大阪市内の大型CD店に設けられたFM局の特設スタジオ。立ち見であふれる観客とラジオのリスナーに大阪弁で気さくに語りかけるのは、地元大阪出身のシンガーソングライター、矢井田瞳だ。

「無理せず、音楽が気持ちいいなぁ、楽しいなぁと思える状態でずっと走っていけたら、それが何よりです」

これからの抱負を聞かれてそう答えた彼女は、若い世代の恋心を、誰もが共感できる日常の言葉と伸びやかで元気いっぱいな歌声で表現する。去年リリースした最初のアルバムは、日本を代表する音楽チャートのオリコン初登場でいきなり一位となり、今や若い人たちから熱い支持を得ている。

 その矢井田がデビューしたのは去年五月のことだった。東京にある矢井田の所属事務所では彼女を売り込むための戦略として、低予算でCDを制作する独立プロダクション、いわゆるインディーズのレーベルを立ち上げた。技術革新でインディーズ盤の制作は簡単にできるようになり、CD店に行くとインディーズ盤が山のようにあふれている。それだけに玉石混交で、優れたものであっても目立つのが大変だ。彼女が大阪の大学に在学中だったこともあり、矢井田の事務所では、まず関西地区限定で矢井田のCDを販売することにし、関西の放送局に売りこみをかけた。これに応え、局をあげて矢井田の曲を推したのが大阪の第二FM局、FM802である。局名は「えふえむ・はちまるに」と読む。FM802は局としての推薦曲を、ヘビーローテーション曲として邦楽、洋楽ともに毎月一曲ずつ選び、それぞれ毎日少なくとも十回以上かけている。FM802では矢井田の曲をヘビーローテーションに選び、五月中かけまくった。その結果、矢井田の曲に火がつき、やがて全国にも飛び火して十万枚を越すヒットとなった。数千枚で大ヒットというのがインディーズの世界である。桁違いの売れ行きに、去年七月にはメジャーレーベルからのデビューとなった。

 矢井田のCDを出している東芝EMI常務の塩谷誠は、「802に認めてもらうっていうのは結構ステータスだと思いますよ。みなさん音楽が好きだし、造詣も深い」と言う。

公開番組に訪れた矢井田ファンの若い女性たちは、FM802ファンでもある。

「よく聴きます。DJは関西弁が多かったりして、おしゃべりが楽しい。選曲もいい。ヤイコ(矢井田瞳の愛称)もインディーズの時からヘビーローテーションでかかってて、それではじめて聴いて、好きになって」

エフエム大阪は聴く?

「聴かない。どうしてだろう…。もうFMと言えば、802という先入観かな」

 FM802が注目するのは関西の歌手に限らない。去年は東京のグループ、ラブサイケデリコにもいち早く注目し、矢井田と同様、メジャーデビューする前の去年三月にヘビーローテーションに選んだ。ノスタルジックな雰囲気を持つ彼らの曲が大ヒットするのは、その半年あまり後のこと。FM802は彼らの才能を見抜いていたのである。

 関西にはエフエム大阪、関東には東京エフエムをはじめ、おしゃれな雰囲気のFMヨコハマやJ―WAVEなど、有力なFM局がある。それら他局と比べても、全国ヒットの仕掛け人としてFM802の個性はきわだっている。矢井田瞳が所属するクリアスカイコーポレーション社長の田口幸夫は、FM802には独自性を出そうというポリシーがあると語る。

「本当はJ―WAVEが先頭を切って、そういう流れを作るべきだと思うんですが、どう見ても802の方が目立っちゃう。東京にいても、802がこれを仕掛けてるとか聞えてくるんです」

 もうひとつだけ、音楽事務所の声を紹介しよう。「明日があるさ」で大人気のウルフルズも、「ガッツだぜ!!」がFM802のヘビーローテーションで取り上げられてブレイクした。そのウルフルズが所属するタイスケの社長、森本泰輔は、“FM802のリスナー”イコール“CDユーザー”だと言う。

「ぼくらからすれば、最もCDを買ってくれる確立が高いリスナーさんの局ですわ。他の局は、流行っているものが流れているだけで、結局オリコン通りしかかけない。でも802は違う。オリコンじゃない」

逆の言い方をすれば、802に登場しない歌手も多いのである。今をときめくSMAPやV6など、芸能界で一大勢力となっているジャニーズ事務所所属の歌手は、802では一切かからない。女子中高生から圧倒的な人気を誇る浜崎あゆみも聴くことができない。松田聖子からモーニング娘。まで、アイドル系の歌手は噂にものぼらない。

 それでも関西地区の平均の聴取率のシェアを最新の今年六月のデータで見ると、FM802がターゲットとする十六歳から三四歳での区分ではFM802が四八・七%で過去最高の聴取率をとって断然のトップ。大きく遅れてエフエム大阪の二〇・〇%、AM局の毎日放送の一〇・七%と続く。十二歳から六九歳というすべての調査対象でも、FM802が二七・〇%でトップ。次いでAM局の朝日放送の二四・六%、毎日放送の二四・〇%、エフエム大阪の一四・五%と続く。

確かにFM802を聴いていると、同じFMでも東京エフエム系列のエフエム大阪とは一味違うという印象を持つ。だからといって吉本に代表される、お笑いやしゃべり中心のノリというわけでもない。あえてひとことで言うとすれば、現代の大阪人の気分とでも言えるだろうか。「なんかおもろい歌、ないやろか?」、そんな若いリスナーの声に、「それやったら、これがええで〜」と応えてくれる。既成の概念にとらわれずに、自分たちがおもしろいと思う歌や番組を提供する。考えてみれば、番組という作品の作り手として、当たり前のことをしているだけとも言える。しかしテレビ局も含め、その当たり前のことをしていない放送局が多すぎる。ではFM802はなぜ、個性的な番組編成ができるのだろうか。

八九年のFM802開局以来、番組編成の責任者として辣腕をふるっている栗花落光(ついり・ひかる)は五二歳。編成課長、編成部長を経て、現在は編成担当の取締役業務推進局次長である。大阪の名物プロデューサーという評判とは裏腹に、実際は静かな印象の人だ。社内での服装もポロシャツ姿など質素で、時折はにかんだような笑みを見せる。敬虔なカトリック信者で、学生時代は障害者関係のボランティア活動をしていたと聞いて、うなずいた。家庭では二男一女の良き父親でもある栗花落は、もともと芸能畑を一貫して歩いてきたわけではない。スタートは報道マンだった。

京都での学生時代、栗花落は福祉問題に関心を持ち、その延長線上でジャーナリストを志した。七一年に大学を卒業してラジオ大阪に入社した栗花落は希望通り、報道部に配属された。華やかな経済成長の一方、公害も深刻になっていた頃だった。森永砒素ミルク事件の裁判も続いていた。栗花落はそうした事件の被害者を取材することで、同じ時代を生きる人々の生の声を聞く大切さを学んだ。だが記者になって五年、転機は突然訪れた。制作部への異動を命じられたのだ。不本意な異動だったが、社命にはそむけない。それならばと、栗花落は音楽番組を志望した。少年時代は教会の聖歌が好きで、中学高校とグリークラブに所属していた。カラヤンのコンサートチケットを徹夜で並んで買ったこともあった。ラジオから流れてくるボブ・ディランやPPMなどアメリカのフォークソングも好きだった。あたかも時代はニューミュージックという言葉が作られた頃でもあった。

「自分が表現したいことと、ちょっとつながっている。ジャーナリズムっぽい観点で音楽を見られるみたいなこともあったかもしれないですね」

 ラジオ大阪は、吉本や松竹の芸人によるお笑い演芸路線が主流だった。AMということもあって、音楽番組は影が薄かった。希望すれば、すぐにやらせてもらえるという環境ではなかった。それでも栗花落は音楽番組の担当を望んだ。日曜日の深夜、スポンサーがまったくつかない時間帯で、費用もほとんどかけずにニューミュージック関係の番組を作る仕事から始まった。

だが同時にその頃は、音楽業界が大きく変わり始めた頃でもあった。ライブハウスは熱気で満ちあふれ、ロックやフォークといった新しい音楽が、ビジネスとしても成長していた。栗花落はそうした場所に毎日のように通って音楽人脈を築きながら、少しずつ音楽番組担当としての足場を固めていった。七八年には松任谷由実や宇崎竜童ら、今も活躍するミュージシャンをパーソナリティーに起用した深夜の生番組を企画制作した。翌七九年には、番組の特別イベントとして夏の野外ロックフェスティバルを開催する。栗花落はデビュー間もないサザンオールスターズや山下達郎ら人気者を登場させることに成功し、二日間で二万人以上の観客がつめかけた。その頃の大阪のラジオ局としては、桁違いに大規模なイベントだった。このフェスティバルは六年間続いた。だがAMラジオで音楽番組をやるのは難しい。イベントのもととなった番組の方は聴取率を稼げず、二年で打ち切られてしまったのだ。「どこかでもう少し音楽をベースにやれるようなステージがあったらいいなあ…」、AMに限界を感じた栗花落はそんな思いを抱くようになった。その夢をかなえるチャンスがまもなくめぐってくる。

大阪に二局目の民放FM局ができることになったのだ。八八年に開局準備室ができ、ニッポン放送で編成部長も務めた石原捷彦が編成部門の責任者として赴任してきた。石原は今、FM802の副社長である。その石原が編成関係でまっさきに声をかけたのが栗花落だった。栗花落はその頃すでに、大阪で音楽に関する様々なムーブメントを立ち上げた男として、音楽、放送業界では知られた存在だったのだ。八八年九月、栗花落はラジオ大阪を退社して、FM802開局準備室に入った。今までAMにいて、やりたくてもできなかったことを思いきってやろう。そんな栗花落たちのゼロからのスタートだった。

まず石原たちと徹底的に議論したのは、局のコンセプトである。「人が好き」、「土くさい」、「原色的」、そんな関西人の雰囲気を包み込む言葉としてたどり着いたのが「ファンキー」だった。ブルース風ジャズ音楽のことをファンキーミュージックという。ニューヨークの猥雑で、でもエネルギッシュな雰囲気。大阪にはそれが似合うと栗花落たちは考えた。「ファンキー・ミュージック・ステーション」、それが一貫して今も変わらぬFM802のカラーである。

 次に議論となったのがターゲットだった。民放である以上、スポンサーがつくだけのリスナーを獲得しなければならない。関西はしゃべりの達者な芸人が多いだけあって、ラジオ文化の密度はもともと高い。老舗のAM局は中高生と年輩のリスナーに強い。歌謡曲だけでなくロックからジャズまで総合的に扱うミュージックステーションとしてのエフエム大阪もある。現実問題としてFM802は、先行各局の隙間を狙うしかない。そんなこともあって生まれたコピーが、“十八歳の感性”だった。

 芥川賞作家の中上健二が十八歳の頃に書いた小説、「十八歳」にこんな一節がある。十八歳の主人公は「青春をうたいあげた流行歌手の滑稽さに突然気づき、笑い出そうとした。しかし笑いは口唇のあたりで挫折し、あくびした。あくびの涙が、なんとはなしに悲しくなって泣いたように思える」と。そこには既存の社会に対する反逆と、青春のせつなさがある。「秩序など無意味だ」という中上を例にあげるのは、極端かもしれない。しかし高校を卒業して大学に入ったり、浪人したり、社会に出たりして、生活や価値観が変わる。社会の建て前や矛盾に気づき、悩んだり傷ついたりする。そして挑戦する。それが十八歳。そのみずみずしい青春の感性を持った人たちに聴いて欲しいと栗花落たちは考えた。それまでの放送局のように、すべての人を対象とした百貨店であることを放棄し、対象を絞った専門店としてFM802を位置づけたのである。スポンサーに対する営業戦略もあって、ターゲットの年齢は十六歳から三四歳とした。

 彼らに802を強烈にアピールするにはどうしたらいいだろう。それには802発のヒット曲を作るのが一番てっとり早い。楽曲を絞り込み、その曲をたびたびオンエアーしてヒットさせよう。そんな発想からヘビーローテーションが生まれた。それも上から降ろすのではなく、現場のディレクターやDJに毎月提案してもらい、最終的に802らしい楽曲を編成部のプロデューサーが決定する形にした。しかしそこには問題もあった。八〇年代後半になると、CMやテレビドラマのタイアップから次々とヒット曲が生まれていた。そんな曲をいくらかけたところで、802発のヒットとは誰も思ってくれない。そこでそういう曲は除外する。さらにどんなに人気があっても、音楽的レベルの低いアイドル歌手はかけないことも決めた。

純粋にFM802という放送局からヒットしたことが確認できるような楽曲に絞る。それは、まだ売れていない歌手の曲を大量露出させ続けるということを意味した。経営基盤が安定していない若い局にとっては冒険だった。しかし開局二年目の九〇年、KANの「愛は勝つ」がヘビーローテーションで注目され、やがて全国的な大ヒットとなった。802のヘビーローテーションシステムの有効性が実証されたのだ。こうしてFM802でいち早く大きく取り上げられてからメジャーになっていった歌手は、一九八九年の開局当初にDJとして番組を担当していたドリームズカムトゥルーをはじめ、ミスターチルドレン、マイリトルラバー、ゆず、スピッツ、aiko、花*花など、個性的なミリオンセラー歌手が目白押しである。

FM802はその他にも独自の方針を次々と打ち出した。局の顔とも言えるDJは、関西地区では他局に出演しない独占契約とした。栗花落の人脈を生かした大規模な音楽イベントも積極的に展開した。大阪出身の著名なイラストレーター、黒田征太郎を起用し、斬新な会社のロゴやポスターなどのビジュアル戦略を徹底的に展開した。これまでに配った、車のバンパーに貼るステッカーは一〇〇〇万枚以上。おしゃれな802ステッカーを貼った車が大阪市内に溢れたのである。「目で見てわかるラジオ局っていうのは、おそらく日本ではじめてのラジオ局だろうと思います」と言うのは、電通関西支社ラジオ部長の大久保敦だ。そうした取り組みの結果、個々の番組の個性よりも、放送局が前面に大きく出てきたのである。そんな強烈な個性を持ったラジオ局は、FM802以前にはなかったことだった。

 逆に、これはやらないと決めたこともあった。ひとつはレコード会社が番組の選曲権を買いとり、番組の中で自社のCDをかける「有料皿回し」。もちろん「有料ヘビーローテーション」など、もってのほかだ。もうひとつは放送局が自社で出版権を持つ楽曲をかけて利益を得る「音楽出版ビジネス」。キー局が窓口となって系列局に出版権を分配し、各放送局は楽曲をプロモーションする見返りに、印税の一部をもらうシステムである。各放送局は出版権を持つCDが売れれば売れるほど儲かることになる。必然的にそうした曲がかかりやすくなる。全国の民放が当然のようにやっていたこうしたシステムを、FM802は拒否した。

「ぼくらがやると、どうしてもスポンサーの方を見て仕事をしてしまう。しかし802は確実にリスナーの方だけ向いているんですよ」

そう語るのは、毎日放送東京支社ラジオ部長の島一康だ。テレビの影響力がますます強くなるにつれて、ラジオの広告収入は大幅に減ってきている。限られたパイの奪い合いは激しい。どうしてもスポンサーの意向を無視できないのが民放ラジオ局の現状だ。しかし栗花落たちはそうした目先の利益を追うのではなく、放送局としての実力をつける道を選んだ。番組でかけないことにした曲については、スポット広告も断った。番組はスポンサーのためにあるのではない。リスナーのためにある。それが基本だからである。

八九年六月に開局したFM802は好調に走り出した。テレビの音楽番組では光GENJIや工藤静香、Winkなどのアイドルが全盛の頃だった。その開局の年にFM802がヘビーローテーションに選んだのは、ともにデビュー直後のドリカムや小野リサら、やがて大きく飛躍する実力派だ。リクエスト葉書の反応も上々で、リスナーは狙い通りのターゲットだ。「こういう局を待っていた」、そんな反応だった。栗花落の言葉を借りれば、「砂漠にスポイトで水を落とすような状態」で浸透していった。開局から五ヶ月後に実施した十六歳から三四歳を対象にした聴取率調査で、FM802のシェアはAM局を含む全局で三七・四%、FM局だけに限ると五九・九%という数字をいきなりたたき出した。その後も聴取率は順調だった。隙間を狙って鉱山を掘り進んだら、そこには金の鉱脈が隠されていたのだった。

 そんな絶好調の802にもやがて危機が訪れる。きっかけは九五年頃のことだった。人気が急上昇した安室奈美江の曲が、FM802の番組で連日、何回もかかるようになった。それだけではない。やがて安室をはじめとする小室哲也プロデュースの曲が次々とかかるようになった。小室ブームの到来である。FM802が自局でかけた曲やリクエストなどをもとに算定する週間ヒットチャートでも、かなりの部分を小室系の歌手が占める事態となったのだ。

「もっとほかにかけるものがあるやろ!オリコンのチャートだけで選曲が決まるのなら、802っていうステーション、必要ないやないか!」

 栗花落はそう主張し、番組制作スタッフやDJとの間で喧喧諤諤の議論となったのである。小室プロデュースの作品は激しいダンス音楽が中心であり、アイドル路線とは違う。アイドルはかけないという802の方針には反しない。だから、かけても良いだろうと制作スタッフは判断したのである。だが栗花落には、曲のメッセージ性が希薄に感じられた。どんなに人々に受け入れられていたとしても、それは手作りの音楽ではなかった。ではいったい、802らしさとは何なのか。議論は果てしなく続いた。後塵を拝していたエフエム大阪もいつまでも黙ってはいない。個性的な女性DJを配置し、若い人向けの番組で聴取率を徐々にあげてきた。追われる立場となった802の番組スタッフの間には、ヒットチャートをにぎわしている曲をどんどんかけないと危ないという恐怖感にも似た空気が漂い始めた。スタッフコントロールが難しくなってくる。とうとう栗花落は決断した。安室奈美江、trf、華原朋美、グローブ、こうした小室哲也が手がけた歌手の曲はやめようと。彼らの曲はすべてNGとしたのだ。栗花落の判断を支持する者もいれば、そうでない者もいた。何せ小室は九五年には、オリコンヒットチャート百位以内に自身が作曲した三四作品を送りこんだのだ。それらがすべて放送禁止とされたのである。あまりにリスキーであり、栗花落にはついていけないと、802を離れた人材や制作会社もあった。

「彼らが番組を作って、それをぼくらが判断していく。うちに必要ないと思う人は切りますし、うちでは必要だと思う人は残していく」

栗花落の決断は、エフエム大阪の猛烈な追い上げという形で表れた。当代の人気者が802から姿を消し、ライバル局ではさかんに登場するのである。九八年十二月の調査で、シェアがFM802は二九・八、エフエム大阪は二九・五と、わずか〇・三ポイント差まで詰め寄られた。制作や営業の担当者から再び、「やはりヒット曲はかけた方がいい」という声があがってきた。しかし栗花落は頑として受け付けなかった。

 栗花落としても、対策を講じなかったわけではもちろんない。洋楽中心だった楽曲を邦楽中心に移し、番組を大幅に改編して高校生を意識した番組を作ったりした。そして自分たちが思う、おもしろい曲の発掘を続けていった。

「その時っていうのが一番、ぼくは踏ん張りどころで。そこで崩さずに、こだわってきたことが、今につながって…。それは今から考えると、すごく良かったなと思うんです」

やがて時代の風は802に戻ってくる。ヒット曲が小室プロデュースの曲に集中する時代は過ぎ、実力本位で個性的な曲がヒットする時代となって、802の聴取率は再び上昇するのである。

売れているものを追って、二匹目のどじょうを狙うマーケティングもある。しかし本当に次の時代を作ってゆくのは二匹目のどじょうではない。違うものをいいと信じてぶつけてゆく。そこから次のヒットや、次の時代の流れが生まれてくる。栗花落はそうした常に挑戦する気持ちを持った人を大切にする。“十八歳の感性”をターゲットにした番組は、“十八歳の感性”を持つ人にしか制作できないからである。

「物を作る現場ですから、人が一番大切なんです。彼らがいないと何もできない。いい循環で人が集まっている。そのためには802が常に輝かないとダメですね」

 TBSが去年から関東エリアで毎週放送しているテレビの音楽情報番組では、FM802のヒットチャートを放送している。番組ではランキングを紹介する前に、こんなコメントが流される。

「大阪にあるFM802は、新しいアーティストを次々にブレイクさせることで有名なFM局である。このランキングは、将来を占う上で非常に参考になる。今週も大きく動いているぞ!」

 そのヒットチャートを紹介するFM802で一番の人気番組、「OSAKAN HOT 100」を担当するDJのヒロ寺平は、土曜日を除いて毎日四時間の番組を持つFM802の顔、というよりも声である。彼が栗花落に言われた、今も心に残る言葉がある。「曲というものは、丁寧にかけるべきである」と。曲を最後まで放送しなかったり、間奏に入ったらそのあとは曲をバックに喋ったりしたことがあった。802以外のラジオ局では当たり前のように行なわれているその手法は間違っていると、栗花落は言うのだ。

「その歌手に尊敬の念を込めた形で紹介するのが礼儀やと思うし、当たり前やと思うんです」

 そう言われてヒロは納得した。歌は、単なる商品ではない。ことに歌詞には、歌を作った人、歌う人のメッセージが込められている。だからこそ、本物の歌は聴く人の心を揺さぶる。栗花落にとって音楽とは単なる娯楽ではなく、人が自己表現したいという願いを叶えるための根源的なコミュニケーションのひとつでもあるのだ。

 「音楽っていうのは、もっともっと力があって…。音楽で伝えられることとか、音楽でしか伝えられないこととか、まだまだたくさん残っていると思う。その時代、その時代に新しいアーティストがどんどん出てくるわけです。そのアーティストと802が接点を持つことによって、その時代ということをベースにした新しいメッセージをまた802が届けていける」

 栗花落は今でも毎週、少なくとも二日から三日はライブステージを訪れ、新しい音楽を自分の肌で受けとめる。栗花落光は音楽によって時代の記憶を刻もうとするジャーナリストなのである。冒頭に紹介した矢井田瞳は、「人間くさい歌が好き」だという。そんなミュージシャンとメディア。そして彼らからメッセージを受け取り、リクエストを送るリスナー。そこには人々の生活に根づいた身近なメディアを通しての心の触れ合いが確かにある。

『中央公論』2001年10月号所収