなくなってきた。 「俺のやり方が間違っているということ自体、まったく思い浮かばなかった。トレーニングはこれでいいと思っていたから…」 ドラフト一位の金の卵に対して、コーチから的確なアドバイスはなかったのだろうか。 「ぶっちゃけた話、まったく無かったですね。『いい球を投げなさい』、『バッターを抑えられるようなピッチングをしなさい』と言うだけ…」 広島はドラフト一位で獲得した金の卵を、一軍に登板する機会を与えぬまま、九〇年のシーズン終了後に金銭トレードで近鉄に放出した。プロ野球選手として最も大切な時期を、何の成果もあげられないまま過ごしてしまった。栗田には悔いばかりが残る広島時代だった。もし、この人との出会いがもっと早ければ、栗田は違った人生を歩んでいたかもしれない。その人とはその頃近鉄で、選手へのトレーニング指導を担当するコンディショニングコーチをしていた立花龍司である。アメリカなどで、最先端のトレーニング法を習得した立花は、近鉄時代は野茂英雄投手らの指導にあたり、九七年にはニューヨークメッツで日本人初の大リーグのコンディショニングコーチも務めている。 「俺のやったことが間違っていたんだな…」 立花と出会った栗田は、カルチャーショックを受けた。投球に使う筋肉と、バーベルを持ち上げるための筋肉とは違うということを教えられたのだ。立花から、ピッチングの勢いを増すための肩の筋肉の鍛え方、さらに腹筋や下半身の使い方を習って、状態は徐々に回復していった。最盛期に近い、一四〇キロのスピードボールも投げられるようになった。しかし、時はすでに遅かった。近鉄は投手が揃っていたこともあり、栗田は九一年暮れに近鉄を自由契約、つまりクビになり、現役を引退したのである。 「今、どうしても一軍選手に対してオーバーラップするところがあるんですよ。俺の足りんかったところは、こういうところやったなと。自分でも後悔して…。まあ悔いても、結局はやめたわけですから」 無念の思いはある。しかし、立花との出会いを通じて得られたものがあった。最新のトレーニング技術の素晴らしさを、身をもって体験したのである。そしてこの世界は、きわめて専門性の高い分野であることもわかってきた。立花の専門は、けがをしていない健常者を対象としたコンディショニングである。だが、かつての栗田のように、ケガや障害のある選手に対するトレーニングには、また別の専門知識が要求される。それが理学療法士の世界だった。プロ野球の世界でも、これからはこうした専門家が必要とされる時代が必ず来る。 「それだったら栗ちゃん、挑戦してみる?」 立花に励まされ、栗田は第二の人生へと足を踏み出した。栗田は阪神の打撃投手や高校の事務員をしながら夜は予備校に通い、競争率五倍の難関を突破して専門学校に入学した。九八年には国家試験に合格し、元プロ野球選手としてははじめての理学療法士が誕生したのである。 大阪の病院に務めながら専門家としての技術を磨いていた栗田が、再びプロ野球と関わりを持つようになったのは九九年ことである。ひじを手術した近鉄のピッチャーのリハビリを球団から依頼されたのがきっかけだった。理学療法士は、障害の状態を医学的に把握し、運動生理学を踏まえた体操やマッサージなどで、総合的に運動能力の回復をはかるのが仕事である。プロ野球の世界では巨人など一部の球団が、理学療法士を置いている。だが栗田には、一般の理学療法士にはない強みがあった。身体のあらゆる部分で、実に多くの障害に悩まされた経験である。 ひとことで「痛み」と言っても、野球選手ならではの様々な痛みがある。投げた瞬間に溜まるような痛み。刺されるような痛み。抜けるような痛み。あるいは脱力感。一イニング目のピッチングはいいけれど、次のイニングになると全然力が入らない場合もある。 「ぼくは感覚として捉えてますので。それは、やってない者には、ちょっとわからない感覚なんです」 栗田は、痛みの原因がどこにあるかをすばやく理解することができる。それにより、選手から「この人に任せておけば大丈夫だ」という信頼も得られやすい。しかし、野球の経験がない療法士は、時にそれが難しい。場合によっては、原因を特定するのにかなり遠回りすることがある。それだけ、選手にとっては損になる。 障害の原因がわかると、栗田は選手にわかりやすく説明する。肩を壊した選手には、肩の治療をするだけでなく、なぜ肩を痛めたのか、詳しく説いてゆくのだ。肩自体が問題ではなく、膝の使い方が悪い場合もある。骨盤の使い方が悪いこともある。特定の筋肉が弱っているケースもある。障害の出た場所だけを見て治療すると、また同じ障害を必ず起してしまう。そうではなく栗田は、選手に納得してもらいながら、障害の根本的な原因を取り除く。「説明と納得」、そして「根本的な治療」、それらはいずれも栗田が現役時代には得られなかったものだ。その苦い経験が、理学療法士となった時にはじめて活きてきたのである。 一方、盛田は八七年のドラフト一位で大洋(現在の横浜)入りした。一五〇キロの速球と、打者の懐をえぐるように変化するシュートを武器に、九二年には一四勝をあげ、最優秀防御率のタイトルも獲得した。その後も大魔神、佐々木と共にダブルストッパーとして活躍したが、一勝七敗の成績に終った九七年暮れに、近鉄へトレードされた。新天地に移った盛田は九八年のシーズンに入ると七月まで五勝一敗と、かつての好調さを取り戻したかに見えた。だがその裏で病魔は確実に盛田の身体を蝕んでいた。足に異常を訴えて病院で診察を受けた盛田は、脳腫瘍と診断された。腫瘍はゴルフボールほどの大きさにまでなり、手足の動きを司る大脳の運動野を圧迫していたのだ。手術を受けても、場合によっては車椅子の生活になる恐れもあった。その年の九月、盛田は横浜の病院で腫瘍の摘出手術を受けた。十二時間にもおよぶ大手術は成功した。医学的には確かに手術は成功した。しかし、それで身体が再び元通りになるのかといえば、そうではなかった。腫瘍によって失われた脳の一部は、永久に元には戻らない。盛田の場合、右足の膝より下の筋肉が働くための回路が、脳のなかで潰されていたのである。 盛田は十月に退院し、翌九九年四月、チームに合流した。とは言うものの、歩く時には右足をひきずっていた。足首に力が入らないのである。そんな盛田の姿を見て、栗田はどう思ったのだろうか。 「わからなかったです。ということは、たぶん復帰は難しいんじゃないかなと…」 そんな盛田のリハビリを、現一軍監督でその頃はニ軍監督だった梨田昌孝は栗田に依頼した。 「少しでも彼が復帰できるよう、何とか助けてあげてくれないか」 このまま埋もれさすには惜しい。梨田は盛田の才能を評価していたのだ。盛田は栗田と共に二人三脚で、復帰への道を歩みはじめた。だがそれはゼロからの出発ではない。マイナスからのスタートだった。スポーツ選手である以前に、歩いたり、走ったりするという、子どもでも簡単にできることが、盛田にはできない。ではどうすればよいのか。失われた脳の機能を、別の脳の回路で代償するしかない。栗田の介助を受けながら盛田が、目指す動作を行ない、その動作を視覚で脳にフィードバックする。動作を指示する栗田の声で、聴覚によるフィードバックも行なう。栗田が盛田の足の皮膚をたたいたり、筋肉に対する抵抗をかけたりする。そうした様々な刺激を一度に与えることで、ひとつの動作を盛田の脳の回路に覚えこませ、狙った動きができるようになると、次の動作に移る。その訓練を来る日も来る日も繰り返した。複雑な脳神経のトレーニングは、筋肉を鍛えるようにはいかない。神経は繊細で、疲れがとれにくいものなのだ。 「かなり荒れていましたね。本人にも不安があったんでしょうね、復帰できるのかどうかなと」 訓練をはじめて一ヵ月ほどたった五月はじめ、一瞬ではあるが、右足一本で立てるようになった。六月になると、それまでは足首がだらんとしてうまく履けなかったスリッパが、歩いていてもぬげなくなった。この頃には、自分の意思で足首の固定もできるようになった。 「回復のスピードは早いほうですねぇ。というか、ここまでよく行けたなあというのがありました」 盛田は足に装具をつけて、ピッチング練習を開始した。プロは相手の弱点を突いてくる。特にバント処理には神経を遣った。球が転がるコースによって、右足から踏み出すのか。それとも左足から前に出るのか。何度も何度も練習した。 八月には二軍戦に復帰した。ついに十月には、一軍の最終戦に登板した。二人の打者と対戦し、三振とフォアボールのわずか十球でマウンドを降りたが、脳腫瘍を患った選手のカムバックは「奇跡の復活」として人々の感動を呼んだ。だが栗田は、そんな盛田を冷静に見ていた。 「少しずつ良くなる過程の中で、最終戦が重なった。それで投げられたからといって、本人が安心したり、さぼったりしてしまうとまた元に戻ってしまう。それをすごく危惧していたんです」 盛田はテレビやラジオへの出演依頼が相次ぎ、時の人となった。本も書き、講演で全国を飛び回った。たまに練習に来てもすぐに、「時間がないので」と帰ることもしばしばだった。盛田は、「半年くらい、さぼったりもした」と話す。だがそれは、盛田にとって致命傷になりかねなかった。代償的に作られた脳の神経細胞は、その動きを繰り返し実行しないと複雑な動きをすぐに忘れてしまい、単純な動きしかできなくなってしまう。その結果、歩き方や走り方が変になる。だから盛田はリハビリを続けなければならなかった。ところが盛田はそれを怠ってしまったのだ。 結果はたちまちピッチングに現れた。年が明けてキャンプに入ると、右足の状態が悪いため上半身に無理な負担がかかり、わき腹を傷めた。右足に力を込めるため、腹筋を利用していたのに、わき腹の障害で腹筋に力が入らず、それは障害のある右足にもダメージとなる悪循環となった。結局、去年の一軍での登板は三試合、防御率は一八と、過去最悪の成績に終った。栗田の不安が的中したのだった。 「プロは自主性がすごく大事なので…。しかし実際にはできていなかった」 球団は盛田に対し、オフの契約更改で、事実上の引退勧告とも言える年棒の七〇%ダウンを提示した。野球だけが人生ではない。転進をはかるなら早いほうがいいという球団側の配慮もあった。だが盛田は現役にこだわった。 「リハビリはそれなりにやったけど、死に物狂いでがんばったかというと、がんばっていなかった。この一年、いつも後遺症に甘えていた。自分は足が悪いから、まあいいかなというところがあった…。このまま終わったら悔いが残る。最後に、足を引きずってもいいから、思いっきり野球をやってみたい。給料が下がってもいいから、もう一年とは言わず、とにかくがむしゃらにやってみたい」 盛田はやっぱり、野球が好きなのだ。更改を終えた盛田に、栗田は問いかけた。 「やるか?」 「やります」 他に言葉はなかった。しかしふたりの間には、それだけで十分だった。筋肉のしなやかさ、運動神経の良さ、どれをとっても盛田にはずば抜けた才能がある。しかし素質だけでは脳腫瘍という障害を乗り越えることはできない。盛田は一筋にトレーニングに打ちこんだ。後悔したくないという盛田の思い、それを栗田は全力で受け止めた。 「栗田さんも自分が野球をクビになったり、いろんな状況があって。そういう面では自分とだぶった部分もあるだろうし…。そういう面で、親身になってくれて、休みの日も、休まないできてくれた」 一軍で成績を残すためには、安定性だけでなくスピードが必要だ。右足だけで静止して立つというこれまでの段階から、レベルアップしなければならない。そう考えた栗田は、動きの要素として早足のステップを取り入れた。最初は右足首が「がくっ」と崩れるのを恐れていた盛田も、連日の地道な練習で、前後、左右、斜めのステップが少しずつ踏めるようになってきた。 明けて迎えた今年の紅白戦。盛田はニイニングを完璧に抑え、本当の意味での復活を首脳陣にアピールした。シーズンに入ると、盛田は中継ぎとして活躍し始めた。そして六月十三日、ダイエー戦に四番手として登板した盛田は、打者五人を完全に封じ込め、およそ三年ぶりに勝利をあげたのである。新聞には再び、「奇跡の復活」の文字が踊った。しかしそれは奇跡でも何でもない。盛田と栗田が流した汗の結果にほかならない。 「ぼくから見ると、特に思い入れの強い選手なんです。冷静に見ているつもりでも、投げている姿を見ているうちに『抑えて欲しいな』という気持ちが人一倍湧いてくる」 今の仕事の面白さについて聞くと、栗田は「う〜ん」としばらく考えたあとで、半分笑いながら「ないですね」と答えた。素質のある選手の邪魔をしない。伸びてゆくのを阻害しないようにする。今の仕事は、その手助けだと言う。 「ぼくと同じ目にあわせたくないのが強いですね。『あそこ、ケガしたから、あかんのかなぁ』、『俺のやり方が間違っていたのかなぁ』という選手の思いが、少しでも少なくなれば…。確かにね、盛田が一軍でこの前一勝をあげ、オールスターにも選ばれた。嬉しいのは嬉しいんですよ。ただ、そのためにやっているんじゃない。精一杯やってほしい。悔いのないようにやってほしい。やめたときに少しでも悔いの少ないように…」 栗田は、「後悔だけはしないように」という母の言葉を噛み締めながら、現役時代は自分なりに懸命に努力した。だが結局、残ったものは「後悔」だった。その後悔という負のエネルギーに押されて、今の栗田がある。 だから栗田は、仕事の成果を誇ることをしない。回復した選手に対しても、「他の方法だったら、もっと早く治せただろうか…」、「指導が甘かったかもしれない…」。常にそんな反省が頭をよぎる。彼らにはプロ野球という世界で、実力を十分発揮してほしい。「面白味がわからないままやめてしまった」という野球を、栗田も、盛田と同じように好きなのだ。脳腫瘍を克服した盛田幸妃はプロである。そして盛田を支えた栗田聡もまた、プロの名に恥じない男だった。 (今シーズンの盛田投手は、中継ぎとして三四試合に登板、二勝〇敗の成績を残し、カムバック賞に選ばれた。) 『中央公論』(2001年11月号掲載) |