合併問題に揺れる島    

第一章 はじめに
第二章 壱岐の風土と歴史
第三章 合併運動前史
第四章 壱岐四町の特色
第五章 合併特例法による優遇措置
第六章 二十一世紀一支国夢づくりの会 発足
第七章 合併推進の論理
第八章 署名運動
第九章 慎重・反対の論理
第十章 壱岐公立病院の移転新築問題
第十一章 遺跡発掘・地場産業から見た合併問題
第十二章 県不信
第十三章 臨時町議会と住民公聴会
第十四章 不透明な勝本町議会
第十五章 合併協議会設置は白紙に
第十六章 おわりに

 『ながさき自治研・第38号』(2000年5月発行)に掲載。

第一章 はじめに

「私はふた夏、壱岐の国へ渡った。そうして、この島がおよそ九州一円の河童伝説の吹き だまりになっていたことを知った。なお考えてみると、ほのかながら水の神信仰の古い姿 が、生きてこの島の人々の上にはたらいているのを覚った」  これは、国文学者で、歌人としては釈超空の名で知られる折口信夫が著した『河童の話』 の中の一文である。 離島は水不足に悩まされるところも多いが、壱岐は河童伝説が多いだけあって、水に困 ることがあまりない。平年の降水量は年間約二千ミリで、全国的に見ても多いほうである。 この豊富な水は、壱岐の台地を育んで来た。壱岐は長崎県内で、諫早平野に次ぐ米どころ でもある。 対馬暖流の影響を受けて気候は温暖で、夏は涼しく、冬は暖かい。一言でいえば住みや すい島なのである。一部が壱岐対馬国定公園に指定されているだけあって、紺碧の海と、 自然の景観が見事である。 歴史の島でもある。古代中国の文献には「一支国(いきこく)」として登場する。弥生時 代の大規模環濠集落、原の辻(はるのつじ)遺跡は一支国の首都であり、『魏志倭人伝』に 記された「クニ」の記述と、現実の遺跡の実態とを比較出来る唯一の貴重な遺跡として、 全国的に注目されている。 こうした悠久の歴史と、豊かな風土を持つ壱岐で、合併問題が持ち上がった。壱岐全島 の合併問題はこれまでにも浮かんでは消えるという経緯が繰り返されて来た。しかし今回 は、これまでとは様相が違った。従来の行政主導ではなく、住民主導の形をとり、合併を 検討する協議会の設置を求めた有権者の有効署名は五十五%に達した。これは、これまで に全国で行われた同様の署名の中で、最高の率である。 国は今、地方分権の推進をうたい文句に、市町村合併を推進しようとしている。その是 非は、様々に議論されている。 合併が行われれば行政の効率化が進み、保健や福祉の充実、産業の振興に役立つと賛成 する意見もあれば、合併は行政サービスの低下や、周辺地域の衰退につながるとして反対 する意見もある。しかし合併問題を考える時、大切なことは、市町村とは、それぞれの歴 史や風土に根ざした人々の日々の営みを支えるための、基盤となる組織だということだろ う。そこで暮らす人々の生活から、合併問題を検討しなければならない。協議会設置に賛 成の人、反対の人が、それぞれの視点からこの問題をどのように捉えたのだろうか。 農村や漁村は、都市への人材供給基地であり、日本の高度経済成長を下支えして来た。 離島の壱岐は、そうした地域のひとつの典型であり、日本の過疎地域の将来を占うモデル ケースとも言える。それはまた、大都市が陥っている様々な問題の裏返しでもある。 今回の合併問題をきっかけに、二十一世紀に向けた地域の展望を探ってみたい。

第二章 壱岐の風土と歴史

長崎県の壱岐は、福岡市の西北西、対馬・厳原の南東、いずれも約七十キロと、双方の ほぼ中間の玄海灘に浮かぶ、南北約十七キロ、東西約十五キロのやや南北に長い島である。 超高速船のジェットフォイルを利用すると、博多から壱岐まで約一時間で到着する。     周辺にある五つの有人島と十六の無人島を含めた壱岐郡の総面積は、約百三十八平方キ ロ、壱岐島の面積は約百三十五平方キロである。この壱岐島の面積は、長崎県内では六百 九十七平方キロの対馬島、百六十八平方キロの五島列島の中通島、百六十三平方キロの平 戸島に次いで四番目の規模、北方領土を除いた全国では二十番目で、格別大きな島という わけではない。 しかし百平方キロ以上の島を対象に、人口密度で見ると、沖縄県の宮古島、兵庫県の淡 路島に次いで、壱岐島は三番目の高さとなっている。 このように離島の中では人口密度が高い理由、それは壱岐は高い山がなく地形がなだら かで、古くから開けた地域であったためである。壱岐で最も高い山の岳の辻(たけのつじ) でも標高は二百十二・九メートルしかなく、山林は総面積の二十%に過ぎない。一方、田 畑は三十二%を占めている。この内、水田の整備率は七十七%と、長崎県内では最も生産 基盤の整備が進んでいる。 海岸線は出入りが多く、この小さな島の海岸線は約二百キロにも達する。特に西岸一帯 は、陸上の谷が海面下に沈んで出来た溺れ谷の原型を保っていて、高さ数十メートルの断 崖があちこちで見られる。猿が遥か彼方の海を遠い目で見つめているような猿岩(さるい わ)は、高さが五十メートルもある奇岩である。一方、南東岸や北部には遠浅で白い、大 小の砂浜が点在する。浜の美しさの秘密は、砂が貝殻から出来ていることである。夏には 砂浜の魅力にひかれた大勢の海水浴客で賑わいを見せる。 こうした自然を楽しむ観光客は、離島ブームにも支えられて堅調で、一九八五年(昭和 六十年)には約五十四万人だったのが、一九九一年(平成三年)には約七十五万六千人に まで増えた。その後やや落ち込んだものの、一九九八年(平成十年)には七十二万六千人 に戻している。修学旅行も最近は大阪などからも含めて増えており、一九九八年には四十 一校と、前年に比べ十一校の増加、人数は約七千三百人で、前年比約二千二百人の増加と なっている。 また壱岐は神々の島でもある。一説には三百もの神社があるという。 このうち月読(つきよみ)神社は、記紀神話に出て来る天照大神の弟の月読尊(つきよ みのみこと)をまつっている。壱岐の県主(あがたぬし)の先祖、忍見宿祢(おしみねの すくね)が西暦四八七年に月読神社を京都に分霊されたことから、全国に神道が根付くよ うになったとして、壱岐は神道発祥の地とも呼ばれている。 歴史を振り返ると、壱岐には原の辻遺跡をはじめ、カラカミ遺跡、天ケ原(あまがはら) 遺跡など、数多くの弥生時代の遺跡が残されている。古代には、遣新羅使、遣渤海(ぼっ かい)使、遣隋使、遣唐使などの使節団が、壱岐を寄港地として往来し、大陸文化を日本 に伝える架け橋として、重要な役割を果たした。しかし同時に国防の最前線ともなったた め、外敵の脅威にもさらされ、鎌倉時代の元寇では壊滅的な打撃を受けた島でもある。 時代が下ると、肥沃な土地に注目した北九州の勢力が、壱岐を併合しよう競った。その ため壱岐には地場の勢力が育たなかった。室町時代末期には、壱岐は平戸の松浦氏が領有 し、甘藷より高価な米、麦を作らせては重い年貢を課した。 壱岐を訪れた作家の司馬遼太郎は次のように書いている。 「壱岐の場合は、悲惨である。平戸島という農耕地として痩せた島が権力の中心になっ ているために、壱岐農民は搾られるだけ搾られた。江戸後期には六公四民(松浦藩が六割 で農民が四割)という重税を課せられただけでなく、米の量り方に操作が加えられ、事実 上はそれ以上に搾られた。(中略)平戸の役人の意識のどこかに、壱岐一円など植民地のよ うなものだという感覚が多少とでもあったのではないか」  こうして壱岐は、戦国時代末期から明治維新まで平戸藩の領地として搾取された。明治 に入ると廃藩置県により、平戸藩から平戸県へ、そしてその後成立した長崎県に所属した。 こうして壱岐の風土と歴史を概観すると、壱岐の豊かな自然と、大陸への架け橋という、 恵まれた条件が、逆に本土の勢力から目を付けられ、住民は平時は重税に、そして戦いが 起きればその犠牲にと、苦しめられたのである。

第三章 合併運動前史

壱岐が現在の、郷ノ浦、勝本、芦辺、それに石田の四町の体制になるまでの変遷を見て おこう。 壱岐は江戸時代には、地域の共同体としての村が二十四村あった。 明治維新を経て、一八七八年(明治十一年)に壱岐郡と石田郡の二郡二十二村となり、 一八八〇年(明治十三年)には、郡区町村編成法のもとで、二郡十区戸長に改編された。 これがいわゆる「明治の大合併」の時期である。 帝国憲法が公布され、同年に市町村制が施行された一八八九年(明治二十二年)には、 二郡十二村となり、一八九六年(明治二十九年)には二郡が合併して壱岐郡となった。 明治政府が町村合併を推進したのは、徴兵を行うための戸籍の管理、そして小学校の開 校といった作業を、町村に担わせるためである。当時の町村は国家機構の末端として組織 されたのだった。 その後、町村合併が行われても、この枠組みは今なお失われていないところも多い。壱 岐では婦人会などの組織で今も、旧十二村の地区ごとに支部が残っており、住民の意識も 依然根強いものがあるという。 一九五三年(昭和二十八年)には町村合併促進法が制定され、中学校を設置するための 規模をひとつの基準として全国的に合併が進んだ。いわゆる「昭和の大合併」である。 壱岐でも町村合併に関する議論が盛んになった。その頃までに三つの村が町制を敷いた 結果、三町九村の枠組みとなっていた。 島内の一部の新聞には、町村合併について、全郡一市論、旧壱岐郡と旧石田郡の二町論、 さらに三町論、四町論の四種類の案が報道されていた。長崎県壱岐支庁長から出された「出 来れば昭和三十年四月の統一地方選挙前に郡内の町村合併を完了して欲しい」との要望を 受けて、いよいよ議論が本格化した。 翌一九五四年(昭和二十九年)には各町村から町村長と議会議長、それに壱岐支庁長が 出席して「壱岐郡町村合併促進協議会」が設置され、小委員会を作って検討したが、全島 を三分割する案と、四分割する案とに議論がわかれた。 結局意見がまとまらず、十二町村の町村長と議長による投票で採決した結果、四分割案 十三票、三分割案十一票で、合併推進協議会としては四分割案を採択することとなったの である。各町村はこの線に沿って、住民の世論をまとめることを申し合わせ、合併促進協 議会を解散した。 しかしこれですんなりと決着したわけではない。どの地区を中心とする町づくりをする かで駆け引きがあったり、協議会の四分割案とは違う枠組みに一部の村が移るという動き もあったりして、合併の難しさが表面化した。 一九五五年(昭和三十年)にまず、現在の郷ノ浦町と勝本町が発足した。 芦辺町は翌年、一足遅れて現在の町域となった。 石田町の前身の石田村は結局、合併促進協議会の示した他村との合併には加わらず、そ の後に郷ノ浦町と芦辺町から一部の地区を編入して、一九七〇年(昭和四十五年)に町制 を施行した。 こうして、現在の四町体制となったのである。

この枠組みがほぼ固まった直後から、壱岐全島の行政一本化の動きが実は出ていたので ある。 一九五七年(昭和三十二年)、新市町村建設促進法に基づいて長崎県知事が、郷ノ浦町、 勝本町、芦辺町、それに石田村に対し、合併勧告を行った。 一九六八年(昭和四十三年)には、郷ノ浦町議会に郷ノ浦町議会町村合併調査特別委員 会が設けられ、翌年に「壱岐の四町は早急に合併する必要がある」とする報告書を郷ノ浦 町議会議長に提出している。 さらに一九八三年(昭和五十八年)には郷ノ浦町長が壱岐郡町村会に対し、壱岐一本化 を提案したが、町村会としては、壱岐島振興開発調査研究の成果を待って検討することに とどまった。 一九八七年(昭和六十二年)には民間の有識者が「壱岐四町合併研究会」を設立し、翌 年には「早急に合併すべきである」とする「壱岐四町合併調査研究結果報告書」を公表し た。またこの研究会では、四町と四町の議会に対し、四町合併促進に関する陳情書を提出 し、郷ノ浦町議会では採択された。しかし石田町では町民大会を開いて時期尚早と決める など、他の三町は審議未了となった。 合併の方向性については理解を示しながら、個別の町の利害を考えるとただちには賛成 出来ないという、総論賛成各論反対の図式である。今回の合併運動の盛り上がりは、こう した様々な動きが伏線となっていたのである。

第四章 壱岐四町の特色

合併運動が起きた四町について、それぞれの地域の特色を概観しておこう。

▼ 郷ノ浦町

島の南西部にある郷ノ浦町には、警察署や検察庁、簡易裁判所、税務署、壱岐支庁、保 健所、福祉事務所などの官庁が集まり、壱岐の行政の中心となっている。これは壱岐を治 めた平戸藩が、郷ノ浦に行政府を置いていたことによる。この行政府の跡を中心に、国や 旧日本軍、それに県の出先が作られたのである。 面積は四十七平方キロで、四町の中で最大である。 人口は、一九五五年(昭和三十年)の国勢調査で約一万九千六百人だったのをピークに 減り続け、今年四月末の住民基本台帳では約一万二千七百人となっている。 郷ノ浦町は壱岐経済の中心地でもある。民間の信用調査会社の帝国データバンクによる と、壱岐の売上げ上位五十事業所の内、二十五事業所が郷ノ浦にある。業種も、土木建設 業、農協、漁協をはじめ、スーパーマーケットなどの大型小売店、病院、水産会社、缶詰 や瓶詰め食品の製造会社、結婚式場、海運会社、バス会社など多岐にわたっている。土木 建設業と漁協を除けば、主な事業所は郷ノ浦町に集中しているのが現状である。また商店 街や旅館、ホテルなども集中している。 この結果、市町村民税や固定資産税などの市町村税は、平成九年度決算で十一億三百万 円あまりとなっていて、四町では最大である。 また町の財政規模は、同じ九年度決算で歳出が七十二億三千二百万円あまりと、やはり 四町で最大である。

▼ 芦辺町

島の北東部にある芦辺町は、面積が四十五平方キロ、人口は国勢調査で一九五五年(昭 和三十年)の約一万五千六百人をピークに、今年四月末で約九千五百人となっていて、い ずれも四町の中で二番目の規模である。 町の財政規模は、平成九年度決算で歳出が六十八億九千六百万円あまりとなっている。 町内には延長が八・九キロあまりと、島内で最も長い河川の幡鉾(はこほこ)川が流れ、 流域の深江田原(ふかえたばる)平野は、諫早干拓が行われる以前には、長崎県内で最も 広い水田地帯だった。 この平野のほぼ中央にあるのが原の辻遺跡である。多重の環濠をめぐらす大規模な遺跡 で、遺物や遺構の内容から、一支国の中心となる集落であったと推測されている。石田町 にもまたがる大規模な遺跡だが、環濠など集落の中心部は芦辺町側にある。 芦辺町は農業が盛んで、米や野菜、葉タバコの栽培、和牛の飼育などが行われている。 特に壱岐島牛は有名で、鎌倉時代の一三一〇年(延慶三年)に書かれた『国牛十図』には、 全国で十ヶ国の牛の特産地をあげ、この中で壱岐を最もすぐれた名牛の産地にあげている ほどだという。 一九九三年(平成五年)にはダイエー壱岐店も芦辺町にオープンし、島内全域から買い 物客が訪れるようになった。 また超高速船のジェットフォイルで、芦辺港と博多港が約一時間で結ばれていることを 利用し、芦辺町独自の定住促進事業も行っている。島外への通勤者に対し、年間二十万円 を限度に自己負担額の半分を補助している。目的は、福岡を通勤圏とすることである。現 在、六人がこの補助を受け、芦辺と福岡との移動に利用している。中には週末だけ帰宅す るのでなく、毎日のように通勤する人もいるという。

▼ 勝本町

島の北西部にある勝本町は、壱岐の北の玄関口である。勝本港は、古代から大陸交通の 重要な拠点として栄えて来た。政治や交易の中心が南部に移ってからは、西日本でも有数 の漁業基地として活況を見せた。 面積は二十九平方キロ、人口は一九五五年(昭和三十年)の約一万一千人をピークに、 今年四月末には約七千二百人となっており、いずれも四町の中で三番目の規模である。 町の財政規模は、平成九年度決算で歳出が五十八億九千四百万円あまりとなっている。 漁業が盛んで、一九九七年(平成九年)の統計を見ると、漁獲高は他の三町が年間一千 トン台なのに対し、勝本町は約八千トンと群を抜いている。その主体はブリやイカの一本 釣りである。 また勝本町には、離島には珍しく温泉がある。白山火山帯の西端に位置するこの湯の本 (ゆのもと)温泉は、壱岐の岩盤に浸み込んだ海水が、長い時間をかけて自然に湧出した もので、温度が六十九度のナトリウム泉で、行楽客や湯治客に親しまれている。 イルカを大量に捕獲して世界的な非難を浴びたことでも知られる勝本町は、港の一画で イルカを飼育し、イルカパークとして宣伝している。 町内には遺跡も多い。原の辻遺跡とともに壱岐を代表する環濠集落のカラカミ遺跡は、 弥生時代の遺跡である。大陸や朝鮮半島系の土器や漁業の道具、貴重な青銅器などを出土 していることなどから、交易や漁業に従事した人々の集落であったと見られている。

▼ 石田町

島の南東部にある石田町は、面積が十六平方キロで、島内では最小である。人口は一九 五十五年(昭和三十年)、その三十年後の一九八五年(昭和六十年)の国勢調査で共に約五 千六百人、今年四月末で約五千人と、四町の中では一番変化が少ない。 町の財政規模は、平成九年度決算で歳出が四十一億千九百万円あまりとなっている。  町の海の玄関としては、大陸交通の重要な港として栄えた印通寺(いんどうじ)港があ る。壱岐の港の中では九州本土と最も距離が近く、フェリーが佐賀県の呼子港とを約一時 間で結んでいる。平戸藩時代は、上納米が千石船で積み出された伝統ある港でもある。 壱岐の空の玄関、壱岐空港も石田町にある。福岡便を運行していたエアーニッポンが去 年撤退し、現在は長崎航空が壱岐・長崎便を運航している。 また町内には、変化に富んだ長い海浜を持つ絶好の海水浴場が数多くあり、産業的にも 旅館や民宿などの観光・サービス業が多いのが特徴である。

第五章 合併特例法による優遇措置

今回、壱岐で進められている合併推進運動の背景には、去年七月に施行された市町村合 併特例法の改正がある。 同年八月付けで自治省が出した「市町村の合併の推進についての指針」の中で、「市町村 および都道府県は、平成十一年の合併特例法の改正後も平成十七年三月三十一日までの期 限は延長されていないことに十分留意し、早急に対応することが求められる」としている。 つまり二〇〇五年までの期限付きで、合併に伴う優遇措置を拡充したとしており、国は「最 大にして最後の支援策」と強調する。 またこの指針の中で、「都道府県は、市町村を包括する広域の普通地方公共団体として、 市町村合併を自らの問題と捉えたうえで積極的に働きかけ、市町村の取り組みを促すこと が期待される」として、県は合併を積極的に支援するよう要請している。 市町村合併特例法による特例措置の主な改正点は以下の通りである。

▼ 合併特例債の創設

新しい市町村の建設計画に基づく事業の内、特に必要と認められるものについては十年 間に限り、事業費の九十五%まで合併特例債を充当出来ることになった。対象は以下の事 業である。 @一体性の速やかな確立、均衡のある発展のための公共的施設の整備事業。 A合併市町村の建設を総合的かつ効果的に推進するために行う公共的施設の統合整備事業。 B地域住民の連帯の強化、旧市町村の区域の地域振興等のための基金の積み立て。 改正前はまちづくり推進事業として地方債を九十%充てることが認められていたが、改 正で充当の割合が五ポイント高くなった。 さらに、最大で事業費の約七十%が交付税で措置される。これは従来通りである。 その額は市町村の規模により異なるが、長崎県市町村合併推進室の試算では、壱岐四町 が合併した場合は、十年間であわせて約百七十四億円となる。七十%が交付税で措置され るとすると、交付税は百二十二億円となり、地元が一般財源で負担しなくてはならないの は約五十二億円となる。 平成九年度決算で、歳出の内の公共事業など投資的経費の壱岐四町の合計は、九十二億 三千九百万円である。壱岐の経済にとって、合併特例債の規模は大きいと言える。

▼ 普通交付税の激変緩和措置

市町村は合併することによって、効率的な運営が可能になるとして交付税が減額される のが原則だが、特例法により合併から十年間は、合併しなかった場合の各町に対する交付 税の合計が全額保障される。この全額保障の期間が、従来は五年間だったのが、改正で五 年間延長された。 その後は五年間にわたり段階的に削減されることになる。これは従来通りである。

▼ 議員に関する特例措置

去年の改正ではないが、合併特例法による優遇措置のポイントのひとつとして議員につ いての措置があり、あわせて紹介しておこう。 本来、市町村を合併で新設する場合、関係する議会議員はすべてその身分を失うのが原 則である。また議員定数は、地方自治法で人口の段階ごとに定められていて、人口逓減方 式となっている。このため新設合併の場合、新しい議会の定数は、関係した市町村議会の 議員定数の合計よりかなり少なくなるのである。 そこで特例法では、新設合併については二種類の特例措置を用意し、いずれかを選べる ようにしている。 ひとつは新しく出来る市町村の定数の二倍の範囲内を、一期に限り議員定数とすること が出来るという定数特例、もうひとつは合併してもその時には選挙を行わず、二年を越え ない範囲で在任を認めるという在任特例である。 合併協議では、議員の意向がその行方をかなり左右するだけに、議員の身分にある程度 配慮しているのだ。

第六章 二十一世紀一支国夢づくりの会 発足

壱岐は離島で高齢化が進んでいるにも関わらず、いやそれだからこそとも言うべきだろ うか、様々な住民グループの活動が活発である。 このうち、「女性の視点から世直しを!」をキャッチフレーズに活動しているグループ、 ばさらの会壱岐に、長崎県壱岐支庁の担当者から、「壱岐で活性化のために町村合併を考え られないか。よければ説明を聞いてくれないか」と連絡があったのは、一九九七年(平成 九年)秋のことである。そこでメンバー数人が、壱岐支庁の会議室で、県の担当者から説 明を受けたのが、一連の運動の始まりだった。 同年十月には、壱岐フォーラム、壱州どし塾、それにばさらの会壱岐の三団体が参加し て、壱岐支庁で勉強会を開いた。 「島内にも様々なグループがあるから、声をかけてみよう」ということになり、呼びかけ に答えて集まったのが、地元のボランティアグループや活性化グループなど十一団体だっ た。 こうした中で、合併について前向きに考えて行くのなら、ひとつのグループを作ったほ うが良いだろうと意見がまとまり、翌一九九八年(平成十年)二月に、今回の合併運動の 中核となった「二十一世紀一支国(いきこく)夢づくりの会」が設立されたのである。そ の名前には、大陸との交流が活発だった頃のように、壱岐の繁栄を取り戻したいという願 いが込められている。 その後二団体が加わり、二十一世紀一支国夢づくりの会に参加したのは十三団体となっ た。会員は約二百人である。 参加した団体のプロフィールを紹介しておこう。

▼ ばさらの会壱岐

ばさらの会は、「世直しは女性の手で」をモットーに、女性が本音で語り合い、地域に根 ざした活動を行なおうと福岡市で結成された。議会を傍聴したり、講演会を開いたりして いるほか、高齢化社会や環境、教育問題などの分科会を作り、女性の視点から対策を考え ている。ばさらの会壱岐は、その壱岐支部として一九九四年(平成六年)に発足した。 その名の「ばさら」とは、筑後地方の方言では「たくさん」という意味、また壱岐の方 言では「こだわりなく、なんでもやって行く」という意味がある。 ばさらの会壱岐代表の平山宏美は、一九四七年(昭和二十二年)福岡県田川市生まれの 五十二歳。勝本町の湯の本温泉にある旅館に嫁ぐため、一九七一年(昭和四十六年)に壱 岐に移り住み、現在、女将として腕をふるっている。 ばさらの会壱岐の会員は、約二十人。郷土料理の見直しや特産品作り、それに地元の歴 史の掘り起こしなどを通じて、壱岐の島おこし活動を続けている。 壱岐の合併問題に関しては、一九九七年(平成九年)から独自に動きを始め、「葉桜談義」 と称して公園での公開討論会を開いたり、国土庁の課長や電通九州の部長などを招いて講 演会を開くなど、強い関心を示して来た。 ばさらの会が壱岐四町の合併を求める背景には、福岡市との合併を求める会員が多いこ ともあげられる。行政的には長崎県に属する壱岐だが、島外に買い物に行く時、長崎市に 出かける人は、県庁に用事のある会社員や商売人を除いてまずいない。経済圏は福岡に属 しており、壱岐が合併した上で、福岡市の北区として編入して欲しいという声が強いので ある。 こうした福岡市への編入を求める転県の期待は、住民の間では以前から根強くある。こ のため歴代の壱岐支庁長は、「転県運動を起こさせないように」という訓令を受けて壱岐に 赴任して来たという話が、島民の間に広まっているほどである。

▼ 壱岐フォーラム

代表の立川省司は、二十一世紀一支国夢づくりの会の代表も務める。 立川は一九四〇年(昭和十五年)生まれの五十九歳。一九五九年(昭和三十四年)、壱岐 高校を卒業し、レザー用品を扱う大阪の問屋に就職した。ここで販売の仕事や大阪商人の 考え方を身体で学んだという。しかし父が身体が弱かったのに加え、立川が事故でケガを したこともあって、二年で帰郷した。郷ノ浦町の実家は、厨房関係の用品を販売する店で、 家業を手伝い始めた。 そんな立川は、高校時代は陸上競技の選手だった。走り幅跳びがメインで、長崎県代表 としてインターハイに出場したこともある。ケガのリハビリ的なトレーニングも兼ねて、 母校に練習に出向くようになった。そうした中で改めて強く感じたこと、それは離島で物 を買うことの不便さだった。特にスポーツ用品が問題だった。 その頃、島内にあったスポーツ用品店では、商品を注文して取り寄せてもらうには、離 島への運送費が定価に上乗せされたという。しかし立川は、「それはおかしい。運賃は商品 の定価のなかでまかなえるのではないか」と考えた。そこで大阪で商売した経験と人脈を 生かして一九六八年(昭和四十三年)にスポーツ用品店を始めたのである。 郷ノ浦町の商店街の入り口にある立川の店は、こじんまりとしているが、若い人たちに 人気のスニーカーがずらりと並んでいる。「大きな儲けはないけれど、これまで堅実に商売 が出来た」と言う。しかし島の子どもの減少は売り上げにも影響して来る。「店の売り上げ を見ていると、それが肌でわかるわけです」と話す。 島の子どもは減り続けている。壱岐教育事務所によると、去年五月現在で、島内の中学 三年生は五百人なのに対し、小学六年生は四百四十三人、小学一年生は三百六十八人とな っている。立川が通った中学校は、立川の在学中は五クラスあったが、今は三クラス出来 るかどうかという状況である。小学校では、複式学級にしないと運営出来ないところも出 ている。 このため学校統合も、住民の話題となっている。しかし現在の四町のままだと、統廃合 も思うようにはことが運ばないという。それは、現在のそれぞれの町内での統廃合となる と、距離的に今よりかなり遠くの学校へ通わなければならない子どもが出て来るためであ る。 児童生徒が少なくなると、必要な教員の確保も出来なくなる。立川は、各校の校長から 学校運営が大変だという話をよく聞く。 四町が合併すれば、子どもたちはこれまでの町の枠にとらわれることなく自宅に近い学 校に通え、さらに複式ではない形に出来るかもしれない。 「父兄や学校の立場で、それぞれ思惑は違うとは思いますけれどね。しかし子どもたちに よりプラス効果を与えるためには、統廃合しなくて、複式学級でいいのか、その辺も検討 して行かなければならないと思うんです」と立川は語る。 一九四年(平成六年)、立川が代表となって壱岐フォーラムが発足した。フォーラムには 商業や農業、漁業、公務員など、島内全域から様々な業種の約二十人が参加した。共通す るのは、その頃ほとんどが五十歳代前半という年代である。 「今は生活も安定し、とりあえず私たちの時代は心配はない。それでも何とか生きて行け るわけですから。しかし後継者としてよそから引っ張って来た人とか、あるいは壱岐に残 っていろんな仕事をしている若い人たちの将来はどうなるかということを考えた時に、こ れじゃいかんということで始めたことなんです」 壱岐の将来に対する危機感から集まった人々は、地域振興のために何をしたらいいか、 何回も会合を持って話しあった。 自分たちで出来ることがあればやるけれど、行政などに対して提言もしようということ になった。 壱岐には働く場所が少ないから、福岡への通勤のための対策をとってほしいと、九州郵 船に申し入れもした。その頃、通勤に対する割引がなかったから、その採用を考えて欲し いと要望したのである。二ヵ月後に会社から、通勤割引制度の回答を引き出すという成果 をあげることが出来た。 その勢いをかって行政への要望を行った。芦辺町は定住対策事業として、通勤費の半額 を補助している。そこで他の町も、芦辺と同じ程度の補助制度を導入して欲しいと、フォ ーラムとして提案したのだ。しかし回答がない。他にも同じようなことがあった。 行政面では、四町とも足並み揃った回答が得られないないのだ。そうした経験から立川 は、壱岐の行政を一本化する必要性を強く感じたという。 「この島の将来を考えると、郷ノ浦だの石田だのではなく、壱岐として売り出さないと、 どうしようもないんだと考えるんです」、これが立川の考えである。

▼ 壱岐ゴミ問題を考える会

元芦辺町長の山口定徳が代表となって八年前に発足したグループである。会の中でもリ ーダー格として活動している久保恵子と松嶋ふみ代に話を聞いた。久保は、二十一世紀一 支国夢づくりの会の副代表でもある。 久保恵子は山口県下関市出身で、一九四七年(昭和二十二年)生まれの五十二歳。夫は 静岡県出身である。船舶の電機関係の会社に勤める夫の転勤で、一九八四年(昭和五十九 年)に壱岐へ移り住んだ。当初は三年で転勤という約束だった。しかし壱岐に来て二年後 に会社が倒産してしまった。 その頃には漁協を中心に、すでに三百人ほどの顧客が壱岐にいた。機器のメンテナンス も必要で、客をそのままにして壱岐を離れることも出来ない。壱岐には漁船などを作る造 船所もあり、レーダーなどの装備の取り付けや、船舶の内装工事などの仕事がある。子ど もを育てるのに恵まれた環境も気に入っていた。そこで壱岐に土地を買って会社を作り、 ここに永住を決意した。 久保の子どもは、静岡でケースワーカーをしている長女と、別府の大学に通う長男の二 人。会社では技術者を三人、事務員を一人雇用し、夫の仕事も順調である。 松嶋ふみ代は愛知県下山村出身で、一九四八年(昭和二十三年)生まれの五十一歳。歯 科医の夫とは名古屋の大学で知り合い、一九七五年(昭和五十年)に壱岐へ移り住んだ。 子どもは二男一女の三人。二人が大学生、一人は高校生で、三人とも島を出ている。 壱岐では一九八〇年(昭和五十五年)、子供劇場を結成しようという動きが現れた。子供 劇場は、子どもたちに本物の劇を見せようと取り組んでいる全国規模の組織である。松嶋 の最初の子どもが三歳の頃だった。 壱岐子ども劇場の活動に参加した松嶋は、芦辺地区のサークル長として会員を増やすた めに努力した。助成金などはなかったため、資金集めのバザーもした。壱岐子供劇場では、 年に数回、島外から劇団を呼んで、生の劇を観る活動を行っている。 やがて壱岐子供劇場には久保も参加し、自宅も近く、年も一歳しか違わない二人は、子 ども劇場の活動を通じて親しくなった。以来、二人は二十年近くにわたり、子供劇場の活 動を一緒に続けて来た。 子供劇場が子どもの情操を育む運動とすれば、大人にも文化活動が必要だと考えた二人 は、ばさらの会壱岐の平山宏美が始めた島寄せコンサートにも関わるようになった。 個人の会費と商店などからの賛助会費を積み立てて、年に二回、クラシックやポピュラ ーの音楽家を呼んで演奏会を開くのである。島民にも好評で、長崎県地域文化章も受けて いる。 ゴミ問題に関心を持つようになったのは、こうした文化活動に取り組む内に、壱岐の自 然の素晴らしさに改めて気付くようになり、それと同時に問題点も目に付くようになった からである。 二人は、壱岐では空き缶やタバコの吸殻などの投げ捨てが目に余ると憤慨する。それも 観光客によるものではなく、壱岐の住民が車の窓から、道路脇にどんどんゴミを投げ捨て るというのである。ボランティアの人たちが定期的にゴミ拾いをするにもかかわらず、す ぐにきたなくなるという。 さらに焼却炉の問題がある。壱岐の四町は、各町ごとにゴミの焼却施設を持っているが、 郷ノ浦町がダイオキシン対策に迫られた時、余力のある芦辺町に対し、委託料を出すから 引き受けて欲しいと依頼した。しかし芦辺町はこれを断った。夏は観光客が増えて需要が 大きくなり、対応出来なくなる恐れがあるからだという。このため郷ノ浦町は約六億五千 万円をかけて、既存の焼却場の改修工事を余儀なくされ、去年三月にようやく完成した。 この他、勝本町では約十九億七千万円、芦辺町は約十五億円、石田町は約六億八千万円 をかけて焼却施設を建設している。 ところが各町独自に施設が作られたため、壱岐全体で一日平均約二十トンのゴミが出る のに対し、各施設の能力の合計はその約三倍の規模となっている。このため年間稼動日数 は、平成十年度実績で、最も少ない石田町が百五十日、郷ノ浦町が百五十三日、芦辺町が 百八十九日、最も多い勝本町でも二百十三日にとどまり、連続運転せずに、少量ずつ焼却 処理している。しかしダイオキシン対策上は、高熱による連続運転が望ましい。各町の施 設とも、ダイオキシンの量は国の基準を下回っているとはいえ、ダイオキシンの発生防止 対策から見ても、きわめて不利な状況で運用されているのだ。 こうした現状を知るにつれ、二人はゴミ問題を考える会の活動に参加するようになった。 久保はある夏の夜、芦辺町長を「ぜひに」と頼んで、壱岐の山中に連れて行ったことが ある。 「この世のものとも思えない、自然のすばらしさに気付かせてくれる場所なんです」と説 明した。そこには蛍が無数に生息しているのである。 ところが壱岐でも河川の改修工事が進み、蛍が減ってきている。久保はそれを残念に思 い、「この場所だけはぜひ残して欲しいんです」と町長に頼み込んだ。 しかし町長の返事はつれなかった。 「久保さん、ここは勝本の区域だよ」と言われ、そのままとなってしまったのである。 こうした苦い経験を積み重ねた久保は、「壱岐は今のままでは、私たちの声がなかなか届 かない。壱岐はひとつの町でなければダメだなと強く思うようになった」と話す。 四町から子供劇場の母親たちが集まると、教育問題やゴミ問題に話題が集まる。そして それぞれの町は財政に余裕などないはずなのに、どうして同じような施設を競って作るの かと疑問がわいて来る。 ゴミを考える会では、今後、生ゴミの堆肥化に取り組みたいと考えている。生ゴミを壱 岐の田や畑に戻してやりたい。それを実行するには四町がひとつになって、足並みを揃え ないと難しいと久保は言う。

▼ あしべ懇会(ねんごろかい)

芦辺の中心部の住民たちの地域活性化グループである。商店の経営者やサラリーマンな ど、業種は様々である。

▼ 壱岐島彩会(とうさいかい)

ボランティアグループである。サイクルロードレースなどのイベントに協力している。

▼ 壱州どし塾

二十歳台から三十歳台の若手が壱岐全域から集まって作っている島の活性化グループで ある。

▼ いろり座

壱岐の民話の伝承グループである。壱岐子供劇場の勝本地区から、島内外に広く活動の 場を求めようと一九八九年(平成元年)にスタートした。親子劇団として郷土の民話を壱 岐の方言で上演する演劇活動に取り組んでいる。親から子へ文化の伝承を図り、地域文化 の振興に貢献したとして、長崎県地域文化章を受けている。

▼ 二十一平成塾

音楽など、趣味を生かしたボランティアグループである。

▼ プラン二十一

保守系の政策研究グループである。会員の中には町議会議員もいる。

▼ 望洋会

奉仕活動グループである。一人住まいの高齢者の、住宅環境整備などに取り組んでいる。 会員には大工や左官もいて、壊れた戸棚を修繕することまで、活動は多様である。

▼ 小さな美術館

壱岐高校美術教諭を定年退職した種田和夫の個人美術館である。 種田は、壱岐で文化事業を盛んにしようと結成された壱岐郡文化協会の中心的なメンバ ーである。しかしその後、各町が町ごとに文化協会を作ったため、活動がやりにくくなっ たと嘆く。特に十一月三日の文化の日の前後は、文化関連行事が一斉に行われるため、郡 の文化協会と、町の文化協会の行事の調整が大変である。種田は、こんなところからも壱 岐一本化の必要性を感じている。

▼ 石田野(いわたの)創造会

石田町の中堅クラスの活性化グループである。

▼ 玄海シンプル・コーポレーション

民宿の後継者などが中心となった、二十歳代から三十歳代の若手活性化グループでる。

第七章 合併推進の論理

壱岐で合併を推進しようとする側の論理を、長崎県壱岐支庁が作ったパンフレット『壱 岐の将来について考えてみませんか!』を中心に、夢づくりの会が中核になって作った壱岐 郡町村合併推進協議会の説明資料とあわせて見てみよう。

まず合併の必要性についてである。
@ 人口の減少と高齢化の観点から。 壱岐の十四歳以下の人口は一九五五年が約一万九千人だったのに対し、一九九五年には 約六千六百人と、四十年間の減少率は六十四%にものぼっている。 さらに島内で育った若い人たちも、そのほとんどが成人を前に、島を離れるのである。 壱岐教育事務所の調べによると、壱岐に二校ある高校の去年の卒業者四百七十五人の内、 進学や就職で島外に出た者は三百八十四人で、八十一%に達する。 その結果壱岐の人口は、一九五五年(昭和三十年)の約五万二千人をピークに、一九九 五年(平成七年)には三万五千人となり、この四十年間の減少率は三十二%となっている。 総務庁の外郭団体の統計情報研究開発センターが、一九九〇年と一九九五年の国勢調査 をもとに町ごとに試算した人口の推計では、二〇二五年(平成三十七年)には郷ノ浦町が 約七千六百人、芦辺町が約五千九百人、勝本町が約三千九百人、石田町が約二千七百人、 そして壱岐全体では約二万百人にまで減少すると予測されている。 一方、六十五歳以上の人口の割合は、一九九五年で二十二・八%と、十年前に比べて七・ 五ポイントも増加しており、高齢化が急速に進んでいる。また県平均の十七・七%を大き く上回り、県内で市郡別に見て最も高い水準となっている。 こうした人口の減少と高齢化は、町の税収入を減少させる一方、福祉ニーズを増大させ る。その結果、町財政が圧迫され、地域の活力が低下する恐れがあるという。 一方、壱岐の現在の人口の約三万五千人は、長崎市の北隣の長与町とほぼ同じで、島原 市の約四万一千人と福江市の約二万九千人の中間にあたり、ひとつの町として決して大き すぎる規模ではないという。
A 財政基盤の観点から。 平成九年度市町村決算の速報値によると、歳入総額に占める地方税の割合は、郷ノ浦町 が十四・八%、芦辺町が八・八%、石田町が七・五%、勝本町が五・八%なのに対し、長 崎県平均は二十一・二%で、壱岐の各町はいずれも低い水準となっている。 こうした地方税収入に加え、施設の使用料や各種手数料、繰越金などの自主財源が歳入 に占める割合を示す自主財源比率は、郷ノ浦町が二十四・五%、石田町が二十三・二%、 芦辺町が十五・四%、勝本町が十一・九%となっていて、いずれも県平均の三十五・五を 大きく下回るのが現状である。 このように壱岐の各町の財政基盤は長崎県内各市町村の平均に比べてぜい弱であり、人 口減少と高齢化により、今後その格差は一層拡大すると懸念されるという。 さらに国の財政事情にも言及し、国と地方の長期債務残高があわせて六百兆円に上るな かで、地方交付税の配分削減はすでに始まっており、これまでのような手厚い措置が継続 される保証はないとしている。
B 面積、日常生活圏拡大の観点から。 壱岐の面積は、五島の福江市の八十七%、対馬の厳原町の七十九%に過ぎない。 その一方で壱岐の一世帯あたりの自動車保有台数は、一九五五年(昭和三十年)は〇・ 〇二四台、つまり約四十世帯に一台だったのが、一九九五年(平成七年)には一・八八九 台にまでに増えた。さらに壱岐の一平方キロあたりの市町村道の延長は、県平均の三倍近 くにまで達している。 この結果、四町から壱岐の他の町への通勤、通学の割合は一九九五年で二十二%となり、 日常の生活圏が拡大している。 また壱岐の消費者が一年間にどこで買い物をしたかを金額ベースで調べた平成九年度消 費者購買実態調査によると、勝本町民は四十九%、石田町民にいたっては六十二%を、壱 岐の他町で消費している。消費生活の面でも、日常生活圏が拡大しているのがわかる。 こうした中で、町の区域を越えた広域的な行政課題がますます増えると予想される。 まず壱岐の広域的な課題として、新壱岐空港の建設促進、壱岐公立病院の移転新築、原 の辻遺跡の保存・整備などがある。また観光・物産の分野でも他の地域との競争が激しく なっており、壱岐として一体となった観光、物産振興の取り組みが一層必要だとしている。 一方、日常生活圏の拡大によって不都合が生じている例としては、就業地と居住地が異 なる場合、子どもを送り迎えに便利な勤め先の保育所に入所させるのが難しい、居住地の 役場に行かなければ、各種証明書や届出などの手続きが出来ないことなどをあげている。
C 行政サービスや社会資整備の格差の観点から。 一九九七年(平成九年)現在の長崎県社会生活統計指標によると、ホームヘルパー一人 あたりの一人暮らし、および寝たきり老人の人数は、最も少ない町が二十一・四人なのに 対し、最も多い町は五十二人と、その格差は二倍以上である。 また一九九六年(平成八年)現在の人口千人あたりの保健婦数は、最も多い町が〇・六 二に対し、最も少ない町は〇・二八にとどまっており、町の財政力の違いなどから、同じ 島の中で格差が生まれている。
D 地方分権の観点から。 一九九五年に地方分権推進法が制定され、住民に身近な行政は、身近な地方公共団体で 行うとの考え方が示された。地方分権が進めば、市町村が処理する事務権限や責任は大き くなる。また市町村は、地域間競争が激化する中で、地域の特性や実情に応じた独自の政 策を組み立てて、実施出来る力量が問われることになる。 限られた財源の中で、行政の効率化とサービスの向上を図るためには、住民に最も身近 な行政主体である市町村は、今まで以上に行財政能力を高め、自らの判断と責任で処理出 来る体制を確立することが必要になって来るとしている。

次に、合併したら壱岐はどう変わるのかについてである。
@ 合併すると、町役場は総務や各種委員会の事務局など管理部門を中心に、各課の庶務 事務の効率化が図られることになる。これにより余裕が生じた職員を、福祉や保健など、 直接住民に接するサービス部門に振り分け、あるいは専門スタッフとすることも可能にな ることから、現在のように一人の職員が多くの事務や事業を担当するといった状況が改善 されるという。 また地方分権の推進に伴い、今後さらに進むと予想される市町村への権限委譲について、 職員を増やすことなく対応出来るようになる。 さらに業務内容に応じた専門的な担当課の配置が可能となり、役場の企画立案機能が強 化されるという。こうした組織力の強化によって、行政サービス水準の向上が図られると している。 一方、議員や三役、教育長、各種委員、職員の減少により、人件費が節減される。
A 新壱岐空港の建設や原の辻遺跡の整備・保存、壱岐公立病院の移転新築、水資源の開 発など大規模プロジェクトの実施にあたっては、四町の意見調整に多くの時間を要してい るが、合併により意思決定が迅速化されるため、今までより事業が円滑に推進されるとい う。 またこれまで各町がそれぞれ設置していたゴミ処理施設などの公共施設は、全島的に見 た場合、必ずしも効率的とは言えないとした上で、広域的観点から計画的・効率的に配置 し、適地に適正な規模で設置することによって、建設経費、管理運営費が削減されるとし ている。特にダイオキシン問題については、施設の大規模化により解決が図られるように なると強調している。 さらにこうした効率化によって削減された経費を、他の事業に振り分けることが出来る ようになるという。
B 壱岐の基幹産業である第一次産業の分野で、壱岐全体を見渡した農業の基盤整備や水 産物の卸売り市場の一元化が推進されるという。 また商工業の分野では、各町の町域にとどまっている産業祭などのイベントが統合され、 島内外への効果的PRが可能になるとともに、焼酎、うになどの特産品の壱岐ブランド化 が一層促進されるとしている。観光の分野でも、壱岐が一丸となった観光振興が可能にな るという。
C 各町で行っている様々な行政サービスや社会資本の整備に格差が生じているが、その 格差が是正され、住民生活の向上が図られるという。
D 合併により、小・中学校の通学区域を、それまでの町域にこだわらずに、より便利に なるよう見直すことが出来るようになる。  またそれまで利用しにくかった他町の公共施設も、自分たちのものとして利用出来るよ うになり、便利になるとしている。

懸念されるデメリットについては次のように言及している。
@ 役場がひとつになり、不便にならないかどうか。 合併しても、現在の役場を支所として活用することが一般的に考えられるとしている。 また本庁と支所とをオンラインで結ぶことにより、住民票や印鑑証明などの窓口サービス はこれまでと同じように受けることが出来る。
A 町の区域が広くなり、地域の声が行政に反映しにくくなったり、地域ニーズに対する きめ細やかな対応が出来なくならないかどうか。 壱岐支庁のパンフレットでは、例えば住民の声を町長に伝える「町長への提言」を目的 とした便りやファックスを設置したり、「住民相談」、「町政モニター」などのほか、地域ご との懇談会や意見を聞く会を開催するなどの工夫をし、地域の声を出来るだけ行政に反映 させるようにして行くとともに、職員の専門性の向上によりカバー出来ると考えられると している。
B 中心部だけが利益を受け、周辺部は取り残されてしまわないか。 合併後のまちづくりは、壱岐全体を視野に入れて一体的に行わなければならないとして いる。その上で、合併協議会において、合併後の新しいまちづくりのビジョンを定めた「市 町村建設計画」を作成し、この中で周辺部の整備計画をしっかりと立てることにより、解 決出来ると説明している。

あわせて長崎県が去年一月に行った広域行政と市町村合併に関する意識調査の結果も紹 介しておこう。 このアンケートは、各市町村から無作為に選んだ県民七千五百人を対象に郵送で行われ、 有効回答率は三十八・一%だった。 この中で、「市町村合併はすぐにでも必要だと思う」と回答した人を県内の地域別に見る と、壱岐郡が二十三・一%で最も多く、次いで下県郡と上県郡がいずれも十七%台、南松 浦郡の十三・五%と続いている。 また「いますぐ必要」、「十年以内に必要」、「いずれ必要」をあわせた回答は、壱岐郡が 六十一・六%でやはり最も多く、次いで南松浦郡の六十・一%、下県郡の五十七・一%、 上県郡の五十三・四%と続いている。

第八章 署名運動

二十一世紀一支国夢づくりの会は、規約でその目的を、「二十一世紀の壱岐の在り方を考 え、夢のある島づくりの実現を目指して活動する」としている。 そのための事業として、二つの項目を掲げている。ひとつは二十一世紀の一支国づくり のビジョンの策定、もうひとつは壱岐一本化の検討および啓発である。 この事業を進めるため、会には六つのチームが作られた。将来ビジョン対策チーム、署 名活動対策チーム、議会等対策チーム、広報・イベント対策チーム、婦人対策チーム、青 年対策チームである。また地域対策として、四町にそれぞれ支部が設けられた。 会では、他の地域の状況も参考にしようと、一九九八年(平成十年)三月には島原市を 視察し、島原半島合併研究会と意見交換をした。また去年三月には、二町四村からなる山 梨県峡西地区を視察した。この地区では、住民発議で合併協議会の設置を求める運動の準 備をすでに進めていたからである。 二十一世紀一支国夢づくりの会は、住民運動として四町合併を求めて行くため、住民発 議による合併を目指すことになった。

合併特例法によれば、「市町村の合併をしようとする市町村は、合併市町村の建設に関す る基本的な計画(市町村建設計画)の作成その他市町村の合併に関する協議を行う協議会 (合併協議会)を置くものとする」と規定されている。この法律に基づいた合併協議会を 設置する方法はふた通りある。 ひとつが住民発議、つまり住民からの請求に基づくものである。合併特例法では、有権 者の五十分の一以上の者の署名をもって、市町村長に対して、合併協議会の設置の請求を 行うことが出来るとしている。 もうひとつは、市町村長や議会の発議によるものである。対馬で進められている合併に 向けた協議は、これにあたる。対馬の六町は、合併特例法に基づく合併協議会設置案を町 長発議で、各町議会の六月定例議会に提案することにしている。 自治省の今年二月一日現在のまとめによると、法律で定められた合併協議会は全国の十 四地域四十一市町村で設置されている。ここで「法律に定められた」としたのは、その前 段階として、関係する市町村が話し合うための任意の協議会が作られることも多いからで ある。 では、住民発議の手続きが行われた場合、そのすべてで合併協議会が設置されるかとい うと、そうではない。まず関係するすべての市町村で、法律に定められた数以上の有効署 名が必要である。その上で、署名がどんなに多くとも、やはり関係するすべての市町村議 会で、合併協議会の設置に関する議決を行わなければならない。 これまで住民発議は壱岐を含めて二十九地域で行われた。この内、協議会が設置された のは八地域にすぎないのである。 今年二月現在の自治省のまとめで、住民発議による協議会が八地域のあわせて二十三市 町村、住民発議によらない協議会が六地域の十八市町村で設置されている。

次に問題となったのは署名を集める時期である。一九九八年(平成十年)八月に開いた 役員懇談会では、翌年七月に署名収集を行うという案が浮上した。十一年四月に統一地方 選挙を終えたあと、なるべく早期に合併に向けた具体的な手続きに入りたかったからだ。 なぜかといえば、合併に向けた協議には議会議員の思惑が絡んで来る。協議が押し詰ま ったところで、選挙により協議会のメンバーが替わって議論が振り出しに戻るようなこと は避けたかった。そのため次の次の統一地方選挙が行われる二〇〇三年(平成十五年)三 月までに、合併に関する協議を決着させたい。そのための時間的な余裕を、最大限に確保 したかったからだ。 しかしその後の協議で異論が出て来た。七月では、四月の統一地方選挙が終わって間が なく、準備体制が不十分な恐れがある。それに加えて芦辺町では、一九五六年(昭和三十 一年)九月に箱崎村と合併したことから、議員選挙が統一地方選挙の年の九月に行われて おり、議員選挙の準備で、署名活動に手がまわらない可能性がある。こうした事情を考慮 して、去年二月の段階で、署名収集の時期を同年十月と決定した。 夢づくりの会では署名活動に備えるため、毎週火曜日に拡大役員会を開き、具体的な準 備に入った。四町の支部組織の整備も進め、去年六月には署名活動の拠点となる事務所を 設けた。さらに新聞にチラシの折込を行うなど、島民に理解を呼びかける取り組みも始め た。 そして二十一世紀一支国夢づくりの会が中核となり、全島的に合併運動に取り組むため の組織として、壱岐郡町村合併推進協議会を去年八月に発足させたのである。 夢づくりの会では、政治団体や宗教団体などを除き、島内約五十の各種団体に参加を呼 び掛けた。 観光協会や民宿共同組合、汽船海運組合は、壱岐一本化は観光にとってプラスになると して参加した。郡連合遺族会や郡老人クラブ連合会、ロータリークラブやライオンズクラ ブも加わった。さらに島外から、関東や関西の壱岐出身者の会も、壱岐一本化を支援した いとして参加した。去年八月六日に郷ノ浦町壱岐文化ホールで開かれた設立総会に参加し たのは二十一団体だった。 設立当初の参加には間に合わなかったが、全島ですでに一組織となっている壱岐郡農協 も参加した。また郡医師会、郡地域婦人会も後に加わった。 しかし島内に五つある漁協では、参加したは郷ノ浦と勝本の二つの漁協にとどまった。 各町ごとにある商工会では、郷ノ浦町商工会のみの参加となった。さらに建設業協同組合 は、各社の意見がまとまらず、参加しなかった。経済界は合併の行方が事業展開に大きく 影響するだけに、事業所の思惑が異なり、それぞれの業界団体として一本化するのは困難 な面が大きかったのである。 最終的に合併推進協議会に参加したのは、二十八団体である。 推進協議会の会長には、壱岐郡老人クラブ連合会長の広瀬邦四郎が就任し、二十一世紀 一支国夢づくりの会代表の立川は、副会長として実質的に運動を担うことになった。

 住民発議による合併協議会設置の手続きは以下の通りである。 まず、合併に関係する町に対して行う合併協議会設置の請求がすべての町で同じである ことの確認を、住民の代表者が行う。 その後、選挙人名簿登録の確認などの事務手続きが行われたあと、代表者証明書の交付 と告示が行われ、告示があった日から一ヶ月以内の日程で署名収集活動が行われる。その 際、署名活動を行えるのは請求の代表者、および受任者のみとなっている。 この受任者とは、請求の代表者から、有権者に、署名と押印を求めることを委任された 人のことである。受任者の資格は、まずその町の選挙人名簿に登録されている有権者、そ して請求の代表者から委任され、町長および選挙管理委員会に委任届を提出した人であれ ばよい。ただし受任者の資格はあくまでも、自分の町でのみ有効である。 一ヶ月以内で署名が終わると、代表者は署名簿を選管に提出する。これを受けて選管は、 二十日以内に署名簿の審査を行い、無効なものをチェックする。 そして七日間にわたり署名簿の縦覧が行われたあと、有効署名数が告示される。関係す るすべての町で、有効署名が有権者の五十分の一以上をみたしていれば、各町長に対する 合併協議会設置の本請求となるのである。 請求を受けた町長は、以前は合併協議会の設置を議案として議会に提案するかどうか独 自に判断し、場合によっては見送ることも可能だった。しかし去年の特例法の改正で、す べての関係市町村で同一内容の請求が行われた場合には、すべての関係市町村長は、合併 推進協議会について議会にその意見を付して付議しなければならないと改められた。この 点でも特例法は、市町村合併をより後押しするようになっているのである。 提案を受けた各議会では、合併協議会の設置についてそれぞれ議決を行う。このうち一 つの町でも設置を否決すれば、その時点で特例法による協議会設置の手続きは終了するこ とになる。

壱岐郡町村合併推進協議会では、署名の受任者について、各町の公民館長に協力を要請 した。壱岐には四町あわせて二百二十六の公民館がある。公民館長は自治会長が兼ねてい る場合がほとんどである。公民館長、すなわち自治会長は地域の代表であり、顔役である。 そこで公民館の組織を通じて公民館長に、それぞれ複数の受任者を推薦して下さいと依頼 した。 郷ノ浦、芦辺、石田の三町では、公民館の組織に協力してもらえることになった。しか し、勝本町では公民館組織の協力は得られなかった。 勝本町では、町内の公民館長が連名で、壱岐公立病院の早期改築の要望を町村圏組合に 出すよう準備していて、その署名集めの時期が、ちょうど今回の署名の時期にぶつかった のだという。他のことに手が回らないというのが、断りの理由だった。署名活動に反対は しないが、協力は出来ないという返事だった。 しかし勝本町の町議会議員の一人が、公民館の連絡協議会の役員に聞いた話は、それと は異なる。 「公民館長の中にも、合併は時期尚早だとか、ひとつの町になったら、勝本は北の端だか ら今より悪くなるとして、合併には反対という意見があった」という。その上で、「公民館 協議会では協力は出来ない。公民館長がしたいというなら、個人の立場でしなさいという ことになった」というのだ。別の署名集めは、断りの単なる口実に過ぎないというのであ る。 推進協議会では一般の人に、受任者になってくれるよう呼びかけたが、公民館長に気が ねをして、「私たちが手伝うのはどうか、変なことを言われたら困る」という反応が多かっ た。このため勝本町では、受任者が他の町よりかなり少なくなったのである。 勝本町以外でも、場所によっては公民館長の協力が得られない場合があった。そうした 地区には、推進協議会のメンバーが、地域の人たちに何度も説明をしてまわったという。 ゴミ問題を考える会の久保と松嶋は、去年八月には公民館や婦人会の集まり、商工会の 婦人部の集会などに毎日のように出向いた。「よそから来た人たちがこんなに一生懸命やっ ているのに、私たちはこれでいいのかな」と共感してくれる人も多かったという。二人は 「子供劇場や島寄せコンサートなど、地域に根ざした活動をして来たことで、違和感なく 話を聞いてくれた」と、手応えを感じた。

去年九月二十日、合併推進協議会の四町の代表が長崎県庁を訪れ、住民発議による合併 協議会の設置請求に向けて、金子原二郎知事に手続きの確認を申請した。いよいよ合併特 例法による手続きがスタートしたのだ。長崎県内で住民発議による合併に向けた手続きは 今回がはじめてである。 この際、県側の応対が、当初予定されていた総務部長から、直前になって金子知事に替 わった。 「直々に申請書を受け取った知事は『急に日程が空いただけ』と他意のないことを強調し た。だが、推進派住民はこれを知事の『合併支援』への無言のメッセージと感じた」(去年 十一月九日付け西日本新聞)という。  十月三日、いよいよ署名活動が四町一斉に始まった。有権者は、四町あわせて約二万六 千八百人である。 これに対して署名活動の受任者は、郷ノ浦町が四百五十一人で町の有権者の四・六%、 芦辺町が二百十四人で町の有権者の二・九%、石田町が百人で有権者の二・七%だった。 これに対し、公民館長の協力が得られなかった勝本町は七十八人で有権者の一・四%にと どまった。  特例法で必要とされている署名は有権者の五十分の一以上である。勝本町以外では、受 任者だけですでにこのラインを超えていた。 協議会は十月十八日現在で一回目の中間集計を行った。その結果、各町で署名をした人 は、郷ノ浦町が四千五百人で有権者の四十五・五%、芦辺町が二千人で二十六・九%、石 田町が千四百人で三十七・一%、最も少ない勝本町でも三百人で五・三%と、四町で有権 者の五十分の一を大きく上回った。壱岐全体の平均では、有権者の三十・六%にあたる。 しかし協議会は、これで満足しなかった。各町の議会に合併に向けた住民の意思を示そ うと、署名の目標を六十%としていたのである。 十月二十五日現在でとりまとめた二回目の中間集計では、郷ノ浦、芦辺、石田の三町が いずれも四十%台後半、勝本町が十四%で、全体では有権者の四十・七%だった。この時 点で推進協議会では、過半数は突破するだろうが、目標の六十%に届くかどうか微妙と見 ていた。最後の追い込みに拍車がかかった。 署名活動が終り近くになると、勝本町では合併推進協議会に、「おれの所にはまだ署名を 取りに来ない」と連絡して来る人がいて、その周辺の受任者に行ってもらうよう手配した りもした。受任者は自分の町内だけしか、署名集めが出来ないからである。 そして一ヶ月間の署名は十一月一日に終わった。集まった署名は全島で約一万六千四百 人分、有権者の六十一・二九%に上った。 その後、各町選管による審査が行われ、明らかに同じ筆跡で書かれた署名など無効署名 をチェックした。最終結果は、署名率の高い順に以下の通りである。

▼ 郷ノ浦町 有効署名 七一八六人(有効署名率 七二・六七%)、無効署名 四三八人
▼ 石田町   〃   二〇八一人(  〃   五五・一六%)、 〃   二六九人
▼ 芦辺町   〃   三九〇〇人(  〃   五二・四八%)、 〃   六六七人
▼ 勝本町   〃   一五九二人(  〃   二七・九六%)、 〃   二八三人

▼ 合計  有効署名 一四七五九人(有効署名率 五五・一〇%)、無効署名一六五七人   

合併協議会設置に向けた住民発議の署名としては、山梨県峡西地区の二町四村で去年行 われた署名が四十五・五%で、それまでの最高だった。五十五・一%の壱岐はこれを大き く上回った。立川はこの結果について、島民の将来に対する危機感が現れたものと見てい る。 各町の署名の結果について、立川は次のように分析した。 「郷ノ浦は、民間組織の協力がかなり得られていたので少なくとも六十%は行くと思って いたが、七十%以上もあったのは、みなさんの期待が私たちの予想以上に大きかったため と思う。 芦辺は、過半数行くかどうかと、芦辺地区の責任者から聞いていた。大体予想どおりで す。 石田は過半数を割るかもしれないと心配していたが、後半にさしかかった頃、過半数を 越えたという情報が入った。住民の意識が高まって来た結果だと感じている。 勝本は、受任者が他町と比べてかなり少ないという厳しい条件のもとでこれだけとった というのは、よく頑張った方だと思う。有効署名は約二十八%だったが、これでも全国平 均から見ると、署名率としては高い方ですから」 早期に合併が実現すれば、住民発議による全国で始めての合併となる。夢づくりの会の 会員たちは意気込んだ。 その一方で、各町に合併に対する温度差があることも数字ではっきりと示された。 郷ノ浦町の渋村寛町長は、四町合併が選挙の公約だったこともあり、十月三日に町内の 体育館で行われた署名開始式にも出席し、町民の第一号として署名をした。 これに対し、署名収集期間中の十月二十一日付け長崎新聞は、「他の三町長は『現段階で は白紙』と慎重姿勢。山口銀矢石田町長は『いずれ合併すべきと思うが、抽象的に判断す る事柄ではない。行政は行政で研究を進めている』とし、住民運動とは距離を置いたよう な発言」と報じている。署名活動が終わった後の、十一月六日付け西日本新聞でも山口町 長は「住民の努力には敬意を払うが、戸惑っている町民もいるのが現状」とコメントして いる。同じ記事の中で、郷ノ浦町の渋村町長は「署名の数を見ると差がある。四町そろっ てゴーサインとなるかどうか」と話している。

第九章 慎重・反対の論理

▼ 壱岐の将来を考える会

壱岐の合併に慎重な立場をとり、今回の合併協議会の設置には反対を表明しているグル ープが、壱岐の将来を考える会である。この会は、かねてから壱岐の懸案となっていた、 壱岐公立病院の移転新築問題を考えようと数年前に結成されたグループで、その中には合 併賛成の人も含まれていた。しかし合併問題をめぐって島内の意見が二分されるようにな ると、賛成の立場の人は会を去り、壱岐の将来を考える会は、合併協議会設置に反対を表 明している。 会の世話人代表で石田町在住の目良正夫(めら・まさお)は元郵便局員で、壱岐の地区 労議長も務めた人物である。 彼は合併反対の理由について、「郷ノ浦中心になるから。辺地がさらに過疎になる」と端 的に語る。壱岐の一極集中にさらに拍車がかかり、郷ノ浦の商店街が儲かるばかりで、石 田など周辺の町は廃れてしまうというのだ。平成九年度の消費者購買実態調査によると、 確かに石田町の消費者は、年間の消費額の七割以上を壱岐の他町や島外で使っており、地 元での買い物は三割に満たない。実際に石田町に足を運んでみると、郷ノ浦町との違いは 一目瞭然で、賑やかな通りは見当たらない。その上、役場がなくなることに、地元住民が 強い不安感を抱くのも無理はない。 さらに今回の合併運動は、県主導だと批判する。「県の出先が、推進派を召集し、いろい ろ動いて強引に進めようとしている」として、地元の意思が尊重されていないと訴える。

高齢で病弱な代表の目良に代わり、壱岐の将来を考える会の先頭に立って、協議会設置 に反対しているのが、松嶋惣一である。松嶋は実業家で、石田町議会議員でもある。 松嶋は一九二四年(大正十三年)生まれの七十六歳。石田町の一本釣りの漁師を父に、 二人兄弟の長男として生まれた。尋常高等小学校を卒業して、父と同じ漁師となった。 しかし戦時色は強まるばかりである。 「まわりから兵隊に志願しろと言われたが、私は兵隊が嫌いだからしなかったんです」 そんな松嶋も、否応無く一九四四年(昭和十九年)に徴兵され、満州と台湾にわたった。 何とか戦争を無事に切り抜け、戦後、地元に帰った松嶋は鮮魚の運搬業を始めた。全長 十五メートルほどの運搬船を作り、長崎県の対馬や生月などから、消費地の福岡や下関へ 鮮魚を運ぶのである。今と違って食糧事情の悪い頃である。松嶋の狙いは当たった。 石田町の海運業が盛んなのも、千石積みの船乗り稼業の伝統があったからだと、郷土史 家の中上史行は推測している。松嶋は、地元の伝統を生かして、新しい事業に乗り出した。 高度経済成長の中で、油を運搬する海運業に目をつけたのである。一九六〇年(昭和三十 五年)、鮮魚運搬で得た利益を元手に、壱岐で最初の五百トン積みのタンカーを作り、九電 の発電所用の燃料などを福岡から対馬や五島に運ぶ仕事を始めた。 一九七四年(昭和四十九年)には一億数千万円をかけて、千トン積みのタンカーに作り 替えた。その十年後には、三億円かけて新しいタンカーを建造するなど、事業は順調だっ た。売り上げは、平成四年頃には年間約二億三千万円まで伸びた。 だが去年九月、松嶋は船を韓国の業者に売却し、事業から撤退した。競争の激化で、運 賃が以前の三割から四割も安くなっていて、需要はあるものの小規模の業者ではもう引き 合わない。これからは成長はないと、あっさり見切りをつけたのだ。 余裕のある内に、将来を見越して転換をはかるという時代を見る眼が、松嶋をこれまで 支えて来たのである。 政治の世界では、鮮魚運搬をしていた関係で、水産会社の金子漁業を所有していた自民 党の金子岩三代議士と知合い、やがて松嶋は金子を支援するようになった。金子はのちに 農林水産大臣や科学技術庁長官も務めた、長崎県北部を地盤とする政治家である。衆議院 の選挙制度が中選挙区時代、長崎二区に属した壱岐は金子の選挙区で、海運業でも成功し た人脈を生かして松嶋は、壱岐の金子派の中心的人物となったのである。松嶋は自らも町 議会議員となった。当選八回は石田町議会の現職の中では最多で、去年の選挙ではトップ 当選を果たした議会の実力派である。 やがて岩三の跡を継いだ原二郎が衆議院議員から知事に転じ、合併問題をめぐって松嶋 と対立する関係となったのは皮肉な巡り合わせである。 そんな松嶋が、壱岐の現状を見る目は厳しい。松嶋が雇っていた船員は、実は壱岐出身 者はひとりもいなかった。「壱岐の人は勤まらない」と言うのだ。 松嶋は、壱岐の人々について、苦言を呈する。 「私は壱岐の人間だから言えますが、壱岐の者くらい、辛抱しない者はいない。だから壱 岐には、これという産業がないのです。 壱岐では、米も野菜も出来る。魚もある。だから食物に不自由しない。人間関係の助け 合いもある。恵まれすぎているんです」 壱岐は、高校を卒業すると大半の人たちが、進学や就職で島外に出るという事情もある。 さらに松嶋は、事業家として厳しい競争を生き抜いて来た自負もある。まわりの人たちに ついて、歯痒く思えることもあるのだろう。 壱岐四町の合併問題について、松嶋は合併自体を否定はしない。将来的には必要になっ て来る場合もあるだろうとも言う。 「壱岐はひとつだという心でやるならわかる。石田だけ良ければという気持ちはありませ ん。しかし今回の合併で、島民の心も、美しい自然も壊してしまうのがこわいんです」 松嶋の目には、今回の合併運動の取り組む人々は、合併特例法による合併特例債百七十 四億円の分け前にあずかろうとしているのだと映る。 「要は、公共事業のお金目当ての連中が一生懸命やっているんです。 今回の署名集めで、土建業者が、『あんたはどれだけ集めなさい』といって、署名集めに ノルマをかけたと聞いた」 松嶋は、今のように財政事情が厳しい時には、財政に対するメリットだけを目的に合併 してはならないと強調する。島民の心は親方日の丸に一層依存するようになり、次々と借 金する体質が改まらないからだと言う。 松嶋の脳裏には、自分の生まれ育った石田町の筒城浜に、かつて計画された壱岐リゾー ト構想の教訓が焼きついている。芦辺町の建設会社が中核となり、長銀、十八銀行、親和 銀行、九州銀行、東京海上火災、安田海上火災などが合計数億円を出資して、リゾートホ テルを中心としたマリンリゾートを建設しようというものだった。しかしバブル崩壊で、 計画は泡と消え、地元は計画に振り回された。 「壱岐に大きな事業はいらないんです。 限られた権限、財源のなかで、どのように町を運営するかを考えるのが町長や議員の仕 事です。安易に合併を求めるのは敗者の考えです。 壱岐の現状を考えると、小さい町でやれるんですよ」 これが松嶋の結論だ。

壱岐の将来を考える会では、合併反対の主な理由として、以下の三点をあげている @合併特例法による普通交付税の激変緩和措置は十年間で、十一年目以降段階的に交付税 が削減され、十五年間で優遇措置は終わる。ではその後どうなるのか。 平成九年度の資料で、人口が約三万五千人と壱岐郡とほぼ同じ規模の長崎県長与町と比 較してみる。国の地方交付税の額を決める基準財政需要額を見てみると、ひとつの町であ る長与町は五十九億七百万円であるのに対し、壱岐四町の需要額を合計して壱岐郡全体で 見ると百二十七億二千三百万円にもなる。つまり壱岐四町が合併してひとつの町になると、 長与町とほぼ同じ水準、つまり合併前の半分となってしまう。これは交付金が半分になる ということだと訴えている。 A合併すると三つの役場がなくなって、働く場所が少なくなり、支所になった元役場の周 辺の街もさびれてしまう。そして島の過疎はますます進むという。 B役場は島にひとつとなり、住民の声は届きにくくなり、困っている人がいてもその姿は 役場から見えにくくなる。役場が減ればそれだけ住民サービスも減るのだと警告する。 そして最後に、合併したらもう後戻りは出来ない。じっくり考えてみましょうと呼びか ける。

▼ 財政硬直化を否定

石田町議会議員の住吉利行は、今年三月十日付けの壱岐日々新聞で、石田町の財政は硬 直化しておらず、安易に合併の道を選ぶべきではないと警告している。 この中で住吉は、各町の財政事情を検討する。まず公債費比率、つまり一般財源に占め る公債、すなわち借金の比率を検討し、勝本町が十七・七%、郷ノ浦町が十六・八%、芦 辺町が十五・二%なのに対し、石田町は十二・七%で最も借金率が少ない。これは石田町 と議会が、無駄な出費や身の丈知らずのような事業執行を避ける努力をして来た成果だと 強調する。 さらに、一般財源の中に占める、人件費や借金の返済費など固定的経費の割合が、四町 の中で最も少なく、この面からも石田町の財政は健全だとする。 そして今回の合併問題について、次のように締めくくる。 「合併問題を考える時、安易に交付金の甘い汁を吸いに走るのか、すなわち『土建国家』 といわれるような借金漬けの公共事業で孫子の代に重荷を残すのか、それとも足元を見つ めた健全財政で進むのかという二者択一の立場が問われていると考える。 決して財政規模の大小でなく、その町の歴史、文化、伝統、慣習を生かして、壱岐の自 然の回復をてこに交流人口の拡大を図ることに、壱岐の今後の活性化の道があると確信す る。 あわてふためいた合併推進を私がためらう理由はここにある」

▼ 協議会設置反対の請願・陳情

去年十二月、壱岐の将来を考える会は、石田町議会に対し、五人の紹介議員の署名を添 えて、町村合併協議会設置に反対する請願を行った。また勝本町と芦辺町の議会に対して は議員の紹介が必要ない陳情という形で、石田町議会に対するのと同一内容の要望を行っ た。 以下がその全文である。 「わが国の憲法が、地方自治に関する規定を第八条にわざわざもうけているのは、戦前の わが国には地方自治は認められていなかったこと、さらに地方自治を否定する傾向を予測 し、地方自治に保障を与えんがためであります。  さて私たちの住む地域を見るときに、住民自治が完全に住民の日常生活の中に定着して いるとはいえず、残念ながら未成熟の面もあると言わざるを得ません。このような地域の 中で、国県等の公権力を背景にしながら町村合併が行われるようなことがあれば、私たち にとって最も大切なもののひとつである民主主義に基づく住民自治が失われる恐れが多分 にあります。 今日の合併の目的は、一言で言えば行財政制度の効率化と集中化の手段という点に要約 出来ますが、これは住民のくらし、福祉を守るという根本的な視点が欠落しています。く らし、福祉、利便等の向上にとって何が必要か、どんな改革が求められているか等につい ての住民のなかからの積み上げこそが出発点のはずで、そのひとつとして、一部事務組合 の強化、あるいは広域連合、または合併等が俎上にのぼることもあるでしょう。  しかし今回の合併問題については、その視点に立つ議論は全くありません。県および、 民主的手続きを経て賛同されたかどうか疑問が残る各種団体等をバックに進められた合併 協議会設置の運動は、地方分権とも矛盾するものであり、疑問の声も多く聞かれます。こ のようなもとでの合併協議会の設置には、反対せざるを得ません。  行政側に都合の良い合併推進であり、行政は住民のためにあるのであって、行政のため に住民があるのでないことを強調いたします。  かかる観点から私たちは合併協議会設置反対の請願(陳情)書を提出するものでありま す。意のあるところを諒とされ、ご賛同賜りたくお願い申し上げるところでございます」

第十章 壱岐公立病院の移転新築問題

ここで、壱岐で合併問題が住民の間で沸き起こった背景を見てみよう。その最大のもの が、十年来議論が続きながら、いっこうに解決のメドがたっていない壱岐公立病院の移転 新築問題である。 壱岐公立病院は一八九五年(明治二十八年)、平戸藩の城代が詰めていた建物をそのまま 利用し、郡立病院として現在病院のある郷ノ浦町本町触に設立された。一九二二年(大正 十一年)末で郡制が廃止されたのに伴い、翌年、壱岐郡総町村組合が管理する壱岐公立病 院に改組された。そして一九三八年(昭和十三年)、本館と病棟が新築され、百七十一床の 病床を持つ総合病院の形を整えたのである。 戦時体制下には日本医療団に接収されたが、戦後は一九四八年(昭和二十三年)に設立 された壱岐郡町村組合、その後一九八一年(昭和五十六年)に名称を改めた壱岐広域圏町 村組合が管理運営し、島民医療の中核を担うことになる。 一九六四年(昭和三十九年)には鉄筋コンクリート三階建ての本館と病棟が完成し、一 九七六年(昭和五十一年)には鉄筋コンクリート二階建ての精神病棟が完成した。 現在、病床数は百八十。診療科目は内科、小児科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、 放射線科、理学診療科、産婦人科、それに精神科である。 一九六八年(昭和四十三年)、全国でもはじめての試みとして長崎県に離島医療圏組合が 発足した。県が離島の市町村と一部事務組合を作り、それまで単独、あるいは共同で経営 されていた五島、富江、奈留厚生、上五島、奈良尾、壱岐、厳原、上対馬の各病院を引き 継いで経営し、不足しがちな医師を確保するとともに、医療施設を充実しようという計画 だった。五島と対馬の各病院は加入した。しかし壱岐公立病院は、加入を見送った。 その年二月八日付け朝日新聞で、当時の谷口郷ノ浦町長は「明治二十七年から九大をバ ックに育てて来た病院を他人にまかせたくないという島民感情が強い。しかも生活、文化 圏とも福岡に入っているうえ、島内の交通事情もよく、島民は医療的に不便を感じていな い。開業医と公立病院がよく結びついており、代表を三人しか送り込めない県の組合経営 になれば、これまでの機能が減退するとの声が強かった」と述べている。 のちに壱岐の四町は自治体としては離島医療圏組合に加入したが、壱岐公立病院だけは 除外した。谷口町長の気持ちは、現在の島民にもそのままあてはまる。ただし「島民は医 療的に不便を感じていない」という部分を除いてではあるが。 福岡を向いているという島民意識が、医師の構成にも影響を与えている。壱岐公立病院 では従来、長崎大学から内科医三人、整形外科医二人をスタッフとして派遣してもらって いた。しかし長崎大学は去年から今年にかけて、その全員を引きあげた。 今年三月まで壱岐公立病院の院長を務めた吉村行生は、その理由を次のように語る。 「向こう(長崎大学)の言い分は、『壱岐の患者は福岡を向いている。患者の転院先を紹介 する場合でも長崎ではなく、全部福岡ではないか。自分のところの仕事は、もう終わった んだ』、そういう風な言い方でした」 後任は福岡大学から来てもらうことになった。それでも医師十五人の定員に対し、現在 は十三人。内科医が二人不足している。大学の人事で動くという病院のスタッフ構成は、 民間の病院のように医師が長く勤務せず、経験が浅い若手の医師が多いということにもつ ながる。 吉村は、「最近では公立病院より、民間の病院のほうがはやっています。医師の信頼性の 問題でしょう。公立病院は大学から派遣された若い医師が多く、それよりはベテランの医 師のほうが信頼出来るから」と語る。 壱岐には病院が八つある。一九九五年(平成七年)十月現在の長崎県の調べで、人口十 万人あたりの施設数としては、壱岐は二十一・九となり、長崎県平均の十一・九、全国平 均の七・八を大きく上回っている。他の離島では下五島は九・七、上五島は七・八、対馬 では六・八にとどまっている。病院数だけで見れば、壱岐は医療過疎ではない。むしろ、 病院間の競争は厳しいと言える。最近でも民間の病院は改築を進めたり、最新の検査、治 療器具を導入し、公立病院に対抗して来ている。 その一方で壱岐公立病院は、本館病棟はすでに築後四十年近くが経過し、施設の老朽化 が進んでいる。外科の病棟は、回診台も入らないほどの狭さである。救急病棟もない。ト イレは男女兼用。館内は配管がむき出しになっていて、汚れも目立つ。外壁のコンクリー トがもろくなったところは、危険防止のためにたたき落とされた。しかしその後の補修が 行われていないため、外見上はデコボコのコンクリートが露出し、今にも崩れ落ちそうに 見える。 こうした医療スタッフの問題、さらに施設の老朽化が、病院経営にも深刻な状況を招い ている。 昭和五十三年度には、単年度収支で約六千四百万円、昭和六十三年度には約七千百万円 の利益を出すなど、順調な経営だった。累積赤字も一九八九年(平成元年)には解消され た。しかし近年は患者が減り、平成十一年度決算では単年度で約一億六千八百万円の純損 失、累積収支は約四億八千万円の赤字見込みとなってしまったのである。

芦辺町商工会青年部では、今年二月、壱岐公立病院について、島民あわせて約千人を対 象にアンケート調査を行い、ほぼ半数の約五百三十人から回答を得た。 それによると、公立病院の必要性について、是非必要と答えたのは、全体の七十一%、 必要は二十三%で、ほぼ全員が公立病院は島民にとって必要な施設と考えている。その一 方、現状の医療施設について、全体の六十%が不満だと答えている。こうした回答では、 四町ごとに大きな差は見られなかった。 しかし交通アクセスの便について聞いたところ、町によって大きな偏りが生まれた。公 立病院のある郷ノ浦町で、不満だという回答は二十三%にとどまった。しかし芦辺町は六 十九%、勝本町は六十三%、石田町は四十四%が不満だと答え、郷ノ浦町と対照的な結果 となっている。

病院を運営する壱岐広域圏町村組合でも約十年前から、公立病院の移転新築問題が緊急 の課題として議論されていた。 郷ノ浦町は、現在地点での立て替えを模索した。しかし他の三町が現在地では納得しな い。現在地は急傾斜地にあり、駐車場のスペースもないというのがその主張だ。 勝本町の下條昭五町長は、現在地での建て替えは認められないと訴える。 「これまで公立病院に行けば、帰りは郷ノ浦でいろんな用件を済ませて帰るという利便性 も確かにあった。 しかしこれからの医療を考えると、果たして昔の形の医療施設でいいのか、疑問に思う。 例えば、リハビリや心のケアが、今の限られた土地で十分に行えるかどうか。今から百年 の大計を考えて、対処しなければならない」

一九九一年(平成三年)九月、広域圏町村組合でこの問題を検討していた特別委員会が 候補地として、現在地より二キロほど北の、郷ノ浦町柳田(やなぎだ)地区を選んだ。 壱岐には病院が八つあるとはいっても、その内六病院は郷ノ浦町にあり、あとは勝本町 と芦辺町に一病院ずつとなっている。勝本町や芦辺町は、公立病院が地理的に島の中心付 近に近づくことで地元の便が増し、それにつれて診療所など医療関係施設も地元に増える と期待した。 しかし郷ノ浦町が反対した。その理由を郷ノ浦町長の渋村寛は、次のように説明する。 「壱岐は、郷ノ浦の市街地を中心に放射線状にバス路線が走っている。ところが柳田に作 ったら、島内の病院に行きたい人は、いったん郷ノ浦の中心まで行き、別のバスに乗り継 がなければならない。かといって、病院を中心にバス路線を再編するのは、バス会社の経 営上難しい。 それでも柳田に作るとなると、外来患者が二割から三割は減り、その分赤字になる。 地理的にはちょっと偏っているかもしれないが、交通の便と経営を考えると、現在地か、 その近くの方が良い」と言う。 次に、現在地から三百メートルほど離れた郷ノ浦町今宮(いまみや)が候補地にあげら れたが、郷ノ浦以外の各町が反対し、決定には至らなかった。

芦辺町商工会青年部の今年のアンケート調査では、公立病院の移転先についても聞いて いる。 望ましい場所を、現在地および後背地、柳田地区、壱岐の中央部、国から経営委譲対象 施設とされている国立病院、その他の中から選んでもらったところ、郷ノ浦町では五十五% が現在地と回答した。これに対して勝本町は六十六%、芦辺町では六十五%が中央部と答 えた。さらに石田町では国立病院が四十五%、中央部が二十二%だった。国立病院のある のは郷ノ浦町だが、石田町にとっては現在の公立病院より近くになる。各町の住民とも、 当然のことながら自分の町の近くに来て欲しいのである。

一九九六年(平成八年)、各町の妥協の産物として、郷ノ浦町八畑(はちばたけ)地区が 候補地に浮上した。国道添沿いで、現在地より五百メートルほどしか離れていない。しか し用地としては十分な広さである。壱岐交通の本社が近くにあり、交通の便も良い。用地 の取得も、債務負担行為として広域圏町村組合議会で議決され、この問題は決着するかに 見えた。 しかし八畑の用地取得をめぐって事件が起きた。 公立病院の移転新築事業の内容が、一九九七年(平成九年)の十二月定例広域圏町村組 合議会で明らかになった。翌年一月十八日付けの地元紙の壱岐正論によると、病院工事費 が四十六億二千万円、用地の購入費を中心に、家屋や店舗の移転費や営業補償費にあわせ て十一億五千万円、医療機器の整備や情報システム整備にあわせて十一億円で、総事業費 は六十八億七千万円に上るというのである。 壱岐郡の四町議長会では、「移転先の用地購入費があまりにも高額なので、この際見直し てはどうか」と申し入れたが、理事者側は、「決定した価格でやりたい」と断った。 やがて地価の不明朗な操作が発覚した。 一九九八年(平成十年)十月、町村組合議会議員が土地の鑑定資料を入手し、地価が改 ざんされていた事実が明らかになったのである。 この年の十二月定例町村組合議会は、この問題が大きく取り上げられた。本来の鑑定書 によれば一区画の土地で千六百三十四万円のところが、七千六十七万円で購入されていた のである。約五千五百万円が上乗せされており、背任行為にあたる犯罪ではないかと議員 が理事者側を追及した。 広域圏町村組合議会は、地方自治法百条に基づき、去年五月、壱岐公立病院事務調査特 別委員会、いわゆる百条委員会を発足させ、調査にあたった。去年九月二十八日付けの委 員会調査報告書によると、町村組合の前助役と前事務長が、一平方メートルあたり一万五 百円と鑑定された土地を、勝手に三万四千五百円と、三倍以上に書き換えていた。しかも 交渉価格にいたっては、鑑定価格の三・八倍とされていたという。 その上で百条委員会は、土地交渉は、土地価格以下でとする一般常識をはるかに超えた 異常なものであり、地権者に対し、私情をはさんだ交渉であったとしか考えられず、議会 はもとより、郡民をも騙し、不当な価格で土地を購入し、郡民に多大な損害を与えようと した背任行為であると言わざるをえないと結論付けている。 この問題は刑事事件となり、前事務長が三十数万円の業務上横領の疑いで書類送検され た。しかし壱岐日々新聞は、「捜査はこれで終了ということになる。数千万円の不明金の内、 三十数万円では、氷山の一角の、そのまた一角でしかない。一体誰がこの事件を策謀した のかすら明らかにされないままとなった」と批判している。 そうした事態を招いた背景として、町村組合の理事者側の対応を問題視する声は、島民 の間にも多い。地元紙の新壱岐は、「壱岐公立病院の不祥事も告訴はしたが、その後は何の 音沙汰も無く、百条調査委から出された改革への提言もほとんど対応なきままだ」と、疑 問を投げかけている。 この事件の結果、八畑地区への移転新築計画は白紙撤回されたというのが、壱岐公立病 院の移転新築問題をめぐる現在の状況である。

この間の経緯で、広域市町村圏として設立された壱岐広域圏町村組合の抱える問題点が 明らかにされて行った。 広域市町村圏とは、一九六九年(昭和四十四年)に自治省の要綱に基づいて始まった広 域行政システムである。単独の町村では実施が難しかったり、効率的でなかったりする事 業を、複数の町村が加わるスケールメリットで効率的に実施しようというものである。 壱岐広域圏町村組合の職員は現在約二百五十人で、郷ノ浦町職員のほぼ二倍である。消 防救急をはじめ、公立デイサービスセンターや老人福祉センター、火葬場の運営など十六 事業を共同処理しており、壱岐公立病院の経営もそのひとつである。 四町の町長が理事となり、この中から理事長が選ばれる。また各町議会の代表が参加し て、広域圏町村組合議会も運営されている。 しかし理事の各町長は、それぞれの町の業務で多忙なため非常勤である。そのため理事 の監督が及びにくいという面がある。それが病院用地をめぐる不正事件の温床となった。 そして候補地選定に入って約十年も経ちながら、いまだにそのメドが立たない原因は、 四町の思惑がそれぞれ異なることが最大の理由である。 組合の理事と議員は、あくまで出身母体の町の代表である。国連の安全保障理事会の常 任理事国と同じように、参加町村は拒否権を持っている。一団体でも反対に回れば、その 事業は、組合として実施出来ない。利害が複雑に絡み合う事業について組合は、各町を指 導したり監督したりする機能を持っていないのだ。 勝本町長の下條昭五は、候補地がまとまらない原因は各町のエゴだと言い切る。 「歯痒いくらい。地域性でしょうね。その中には勝本も、十分入っていると思います」 壱岐公立病院の院長を務めた吉村は、これまでの経緯を振り返って、広域圏町村組合の 理事者側の対応を批判する。 「責任を持って引っ張る人が誰もいませんからね。自分の首をかけてもがんばるという人 が、各町にいない」 その上で、この問題に決着をつけるには、四町の合併しかないと断言する。 「四町それぞれで、もう収集がつかなくなってしまった。合併しないことには、公立病院 の問題は先に進まないだろうと思います」 夢づくりの会代表の立川は、合併協議会が早く出来るなら、その中で課題のひとつとし て検討出来ると言う。 「財政的な面も含めて考えると、合併協議会を早く立ち上げて、この中で病院問題も含め て検討すれば、特例債など国の財政支援を利用する道もあるかもしれない。そうすること で、地域の負担も軽減されるんじゃないか」 これに対して壱岐の将来を考える会の松嶋は、公立病院の移転新築問題を合併問題にか らめるべきではないと主張する。各町の意見が違うのは、それぞれに事情があるからで、 それを合併して一刀両断に決めるべきではないと言うのだ。 壱岐では、公立病院問題の他にも、国立療養所壱岐病院が、国の「国立病院・療養所の 再編成計画」の中で経営委譲対象施設として位置付けられ、その受け皿をめぐる議論があ る。広域圏町村組合では、十七番目の事業として受け入れるよう、規約改正を検討してい る。  松嶋は、郷ノ浦町片原触にある国立病院を、公立病院と統合すべきだと考えている。こ こなら用地も広く、緊急に患者を輸送するためのヘリポートも設けることが出来るからだ。 「公立病院問題は、間違えば人命にも関わる問題であり、早急に結論を出さねばならない。 合併協議とは切り離して進めるべきだ」と松嶋は強調する。 いずれにせよ、壱岐公立病院の移転新築問題は、広域行政の問題点を赤裸々にさらした ものだ。 この問題をめぐって仮に合併で解決すれば、地域間の確執につながりかねない。その一 方、病院の現状を考えると、合併まで待つ時間的な余裕もない。解決への糸口は見えてい ないのが現状である。

第十一章 遺跡発掘・地場産業から見た合併問題

 壱岐島内で課題となっている他の事業や地場産業の面から、合併問題を見てみよう。

▼ 原の辻遺跡

芦辺町と石田町にまたがる原の辻遺跡は、弥生時代前期から古墳時代初頭にかけて形成 された、大規模な多重環濠集落を主体とする複合遺跡である。『魏志倭人伝』には「一大国」 の名で登場した「一支国」の、中心集落と考えられている。きわめて貴重な遺跡として全 国に報道され、今後の発掘の成果が注目されている。 長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所長の田川肇によれば、遺跡の範囲は芦辺と石田の二 町にまたがる約百ヘクタールと見られるが、今後調査が進めば百五十から二百ヘクタール 程度までに広がる可能性があるという。 まだ集落のリーダーと見られる人物の墓などは見つかっておらず、今後さらに調査が進 めば、弥生時代の都市国家を解明する上での新たな発見も期待されている。 その発掘調査は、昨年度と今年度は芦辺町側、来年度と平成十四年度には石田町側を調 査する予定である。なぜこうした方法をとるのかと言えば、国から補助を受けての調査で、 両町とも同時に調査を進めることが認められないためなのだ。こうしたこともあって、こ れまでに発掘調査が実施されたのはわずか五ヘクタールに過ぎない。 これを踏まえて田川は、四町が合併すれば、原の辻の調査と保存にもプラスだと語る。 調査が一本化され、今までは少ない人数で担当していた調査も、四町の力をあわせて行な える。芦辺と石田の二町が別々に行っていた様々な事務手続きも一本化され、その分のパ ワーを発掘調査の本体作業に振り向けられる。 田川は、発掘が終了するまで、現在のペースで行けば、少なくともあと二十年はかかる と見ているが、四町が合併すればスピードアップが期待出来ると言う。 また四町で、原の辻遺跡を保存するための協議会を作っているが、町によって意見が違 い、熱意に差もあるのが現状である。壱岐の行政が一本化されれば、遺跡を整備し、観光 資源として活用して行くための協議も進むだろうと、田川は期待する。

▼ 壱岐新空港建設問題

 長崎県壱岐支庁のまとめたパンフレット『壱岐の将来を考えてみませんか!』では、四町 合併が実現すれば大規模プロジェクトが推進されるとし、その第一項目に新壱岐空港の建 設をあげた。四町の意見調整に多くの時間を要しているが、合併により意思決定が迅速化 されるため、今までより事業が円滑に推進されるとしている。 石田町にある壱岐空港の滑走路は千二百メートルしかなく、プロペラ機しか就航出来な い。しかし現空港は海岸近くにあり、付近の筒城浜海水浴場や大浜海水浴場、錦浜海水浴 場などは、夏には大勢の海水浴客で賑わいを見せる。地元の反対もあり、滑走路の延長は 困難だ。 そこで新壱岐空港の建設が計画されたのである。芦辺町が名乗りをあげて予定地とされ、 平成八年度から十二年度にかけての七次空整・第七次空港整備五ヵ年計画にも入った。県 は基礎調査に入るなど、計画は進むかに見えた。 隣町の勝本町も、新空港建設には前向きで、離着陸時の進入路を想定し、町独自に住民 の同意書もとった。 地元では、果たして需要があるかどうか不安はあったが、将来を展望した場合、プロペ ラ機はなくなるだろうと想定し、百二十六人乗りのジェット機が就航して欲しいと期待し た。 勝本町長の下條昭五は、「新空港に対する夢があった」と語る。 ところが、壱岐・福岡間に定期便を持っていたエアーニッポンが、採算がとれないとし て去年一月に撤退した。こうした状況を踏まえて県は、利用が見込めない空港を建設する ことは出来ないと、新壱岐空港建設計画を断念したのである。 下條は、「国の財政の都合もありますから、年度は延びても仕方ないが、おそらく無理と 言われると、何のために地域の人たちに説明の努力をして来たのかと思う」と不満を口に する。 空の便のこうした状況に対し、海の便は便利になっている。九州郵船は、壱岐・福岡間 を約一時間で結ぶ超高速船のジェットフォイルを、これまでの一隻から二隻に増やした。 これに伴い、一日三往復だった壱岐・福岡便がこの四月から六往復に増便されたのである。 また船が定期点検のためドック入りした間、これまでは通常のフェリーに頼らなければな らなかったのが、これからは三往復は確保されることになる。 便数だけでなく、ジェットフォイルの入る郷ノ浦港と芦辺港は町の中心部のすぐそばな のに対し、空港は町の中心部から離れること、さらに航空便と船便の運賃の差や、航空便 は空港で搭乗手続きに一定の時間が必要なことなどを考えると、船便のほうが便利という ことになる。新空港の建設が進まないのは、ジェット機を飛ばしても、航空会社の採算が とれないためである。 県のパンフレットは、計画を県が断念する前に作られたため、新壱岐空港建設計画が大 規模プロジェクトとして取り上げられたとは思う。それにしても、新空港建設に向けて各 町とも前向きだったことを考えると、「各町が意見調整に時間をかけたため、実現が遅れて いる」という県の指摘には疑問が残る。

▼ 地場産業

壱岐の代表的な特産品に壱岐焼酎がある。豊富に作られる麦と、玄武岩層で長い年月を かけて磨かれた上質の地下水を利用して、十六世紀の室町時代から焼酎が作られたと見ら れ、「麦焼酎発祥の地」とも呼ばれる。松浦藩では、大麦を年貢から除外していたことも、 焼酎作りにつながった。 壱岐の農家では、来客があれば「ウスモノを一杯どうぞ」と言って、焼酎をすすめるの が礼儀でもあったという。このように壱岐焼酎は、壱岐の人々の生活に密着し、壱岐の風 土が生んだ代表的な特産品のひとつである。 壱岐焼酎の特徴は、原料の麦を二、米を一の割合で配合するという製法にあり、壱岐焼 酎の甘みは米麹から、香りは麦から来るものだという。 一九九五年(平成七年)にはその品質が認められ、「地理的表示」の産地に指定された。 地理的表示とは、酒類の産地を特定する表示のことで、法律に基づいて国税庁から指定さ れる。WTO・世界貿易機関加盟国の制度であり、外国ではワインのボルドーやシャブリ、 シャンパーニュ、ブランデーのコニャックやアルマニャック、ウイスキーのスコッチやバ ーボンがある。国内では壱岐焼酎の他は、熊本県の球磨焼酎、沖縄県の泡盛が指定されて いる。その地域しか作ることが出来ない特産品としてブランドを認めるというもので、地 元では、壱岐焼酎は世界のブランドの仲間入りをしたと歓迎している。 その壱岐焼酎を製造しているメーカーは現在八つ。生産者価格での販売高は、昭和五十 九年度の約九億三千万円をピークに、平成十年度は約六億五千万円となっている。しかし ここ数年を見ると、焼酎の良さが見直され、各社とも対前年比で二%程度伸びているとい う。それぞれの銘柄のファンがいて着実に売れている。 業界団体の壱岐酒造共同組合が今、頭を悩ましている問題は、年間約三千トン出る焼酎 の蒸留かすの処理である。今は海洋投棄しているが、海洋汚染の防止対策を定めたロンド ン条約を受けて、海洋投棄を早急に中止しなければならないのである。焼却処分は経費が かかりすぎるため、組合では堆肥にするコンポスト方式を検討している。 壱岐酒造共同組合参事の光安國博はこうした現状を踏まえ、四町合併が業界にとっても 望ましいと語る。 「廃棄物は事業者が処理するのが原則だが、壱岐では牛が多くなって牛糞の問題も出てい る。そういうものも含めて、合理的な処理が出来ないかという話をしている。その際、四 町の行政が一本化していれば、話がまとめやすいのじゃないか」 特産品としてのPRも含め、メーカーの立場から、行政一本化に期待している。

第十二章 県不信

 二十一世紀一支国夢づくりの会が発足してすぐ、合併運動に間接的に水を差す事態が起 きた。長崎県が提唱した「しまの拠点的まちづくり事業」の白紙撤回問題である。  この事業は一九九三年(平成五年)、当時の高田知事が、上五島、下五島、壱岐、対馬の、 県内四つの離島に、それぞれ拠点的施設を作ると表明したことがスタートだった。翌年に は副知事を本部長とする推進本部が作られ、計画は具体化した。県ではこの事業に、ひと つの島あたり、三十億円の予算を充てると説明した。 これを受けて壱岐支庁に基本計画作成委員会が設立された。四町のスタッフだけでなく 青年会や商工会、婦人会、老人クラブなど、島内の主な団体も参加して準備室が作られ、 検討を重ねた。 その結果、付近に遺跡が数多く残されている勝本町亀石(がめいし)地区に、一支国歴 史産業交流センターを建設する計画がまとまった。現在壱岐には、島全体のを見渡した民 俗資料館がない。一支国としての歴史的財産を後世に残し、全国の人に見てもらいたいと いう願いが込められていた。 勝本町長の下條昭五は、まさに天から降って来たような話だったと振り返る。 「最初、議会は躊躇したんです。ふつうは、あれを作ってください、これを作って下さい と、陳情ですからね。三十億をやるから地元で練ってみないかと聞いた時は、夢を見てい るような気持ちでした」 一九九七年(平成九年)一月には、県知事と四町長との間で、歴史産業交流センター建 設に関する覚書が締結された。この中で、センターの建設は県が行い、四町は工事着工ま でに建設予定地を工事に支障のない範囲で更地とするものとされた。 県はまだ具体的な予算案を出していない。しかし、民間では契約書にあたる覚書がある。 勝本町は用地買収に乗り出した。 担当職員が日夜、用地交渉にあたった。移転を渋る住民を、島にとって重要な施設とな るからと説得し、約四万八千平方メートルの土地を二十人の地権者から買収した。さらに 家屋の移転費や補償費、連絡道路作りなどもあり、あわせて二億五千万円が支出された。 この他、運営計画の委託費や準備室の経費として、四町から二千四百万円も支出されて いる。 ところが、一九九八年(平成十年)二月、高田知事が引退し、金子知事が誕生した直後 から、しまの拠点的まちづくり事業が中止されるという噂が、島内に流れ始めた。ちょう ど二十一世紀夢づくりの会が発足した頃のことである。 その後の経過を、勝本町がまとめた資料で見てみよう。 同年五月、運営実施計画がまとまるまで、実施設計の発注を控えるとの文書が県より届 く。 七月になると、県は四町長を壱岐支庁に集め、建設主体を県から、壱岐広域圏に移した いと提案した。さらに今年度の壱岐地域の実施設計予算は流したいと説明した。 年が明けて去年一月、壱岐支庁長が勝本町の下條町長と会談し、財政的な面は県が面倒 を見るので、県立ではなく、広域圏で仕事をしたほうが良いと、改めて知事の方針を伝え た。 そして去年五月、県地域政策課長が壱岐を訪れ、下條町長と会談し、この席で知事の意 向として、拠点的まちづくり事業を振り出しに戻し、事業を見直すと伝えたのである。 見直しの必要性として県は以下の点をあげる。 まず財政面での問題として、介護保険制度の導入やゴミ処理の広域化、航空路線の維持 の問題など、地元負担が伴う懸案事項が生じており、将来的に多額の維持管理経費を必要 とする施設のあり方について慎重に検討する必要がある。 さらに施設の内容についても言及し、地域づくりには官民双方の主体的な取り組みが必 要であり、広く住民参加を得て、事業の効果が広くしま全体に及ぶような計画が必要だと している。 これに対して四町は、行政の継続性を放棄するものだと、激しく県に抗議した。 センターの維持管理費は、当初見込んでいた年間一億七千万円を、最終的に年間七千万 円程度にまで絞り込んだ。それを四町で分担するため、各町とも十分負担出来る額で、セ ンターの建設やPR効果を考えると、地元負担に支障はないと訴えた。 さらに内容的にも住民団体と十分協議を重ね、県も認めたはずと詰め寄った。 しかし県の方針は変わらなかった。 県では今後の方針として、広く住民参加を得て、二十一世紀のしまのあるべき姿を見据 え、事業効果がしま全体に波及するような、施設整備に限定しない、新たなしまづくりの 重点施策の検討を行うとしている。 しかし地元では、県のこれまでの対応を踏まえて、計画は白紙撤回されたと受け止めて いる。下條は、「次に新しいプランがあるというのは県の言い訳にすぎず、これでごまかそ うとしているのではないかと、住民はとらえている」と話す。 長崎県は平成十年度末の公債費比率、つまり一般財源に占める公債、すなわち借金の比 率が二十%を越え、平成十一年度末の一般会計で、県債残高は一兆七十億円にものぼる。 県の平成十二年度一般会計当初予算の八千五百億円を大きく上回っている。こうした厳し い県の財政事情を背景に、金子知事は、壱岐の拠点的まちづくり事業を、事業全般の見直 し第一号としたのである。 勝本町では、損害賠償の裁判を起こすことまで検討した。顧問弁護士に聞くと、「これは やれます」との答えだった。しかし町が県を訴えるなど、前代未聞である。将来のことも 考えて断念した。だがそこまで考えさせるほど、この問題は町に深い傷跡を残した。 金子知事は県議会で議員の一般質問に答えて、「迷惑はかけない」と答弁した。これにつ いて地元では、かかった経費は県が負担するという意味に受け取っている。というのは、 地元が支出した経費について、県からまだ具体的な説明がないためだ。 下條は、住民から信頼を失ったのが、最も悔やまれると言う。 「一番いい場所を提供してくれた、それも都市での法外な土地転がしのようなお金じゃな くて、土地調査に基づくあの金額で、町に提供してくれた二十人の地権者たちに、申し開 きが出来ない」 議会や町民の間には、県や金子知事に対する不信感が残ったと言う。 「議会の中では、『県の言うことはあてにならない』という話が出たことは事実です。つま り、だまされたということです」  そして今回の合併運動に触れ、「町民の間では、合併協議会につながる県政不信にもなっ ている」と指摘した。 金子知事は、「壱岐が町村合併のモデルになってほしい」と述べるなど、合併推進に強い 意欲を見せている。去年四月には市町村合併推進室を設けるなど、県庁の組織をあげての 支援体制を作っている。壱岐支庁では、合併推進グループに積極的に情報提供を行い、合 併に関する勉強会やシンポジウムへの補助として、平成九年度に三十万円、十年度に百五 十万円、昨年度は百二十万円を支出している。こうした動きをとらえて、合併協議会設置 に反対する人たちは、今回の合併運動は、形としては住民請求ではあるが、実質的には県 主導で、住民グループはそれに踊らされているだけだと批判している。 下條は、こうした見方を踏まえた上で、拠点的まちづくり事業の白紙撤回が、勝本町で の署名率が低かった背景のひとつともなっていると分析する。 「必ずしも地域性ばかりだけではなく、抵抗感というのもかなり感じるところがあるわけ です。私たちは行政をやっていますから、いつまでもしつこくは言いませんけれど、人間 の不信感というのは、いっぺん生まれると、修復するのに、よほどのことがない限りなか なか難しい。これも要因のひとつだと思います」

第十三章 臨時町議会と住民公聴会

合併協議会設置に向けた住民発議の署名が、各町とも特例法で定められた五十分の一を 越え、合併協議会設置の請求が行われたのを受けて、今年二月、各町長はそれぞれの議会 に、壱岐四町合併協議会の設置を付議した。いよいよ議会での協議となる。 長崎の民放のテレビ長崎が四町の町議会議員に対し、合併協議会の設置に対する対応に ついてアンケート調査を実施し、その結果を、議会が開かれる前の二月二日に放送した。 以下がその内容である。

▼ 郷ノ浦町 定員十八、 回答十五、 賛成十三、      未定二
▼ 芦辺町  定員十八、 回答十七、 賛成十五、 反対一、 未定一
▼ 勝本町  定員十六、 回答 九、 賛成 五、      未定四
▼ 石田町  定員十二、 回答 八、 賛成 三、 反対四、 未定一

 今年二月九日、この議案を審議する臨時町議会が四町一斉に開かれた。その結果、郷ノ 浦町と芦辺町は、特に異論もなく全会一致で可決された。 芦辺町長の大皿川恵(おおさらかわ・めぐみ)は、「過半数の署名を受けて、全会一致で 判断された思う」とした上で、協議会への期待を次のように述べた。 「今後は合併協議会の土俵にあがって、協議を積み重ねて行きたい。不況のあおりで税収 も落ち込んできている。体力のある内に財政力をつけるよう、施設の運営や管理を見直し て行かねばならない」 しかし長崎新聞は二月十二日の特集記事で、芦辺町では一部議員から「迷っている住民 もいる。即決でなくともよいのではないか」との案が浮上し、設置案可決とした全員協議 課員の申し合わせから後退しそうな空気もあったと報じた。「合併に前向きとされる芦辺町 であっても内実は複雑であることを伺わせた」と記している。 一方、勝本町と石田町では継続審議となった。合併協議会の設置は、関係するすべての 町議会での議決が必要であり、結論は先送りされた。前記の長崎新聞の特集記事は、次の ように報告している。 「継続審議となった石田町議会では、賛成派、反対派が激しい舌戦を展開した。『合併協議 会で合併のメリット、デメリットを検討すべき』と賛成派の主張に対し、反対派は『設置 すればそのまま合併につながる』と抵抗した。  設置案だけでなく、昨年十二月に設置への反対請願も出されていることから、『慎重に審 議すべき』との空気が支配的となり、新たに設ける特別委員会での継続審査を決めた。賛 成派の議員は『採決しても勝てるかわからない。議会内の円満解決を図るうえでも妥協す るしかなかった』と胸の内を明かした」   継続審議となった二つの町の議会では、住民の意見を審議に十分反映させるため、賛成、 反対の双方の住民から意見を聴くための公聴会を開くことになった。  自治労壱岐総支部がまとめた傍聴録から、その内容を見てみよう。 まず三月二日に石田町農村環境改善センターで行われた、石田町議会の公聴会である。 賛成、反対、それぞれ五人ずつが公述人となり、一人十分の持ち時間で意見を述べた。大 ホールに並べられた約三百の椅子席はすぐに埋まり、立ち見の参加者が出るほどで、町民 の関心の高さが示された。 協議会設置に賛成の立場から五人の意見である。
▼ 元教員 「島内の児童、生徒は、年を追って激減しており、学校では学級活動が出来なくなるなど、 活気がなくなってきている。ある小学校では生徒二十二人に対して教員一人の割合なのに 対し、別の学校では生徒四人に教員一人となるなど、学校間の格差が広がっている。四町 が合併すれば、学校の適切な統合が可能となる」
▼ 元自衛隊員 「地方交付税は、今後減ることはあっても増えることはない。時代を先取りする形で、子 どもたちの将来を考えたい」
▼ ペンション経営者 「幹線道路は整備されているが、一歩中へ入るとまだまだの所も多い。これは四分の一の 力で事業を行っているためだ。合併して力が四倍になれば、十分解決出来る問題が多い。 公立病院問題も、もし財布がひとつなら、とっくに解決出来ていたはずだ」
▼ 医師 「産業の衰退による若者の流出や、若年人口の先細り等により、介護費用が多くなるのは 必至である。二十一世紀の地球はひとつであり、壱岐もそうありたいと思う」
▼ 民宿経営者の妻 「以前は多くの車が出入りしていた町も、昨今は閑散として活気がない。四町がひとつに なれば、観光対策やバスなどの交通対策に迅速に対応出来るはずだ」

次に、協議会設置に反対の立場から五人の意見である。
▼ 家具店経営者 「署名に回った人は、役場からの通達と思い込んで署名をされた方が多いと聞いている。 また公民館長等の方が受任者として来られた為、断りきれなかったという人も多かったと 聞いている。このような状況が、公明な署名活動であるとは思えない。  さらに合併協議会の討議内容は、建前として合併の是非がうたわれているが、事実は合 併をするという前提のもとに進められる組織であり、デメリットが多すぎる」
▼ 元地区労議長 「政府は財政難を理由にリストラを行い、地方に責任転嫁しようと考えている。合併につ いては、あらゆる方面から十分考え、今一度立ち止まって、慎重に行うべきだ」
▼ 不動産業者 「四町が合併すると、将来的に町職員は削減される。町職員の立場に立った発想も必要だ」
▼ 漁業 「他町と一緒にやるためには、もっと時間を貰いたい。石田町は借金財政でもないし、大 きく働いて大きな収入を得なくても、小さくても良いと思っている」
▼ 主婦 「石田町は他町と比べて小さいが、その分住民の声が行政に届く町だと思っている。合併 特例債という借金を背負うのでなく、小さな町で予算が少なければそれに対応出来るよう、 行政の体質を改善するべきだ。形だけひとつになっても、心がひとつにならない限り良い 結果にはならない」

 三月六日には、勝本町西部開発センターで勝本町議会の公聴会が開かれた。公述人は石 田町と同様、賛成、反対、それぞれ五人ずつ、一人十分の持ち時間でそれぞれの意見を述 べた。会場には約三百人が傍聴に詰め掛けた。 協議会設置に賛成の立場から五人の意見である。
▼ 建設会社社員 「島内の公共施設は無駄と中途半端なものが多い。四町がまとまり、協力すれば、陸上競 技場の設置や大学の誘致も可能であると思うし、無駄をなくした事業が出来る」
▼ 元町議会議員 「合併協議会のシステムが、協議会のメンバーの町議が審議内容を持ち帰って地域の意見 を聞き、論議出来るのであれば賛成である」
▼ 農業 「合併を今日、明日とあせらず、全島民の意見を反映して賛否を考えたい」
▼ 主婦 「ゴミ問題等を考えるにつけ、日々刻々悪化している状況の中で、今が合併すべき時だと 思っている。四町が手を取り合って、未来の子どもたちのために考えるべきだ」
▼ 酒店経営者 「高齢化が進み、町財政の悪化が懸念される。さびれた島にせず、積み残しの諸問題に取 り組むため、合併協議会を設置し、そこで論議して欲しい」

次に、協議会設置に反対の立場から五人の意見である。
▼ 塗装店経営者 「四町が合併すれば、一極集中の行政となり、勝本は取り残される。人口構成から見て、 新町長や議会に、勝本の声を反映させるのは難しく、住民の声が届かなくなる。四町合併 協議会となると、公立病院の問題に見られるように、各町の利害関係を引きずるだけだと 確信する」
▼ 酒店経営者 「マイナスの多い合併ではなく、一部事務組合等で調整を図り、他町の施設を利用出来る 体制にすればよい。四町での合併を検討するよりも、福岡県へ転県した方が、福岡市への 通勤も可能になるなどのメリットがある」
▼ 漁業 「住民発議とは言ってもその実態は不透明で、背後には壱岐支庁や県議会議員がいると確 信している。合併についてのビジョンも示されていない。経済圏を考えると、壱岐は福岡 市との合併を真剣に考えるべきだ」
▼ 農業 「壱岐は高齢化が進み、財政事情は各町とも厳しく、合併したからといって解決出来ると は思えない。福岡市への吸収合併が最も良い方法だと思う」
▼ 元農協勤務 「国や県主導で行われた署名であり、民意が反映された取り組みと受け取れない。合併は 壱岐の人口が二万人になってから考えても良い」

 公聴会から十日あまりを経て今年三月十四日、石田町議会の合併協議会設置に関する調 査特別員会が開かれた。委員会では公聴会の結果などを踏まえて、継続審査となっている 合併協議会設置案について協議した。だがその結果は、六月定例町議会を目安に継続審査 とするというもので、三月定例町議会でも認められた。 その理由について特別委員会では、現時点では早急に結論を出すのが非常に難しく、六 月定例町議会をメドに、委員が年度末や年度始めの行事などで多くの住民の声を聞き、さ らに慎重に審議したい(三月十六日付け壱岐日報)としている。 石田町議会議員の松嶋は、石田町が継続審議とした背景には、有効とされた署名の中に も無効なものがあったためと説明する。松嶋が確認しただけでも受任者でない人が集めた 署名や、代筆者としての署名捺印がない代理署名など、問題のある署名を確認出来たとい う。これについて石田町選挙管理委員会では、「無効署名であることを見落としたケースが まったくないとは言えず、議員の指摘は否定しない」としている。 しかし松嶋も、結果的に五五・一六%となった有効署名自体を否定はしないとした上で、 そうした問題があったことを、住民に考えてもらうためにもさらに継続審議としたと説明 する。 石田町が継続審議とした間、勝本町議会が仮に議案を否決すれば、特例法に基づく今回 の手続きは終了する。有効署名を見ると、割合が一番低かったのは勝本町である。石田町 の反対派は、勝本町議会に下駄を預けたかに見えた。

第十四章 不透明な勝本町議会

その勝本町議会で、合併推進派には衝撃的な出来事が起きた。 今年三月二十四日、勝本町議会の町村合併調査特別委員会が、合併協議会の設置案を全 会一致で否決したのである。特別委員会は八人で構成されている。勝本町議会は十六人だ が、議長は採決には加わらないため、十五人が採決にあたることになる。全会一致で議案 を否決した特別委員会の八人が、そのまま本会議でも否決に回れば、議案は否決されるこ とになる。三月二十五日付けの長崎新聞は「二十七日の本会議でも否決される公算が大き い」と報じ、「一本化の夢振り出しに」、「当惑する推進派」といった見出しが踊った。 解説記事の中で、「八日に開いた公聴会でも、賛成派より反対派の住民の意見がより強い 印象はぬぐえなかった。もともと、合併すると島内で最も人口の多い郷ノ浦町にすべてが 集中するのではないかとの警戒感が強い。特別委員会もその点を重く見たと考えられる」 と分析している。

そして三月定例勝本町議会最終日の三月二十七日。島の空気は澄み、抜けるような青空 である。しかし、さわやかな戸外とは対照的に、勝本町議会の本会議場は見通しの悪いも のとなった。 午前十時に本会議が開会し、まず壱岐四町合併協議会の設置が議題とされた。 町村合併調査特別委員会の中村瞳委員長が委員会報告を行なう。 「本委員会は町村合併について昨年九月から調査を始め、研究を重ねてまいりましたが、 審査の付託を受けてから七回にわたり委員会を開催し、慎重審査をいたしました。内容が 重大な問題なだけに三月六日、公聴会を開催し、広く町民の方々のご意見をお聞きしまし た。その結果、本町の署名率は二十七・九%であり、公聴会のご意見等を踏まえて合併に 対する住民意識は低いことから本案を全会一致で否決と決定いたしました」 時間にしてちょうど一分間。協議会の設置に賛成の意見についてはまったく言及されて いない。 議長の梶山尚次は委員長報告に対する質疑を求めた。しかし発言する議員はいない。続い て議長は、議案についての討論に移った。だが議員は全員、無言のままである。議場に、 奇妙な静寂の時間が流れた。賛成についても、反対についても、一言の意見も述べられる ことなく、討論の手続きは終った。 次に採決である。特別委員会の出した結論通りに否決されるのかと、傍聴席からため息 がもれた。 議長が通常の手続きに従って、起立による採決に移ろうとすると、副議長の入江忠幸か ら「採決については、重大な問題でもあり、投票で結論を出したい」と提案が出された。 これが議会の規定に基づき、三人の議員の賛成で認められた。彼らはいずれも協議会設 置に賛成の議員である。何かが動き始めた。 議長が、「では無記名で投票を行います」と告げた。 これに対して、今度は協議会設置に反対している原田武士が、「特別委員会は全会一致で 否決している。投票によるという理解に苦しむ方法が提案されたのは、議会が始まって以 来のことだ。それでも投票と決まった以上、記名投票にして欲しい」と求めた。 すると賛成派の品川洋毅は、「無記名投票にして欲しい」と求める。賛否両派の駆け引き が始まった。投票方法をめぐって、約三十分間の休憩となり、水面下で調整が図られた。 議会再開後も原田は「無記名投票は、隠れ蓑の方法を選ぶということで非常に問題があ る。結果が可決となった場合、誰が特別委員会の結果を覆したのか、調べようがない」と 発言する。 これに対して品川が「ただ今の発言は、威嚇的だ」と応酬する。 原田は「問題の本質を考えるかぎり、議会は町長の提案に対して議会の意思を町民の前 に明らかにする責務がある」と述べる。 議論では決着がつきそうにない。そこで記名か、無記名かを決めるための投票が行われ た。これは無記名で、である。 議案に対する採決ではないため、議長も投票に加わった。その結果、賛成八、反対八の 同数である。議長の説明によれば、同数の場合は現状維持、つまり最初に提案された方法 という原則に従い、議長は無記名投票と決めた。 この瞬間、議場がわずかにどよめいた。特別委員会報告の流れが変わった瞬間だった。 続いて合併協議会の設置案が無記名投票で採決された。開票の結果は、賛成八、反対六、 無効(他事記載)一である。全会一致で否決とした特別委員会の八人の委員の中で、少な くとも二人は、反対票を投じなかった計算になる。 梶山は、「本案は原案の通り、可決します」と宣言したのである。

議会終了後、原田は憤懣やるかたないといった表情で、今回の逆転劇は県の意向だと怒 りをぶちまけた。 「県知事以下、官の指導で署名運動が行なわれた。特別委員会で否決の結論がでたあと、 県、支庁から各議員にてこ入れが行なわれたことは事実です。裏で工作が行なわれたと、 私は思います」 投票による採決を提案した副議長の入江忠幸は、議会では賛成討論もしたかったとした 上で、「特別委員会の委員から反発が出て来ますから」と、賛成討論しなかった理由を説明 した。 議会で意見を述べると反発されるから発言しないというのは、議員としての職務放棄で はないだろうか。 入江は、「議会は議論の場所ではないかと言われれば、それはわかります」とした上で、 「仮に誰かが賛成討論したら、反対討論が出ます。委員会が全会一致ではなく、反対多数 で決めていればまだ言い方もあったが、今回は出来なかった」と言う。   別室で特別委員会委員長の中村が記者会見した。 この中で、委員長報告の中には賛成の意見はまったく述べられておらず、結局本会議では、 可決の理由が明らかにならないまま可決になったことについて、記者から質問が繰り返し 出された。しかし中村は「それぞれ個人的に考えられたことでしょう」という返事を、言 葉を変えて繰り返すのみだった。 委員会の議論の内容についても口を濁し、ようやく次のような言葉を述べた。 「委員会の中では、合併協議の土俵のうえで議論してはという意見もあった。継続審査と する案も出ました」 しかし、異論があったのなら、なぜ全会一致という結論を選んだのか、その明確な返事 はなかった。 重要な問題を非公開で議論するのはおかしいという質問に対しても、「委員会の中からも 賛成の人が出てこないとあの数字になりませんので、委員会のあり方を検討する必要はあ ると思います」と、わざと論点をはずした受け応えに終始した。

勝本町長の下條昭五は、本会議の結果を歓迎した。 特別委員会の委員長報告で、署名率などを踏まえて合併に対する住民意識は低いと判断 した点について、「特別委員会としてはそういう判断をせざるを得ないわけだったと思う」 と理解を示した上で、「有権者の数にみあった受任者が同じ形でしていたならば、私は、四 町はそう極端には変わらないと思います。むしろ、特定の町の名は言いませんが、継続し ているところのほうが、うちより低いんじゃないかなと思います」と、署名の収集が不十 分だったという見方を示した。 特別委員会では否決だったのに、本会議では一転して可決されたことについて、「議会に は賛否両論ありますから」と述べるにとどまった。 議会で議案についての討論がなされなかった背景には、勝本町の町民性をあげた。 「勝本町というところは、あまりいい言葉ではないが、閉鎖的なところがある。ここには 大きな事業所や企業がありませんから。考え方がまだ古いということです」 今回の逆転劇について、ある地元紙編集長は、議会外からの圧力が強いためと解説して くれた。 「勝本の議会で討論がなかったのは、賛成、反対の双方が議員の地元にいるから声を出せ なかったのです。議員はほとんどが地縁、血縁で当選しているため、かりにどちらか一方 の意見を言うと、反対の人から、もう投票しないと言われるのです」

共産党壱岐郡委員会委員長で郷ノ浦町議会議員の大浦利貞は、「勝本では、普通の人はま ともに意見や本音が言えない雰囲気がある」と指摘する。 壱岐には四町の町議会で一期目の議員の内、十三人が集まった「壱心会」という会があ り、大浦が幹事長である。その集まりで、勝本の議員は、「ぼくたちは最終的には腹を決め る」と話したという。しかしそれまでの過程では、なかなか自分の主張が出来ないという のだ。 「ものを言うと、古参議員からいじめられるわけですよ。本会議で良識を示したというこ とだと思う。それでも無記名だから可決出来た。町民には賛成が多くても、有力者には反 対が多く、署名運動をさせなかったわけですから」 ちなみに大浦は、合併に賛成である。政府系金融機関の国民金融公庫で、労働組合の中 央の副委員長も務めたという経歴の大浦は、国の財政事情を自分なりに分析した上で、政 府の支援を今後はあてに出来ないとする。だとすれば、公共事業に偏った壱岐の経済を改 めなければならず、農業、漁業、観光に力を入れて行くためには、合併で島全体が協力す るしかないと考える。 ただし壱岐の共産党員でも、郷ノ浦町以外の党員は、今回の合併運動は上からの押し付 けだとして合併協議会の設置に反対していて、共産党壱岐郡委員会としては、合併問題に ついての方針を打ち出してはいない。

勝本町議会で議案が否決されていたら、その時点で特別法に基づいた一連の手続きは終 了していた。合併推進派にとっては、土俵際で残ったというところだろう。しかし、合併 を求めて運動を進める住民にとって、果たして勝本町議会の審議の経過を喜べるだろうか。  壱岐には解決すべき様々な課題が山積している。それを合併協議会の席で話し合い、合 併も視野に入れて検討しようというのが、協議会設置の狙いのはずである。そのためには、 利害が対立する事柄についても、それぞれの情報を島民にわかるように開示し、その上で 議論を進めなければならない。 ところが今回勝本町議会で、合併協議会の設置に賛成した議員のとった行動は、情報公 開の動きとまっこうから対立するものである。このような体質の議員が集まって、合併協 議会での議論が進められるとすれば、それは住民の願いとはかけ離れたものになる恐れが ある。 夢づくりの会に参加した人々など、壱岐の将来を考えて合併を願う住民の気持ちに嘘は ないだろう。しかし、四町とも情報公開条例を設けていない。住民が直接、町行政や議会 を監視する有効な手段がない現状では、今回の勝本町議会のように、審議経過が一切明ら かにならないまま全体の方針が決められるという例が、今後起きないとは限らない。今回 は、推進派にとって、望ましい結果となったが、次はそうならないとも限らないのである。 狭い町内での政治力学に基づいてとった議員の行動は、理解出来ないわけではない。し かし、議論の場である議会で議論出来ない人たちが、合併協議会という議論の場を作ろう と呼びかけても、説得力に欠けるのである。  

第十五章 合併協議会設置は白紙に

四町の内、三町の議会が協議会の設置案を可決した。署名率の一番低かった勝本町でも 可決されただけに、島内では合併ムードが高まった。しかしその空気が逆に、石田町の合 併反対派を一層硬化させることにつながったのである。 六月定例町議会を目安に継続審査としていた石田町議会では、議長を除く十一人の議員 全員で特別委員会を作り、町の財政面や人口の減少問題、さらに合併の効果などについて 審議した。そして水面下では、賛成、反対、それぞれの立場の議員の間で、今後の議会運 営をめぐって駆け引きが行われていた。 というのは、石田町議会では他の三町と異なり、協議会設置に反対の議員が多数を占め ていたからである。その理由は様々である。歴史的に見ても石田町は他の三町と違って他 町村との合併を経験せず、独立志向が強いこと。町財政がひっ迫しているわけではないこ となどがあげられる。そして町議会議員の松嶋が反対派の先頭に立っていることがその最 大の理由だと、賛成派は言う。それだけ他の議員に対する松嶋の影響力が強いということ である。 現状で採決に持ち込まれれば、協議会設置案は否決される可能性が高い。そう判断した 賛成派の議員は、世論の一層の高まりを期待して結論の先送りを狙った。 これに対して反対派は、このまま審議を引き伸ばされれば、状況が不利になりかねない として、早期の決着を目指した。 そして五回目の特別委員会が今年四月二十七日午後二時から町役場の会議室で開かれた のである。この日の委員会には、二十一世紀一支国夢づくりの会代表の立川省司、それに 石田町で住民発議の請求代表者となった医師の江田邦夫の二人が参考人として呼ばれてい た。しかし二人は委員会の前日になって出席を断った。参考人は委員からの質問に答える 形でしか発言出来ず、委員と討論が行えないため、意見を十分に述べることが出来ないと いうのが立川の辞退の理由、また江田は、公聴会などを通じて思うところはすでに表明し たというのが理由だった。 このためこの日の委員会は、議員どうしの討論となった。賛成派は「まずは協議会を設 けて議論をするべきだ」、反対派は「賛成派は国や県に踊らされているだけ」と、これまで の主張をぶつけあった。「この日の討論も激しく、赤木英機委員長が一時制止したほど」(四 月二十八日付け長崎新聞)の激しい論戦となった。しかし結局両者の間の溝は埋まらない。 議論が出尽くし、参考人も出席しない以上、委員会でこれ以上議論のしようがないとし て赤木委員長が議案の採決を提案した。これに対して「賛成派議員が、『議決は本会議で行 うべきだ』と発言。赤木委員長が『委員会で議決しなければ本会議にかけられない』と答 えた直後、賛成派三議員が退席。このため同委員長は『残り議員は反対とし、合併協設置 案は否決』として午後四時に閉会した。閉会後、同委員長は『起立方式で賛否を問う予定 だったが、賛成派の退席によって、反対多数で否決と判断した』と語り、同町議会事務局 も委員会審査は同案を否決とした」(四月二十八日付け西日本新聞)。また並行して審議さ れていた協議会設置に反対する請願は採択された。 賛成派議員の真弓倉夫は長崎新聞の取材に対し、「退席すれば採決を見送ると思ったのだ が裏目に出てしまった。状況は一層厳しくなった」と述べている。 一方反対派議員の松嶋は、「反対派は常識がないと賛成派は言っているが、私たちから見 ると、彼らのほうこそ県の指導の下にあり、壱岐の現状認識があまい。特別委員会で賛成 派の議員に、我々が疑問に思っているところを聞いたが、勉強不足だ」と、合併を目指す 動きを切り捨てた。 その勢いをかって、反対派は五月の連休明けにも臨時議会を開き、一気に決着を図ろう とした。議会の開催を町長に求めることの出来る議長は、この問題の扱いに慎重な立場を とり、臨時議会の開催を先送りしようとしたのに対し、反対派の議員は全員協議会を開き、 議員請求の形で町長に議会の開催を求めたのだ。というのは、反対派の議員はそれぞれの 地元で、協議会設置に賛成の人たちから「なぜ反対するのか」と抗議を受けていた。六月 定例町議会まで待つと、賛成派の動きを活発にさせるだけだとして、早期の結論を求めた のである。 しかし結論はひとまず先に延ばされた。合併推進協議会からの要望に答える形で、金子 知事が壱岐を訪れ、石田町議会と意見を交わしたいというのである。 その意見交換会が五月十三日、石田町改善センターで開かれた。この席で金子知事は、「国、 県主導との誤解がある。地方分権の時代であり、その主役は地域住民。県は情報提供など お手伝いしているだけ」と説明した。また反対派議員から「県が住民説明会などを開くの は、圧力をかけることと同じではないか」との批判や、「住民には合併に反対の意見もあり、 論議を進めるには機が熟していない」との意見が出されたのに対し、金子知事は「県の押 し付けではない。合併協議会は住民に判断材料を与える場。設置そのものが合併の決定を 意味するのではない」と繰り返し、議員に理解を求めた(五月十四日付け長崎新聞)。だが、 こうした知事による異例の説得工作も実を結ばなかった。 五月十九日、石田町の臨時町議会が開かれた。まず赤木委員長が特別委員会の審査結果 を報告した。これに対して協議会設置賛成派の議員から、「住民の意思が尊重されておらず、 審査が不十分だった」などとして、特別委員会への再付託の動議が出された。しかし賛成 議員は四人しかなく、賛成少数で否決された。採決の方法も、一票差で記名投票と決まっ た。そして採決が行われた。 賛成四、反対七で、特別委員会の結果どおり、合併協議会設置案は否決された。この瞬 間、去年九月から始まった住民発議による合併特例法の手続きが白紙に戻された。協議会 設置を求めた五十五・一%の署名は否定されたのである。 一方、壱岐の将来を考える会から出されていた協議会設置に反対する請願は可決された。 この結末について、石田町長の山口銀矢は、「最悪の事態。他の三町や署名された人に申 し訳ない」(五月二十日付け長崎新聞)と述べた。署名活動が行われていた頃は、賛成派と 反対派との板ばさみの中で、表立ってその立場を明らかにしなかった山口も、最終的には 合併推進の立場で動いていたからだ。 署名運動を行った合併推進協議会の立川省司は、「三町が可決したのに、話し合いのテー ブルにつくことさえ拒否したのは、誠に残念。島民の夢を踏みにじる暴挙だ」と強く批判 した(五月二十日付け毎日新聞)。 金子知事は、「今回の否決という結果は理解に苦しむところであり、誠に残念」とした上 で、「この結果で合併についての議論を終わらせるのではなく、壱岐の将来のためにさらに 理解を深め、議論をしていただくことを期待する」とのコメントを出し、壱岐の合併に対 する期待を改めて表明した。 また石田町長の山口は、「行政側から提案する道はある」として、町長発議の形で合併協 議会設置を提案することも含めて、今後も合併への道を模索したい考えを示した。

第十六章 おわりに

壱岐では離島振興事業として、昭和二十八年度から昨年度まで総額二千三百十二億円が 投入され、農業基盤や港湾、漁港、道路などの整備が進められて来た。この四十七年間を 単純に平均すると、年間四十九億円に上る。昨年度の四町の支出の内、公共事業などを含 む投資的経費の合計が約九十二億円である。数十年前の貨幣価値の違いも考えあわせると、 島の経済がいかに国の事業に支えられていたかがわかる。しかしその結果、失ったものも また多かった。 海には廃水が流れ込み、海砂は大量に採取される。海にもぐって漁業をしている人たち によれば、藻や海草類が以前の三分の一にまで減ったという。それが魚介類の減少につな がる。生態系が破壊されつつあるのだ。 これまでは、自然を破壊しても、公共事業が優先されて来た。その方が経済的だったか らだ。しかしこれからは、経済の論理の上でも、自然を守り育てる手立てを講じて行かね ばならない。 だが国や県は、「自然を破壊するような景気浮揚策はいらない」という地元住民の気持ち を十分把握出来ていなかったのではないだろうか。特例債という飴で合併を促す国の方向 性は、壱岐の抱える様々な課題の先送りでしかないと反対派は考えたのである。それだけ でなく、財政効率化を目的とした地方の切り捨てだとして、地域の独自性を大切にしたい 石田町の地元意識を逆なですることにもなった。その結果、国や県と地元との間に意識の ずれが生まれた。それが合併協議会設置案の白紙撤回につながったと言えないだろうか。 これまで地域を公共事業漬けにして来た経験から、金で地方を動かせるという国の意識 のアナクロニズムと言えるかもしれない。さらに壱岐では、県の拠点的まちづくり事業が 白紙撤回された苦い教訓を踏まえて、上から与えられる飴は信用出来ないという島民の意 識もあった。 行財政効率化の必要性を否定する島民はいない。しかし人口一人あたりの基準財政需要 額が小さいほど効率的だとする議論など、住民の生活実感からほど遠いものはない。 今回の合併協議会設置に向けた動きの中で明らかになったもうひとつの問題点は、透明 性の欠如という点である。賛成派が辛うじて多数を制した勝本町議会の審議に端的に見ら れたように、閉鎖的な島の論理に従い、議論が不透明な内に進められたと言えよう。そし て最も重要な、壱岐の将来展望が不透明だった。壱岐の将来展望は、協議会の中で市町村 建設計画として作るものだとされ、それぞれの地域が合併したらどう変わるのか、島民に 具体的には示されなかった。 合併はあくまで手段であり、目的ではないのは自明のことである。しかし今回の合併協 議会設置をめぐる一連の議論は、合併により目指す具体的な目的を明確にしないままの議 論となっただけに、すれ違いに終わったとの感を抱かざるを得ない。つまり賛成派は、壱 岐の抱える様々な問題点を提示した上で、その打開策として合併という方法を検討するべ きだと問いかけ、それを協議会の設置という方法論の形で示した。そして四町合併で島を どう変えるのかという目的については一般論にとどまった。合併協議会は、あくまで合併 の是非を含めて議論する場であり、島の将来はそこで議論するのだと、推進派は説明する。 しかし、こうした二段構えの説明はわかりにくい。合併に不安感を抱く住民を納得させる ことは出来なかった。これに対し反対派は、合併そのものの是非を問うた。 壱岐の地元紙は住民の立場として、「賛成派」「反対派」ではなく、「推進派」「慎重派」 という表現を使うことが多い。協議会設置に反対している人も、将来的な合併そのものま で否定していない場合が多いことから、「反対」ではなく「慎重」という言葉を選び、その 裏返しとして「賛成」ではなく「推進」という言葉がふさわしいということだろう。だが 今回の一連の議論を検討してみると、「賛成」「反対」という言葉は合併協議会設置に対す る態度、そして「推進」「慎重」は合併そのものに対するスタンスとして位置付けることが 出来る。そして今回の議論は、この用語法に従えば「賛成派」対「慎重派」のものとなっ たと感じられる。つまり議論が噛み合わなかったのである。 夢づくりの会代表の立川省司は、住民が行政と一緒になり、専門的な対策と住民運動を 組み合わせて行かないと、これからの将来像は描けないと訴えた。郷ノ浦町長の渋村寛は さらに進んで、「合併しないと、壱岐の将来ビジョンすら描けない」と強調した。 これに対して石田町議会議員の松嶋惣一は、「若い人には申し訳ないが、今の壱岐に夢は ない」と断言した。その上で、「そうした厳しい現実を認識してこそ、次の時代を切り拓く ことが出来る」と語る。 「夢づくり」をうたう賛成派と、「夢はない」と言い切る反対派のよって立つところは、対 極にあるようにも見える。しかしその違いを明確にした上で論点を整理し、時間をかけて 議論すれば、結果は違った形になったかもしれないとも思われる。 例えば夢づくりの会の松嶋ふみ代は島の将来について、「今、人間がすごく疲れているか ら、精神的に癒される島にしたい」と語る。島の自然を生かした、ぜんそくやアトピーの 療養施設、自閉症児、不登校児の施設、農園のある老人ホームなどを構想し、癒しの島の イメージを思い描いている。 一方、石田町議会議員の松嶋は、「これからの壱岐は、シルバー産業的なものや、福祉で すばらしい島を作り、今は島外に出ている人にも帰ってもらえるようにしたい」と話す。 合併協議会設置に賛成派も、反対派も、将来展望において、今のところ大きな差はない とも言えるのである。 夢づくりの会副代表の久保恵子は、「親戚で通るような議員はもう要らない。島の将来を 見つめてやってくれる人を選びたい」と話す。これが壱岐の将来を真剣に考える島民の本 音だろう。

春一番という気象用語がある。立春後、はじめて吹く強い南寄りの風のことである。安 政の大獄があった江戸時代末期の一八五九年、壱岐の漁民が五島沖に出漁中、突然吹き荒 れた突風により、五十三人が亡くなった。この時から壱岐では、春のはじめの強い南風を 春一番と呼ぶようになり、これが全国に広まったと言われる。春の訪れを知らせるこの言 葉の裏には、実は悲惨な事実が隠されてもいたのである。 今回の合併運動は、有権者の過半数を超えて全国で最高となった署名率から見ても、壱 岐のこれからの時代に向けた春一番と言えるかもしれない。島に吹き荒れたこの風は、壱 岐の抱える様々な問題を噴出させ、島民どうしの意識の違いのみならず、国や県と、島民 との意識のずれをも明確にした。 地方は都市に人材を供給し、日本の高度経済成長を下支えしてきた。その結果もたらさ れたものは、過疎と高齢化である。農業や漁業は衰退し、公共事業に大きく依存するいび つな経済体質となってしまった。それは都会におけるバブル経済崩壊と同様、時代の行き 詰まりを象徴しているようにも見える。 バブル崩壊以後の景気回復が容易ではないように、地方の受けた傷も深い。バブル崩壊 は幻想の崩壊だったが、地方では人が減り、自然が破壊されただけに、傷はさらに深いと も言える。これに対して国がとろうとしている措置は、市町村合併による行財政改革であ る。確かに現在の傷口をふさぐという外科的な効果はあるかもしれない。しかし痩せ衰え た体力を回復させ、かつての豊かでたくましい姿を取り戻すための処方箋は何も用意され ていない。しかも外科的処置には、多量の出血やショックというリスクも伴う。 国家という組織にとって、地方はいざとなれば切り捨てる対象に過ぎないかもしれない。 しかしそこに生きる人々にとっては、自らの生活を営む、かけがえのない基盤である。 今、地域が求めているのは、自分たちの故郷を誇りの持てる土地として次の世代へ受け 継いで行くための方策である。合併協議会の設置を求めた五十五・一%の署名は、現状打 開の呼びかけに答えた、故郷の変革を求める住民の声でもある。その意味でも課題を財源 問題に矮小化してはならない。急激に高齢化が進む時代だからこそ、住民にきめ細かな配 慮を行える身近な行政組織が求められている。それを実現するための手段として合併とい う手法がふさわしいかどうか、賛成派、反対派がもっと具体的に議論すべきだろう。 四町の町長と議会は、今回の一連の経緯について、審議経過を含めて住民に詳しく説明 する責任がある。それと同時に、問題点を洗い出した上で、将来展望に向けて早急に新た な方策を示す課題を負ったと言える。

あとがき

今回の取材にあたっては、各町長、町議会議員、長崎県壱岐支庁などの方々をはじめ、 各方面で運動や事業に取り組んでいる方々に、貴重な時間を割いてご協力いただきました。 また自治労長崎県本部壱岐総支部には、資料提供などでご協力いただきました。 みなさまに感謝いたします。

参考文献・資料

『中央公論』(一九二九年九月号) 種田和夫編集発行『いろり座 脚本集』一九九一年 長崎県壱岐支庁編集発行『壱岐島勢要覧』(一九九九年) 原の辻遺跡調査事務所編集『壱岐・原の辻遺跡』(長崎県教育委員会発行、一九九五年) 司馬遼太郎『壱岐・対馬の道 街道をゆく・十三』(朝日文庫、一九七五年) 中上史行『壱岐の風土と歴史』(一九九五年) 壱岐広域圏町村組合編集発行『壱岐広域圏町村組合史』(一九九〇年) 長崎県壱岐支庁総務企画課編集発行『壱岐の将来について考えてみませんか』(一九九八年) 工藤佳子『市町村合併の現状と課題』(二〇〇〇年) 長崎県『壱岐地域保険医療計画』(一九九七年)

 『ながさき自治研・第38号』(2000年5月発行)に掲載。
問い合わせ〜長崎県地方自治研究センター(電話095−826−5455)

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