スペイン日記第9号

<テレビ>

 スタジオの中央に立つのは、黒いスーツに身を包み、髪をショートカットにした女性の司会者だ。彼女が次々と歯切れ良くクイズを出題し、円形に陣取った10人ほどの回答者が順番に一問ずつ答えてゆく。第一回戦の持ち時間が終了すると、司会者が冷たい口調で金額を発表する。

「獲得金額は、わずかに50ユーロ。それでは名前を書いてください」

 そう指示されて回答者は、他の回答者の名前をボードに書いてゆく。最も名前の多かった回答者がひとり脱落するのだ。その繰り返しで、回答者が最後のひとりになるまでクイズは続く。これが午後7時からのゴールデンタイムに毎週二回も放送されているETV・スペイン国営放送の人気番組、「ライバルを消せ」である。ふつうのクイズ番組なら、最も知識の豊富な人が最後まで残ることができる。だがこの番組では、他の挑戦者からライバルとみなされて脱落する場合のあるのが、最大の見どころだ。そして回答者が退場するごとに、司会者の冷たいひとことがスタジオに響く。

「アディオス!」

 スタジオを去る回答者に対する女性司会者の視線はあくまで冷たい。次は誰が脱落するのか、お茶の間で観るぼくたちはついつい興味をひかれてしまう。なかなかおもしろいのだが、どこかで観たような気がする。そうだ!この番組は日本で観たことがあったのだ。もちろんこの番組そのものの吹き替えなどではない。伊東四朗が司会し、まったく同じスタイルで放送していたのだ。もともとETVのオリジナルではなかったのである。

 ほかにも無人島で数人の男女が生活し、誰が脱落してゆくのかを記録するという番組もあった。これも日本版が制作されて日本でも放送されていた。しかしもともとはアメリカの番組だ。

その他におもしろそうな番組といえば、「勝利への大作戦」という歌番組があった。全国の地区予選を勝ち抜いてきたチャレンジャーたちが合宿しながら歌の特訓をして、その成果を毎週競い、電話投票と評論家の審査で得点を決める。一年間かけてチャレンジャーたちを少しずつせり落としながら、最後にひとりの優勝者を決めるのである。スペインは地方主義が強いこともあって、チャレンジャーたちは地区代表の色彩も濃い。ぼくが一ヶ月間滞在したセビリアでは、「ウゴ」という名前と電話番号の入った男性のポスターがあちこちに貼られていて、番組を知らないうちは、何かの選挙運動かと間違えたほどだ。ウゴはフラメンコの雰囲気が入り交じったムード歌謡のような曲で毎回挑戦し、ベスト5まで残った。毎週放送される内容がそのままCDで毎週発売され、CD売り上げの上位を独占しているのである。だがどこかで観たような気もする。「モーニング娘。」などを生み出した日本の番組の「アサヤン」そっくりでもある。

「ドラえもん」も大人気で、毎日のように放送されている。スペイン語で吹き替える人の声が、日本のそれぞれのキャラクターによく似ているのがおもしろい。吹き替え版での名前もそのまま、「どらえもん」「のびーた」である。ちなみに、CDショップでDVDの棚を覗くと、アニメーションは「MANGA(マンガ)」という仕切りになっている。それほど日本のアニメは浸透している。

NHKでも放送している、病院を舞台にしたアメリカのドラマ「ER」も人気のようで、つい先日までは夜の12時頃から放送されていたのが、今は午後10時台のゴールデン枠に移っている。

 その他で目につくテレビ番組と言えば、スタジオ収録のワイドショーが花盛りである。スペイン人と話していて、「スペイン人のオリジナリティーのなさは、テレビ番組を見てみればわかるよ」と自嘲気味に言われたことがある。確かにスペインのテレビはつまらない。フランコの独裁時代は国営放送しか存在が許されず、民放各局が生まれたのは1980年代以降という歴史の浅さもあるのかもしれない。

<教会>

スペインに来て改めて感じたことのひとつは、教会の多さだ。日本で言えば町内会のような広さの地区に必ずひとつは教会がある。それも、日本でイメージするような小さなものではない。特にセビリアでは、日本で最も大きな教会のひとつである長崎の大浦天主堂よりも規模の大きな教会が、町中にいくつも点在していた。アンダルシア地方は教会の権威が特に高かったからだろう。そうした教会の親分格となるのがカテドラルである。大都市のカテドラルの規模は、巨大なビルに慣れたぼくたちをも威圧する。市民戦争の時代には、教会は古い権力の象徴とみなされ、特に都市部とその周辺で多くの教会が破壊された。その傷跡は今では修復され、ほとんど見ることもない。建築技術や労働力が今より大幅に乏しかった数百年前に、こうした建物を建設させた教会の圧倒的な勢力を感じざるを得ない。

こうした教会を訪れると、多様なマリア像を見ることができる。スペインはカトリックの国だが、特にマリア信仰が厚いのだ。セビリアのマカレナ教会では「ラ・エスペランサ」、希望の聖母と呼ばれるマリア像が祭壇の中央にまつられている。このマリアは涙を流している。肉眼ではよくわからないが、双眼鏡で見てみると、確かに大粒の涙を流している。ラ・エスペランサは聖週間、セマナ・サンタで御輿に担がれて街中を練り歩くことでも知られている。マカレナ教会のイエス像は、頭から血を流している。他の多くの教会でも、イエスやマリアが傷つき、涙を流していた。主イエスと聖母マリアは、私たちの身代わりになって傷つき、嘆き悲しんでいてくださる。そう思わせる空間が確かにある。

毎日のミサは近くの教会で行い、日曜日のミサはカテドラルと、教会の役割分担も決まっている。スペインでは9割以上がカトリックのキリスト教徒である。人々の姓名のうち、「名」のほうは、大半の人が洗礼名である。しかし、今もキリスト教がしっかり根付いているかと言えば、必ずしもそうとは言えないようだ。教会に行ってみると年配の人がやはり目につく。もちろん若い人もいるが、中には無理やり連れてこられたのか、全員で起立するところでも座ったきりで、歌も一緒に歌わない人もいる。語学学校で教師をしている人たちに、「毎日ミサにゆきますか」と尋ねると、ほとんどの人が苦笑しながら「最近はまったく行ってないよ」と答えるのが常だ。人々にとって宗教とは何なのだろうか。スペインの街で古色蒼然とした教会を目にするたびにそんな思いにとらわれてしまう。

<迷路>

「ヒッキー!ヒッキー!」

 セビリアのアパートにもうすぐ着くところまで歩いて戻った時のことだった。背後からかん高い声で、誰かがぼくを呼んでいる。振り向くと、「ぬらりひょん」のレベッカだ。はるか向こうにある金網の向こうから、ネットをどんどんとたたきながら、ぼくの名前を叫んでいた。道路が工事中のため、歩行者に危険がないようにとネットをはってあるのだが、そのネット越しにぼくを呼ぶ姿は、なんだかおかしい。レベッカはフォト・ジャーナリスト志望のアメリカの女子大生で、語学学校の同じクラスで学ぶ同級生でもある。ぼくがジャーナリストであることを知って色々とぼくに質問をしてくるようになり、友達になったのだ。

「すごく素敵なバールがあるんだけど、でかけてみない?」

「どのへんにあるの?」

「すぐ近くよ」

 まだ時間が少し早かったこともあり、ぼくたちはそのバールにでかけてみることにした。ちなみに「ぬらりひょん」というのは、ぼくが彼女につけたあだ名である。予期しないところで何度も不意にレベッカに出会うのだ。グラナダにでかけた時も、「ヒッキー」と叫ぶ声がするので振り向いてみると、レベッカだった。その時、「ぬらりひょん」であるとの思いを強くしたのだ。しかしカテドラルの角を過ぎたあたりで、彼女は道に迷ったようだ。

「道を間違えたかもしれない。でも別の素敵な店があるから大丈夫」

 そう言って、次の店の方向を目指した。しかし5分たっても10分たっても、その店につかない。「まだなの?」と聞くぼくに、「もうすぐ、近くよ、すぐ近く!」と言うばかり。道を進むごとに、ぼくの知っているエリアをだんだんとはずれてくる。スペインの都市は、ほとんどが旧市街と新市街に分かれている。新市街はその名の通り新しく作られた町並みで碁盤状に区画整理され、地図を片手に持っていれば道に迷うことはまずない。しかし旧市街となると話は別なのだ。イスラム勢力が支配していた時代の跡が残る旧市街では、まっすぐな道というものがほとんどない。くねくねと曲がりくねり、方向感覚を麻痺させてしまうのだ。しかも同じような建物が延々と続いている。妖怪ぬらりひょんといえども、この街並みを把握することはできなかったようだ。

 ぼくたちは道の途中で、やはりアメリカ人の同級生と出会い、彼らもさそってその店へゆくことにした。とぼとぼと歩くこと30分以上たって、ようやくそのバールに到着した。暖炉があかあかと燃え、ログハウス風の店内はアメリカ人好みだ。ステージではギターで弾き語りのライブ演奏もあり、大勢の客でとても混雑している。ビールでもいっしょに飲もうとレベッカを見ると、彼女はさっさとステージの最前列に陣取り、ライブに夢中である。しかしぼくの耳には、下手なカントリーソングにしか聞こえない。どうもアメリカ人の趣味はよくわからない。

 レベッカを店に残してぼくは連れと店を出た。しかしそれからがまた一苦労だ。どこにいるかよくわからないのである。うねうねとした道をたどって見つけたところは、一度でかけたことのあるユダヤ人地区だった。ここまで来ればもう大丈夫。それにしてもスペインの街並みは迷路そのものだ。

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