スペイン日記第8号

<フラメンコ観てある記>

 暗闇の舞台の袖から、ロッキングチェアに座ったひとりの老女がスポットライトを浴びて浮かび上がった。椅子を静かに揺らしながら、自分が昔書いた日記を読んでいる。彼女がクリスチーナ・オヨスだ。オヨスは自らの名前を冠したフラメンコ舞踏団を持ち、世界的にも有名なフラメンコの第一人者である。日本の演歌でいえば、さながら美空ひばりだろうか。そういえば顔つきもなんとなくひばりに似ている。

 オヨスの回想する少女時代の物語が始まった。十人ほどの男たちが切り崩した大きな岩を運んでいる。数十年前のこととて、今のような運搬機械もなく、すべて人力である。重く苦しい労働歌にあわせて、彼らのステップが大地を強く打つ。ここは鉱山なのだ。だが労働の時間が終われば、若い彼らの世界だ。歌や笑い、恋もあれば祭りもある。男女のカップルで、明るくにぎやかなフラメンコの世界が繰り広げられる。しかしやがて破局が訪れる。彼らが地下深く働く鉱山で落盤事故が起きたのだ。男たちは地中に閉じこめられ、やがて最期を迎える。重く深い、哀しみのソレアが踊られる。この舞台にオヨスがつけたタイトルは「地の底へ」。

 フラメンコの舞踏は、かかとと先端に細かな釘を何十本も打ち付けた靴で舞台を激しく打ち鳴らすのが特徴のひとつだ。それはあたかも下へ下へと、地中深く突き進むようだ。喜ぶにつけ、悲しむにつけ、すべてが大地に根ざしている。さらに例えれば、まるで宙を舞うがごとくに踊るバレエとは反対方向を目指しているような印象だ。その意味で、オヨスが今回の舞台につけたタイトルは象徴的に感じられた。

 この舞台は2月27日から3月11日までの日程で繰り広げられているヘレス・フェスティバルの初日として、市内で最も大きなヴィジャマルタ劇場で上演されたものだ。この劇場は八百席ほどの規模だが、三階席まであり、とてもステージを観やすい構造になっている。

 セビリアから列車で一時間。ヘレスはシェリー酒の産地であるとともに、フラメンコ発祥の地でもある。いつもは静かなこの街も、毎年のフェスティバルの時期には国内外から大勢の観光客が訪れる。ぼくは一ヶ月前に客席の予約をしたので、ベストとは言えないが、舞台で演じる人たちの表情が最もよく見える最前列の席を確保することができた。

 さすがにフラメンコの本場だけあって、観客もフラメンコをよく知っている。舞台にあわせて「オーレ」の掛け声が絶妙に決まる。歌舞伎の舞台で演技にあわせて客席から役者の名前を呼ぶのは難しいと言われるが、同じようなものだろう。だがフラメンコの舞台は歌舞伎のように形式ばってはいない。観客との一体感が強く感じられる。

 舞台がはじまってすぐにぼくが気付いたことがあった。舞台で踊っている長身の若い男性に見覚えがあった。パンフレットを見ると、14人の踊り手たちの欄で一番下にファン・アントニオ・ヒメーネスとある。数日前にセビリアで最も有名なタブラオ「ロス・ガジョス」でトリをとっていた踊り手である。(ちなみにタブラオとは、スペイン語で「板」や「壇」を意味する「タブラ」に由来する言葉で、ワインなどを飲みながらフラメンコを鑑賞できる小規模な店のことをいう。踊り手たちが激しく靴で打ち付けるタブラがあるからである。)そういえばその時、ガジョスで観た踊りとよく似ている。ガジョスを最後の練習の舞台としていたのかもしれない。ぼくがガジョスに入った時、入り口のすぐ近くにある階段の昇り口に椅子を据えて腰掛けていた若い男性がいた。トイレがどこか聞くと「二階にあるよ」と気さくに答えてくれた。その彼がビジャマルタ劇場の中央で見事に舞台を務めていた。そう気付いた直後、彼と目があうと、彼はにっこりとほほえんでウインクしてくれたように見えた。舞台の数日前に会った時と同じ服装をしていたので、先日と同じ日本人が観に来てくれていると気付き、「ようこそ」と言ってくれていたのだろうか。あるいは気のせいかもしれない。しかしそう思わせるくらいの一体感が舞台と観客席にあったのは事実だった。そして彼らの舞踏は力強く、迫力があった。本場のフラメンコとは、かくも深いものかと感じられた。踊り手のひとりひとりが、有名なタブラオでトリをとれるほどの名人である。そんな彼らが集まっての舞踏団が悪かろうはずがない。

 翌日の地元紙を見ると、一面と文化面にヘレスの記事と写真が大きく掲載されていた。その記事いわく、「クリスチ−ナ・オヨスは劇場を超満員にし、成功裏にヘレスのフェスティバルが始まった。彼女の前回の舞台とはまったく異なって踊り手は激しく舞台を動き回り、本当の名人の芸術に我々を引き込んだ」。別の新聞には、「クリスチ−ナ・オヨスはビジャマルタ劇場の女主人だった。音楽の箱を通して、アンダルシアの鉱業を物語った」とあった。彼女の舞台は地元の人々にも深い感動を与えたようだった。

 さらに付け加えれば、オヨスは舞踏が終わった後、客席からの満場の拍手に答えながら「文化は断固として戦争に反対する」と書かれた横断幕を持ち、場内の人々とともに、「ノー・ア・ラ・ゲラ(戦争にノーを)」と声をあげたのだった。

 翌28日の舞台は、マリア・デル・マール・モレノという長い名前の女性バイラオーラ(踊り手)の舞台である。そのタイトルは「9月」。子どもを亡くした女性の哀しみを切々と歌い上げたステージだった。マリアとその夫の哀しみを周囲の人たちがなんとかまぎれさせようとするが、しかし彼らの哀しみはとどまるところがない。前日の大人数の舞台とは違って、この日は少人数の、いかにもフラメンコらしい舞台である。翌日の新聞には、「マリアがヴィジャマルタを落葉で満たした」とあった。

 続いて3月1日の舞台は、ラファエル・アマルゴという男性バイラオーレと彼の舞踏団の舞台である。タイトルは「ニューヨークの詩人」。舞台の下には客席を取り除いてピアノが置かれ、その脇にはトランペットやバイオリンの奏者が陣取る。これまでとは違った舞台の雰囲気である。その予感どおり、詩の朗読で始まった舞台はあたかもアバンギャルドな演劇のごとく、数人の踊り手が抽象的な音楽にあわせて舞台を縦横無尽にかけめぐる。だがやはり舞台はニューヨークである。様々な文化のるつぼであるアメリカをテーマにしただけあって、フラメンコをベースにしながら、モダンジャズやバレエ、フォルクローレなど多様なダンスや音楽を取り入れた楽しい舞台が繰り広げられた。翌日の新聞記事の見出しは、「ロルカが戻ってきた」。アマルゴの舞台は、ガルシア・ロルカの詩集『ニューヨークの詩人』に触発されて創作されたことを踏まえたものだ。昔ながらのフラメンコを愛するファンからすれば、「これがフラメンコか」というような舞台かもしれない。しかし今、タブラオで上演されているフラメンコも、一世紀前と比べれば大きく変化しているはずだ。そんな、新しい時代を予感させる舞台だった。

 ぼくがヘレス・フェスティバルを観たのはこの三日である。わずか三日間だったが、しかしぼくたちが考える、いかにも伝統的な少人数のステージあり、アンダルシアの歴史をフラメンコにとけ込ませて見事な芸術に昇華した舞台あり、さらに他の踊りの文化を融合させた新しいフラメンコありの、バラエティに富んだフェスティバルだった。

 セビリアでは一ヶ月間に十回以上もフラメンコを鑑賞した。しかしそれは、ロス・ガジョスのようなタブラオだけでではない。ぼくも今回スペインへ来るまでは、フラメンコはタブラオで観るものだとばかり思っていた。しかしそうではなかった。やはりタブラオは観光客相手のステージで料金も比較的高く(ガジョスで1ドリンク付き27ユーロ、約3500円だった)、地元の人が訪れることはまずない。ガジョスで観るフラメンコのレベルは確かに低くはなく、短期間の旅行であれば、十分に満足できるものである。しかし残念ながら、それ以上のものでもない。ではどこで観るか。

 芸術の一分野と位置づけられたフラメンコは今や、立派な文化ホールで観る時代となっていた。セビリアには公立のテアトロ・セントラル、銀行のメセナの一環であるエル・モンテといったホールがあり、そうした会場で毎週のように名人芸が繰り広げられるのだ。だが残念ながら、インターネットでチケットの予約や購入はできない。数日前に発売される前売り券を並んで買うしかない。だから地元の人たち(もちろんこの中にはセビリア在住のぼくたちも含まれる)しか観ることができないのである。しかもチケットは8ユーロから15ユーロ、日本円にして1000円から2000円ほどである。

 例えば、テアトロ・セントラルで観た、マイテ・マルテイン&ベレン・マヤのステージ。甲高くて変幻自在なマイテのカンテはとても人間技とは思えないほどである。マヤのバイレは、はじめはバイオリンの調べに乗せてモダンバレエのように進行する。やがて劇が展開するにつれて、踊りもあでやかに変わり、フラメンコの激しい舞台へと移る。それはさながらフラメンコという言葉を使った一幕の芝居を観ているようだった。

 あるいはエル・モンテで聴いたトマティ−トのギターの調べ。他の舞台でも数多くのギターの名人芸を聴いた。しかしギターの本場で自分の名前のステージを持つためには、巧いだけではだめなのだ。そこには独特の哀愁に満ちたトマティート節があった。

 スペイン日記第6号ではフラメンコ教室について書いた。それを読んだセビリア在住の女性から、次のようなメールをいただいた。

「フラメンコを実際に表現することは、その人それぞれのものであって、日本人として表現するフラメンコと、ジプシーの人たちが腹の中にいる時から死ぬ時まで触れている濃ぃ〜いジプシーたちの生活の中から生まれるものとは、やはり違うものがあると思うのです。到底私には理解できないと思うな。もちろん近づきたい、もっと理解したいと思いますが。

日本人の人には本当に上手なフラメンコのアーティストがたくさんいますが、ヒターノの人がシギリージャやソレアを踊る時にするような、口をとがらせて、顔をしわくちゃにして、髪を振り乱しながら苦しむぅ〜っていう表情は、日本人の生活の中では出てこないと思うのです」

 彼女はフラメンコを学ぶためにスペインに渡り、スペイン語をマスターし、フラメンコの唄も習った経験がある。だがフラメンコを理解すればするほど、フラメンコの奥の深さを知り、やがてフラメンコを断念したのである。

 喜ぶ時には両手を広げて笑顔を振りまき、悲しむ時は胸をかきむしりながら嗚咽する。感情をダイレクトに表現するフラメンコの魅力は、生身でむき出しの人間が感じられるところである。フラメンコを多少でも愛する人々の胸には、それぞれのフラメンコがある。彼らがフラメンコを演じるためには、それを自分自身の中から汲み取って表現するしかない。つまりフラメンコとは人生そのものの謂いなのである。

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