スペイン日記第10号

<古い墓穴>

「すみません。でも、このあたりに内戦のモニュメントはありません」

 タクシーの運転手さんはすまなさそうにぼくに謝った。しかし今から十年前、バルセロナ駐在の新聞社の特派員に案内してもらった場所は、確かにこの近くなのだ。ぼくはタクシーを降りると、通りを歩き始めた。バルセロナの西のはずれに近い、モンジュイックの丘を訪ねた時のことである。

 モンジュイックはバルセロナ港を臨む海抜180メートル足らずの小高い岩山である。かつては中世の要塞だったが、1929年のバルセロナ万博の時に一帯が整備された。さらに1992年のバルセロナ・オリンピックでは主会場となり、オリンピック・スタジアムなどが建設された。その隣に日本人建築家の磯崎新が銀色の屋根を輝かせるサン・ジョルディ・スポーツ館を設計したこともあって、バルセロナっ子の間ではイソザキの名前はポピュラーで、その後彼はバルセロナのしゃれたレストランなどの設計も手掛けている。その他、モンジュイックの丘にはピカソと並ぶスペインの巨匠ジョアン・ミロ美術館、貴重なロマネスク美術の殿堂カタルーニャ美術館、スペイン各地の特色ある建物を一カ所に集めたスペイン村など、さして広くはないこの丘一帯に有名な観光地が目白押しである。それなのにタクシーの運転手さえ、モニュメントの存在を知らないのである。

 確かに、市役所の観光案内係で聞いてもわからなかった。それならばと、内戦時代に共和国陣営の有力な一員だった共産党を訪ねてみたが、彼らも知らなかった。応対してくれたのは、党が出版している機関誌の記者も兼ねている女性で、古参の党員などにも問い合わせてくれたのだが、結局彼女もすまなそうに「わからない」と答えるばかりだった。それでもあきらめず、市民戦争時代から続く古い労働組合を訪ねると、ようやく場所が判明した。様々な施設で埋め尽くされたモンジュイックの丘を地図で見ると、共同墓地の隣の何も記されていない場所がわずかにある。そこが、共和国派の人々が虐殺された場所だという。

 その場所を地図にチェックしてもらってタクシーに乗ったのだが、どこから入ればよいのか、入り口がわからないのだ。折よくパトカーが通りかかった。

「共和国派の人々が眠る市民戦争のモニュメントはどこにありますか?」

「それなら、手前の砂利道を歩いて丘を越えた所さ」

 さすがに警官だけあって、地元のことはよく知っているらしい。その砂利道は工事用の道路としか思えなかったのだが、とにかく行ってみることにした。木立の間の山道を歩くこと約20分。丘の頂上付近に出ると、展望が開けてきた。左側には眼下に巨大なオリンピック・スタジアムが見える。後ろ側の今歩いてきた道の向こう側にはバルセロナ港、そしてたおやかな地中海が一望できる。そして右手を見ると、断崖の下が広場になっている。サッカー場ほどの広さがあり、一面が芝生で覆われている。だが、そのまわりはくるっと崖に囲まれていて、モンジュイックの他の地区とは隔絶されている。ここが目指す場所だった。たくさんの観光客で賑わうモンジュイックの真ん中に、ひっそりと真空地帯のように存在していたのだ。確かにこの周辺を車で走っているだけでは、このような広場があるとは全く気がつかないだろう。低い木立をかきわけて崖の端まで慎重に進む。崖の上からその広場を見下ろすと、切り立った崖の高さが20メートルから30メートルはある。万が一足を滑らせでもしたらと思うと、脚がすくむ。バルセロナの街が変化し、スペインが近代化する中でも、この場所だけは高い崖にはばまれ、人知られずにすっぽりと時代から取り残されてきたのだ。

 転ばないよう気をつけながら山道を降りて、その広場にたどりついた。入り口には高さ6メートルほどの細長いコンクリートの柱が約30本並んでいる。4つの面を持ったそれぞれの柱には、ぎっしりと名前が刻まれている。この柱は、この地で虐殺された人々の墓標なのだ。共和国派の人々は、同じスペイン人であるフランコ派の手によってここで銃殺されたり、崖から突き落とされて虐殺されたりした。死者の谷だった。柱に刻まれた人々の人数を概略で計算してみた。ざっと4000人である。姓と名前がきちんと書いてあるものは少数で、名前だけや姓だけのものがかなり多い。手がかりが少なかったのだろう。ということは、姓や名前さえわからず、ここで虐殺された人々も多いはずだ。

 スペイン市民戦争で共和国派は約70万人が死亡した。その内、戦闘で死亡したのは約30万人。死者の半数以上にあたる40万人はフランコ派に捕らえられ、処刑されたり、飢えで死亡したりしたと言われる。バルセロナはスペイン第二の都市で、首都マドリッドと並ぶ共和国派の拠点だった。フランコ陣営を支持する者は少数派で、総選挙では圧倒的多数が人民戦線内閣を支持した。それだけに、フランコ派が勝利したあとの弾圧は過酷をきわめたのだ。

 入り口に並ぶコンクリート柱の内の二本に、カタラン語で次のような碑文が刻まれていた。

「石ころだらけのこの墓場に、銃殺された人々が眠る。1939年、ファシストの軍隊によって、この野原に投げ棄てられた。彼らのほとんどは無名のままだが、私たちは彼らを誉め称える」

「この古い墓穴がどこにあるのか、私たちは1979年に知った。このつつましやかなモニュメントは、犠牲となった貧しく、そして無名の人々との連帯を表現したいのだ。あなたたちの想い出は、いつも私たちと共にある」

 市民戦争が終結し、フランコが政権を握ると、スペイン各地の地方自治は抑圧され、強力な中央集権体制がとられた。いわゆるスペイン語は、本来はマドリッドを中心としたカスティーリャ地方の言葉でカスティリャーノと呼ばれる。これに対してバルセロナを中心とするカタルニア地方ではカタラン語が話されてきた。カスティリャーノとフランス語の中間のような言語である。だがフランコ時代はカタラン語の使用は禁止されたのだ。この碑文にスペイン語ではなくカタラン語が使われているのは、そうした背景もある。そして、1975年のフランコ死後、スペインは独裁政権から解放され、民主化されたというのに、共和国派の拠点だったバルセロナでさえ、内戦の傷跡は癒されていない。このモニュメントを知る人は、バルセロナ市民でさえほとんどなく、さらにこのモニュメントを誰が作ったのかさえ記されていないのだ。

 広場は一面の芝生が青々と心地よい。白い野ウサギが元気よくはねまわっていた。その広場の端のほう、崖の真下に大小あわせて約50基の墓標があった。ここで犠牲となった人々の家族が作ったものが大半だ。中には一家5人の名前が刻まれた墓標もあった。少し規模の大きなものもあった。ダビデの星をかたどり、ユダヤ人の犠牲者を追悼したものだ。その碑文には次のように書かれていた。

「スペインにおけるファシズムの勝利は、ヒトラーが次々と人間の品位を奪ってゆく過程の第一歩を教えるものだった」

「私たちがあなたたちから受けた借りは、測り知れない。ユダヤ人義勇兵は人々の模範として輝かしい献身と自己犠牲を見せた」

 国際旅団に参加して共和国陣営で戦ったオーストリア人への慰霊碑もあった。ユダヤ人関連の慰霊碑が多いということは、名前を刻んだモニュメントを作ったのもユダヤ人かもしれない。

 スペインの文豪セルバンテスが著したドン・キホ−テは、マドリッドにほど近いカスティーリャ地方ラ・マンチャの郷士だが、スペイン各地を遍歴したあげく、バルセロナで正気に戻った。セルバンテスがなぜこの地で、彼を夢から現実に引き戻したのかは知らない。しかし共和国派の重要な砦だったバルセロナで、人々はドン・キホーテのごとく、自由と理想をかなえる社会の夢から現実に引き戻されたのである。

 モニュメントに別れを告げて、バスで帰ることにした。この付近は美術館や競技場とはモンジュイックの丘をはさんで反対側にあり、ふだんからあまり人気のない場所である。バス停で、墓参り帰りのおばあさんたちとともにバスに乗り込んだとき、同時に数人の若い人たちもバスに乗り込んできた。彼らは鼻や口にも派手なピアスをつけ、いわゆるパンクファッションなのだが、様子がどうもおかしい。椅子や床に座り込んで、眠り込む者もいる。血の付いたテッィシュを見て、「やはり」と思った。彼らは麻薬中毒なのだ。その証拠に、共同墓地に注射針が散乱していたのである。バスに乗り込んでくる一般の乗客は彼らに目を背け、近寄ろうとはしない。今から約半世紀前、人々が自らの命をかけて戦い、無念の死を迎えた場所のすぐ近くで、若者が無為に人生を過ごしている。

雲一つない青空の続くバルセロナで上空を見上げると、はるか上空にジェット雲が幾筋も見える。超高空を飛行するのは、軍用機に違いない。スペインはイラク攻撃に関して英米と共同歩調をとっている。スペインの米軍基地から発進する偵察機なのかもしれない。

このモニュメントのある場所を教えてくれた老人が、こんなことをつぶやいていた。

「確かに今のスペインは、経済的には良くなった。しかし、魂は死んだ」

 太陽と情熱の国スペインの隠された断面を垣間見たように思った。

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