スペイン日記C

<うまいもの〜じゃがいも篇>

「卵は入っているの?」

「もちろん、入ってないさ!」

 トルティージャ・デ・カマロネス、日本語に訳せば小エビの卵焼きを目の前にしたぼくに、小太りのカマレロが説明してくれた。カマレロとはウエイターのことだが、白シャツに紺色のベストを着てくちひげをはやした愛想の良いおじさんは、気取った感じのする「ウエイター」と言うよりも、スペイン語の語感そのままに、「カマレロ」と言うしかない感じがする。それはさておき、目の前のトルティージャは、日本のお祭りの屋台で売っている小さなお好み焼きのソースをかける前、または韓国のお好み焼きに似ている。あるいは鹿児島名物の薩摩揚げといった風情である。大きさは手のひらより少し小さめで、クレープより少し厚い程度の薄さ。表面は食欲をそそるように、薄い焼き色がついている。まわりのスペイン人はナイフとフォークで食べているが、ぼくは四六時中どこへでも持参しているマイ箸で、さっそくトルティージャに手をつけた。まわりの部分は油で揚げたようにぱりぱりと焦げ目がついている。熱々のトルティージャをほくほくしながら口に含むとカリカリとして歯ごたえがよい。それと同時に、小エビを焼いた香ばしいかおりが口中に広がる。強いて例えれば、かっぱえびせんの風味。もちろんそれより何十倍も豊かなかおりだ。中に入っている小エビは、アミジャコより少し大きな程度で、そのシャキシャキとした歯ごたえも心地よい。そのあと、むちむちとしたでんぷんの甘みが口いっぱいに広がった。じゃがいもをすりおろして加熱すると、でんぷんが固まって弾力が出る。そのままゆでたり、焼いたりしたのとはひと味違った味わいとなる。材料はじゃがいもと小エビ、それにニンニクとたっぷりのオリーブオイル。そんな、卵の入っていない卵焼き。トルティージャを辞書そのままに日本語に翻訳するとおかしなことになるが、しかしそんな単純な料理が、自然の恵みをストレートに伝えてくれる。

 このトルティージャ・デ・カマロネスが名物なのが、スペインのほぼ南端にあるアンダルシアの港町、カディスだ。紀元前11世紀の昔から良港として栄えたカディスは、コロンブスのアメリカ大陸発見により、スペインと新大陸とを結ぶ窓として繁栄した。今も漁業の一大中心基地として栄えている。それだけに、海の幸は豊富である。ぼくが通っているセビリアの語学学校の先生たちも、うまい魚が食べたくなったら、バスで一時間半かけてカディスまで出かけるというほどである。そんな話を聞くと、魚好きのぼくがでかけないわけにはいかないのである。

 カディスの旧市街は半島に突き出ている。雲ひとつない、紺碧の空が広がり、強い日差しが照りつけていても、潮風が町の通りを駆け抜ける2月のカディスはかなり寒い。しかし海岸にほど近いカディスの生鮮市場は、訪れたのが土曜日の昼前だということもあってか、たくさんの買い物客でごった返していた。それも観光客ではなく、地元の客が大半である。学校の体育館をさらに大きくしたような建物の中に、たくさんの商店が軒を連ねている。肉も野菜も豊富にあふれている。しかしなんといっても圧巻なのが、魚屋の一画だ。店先に並べられた、木や発泡スチロールのトロ箱から、鯛やひらめ、ホタテ貝や車エビが溢れている。マグロ一本をそのまま輪切りにして売っている魚屋もある。日本では、大都市の卸市場で見られるような光景が、そのままこの市場なのだ。刺身で食べたら舌がとろけそうなマグロの大トロや中トロもごろごろしている。しかもその値段が、驚くほど安い。例えば、生きの良い車エビが1キロで650円、肉厚の大きなはまぐりが1キロ400円ほどである。

 市場を出ると、通りをはさんでバールやメソンが軒を並べる一角があった。バールとは、スペイン特有の大衆的な飲食店のことである。メソンもバールとほぼ同じ意味だが、バールと比べてより専門的に料理を売り物にしている店のことを言う。店の軒先にはトロ箱に入れた魚介類を出し、客の注文に応じてその場で料理している。そんな光景を目の当たりにして、店に入らないわけにはいかない。通りに面して細長く、大きな引き戸の入り口がすべて開け放たれている「メソン・ラス・ブリサス」というメソンに入ってみた。日本のお寿司屋さんにあるような、陳列のケースがカウンターにしつらえられ、魚や料理を選べるようになっている。椅子も置いてあるが、立って食べるのがスペイン流だ。狭い店内は大勢の客でごった返している。

そんな店でぼくがまず注文したのは、通りに面した軒先で、台の上に山と積まれた紫色のウニである。エプロンを着けたおじさんが、手際よくウニを半分に割り、殻つきのまま大きな皿に載せて出してくれた。スプーンですくって食べると、とろんととろけて甘い。潮のかおりが大西洋を感じさせてくれる。ウニ10個で600円。1杯100円の白ワインと絶妙にマッチする。

 ふと見ると、まるまると太ったイカをゆでてオリーブオイルで味付けしたものを、カマレロがカウンターに置いた。日本の小料理屋さんで見られるように、大きな鉢に料理を入れて客に見えるように出すのである。今できたてで、ゆげのたちのぼるイカを一匹、さっそく注文した。ぷりんとした白イカの弾力が心地よい。200円弱。オリーブとニンニクの香りが確かにスペイン料理を感じさせるのだが、まったく油臭さを感じさせない。新鮮な魚介類のうまさをそのまま引き出している。ムール貝をゆでたもの、エビフライなどを味わって、ふつうなら超満腹のところだが、これだけうまいと、ほかのメニューを注文せずにセビリアに帰るのがもったいなくなってくる。他のお客さんが頼んだものを眺めながら注文したのが、くだんのトルティージャ・デ・カマロネスだった。

 かつて、「いも」は貧しさの象徴だった。日本でも、「どんなに腹が減っても、いもだけは食べない」というお年寄りに出会ったことがある。戦争中にいもしか食べるものがなかった記憶が今も消えず、いもを食べるとあの頃を思い出してしまうというのだ。値段が安くて、やせた土地でも栽培できるじゃがいも。そんなじゃがいもは、スペイン料理に欠かせない食材である。じゃがいもを使うトルティージャはスペインの名物料理のひとつだ。しかしカディスのトルティージャが、カディスだけのものであるように、全国で味わいが異なり、店によっても材料や味付けが異なる。

 マドリッドのマヨール広場近くに、トルティージャで有名なメソンがある。その名も「メソン・デ・ラ・トルティージャ」である。夜10時過ぎに、洞穴のような趣向の店内に入ると、おおぜいの地元の人たちで賑わっている。学生らしい若い人たちのグル−プも、年配の夫婦も、仕事帰りのビジネスマンもいる。名物のトルティ−ジャは、ほわっとふっくらした焼き加減。マッシュしたじゃがいのほかに余分な野菜は入れない、シンプルな作りである。それが卵とじゃがいものおいしさを引立てている。

 セビリアでぼくが毎日のように通うバール「カサ・ブランカ」は、魚介類がめっぽう旨く、毎日深夜まで、おおぜいの客でごった返している。そこで出してくれるトルティージャもまた、独特の作り方だ。ゆでたじゃがいもを短冊状に切り、木の切り株状に焼き上げたトルティージャをケーキのように切って出してくれる。何種類ものスパイスが効いた風味豊かなトルティージャは、この店独特のものだ。

 トルティージャではないが、語学学校と道路をはさんで向かいにあるバール「アルカデロ」は、日替わりで色々な料理を出してくれる。「できたばかりだから食べてみないか」と料理人のおじさんに薦められたのが、「肉じゃが」ならぬ、「いかじゃ」がである。肉のかわりにいかを入れたような料理だが、いかの風味とじゃがいもがぴったりとマッチしていて、確かにスペイン料理なのだが、日本の家庭料理を思い起こさせる。

 こうしたじゃがいも料理ばかりでなく、スペイン料理は幅と奥が深い。ホウレンソウをエジプト豆と呼ばれる大豆ほどの大きさの豆と煮込んだ、エスピナーカ・コン・ガルバンソウ。小イワシをマリネしたものに衣をつけて油で揚げたアドボ。椎茸ほども大きさのあるマッシュルームを焼いてドレッシングで味付けしたもの。日本でスペイン料理というとパエーリアとガスパチョスープが代表的な料理として有名だが、そんな典型的な料理の枠にとらわれない豊かな食文化が、街中のバールやメソンに溢れている。しかも日本のレストランで食べれば一皿1000円程度はするような料理が、一皿200円としない。確かに日本と比べればサラリーマンの給料は安く、住宅事情も厳しくなってきてはいるものの、スペイン人は豊かな食生活を決して手放そうとはしない。それは贅沢という意味ではなく、新鮮な素材の旨みを引き出しながら、家族や気のおけない友人たちとのおしゃべりという調味料で味付けして人生を楽しんでいるのである。

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