スペイン日記E

<ロマ(ジプシー)の魂>

「トントン、トトトン、トト、トン、トト、トン」

 セビリアの古い街並みの一画に、ぼくが訪れたフラメンコのダンス・スタジオはあった。広さは小学校の教室ほどで、この日の生徒は女性ばかり10人だった。部屋に響くのは、全員の靴がそろって床を打つ小気味よい音だ。先生は、28歳のミゲル・バルガスさん。ステ−ジでも活躍する人気の踊り手だ。肌は浅黒く、長い黒髪を後ろで束ねている。笑顔はアメリカ人俳優のブラッド・ピットにも似ているナイスガイだ。

 レッスンはまず、基礎練習から始まる。生徒たちは前方の壁全面を使った鏡で姿勢を確認する。最初は、先端とかかとに小さな釘をたくさん打ち込んだ専用の靴で床を踏みならす「サパテアード」、そして腕を大きくまわす「ブラソ」。この段階ではまだ基礎的なテクニックなのだが、それだけでも踊りとして様になっている。哀愁を帯びたフラメンコの空気がスタジオ全体を包みこむ。流石はフラメンコの本場だ。徐々に身体がほぐれてくると、今度は連続して何回もくるくると身体を回転させる練習を繰り返す。ミゲルは生徒たちの間をまわりながら、「頭に注意して」とアドバイスしている。重心がぶれないようにしなければならないからだ。生徒たちを指導しながら、ミゲルは常に小気味よいサパテア−ドのステップをかかとで打ち続ける。

 アンダルシアはフラメンコ発祥の地であり、その州都セビリアはフラメンコが盛んだ。有名な踊り手が主催する人気のフラメンコ教室だけでも10ほどあり、それ以外の教室も含めると数え切れないほどだという。その有名なうちのひとつがミゲルの教室だ。今、在籍している生徒は全部で20人。このうち常時来ているのは10人ほどだ。大半が女性、そして日本人である。ぼくが見学した日も、レッスンに来ていたのはイギリス人とスイス人、それに韓国人のあわせて3人の他は7人が日本人だった。ほかのフラメンコ教室でも生徒の多くが日本人だという。そして踊る技術が巧いのも日本人だ。ミゲルのクラスでも、日本ではステージに立っている人やフラメンコを教えている人、つまりプロが二人いた。その他の生徒たちも本場で学ぼうというだけあって、フラメンコ歴の長い人たちがほとんどだ。そのクラスの人たちでも、ミゲルの教室ではまだまだ習うことが多い。日本でプロとして通用するレベルと、本場のレベルの差は、素人のぼくが見てもかなり歴然としている。

 教室は平日の午後三時間。ミゲルの教室の月謝は約400ユ−ロ、日本円にして5万2000円ほどだ。日本のフラメンコ教室と比べれば半額以下だが、人気講師だけあってセビリアでは高い方だ。どこの教室もだいたい前半が技術の時間、後半が踊りの振り付けとなっている。教室によって教えている振り付けの唄が異なるため、その時々に教えている曲目にあわせて教室を移る生徒もいるという。

 話をミゲルの指導風景に戻そう。踊りの振り付けに移った。日本人ギタリストによるギターの伴奏にあわせて、ミゲルが歌いだす。動きの硬い生徒には「もっとリラックスして!」と指導する。曲のテンポが速くなってくると、まるで機関銃を撃つかのように、靴で床を打ち鳴らす音が部屋中に響き渡る。練習が進むにつれ、途中で足が痛くなって足をとめる生徒もいる。そんな生徒には、ミゲルが「ダイジョウブ?」と片言の日本語で語りかける。

 この日、振り付けた唄は「シギリ−ジャ」。フラメンコの中でも最も奥が深いと言われる代表的なジャンルのひとつだ。時折、踊りの足を休めて、ミゲルが唄の内容を生徒たちに説明する。この日のシギリージャは、罪を犯した夫を持つ妻の嘆きの唄である。妻は夫を牢屋から出すために街をまわり、人々に金をめぐんでもらう。「お金を下さい」と頼んで回っているという唄だ。歌詞の中で「悲しみが大きくなる」というフレーズが何度も入る。ミゲルは外国人の生徒たちに、歌の意味をわかりやすいスペイン語や英語に翻訳しながら、その解釈を丁寧に説明する。フラメンコの歌詞には、一般のスペイン語にはない言葉も多く、外国人はもちろんのこと、スペイン人にもわかりにくいことが多い。それはフラメンコが、一般社会から差別されたジプシーの文化だからだ。時々ミゲルは「唄の違いがわかりますか?」と聞く。別の唄のことを言っているのではない。同じ唄の歌詞なのに、その時々で唄い方が微妙に違うのだ。それが日本人にはなかなかわからない。だがそれを聞き分けて踊りに反映させねばならない。 

 ちなみに「ジプシー」という言葉は「エジプト風」という言葉を起源とするが、日本のマスコミなどでは差別用語の一種だとされ、「人間」という言葉を意味する「ロマ族」という言葉を代わりにあてている。しかしスペインのジプシーたちは自らのことを、自信を持って「ジプシー」(スペイン語では同じ語源の「ヒターノ」)と呼んでいる。ミゲルも自らをジプシーの一員と呼んでいることから、ここでは「ジプシー」という用語をそのまま使うこととする。

 話を戻そう。日本人女性の生徒から「タイミングがうまくわからない」と質問が出た。ミゲルは「唄にアクセントがあります」という。手拍子にアクセントをつけて間合いを確認しながら、わかりやすく説明する。

「ちょっとむずかしいけれど、唄にあわせて。あせらないで」

 ギタ−と唄にあわせて微妙な間合いを練習する。まだ20歳台というのに、ミゲルの指導は的確で、しかも彼が踊りだすとその場の空気が彼に支配される。毎日のフラメンコ教室をこなしながら自分のグル−プを持ち、年に何回かは世界各地へ公演旅行にも出かけている。フラメンコには「アレグリア」など楽しいジャンルも確かにある。しかし孤独を唄う「ソレア」、そして人生の哀しみを歌う「シギリージャ」など、深く重い曲がやはりその神髄である。若くして名声を得たハンサムなミゲルには似つかわしくないように思える。彼はどうやってフラメンコを自分のものとしたのだろうか。

 ミゲル・バルガスは1975年、南米のベネズエラに生まれた。実は彼は、スペイン人ではなかった。ミゲルは物心がつく前にドイツ人の養父母にもらわれ、ベネズエラからドイツへ渡った。養父は大学教授、養母は心理学者である。両親はミゲルに音楽の才能を認め、ピアノやフルートなどを習わせた。同時に、ミゲルの故郷ベネズエラの文化にも触れさせたいと考えた両親は、南米と交流の深いスペインの文化に触れさせた。そして6歳の時、フラメンコに出会ったのだった。

「小さい頃は『お前はみんなと違う』とからかわれました。白い肌になりたかった」

 肌の色が褐色で、顔立ちも白人と違っていたミゲルは、それが嫌だったし、はずかしかった。彼は踊ることで、そんなうっぷんを発散させた。はじめのうちはフラメンコのレッスンに通っていたが、すぐに教室には行かなくなったという。というのも教室は基礎のレッスンばかりで、彼はすぐにマスターしてしまい、それ以上吸収するものがなくなってしまったからだった。結局ミゲルはビデオを観てフラメンコをマスターしたという。たちまち上達した彼は、わずか12歳でフラメンコのプロとして踊りだし、さらに人に教えたりするようにもなった。

「それとほぼ同時に、まわりのみんなと違うことについてのコンプレックスを感じなくなりました。自分の肌の色が逆に良くなったんです」

 フラメンコで自分自身を発見し、自分に自信を持つようになった。それはジプシ−の歴史にも似ていると、ミゲルは言う。ジプシ−も差別され、迫害されてきたが、フラメンコを生み出すことで自信が生まれ、誇りに変わったからだ。

「どうしたら、そんなに巧く踊れるんですかって聞かれることがあります。でもぼくはジプシーの唄を聞き、それを踊りで表現するのに、何の苦労もなかった」

 ジプシーの歴史は、「お前は変だ」と言われてきた自分の歴史と重なる。だからジプシ−の心が理解できるというのだ。ミゲルは19歳でスペインに渡った。やがて彼はジプシ−の女性と結婚し、ジプシ−の家族と暮らすことで、ジプシ−のことがよりよくわかるようになったという。妻のエスペランサ・フェルナンデスは有名なフラメンコの歌い手で、CDも多く出している。

 ミゲルは、実の両親のことは何も知らないし、知りたくもないという。出生についてこだわらない彼に、あなたの国籍ははいったいどこかと聞いてみた。しかし彼にとってそんなことは答えるに価しないことのようだった。

「ぼくはベネズエラで生まれてドイツで育った。妻はスペイン人で、スペイン国籍をとろうと思えばとれるだろうが、そんなことはどうでもいいと思っている。どんな国の文化でも、自分に合うように受けとめるだけだと思っていますから」

 その言葉は確かに、流浪の民であるジプシーの魂のように思えた。確かにジプシーの魂を受け継ぐミゲルには、フラメンコの魂も引き継がれてゆくだろう。しかし、貧しさや飢えを知らない今の時代の人々に、しかも外国人である日本人にフラメンコは理解できるだろうか。

「確かに昔のフラメンコは、今とは違っていただろうと思います。しかしどんな時代になっても人間に感情はある。自分の感情を通じてどんな文化でも理解できる。昔のフラメンコも、自分の感情を通して理解できる」

 ミゲルは教室でフラメンコの技術を確かに教えている。しかしそれだけではもちろんない。彼は、生徒たちが胸の奥にしまっている感情を、踊りという形で引き出すことこそ、フラメンコそのものだと言いたいのだ。

「たくさんの生徒に教えているが、私は人々の内面にあるものを信じている。彼らに私のすべてを与えています」

 多くの日本人を教えてきたミゲルは、「日本は感情を見せない文化だと思う」という。自分自身の感情を表現するのがうまくない。だからこそ、逆に日本人はフラメンコに惹かれるのだろうと彼は言う。

 ミゲルの教室を振り返ってみた。日本人の生徒のほかに、イギリス人、スイス人、そして韓国人の生徒たち。ギタリストは日本人。そして先生のミゲルも国籍はスペインではない。フラメンコの本場で本格的なフラメンコに打ち込んでいる人たちはみな、異邦人なのである。これこそ流浪の民たるジプシーの文化だ。人々の心の痛みを理解し共感することがフラメンコであり、そのフラメンコに外国人では日本人が最も多く惹かれるというのなら、日本人もまんざら捨てたものではないはずだ。

 ミゲルにはこどもがふたりいる。3歳の長男は、すでにフラメンコを踊り、ギタ−をかきならすという。

「将来の夢?第一に健康です。踊ることで、好きなことで生きている。これまで順調に来られた。これからもそうありたい。それだけです」

 そう語るミゲルには、何の気負いもなかった。スペイン語が十分に理解できないぼくに英語を交えながら、「みんなフラメンコを踊れる。それは、感情があるからだ」と熱く語ったミゲルの笑顔がいつまでも胸に残った。

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