スペイン日記第11号

<元兵士たちとの対話>

 バルセロナの旧市街を貫く目抜き通り、ランブラス通りからはずれて5分ほど歩くとバルセロナ現代美術館に行き着く。ミロ、タピエスなどバルセロナを代表する画家からアバンギャルドな作家まで収集した、カタルニアのモダンアートの殿堂だ。白い壁にガラスとパイプを組み合わせたビル自体が斬新な現代美術になっている。そんなバルセロナの新しい顔とすぐ目と鼻の先に、目指す建物はあった。モダンな美術館を観たあとだけに、細い路地に面した灰色のすすけた6階建てのビルは、いかにも前世紀の遺物という印象だ。そのビルは一階が書店になっていた。店に入り、レジの横にある階段を上ると、そこがCNT・全国労働組合連合の事務所だった。

 CNTは、すべての権力を否定し自由な社会を目指すアナーキズムを労働組合運動によって実現しようとするアナルコ・サンディカリストの労働組合だ。内戦中はその実戦部隊が最前線で活躍し、さらにCNT幹部4人が共和国政府に入閣するなど、フランコの支配が始まるまでは全国的に有力な勢力を持っていた。アナーキズムというと、バクーニンや暴力主義がすぐ頭に浮かぶが、スペインのアナーキズムはそうした外来の思想と、スペイン土着の個人主義が合体したもので、根強い伝統を持っている。スペインで女性としてはじめて閣僚となったバルセロナ出身のフェデリーカ・モンセニーは厚生大臣として封建的な社会制度を改革し、女性や子どもの解放に力を尽くすなど、CNTはその時代に世界で最先端の社会改革に取り組んだ。 

 そのCNTの事務所でぼくを出迎えてくれたのは、内戦時代に民兵だったホセ・ガルシアさんだ。民兵とは共和国の正規軍ではなく、フランコ軍と戦うため組織された一般民衆部隊の兵隊のことだ。1914年生まれで89歳のホセさんは、白髪で大柄な人だ。仕事はずっと金物工をしていたという。言われてみれば、握手してくれた大きくて硬い手は労働者のものだ。父親は、スペイン独特の飲食店であるバ−ルで給仕役、カマレロをしていた。その頃のこととて、彼は大学へ進学することなど考えてもみなかった。仕事を一通り覚えると、19歳で彼はCNTに入った。共産党や社会党系の労働組合ではなく、なぜCNTだったのだろうか。

「友達がみんなCNTだったからさ。両親も喜んでくれたよ」

 工業や商業の発達したカタルーニャ地方では労働人口が多いこともあってアナーキズムが盛んで、バルセロナはCNTの最大の拠点となり、共産党が勢力を伸ばす前はCNTがバルセロナを事実上支配していた時期もあった。ホセさんがCNTに入ったのも、自然の成り行きだったのである。だが22歳の時、内戦が勃発した。ホセさんも民兵として銃を持ち、フランコ軍と戦った。

「悲惨な戦いでした」

 彼は内戦時代の詳細については、あまり語りたがらないようだった。ぼくが初対面で、スペイン語もつたないという理由もあっただろう。だがそれだけでない、深い思いがあるように思えた。バルセロナでは内戦中の内戦と言われた、アナーキストと共産党との激しい銃撃戦もあった。共産党はソビエトの支援を受けて勢力を伸ばし、アナーキズム勢力の排除にかかったからだ。ホセさんは自分の眼で、そうした現実を目撃したはずだ。内戦が終わったあと、ホセさんは2年間投獄された。フランコは、民兵だった人たちはもちろん、共和国を支えた政党や労働組合に入っていたという理由だけで、人々を次々と逮捕したからである。様々な幸運もあって、他の人たちより早く牢を出られたホセさんは、その後も密かにCNTの活動を続けたという。フランコ支配下の時代に、ストライキを企てたりしたことなどを語ってくれた。そして、様々な弾圧にも関わらず活動を続けた頃と比べて、「自由に活動できる時代なのに今のCNTは最悪だ」と、ため息をもらした。話す表情は穏やかだが、今も内心にふつふつとたぎるものがあるようだ。

 ホセさんと同じ席で他に二人の方にも話を伺った。ひとりはホセさんよりひとまわり世代が後のヘスス・ラモンさんだ。1929年生まれの74歳で、内戦が勃発した時はまだ10歳だった。仕事はホテルの警備員などをしてきた。内戦時代を見て「共産党は悪魔だ」と感じ、CNTに入ったという。

もうひとりは内戦の最中だった1937年生まれのアンヘル・リロラさんだ。職業を転々とし、最後はタクシ−の運転手だった。「すべてに反逆するというアナルコ・サンジカリズムに共感した」という。

 ぼくがCNTの今の勢力を聞くと、彼らは笑いながら「質問してくれるな」と言う。それが答えなのだ。政府は労働団体とも様々な交渉を行うが、CNTだけは蚊帳の外に置かれている。CNTが権力を否定するからだ。そうすると、現在の厳しい経済環境の中で、労働者もより有利な労働団体を選択するようになる。日本でも労働団体の総評が勢力を縮小させ、連合に吸収されたのとやや似ている。

話題が内戦時代の共和国政府の話になった。CNTから4人が入閣したことについてホセさんとヘススさんは容認した。様々な社会改革を実行したからだ。しかしアンヘルさんは間違っていたという。無政府主義を唱えて権力を否定するアナーキストが政府の一翼を担うこと自体、自己矛盾だからだ。三人の間で激論になった。アンヘルさんはアナ−キズムの正統派なのに対し、ふたりは改革派だ。青春時代をかけた活動に話が及ぶと、今でも熱くたぎるものがあるのだ。

 別の日に再びCNTを訪ねた。お目にかかったのは1919年生まれのエンリケ・カサ−ニョさんだ。父は技師、母は服を仕立てる内職をしていた。家庭は豊かではなく、小学校を卒業するとすぐにペンキ職人になった。17歳の時に始まった内戦ではCNTの民兵となって前戦におもむいた。

「アナ−キズムは個人を大切にする思想であり、男も女も、子どもも老人も同じ人間だという考え方だ。それが社会の進歩へとつながる」

 そんな信念に突き動かされてのことだった。戦後5年間フランスに逃亡したが、スペインに戻された。しかしこのままスペインにいては命が危ない。1951年から25年間ブラジルへ逃亡した。スペインに戻れたのはフランコが死んだあとの1976年だった。彼が生きる支えとなったのはアナーキズムだった。

「アナ−キズムはモラルであり、生きるための思想だ」

 エンリケさんは84歳の今も、時折CNTの事務所を訪れては、若い人たちと議論を交わすという。

<内戦を生き抜いた女性の物語>

 バルセロナの大聖堂近くに、様々な労働団体が入居する労働会館ビルがある。CNTとは比べものにならない規模で、デパートかと見まがうほどの大きさだ。その二階の一室が、カタルニア反ファシスト政治犯救援協会だった。この協会は、様々な労働団体などが作っている組織で、様々な政治犯に対する救援活動とともに反戦平和活動にあたっている。その運動の中心になっているのは、かつては内戦を戦ってきた人々だった。時代が下って、市民戦争を知る人もほとんどいなくなったが、ぼくが取材したい旨を告げると、内戦時代を生き抜いたひとりの女性が自らの人生を語ってくれた。

ライア・ベレンゲルさんは1920年、バルセロナから15キロほど離れたサン・フェリュウ・デ・コデリネスという小さな農村で生まれた。両親は農家だった。裕福ではないが、自分の土地を持ち、野菜や果物を作っていた。4人兄弟で、内戦が起きた時、長男は20才、彼女は16才、次女は12才、いちばん下の妹は8才だった。自作農だったが、両親は共和国を支持した。両親の友人たちもそうだった。古い勢力を支持する人たちは封建的だったが、彼女の父は違った。家庭や学校では自由が、そして政治には民主主義が必要だと考えていた。ライアさんの両親は、女性も解放されなければならないと考えていた。内戦が始まる頃、服の製造工場で働いていたライアさんはJSUC・カタルニア統一青年社会主義同盟に入った。JSCUは共産主義者のグループや、アナ−キストのグループなど4つのグループに分かれていたが、彼女が参加したのはそのうち社会党員たちのグル−プだった。

開戦と同時に父や兄は志願して共和国のために戦った。兄はマドリッドの戦線で戦った。ライアさんは内戦中に17歳のアナ−キストと結婚した。夫はアラゴン戦線へと旅立った。ふたりの妹は内戦中に病気にかかり、十分な治療もできずに亡くなった。

共和国が敗れると、ライアさんは両親とともにフランスのボルド−地方へ逃れた。歩いてピレネー山脈を越える人たちも多かったが、ライアさんたちはなんとか列車に乗り込むことができた。だが列車に窓はなく、ドアは締められて何も見えなかった。トイレもなかった。食べ物もほとんどなく、5日間をわずかなパンだけでしのいだ。だがフランスで彼女たちスペインの難民は受け入れられなかった。ライアさんはフランスでも警察に追われ、強制的にバルセロナへ戻された。

バルセロナでは、臨時の留置場となっていたビルの駐車場に、大勢の人たちとともに収容された。シャワーはもちろんトイレもなく、食べ物も与えられなかった。ライアさんのおじさんが、留置場を探し当てて食べ物を差し入れしてくれ、何とか生きながらえることができた。だが家族や親戚から差し入れのなかった人たちは何も食べるものがなく、餓死する人もいた。男たちは秘密警察に拷問された。ドイツの秘密警察はスペインの警察に様々な拷問の仕方を教えたのだ。女性は暴行された。そして死刑はなんとなく、いつも理由なく行われた。

 ライアさんの夫も逮捕され10年の刑が下ったが、刑務所から強制的にアラゴンの村へ移され、強制労働させられた。2日間労働し、3日間刑務所の繰り返しだったという。やがて彼らカタルニア人は、モロッコを鎮圧するためアフリカに兵隊として移され、夫はそこで亡くなった。

マドリッドにいた兄は逮捕されたが、収容所から脱走し、フランスへ逃亡した。その後、彼が生きているかどうか、今も知らない。

父は故郷で知人にかくまってもらい、しばらく過ごした。家も土地も政府に取り上げられてしまったからだ。その後、苦労して再び農業に就いた。

ライアさんは目を潤ませながら、自らと家族の人生を語り続けた。

「市民戦争で戦った人々は、民主主義とは何かをよく知っていたと思います。共和国は女性と男性を同じに扱った。だがファシストに対する対応が遅すぎた」

内戦後、ライアさんは服飾工場や食堂などで働いてきた。子どもはいない。今はバルセロナ郊外のアパートでひとり暮しだ。

「スペインはとても高い代償を支払った」

 高い代償を支払ったのは、ライアさん自身だ。だがそれに見合う見返りを彼女はまだ受け取ってはいない。

<国際旅団友好協会>

 バルセロナの都心部にあるウルキナオナ広場近くのビルにADABIC(アダビック)・カタルニア国際旅団友好協会の事務所がある。毎月一回の会合には会長のルイス・マルティさんら約10人の会員が顔を見せる。ルイスさんは市民戦争の経験者だが、戦争を知らない30歳代の若い会員もいる。

 この会が結成されたのは今から4年前の1999年のことだ。ことのいきさつは、市民戦争時代に遡る。スペイン共和国首相のネグリンが、世界の各国から国際旅団に集い共和国の一員として闘った人々にスペイン国籍を与えると約束したのだ。しかし内戦にフランコが勝利し、この約束は忘れされられたままとなっていた。それが1995年になってようやく実現し、国際旅団に参加した外国人62人にスペイン国籍が与えられた。しかし彼らはすでに高齢だ。彼らが青春を捧げたスペインを訪れるには、肉体的に様々な困難が伴う。たとえば車椅子の手配をはじめ様々な支援が必要だ。しかしスペインを訪れたい。そんな彼らを支援するとともに、その歴史と知識を広めるため、国際旅団友好協会が発足した。

 ぼくが訪れた日の会議は、今年6月3日から4日間の日程で開かれる、「エブロ河の闘い65周年記念集会」の実行委員会だった。エブロ河の闘いはスペイン内戦の中でも最大の激戦のひとつで、後々まで語り継がれている闘いだ。その現地を訪れて、国際旅団の意義を再確認するのが目的である。今の予定では参加者はフランスから300人、この内元兵士は10人。イタリアからは50人、この内元兵士は3人。この他イギリス、カナダ、ブルガリア、ロシア、アメリカなどからも参加の予定だ。

友好協会会員のバルトミュ−・セラさんは1923年生まれの80歳。眼鏡にくちひげをはやし、哲学者といった風貌だ。仕事は新聞社の事務職員をしてきたという。共和国の民兵のひとりでもある。彼は協会の会員になった理由について、次のように説明してくれた。

「フランスやイタリア、アメリカ、そして日本など世界の人々が連帯して民主主義のために戦ったのは歴史上かつてないことだった。4万人もの外国人が参加したが、帰国できたのは半数の2万人だった。彼らのことを忘れるわけにはいかない。彼らの思い出のためにも今できることをしておきたい」

 会議が終わった後、会長のルイス・マルティさんに話を伺った。ルイスさんは1921年生まれの82歳だ。父親は会社の経理担当者、そしてルイスさんは機械工だった。仕事を始めるとルイスさんはJSUC・カタルニア統一青年社会主義同盟の共産主義者のグループに入った。内戦が勃発した後の37年には警察官になった。やがて内戦に破れると、ルイスさんはピレネー山脈を歩いて越えてフランスへ逃亡し、対ドイツ・レジスタンスとしてフランス人とともに戦った。しかし長くフランスにもいられず、1946年にバルセロナに戻ってきた。そして囚われの身となり、6年間刑務所に入った。

「大学には行かなかったが、刑務所で様々な本を読んで学び、考えた。刑務所が大学だった」

やがてルイスさんは建築会社につとめてインテリア・デザイナ−になった。カタルニア広場に面したデパ−トの香水売場は彼がデザインを担当したという。ルイスさんは戦後これまでずっと共産党員だったのだろうか。その質問に、彼は次のように答えてくれた。

「17歳から30歳まで私の人生は共産党のためにささげました。しかし共産党は、国会で議席を得るために、自由のために戦った人々のことを忘れてしまった。自分が長く生きている内に共産党も、他の政党も変わってしまった」

フランコの死後、スペインは民主化した。それと同時に人々はかつて内戦で自由と民主主義のために戦った人々のことも忘れてしまった。市民戦争を闘い、銃で撃ち抜かれて死んだ人々のことも忘れてしまった。ルイスさんは、そう言って嘆いた。ルイスさんは理想に燃えて内戦を闘った。ルイスさんは自らの信念でつらい人生を生き抜いてきた。それなのに、彼を取り巻く社会が大きく変わってしまったのだ。

「マルクスの理論も100年前の理論だ。労働は100年前とは違っている。今や労働者も長いバカンスをとり、車や家を持っている。『インタ−ナショナル』の歌は変更しなければならない。その歌詞に歌われた労働者はもはや存在しない」

 では彼は、若い頃の理想も失ってしまったのだろうか。そんな問いかけに、彼は力強く反論した。

「今の社会は変わらなければならない。資本主義のシステムがあまたの戦争を生み出している。アメリカの対イラク戦争もその産物だ。しかしインタ−ネットをはじめ技術の進歩で、時代は変わりつつある。この手で生産したものに縛られるのではなく、それを使って社会を変えてゆかねばならない。私たちの世代には無理でも、君たちや君たちの子どもたちならそれができる」

 ルイスさんは別れ際に、スペイン共和国時代の25セント硬貨をプレゼントしてくれた。ひとつの面には工場の歯車と麦、つまり工場労働者と農民が描かれ、もうひとつの面にはオリ−ブの枝を手にした少女が描かれている。人々の抱いた夢と希望が描かれていた。その希望をぼくたちの世代に託してくれたのだ。

<パウ・カザルス・ミュージアム>

バルセロナから列車で約1時間。地中海沿岸のアル・ベンドレイという小さな村を訪ねた。ここは20世紀最高のチェリストと言われるパウ・カザルスが生まれた土地だ。彼が生まれた家は小さくて狭い。プロの音楽家となるには裕福であることが必要条件となっている今の社会と比べて、この貧しい家庭から世界的な音楽家を輩出したことに驚かされる。

パウ・カザルス・ミュージアムは、彼の生家がある街から一駅離れた地中海沿いのリゾート地、サン・サルバドールにある。たおやかな地中海に面してカザルスは別荘を持ち、しばしば家族と休日をこの地で過ごしたという。引いては戻る波の音を聞きながら、カザルスのうなるようなチェロの音を思い出した。

1876年生まれのカザルスはベンドレイ教会のオルガン奏者だった父の影響で音楽に目覚めた。11歳でチェロに出会ったカザルスはバルセロナの音楽学校で技術を磨き、さらに独自の奏法を編み出してゆく。その時代はチェロを弾く時、右手を脇から離さずに肘から先だけを動かしていた。そんな旧い奏法から奏者を解放し、自由に力強く弾く奏法を考え出したのはカザルスだと言われる。だがこのミュージアムで展示されていたのは、そうした音楽的資料ばかりではなかった。

カザルスは市民戦争が勃発すると、共和国の陣営に立ってチャリティ・コンサートを開いたり、世界に支援を呼びかけたりした。新聞でフランコの非人道性を訴え、さらにイギリスやフランスがドイツのフランコ支援を傍観する姿勢を非難した。やがて共和国が敗れると、スペインからフランスへ亡命した人たちを救援するチャリティ−コンサ−トを開いたり、基金を作ったりした。そんなカザルスの姿勢が、克明に資料で明らかにされる。

「戦争は悲惨だが、隣人や肉親が戦う内戦はいちばん悲惨だ」

そんな彼のコメントと共に、館内では内戦の映像も流されていた。カザルスは内戦で共和国が敗れて以降、フランコに抗議して二度と故郷の土地を踏むことはなかった。これまで3ヶ月間にわたりスペイン各地で様々な資料館やミュージアムを見てきたが、内戦に正面から向き合った展示はこれがはじめてだった。

 ミュージアムではその見学コースの最後に、カザルスが国連で行った1971年のコンサートがビデオで紹介された。彼は演奏に先立ち、「スペイン」ではなく、「カタルニア」のすばらしさを人々に訴えかけた。いわく、「カタルニアは、国連はもちろん、アメリカやヨーロッパの各国よりも歴史が古く、イギリスやフランスよりも深い文化があり、すばらしい風土に恵まれている」と。彼の訴えは、故郷を失った者の嘆きであり、彼の弾くカタルニア民謡「鳥の唄」は、国連に集った各国の人々の胸を打った。

 日本で「パウ・カザルス」は「パブロ・カザルス」と紹介されている。パウはカタルニア語のもともとの名前である。カステリャーノ語、いわゆるスペイン語でパウに相当する名前がパブロなのだ。カザルス自身はもちろん、「パウ」の名前のほうを好んだ。それはカタルニアを愛する心からである。だが、もうひとつ理由がある。「パウ(PAU)」にはカタルニア語でもうひとつの意味があるからだ。それは「平和」である。そして今、街のそこかしこに「パウ」の文字が掲げられている。

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