スペイン日記F

<オリ−ブの墓標>

「私は幼い頃、グラナダのベガ(沃平野)にある、とても無口だが香りのよい村で暮らした」

 スペインで生まれ、世界的に最も有名な詩人のひとりであるフェデリ−コ・ガルシア・ロルカは1889年6月5日、アンダルシア州グラナダ県のフエンテバケ−ロスという小さな村で生まれた。

 ロルカはスペインの風土に根ざした多くの詩集、そして戯曲を残した。そのひとつに例えば、フラメンコがある。その唄は口承で受け継がれてきたものだが、20世紀に入ると古い文化は見捨てられ、フラメンコも衰退していた。音楽の才能にも富んだ彼は、フラメンコにすぐれた古老たちから様々な唄を取材し、『ジプシ−歌集』、『カンテ・ホンドの詩』と題して詩集にまとめた。それだけでなく、大規模なフラメンコ・フェスティバルもスペインではじめて開催し、フラメンコの復興に尽くしたのである。また彼の詩で代表作のひとつは、稀代の人気闘牛士が闘牛で死亡した事故を題材にとっている。さらに彼は著名な戯曲の作家でもある。スペインの土着的な風土と人間を描いて、『血の婚礼』、『イエルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』など、映画化されたり、今でも世界で盛んに上演されたりする数々の戯曲を残している。

 グラナダの中心部からタクシ−で30分ほど走ると、そこは一面が緑の畑で、豊かな田園地帯が広がる。白樺のような木も整然と植林され、風景のアクセントになっている。豊穣で昔ながらの古い土地柄を想わせる。車はフエンテバケ−ロス村に入ったことを示す看板を過ぎて5分ほどで、村の中心となる広場に到着した。その隣にロルカの生まれた家が残され、今はガルシア・ロルカ記念館として公開されていた。

 一階は椅子やテ−ブル、ベッドなどがその頃のままに保存されている。こじんまりとして大きくはないが、暖炉やアップライトピアノ、そして庭もある。両親とも教師などの仕事を持つ知的で恵まれた家庭であり、その頃のこの村の家としては立派なものだった。時には一家で暖炉を囲んだのだろう。金持ちではないが、しかし暖かな家庭を想わせた。小学校時代の写真もあった。全校生徒あわせて数十人という小さな学校である。その写真の最前列中央に、女の子かと見間違うかわいらしい子どもがいた。その子がロルカだった。

 フランコ政権時代のスペインでは、ロルカの名前を口にするのもはばかられたという。しかしフランコが死亡した1975年以降スペインの民主化が進み、それとともにロルカの作品も復権した。フエンテバケ−ロスには彼の名前を冠したロルカ劇場も作られ、彼の作品を中心に上演されている。グラナダ市内にはロルカ公園も造られた。一面にバラの木が植樹され、お年寄りが散歩したり、こどもたちが遊びに興じたりしている。その一画に、彼が1927年から36年にかけて毎年の夏を過ごした家が、やはりロルカ記念館として公開されていた。

 ロルカの生家もそうだったが、見学は自由に出来るシステムにはなっていない。係員の説明がついて、一日何回かの決められた見学時間があり、それ以外は家の扉は締められている。事前にそれを調べて夕方の時間に訪ねてみた。ところが係の人は、「きょうはいっぱいだから、あしたまた来て」と言う。そんなことを言われても、翌日は朝にグラナダを発つ予定である。「あした帰るから」と粘ってみると、なんとかその日最後の見学グループに入れてくれた。一時間ほど時間をつぶして訪れてみると、係員がそう言った理由がわかった。ふつうの家なので、一度に十数人が入れば部屋はいっぱいになるのである。この日は、たまたま学生たちのグル−プが入場を予約していたので、ぼくはあやうく見学できないことになったかもしれなかったのだ。

 この家も、ロルカが滞在した頃そのままに保存されていた。豪邸ではないが、しかしグランドピアノが置かれたサロン、快適なソファで十人程度はくつろぐことのできる応接間、施設が整った台所、そして二階にはロルカの書斎。使いやすそうな大きな机、そして質素だが座り心地のよさそうな椅子があった。窓から望む風景は、今は大きなビルができて遮られてしまったが、ロルカが生活した頃はシエラネバダの山並みが一望できたという。ロルカは冬の間に各地を旅行して取材し、夏にこの家にこもって執筆活動に励んだ。アメリカに滞在した時に書かれた『ニュ−ヨ−クの詩人』を除いて、彼の主な著作はこの家で書かれたという。この家には彼の家族とともに滞在した。「恋は魔術師」などの作品で知られるスペインを代表する作曲家のファリャはロルカの友人で、彼も度々訪れては、ピアノを弾いたという。家族と友人に恵まれたロルカがしのばれた。

 だが、彼が今もその名を残すのは、その業績のゆえだけではない。スペイン市民戦争が戦われていた最中の1936年8月19日、彼はフランコ将軍ひきいる反乱軍の手により銃殺されたのだ。ロルカは共産主義者でも、アナ−キストでもなかった。彼は詩や戯曲などで反乱軍を批判したりしたわけでもなかった。それどころか、彼は右翼と目される人物達とも親交があった。だからロルカは、アメリカに亡命してはどうかという誘いを断ったりもしている。彼は当初、自分がフランコ派から命を狙われるとは思っていなかったのである。しかし内戦が激しさを増す中で、ロルカも身の危険を悟り、軍隊にも顔が利くグラナダの有力者のもとに身を寄せた。しかし反乱軍はそれをものともせず、ロルカを拘束し、悲劇の最期を迎えたのである。

 なぜ反乱軍はロルカを殺害したのだろうか。ロルカはスペインの土着の思想を受け継ぎながら、その中から魂の自由を求める人々の声を代弁したのだと、ぼくは思う。反乱軍にとってマルクス主義は外来思想であり、キリスト教会や大地主など、従来の保守的な勢力にとってわかりやすい敵である。しかし土着の人々から自由を求める声を汲み取るロルカこそ、一見敵とは見えないが、しかし実は最も手強い敵対手となりかねない。反乱軍はそう直感したのではないだろうか。

 ロルカが殺害された地を目指すことにした。今ではそこもロルカ公園となっているらしいが、詳しい地名がわからない。グラナダ市内のロルカ公園でお年寄りに、「ロルカが亡くなった地であるロルカ公園を知りませんか?」と聞いてみた。しかし彼らは、「ここがロルカ公園だ。彼が死んだ場所なんか知らないよ」としか答えてくれなかった。公園の係員に聞いても、そんな公園は知らないというばかりだ。あいにくこの日はロルカ記念館の定休日で、詳しい人も近くにはいない。近くのタクシ−乗り場で、人のよさそうな運転手さんに聞いてみると、行ったことがあるという。

 そのタクシ−で、時速120キロで飛ばして約30分。シエラネバダの白い山並みを横目に見ながらアルファカ−ルという山村に到着した。村の住宅は比較的新しく、市民戦争の頃にはほとんど住民はいなかっただろうと思われた。車は村の集落を通り抜けて山地を目指す。ごつごつとした岩肌の間を縫うように、ところどころに潅木が見られる荒れ果てた山だ。その山間に、目指すロルカ公園はあった。公園とは言うものの、丸い広場の正面にロルカの詩の一部を書き込んだ陶板8枚があるだけだ。公園の入り口には、次のような文章が書かれた銘板があった。

「この公園はフェデリ−コ・ガルシア・ロルカの想い出、そしてすべての市民戦争の犠牲者に捧げる。1986年4月27日、D.フアン・ウルタド・ガジャルド・グラナダ県知事のもとに落成式が行なわれた」

 そんな文句があるだけだった。特別なロルカ追悼の文も、そして彼の墓もない。公園とは名ばかりの、荒れ果てた山の中。その公園の片隅に、樹齢が数十年にもなろうかというオリ−ブの古木が1本あった。木の周囲は1メ−トル80センチ、高さは3メ−トルにも達する。その木肌はごつごつと荒れ、長年の歳月をしのばせる。彼が銃殺されたあとには、オリ−ブの木が植えられたという。そしてこの公園こそ、その場所である。そして公園内にある他のオリ−ブは若い木ばかり。そこには何も書かれてはいないが、確かにロルカはこの木の下に眠っているのだ。

「緑よ/私は緑を愛する/緑の風よ/緑なす枝よ/海に浮かぶ舟よ/山に遊ぶ馬よ」

 緑を愛した詩人が眠るのは、緑ゆたかなグラナダのベガではなかった。その跡を示すものは、長年の風雪に耐えたオリ−ブの墓標だけだった。タクシ−の運転手さんに聞いてみると、「ロルカの家を訪ねる観光客はいても、ここまで来る人はほとんどいません」とのことだった。

「もしも私が死んだなら/バルコニ−の窓を開けたままにしておいておくれ/こどもたちがオレンジを食べる(私のバルコニ−からそれが見える)/農夫が小麦を収穫する(私のバルコニ−からそれがわかる)/もしも私が死んだなら/バルコニ−の窓を開けたままにしておいておくれ!」

 そう詠んだ彼の願いはかなえられなかった。確かに彼の生家や夏の家は記念館として残され、ロルカ公園も整備された。ロルカ劇場も地元にできた。しかしぼくは気付いていた。記念館で係員があれこれ説明するのは、彼が活躍した時代のことであり、彼の作品についてであり、しかしそれがすべてだった。彼がなぜ、どのようにして死んだのか、ひとことも付け加えられることがなかった。市民戦争について、説明文の一枚もなかった。もちろん聞けば、その事実関係は答えてくれただろう。しかしぼくは、あえてそれを聞かなかった。ロルカが生きた証は確かにある。しかし彼の死はいまだにスペイン人の心に一定の位置を占めてはいない。ぼくに、「ロルカの墓なんかないよ。この公園があるだけさ」と語った老人たちの言葉は、今なお残る市民戦争の傷の深さを語るものだったのかもしれない。

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