「母さん、お腹空いたぁ。私の分のお団子、どこぉ?」
「そこの棚の上に皿があるだろう?」
「なーいよー!」
「えぇ? おかしいねぇ…」
郷塾から戻ったユウヒは、友達と遊ぶ約束に軽く腹ごしらえをしてから出かけようとドタバタと準備をしていた。
夕飯の下ごしらえを早めに始めていたヨキが、その手を止めて土間から座敷の方に顔を出した。
「ほら、そこに…」
指差した場所に団子などはなく、そのかわりに飴玉が二つ、皿の上に乗せられていた。
「あらまぁ。大きな鼠が食べたね、こりゃ。代わりにこれを食べろとさ、ユウヒ」
ヨキはそう言って、飴玉を手に取りこっちによこした。
ユウヒはそれを受け取ろうとして伸ばした手を、ぎゅっと握って引っ込めた。
「それじゃないもん。お団子食べてから遊びに行こうと思ってたんだもん」
拗ねたように言うユウヒを見て、ヨキはふぅっと息を吐いて言った。
「そんな事言ったってもう団子はないんだから、仕方がないだろう」
「…楽しみにしてたのに! またリンだよ、もうっ!」
「ほらほら、言っても仕方がないだろう。また作ってやるから」
「はぁ〜い…」
食い物の恨みは恐ろしいんだぞ、などとブツブツ文句を言いながら、ユウヒは郷塾の荷物を文机の棚に片付けた。
静かになったのを見計らってだろう。
リンがひょいと顔を出した。
「お姉ちゃん。えっと、お団子がね、すっごくおいしくてね…それでね……」
妹のリンは四歳。郷塾から姉のユウヒが帰ってくるのを朝からずっと心待ちにしていた。
「やっぱり鼠の正体はリンか! あれは私のでしょう!?」
「うん…ごめんなさい……」
怒られるのが怖くて、リンはなかなか近くまで寄ってこない。
ユウヒは振り向いてニコッと笑うと、手招きしてリンを呼んだ。
「こっちおいで、リン」
「だって…」
「いいからこっち来な!」
姉の有無を言わさない口ぶりに、リンはおずおずとユウヒに近寄ってきてペタンと座った。
「えっと、あの、ごめんなさい…」
「食べちゃったもんは仕方ないけど、リンはどうして最近私のもの勝手にとったりするの?」
「あの…えっと……」
ただでさえ口の回る姉に、四歳のリンが太刀打ちできるわけがない。
リンは小さくなって、どうにかこの場をやり過ごそうとしているのがありありと見て取れた。
それに、リンには他にもユウヒを直視できない理由があった。
これ以上姉を怒らせたらどうしようかと、リンは様子を伺いながら静かに座っている。
「ほら、ちゃんとごめんなさい、は?」
「…お、お姉ちゃんごめんなさい」
ちんまりと正座をして、体を丸くして頭をさげるリンを見て、ユウヒの頭にカッと血が上った。
リンの髪の毛を結わいている紐は、まぎれもなく自分のものだった。
貸してといわれた覚えはない。
ユウヒが郷塾に行っている間に、勝手にリンが引き出しから出して使ったのだろう。
普段であれば、勝手に使った事を咎める程度で済むのだが、この日はどうもそれでは腹の虫がおさまらないユウヒだった。
よくもめたりはしていた。
きっかけは、いつも些細な事だったが幼い二人にとってそれはもう大問題であり、小競り合いがよく喧嘩にまで発展してしまっていた。
毎日、それこそ日課のように喧嘩の絶えなかった姉妹は、お互いにずっと何かが腹の中で燻り続けていたのだ。
「リン!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「あんたそれ、私の髪結い紐じゃないの? なんで勝手に使ってんの!」
「ごめんなさい! あとね、これね…」
そう言ってパッと開かれたリンの小さな手のひらにあったのは、無残に千切れたユウヒのお気に入りの髪結い紐だった。
ユウヒは絶句した。
自分の分の団子を食べられ、勝手に髪結い紐を使われ、あげくにお気に入りが滅茶苦茶にされてしまった。
日ごとに調子付いたようになってくるリンの様子に頭を抱えていたユウヒは、ここへ来て我慢の限界を超えてしまったようだ。
六歳の心の許容量を超えた怒りは、涙となってユウヒから溢れ出した。
「何これっ!? ちょっとあんた何やってくれてんの!!」
「だって、これ綺麗だから、私もしてみたいから…」
流れる涙をぬぐおうともせず、ユウヒは妹に怒鳴りつける。
「い…いいかげんにしなっ! なんでこんなっ…勝手に触るなって言ってるでしょっ! なんでこんなんしたっ!?」
姉の涙に釣られて泣き出したリンは、姉の怒りを鎮めようと必至になって謝り続けている。
「ごめんなさいごめんなさい! でもね、わざとじゃなくてね!!」
「うるさいっ!」
「だって! あのね、これはね…」
「うるさいっ!」
聞く耳を持たない姉に、リンの方も涙声で怒鳴り始めた。
「お姉ちゃん! わざとじゃないの!! あのねっ…」
「もういいっ! もう勝手に触るなっ! お前には何も貸さない!!」
「…ばかっ! お姉ちゃんのばかっ!!」
リンは声をあげて本格的に泣き始め、ユウヒの事を小さい手でバシバシと何度も叩き始めた。
ユウヒがその手を掴んで払いのけると、小さな妹はその場に転んでさらに大きな声で泣き始めた。
うずくまり、小さくなって泣き続ける妹の尻を、ユウヒは思い切り蹴飛ばして、そのまま無言でその場をあとにした。
「母さーん、アサキんとこ言ってくるー!」
涙声で上ずりそうになるのを必死に抑えてそう言うと、ユウヒはそのまま家を出ていってしまった。
「はーいよー」
そう言って手を前掛けで拭きながら出てきたヨキは、丸くなってしゃくりあげているリンの傍に腰を下ろした。
「うわぁぁぁぁぁぁん!!」
母が来たことで、その気を惹こうとするのと、姉がいなくなった事で少し安心したのとで、リンの泣き声がまたひときわ大きくなった。
「はいはい。まったく、あんたも阿呆やなぁ……」
膝にすがりつくようにして泣く娘の肩を優しく抱くと、ヨキはその頭を愛おしそうに何度も何度も撫でてやった。
その日の夕方、ユウヒが家に帰ると、ヨキに新しい髪結い紐を作ってもらったリンがきれいに髪を上げてもらって、嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、また胸に何かがつかえたような嫌な気分がしたユウヒだったが、サッと目をそらして通り過ぎようとすると、ヨキがその腕をつかんでユウヒを止めた。
「あんたの分もあるんだよ、ほら、座って」
その言葉に、お気に入りの髪結い紐の無残な姿を思い出して、思わず眉間に皺が寄り、ユウヒの顔が歪む。
「いいよ、別に」
「いいから座んな!」
腕をぐいっと掴まれて引き戻されたユウヒは、渋々ヨキの前に腰をおろした。
ヨキはフンと鼻で笑って、ユウヒの頭にぽんと手を置くと、ユウヒの髪をほどき、慣れた手つきで髪を梳かし始めた。
何を言うでもなく無言で髪を梳く母に、わけがわからずユウヒも黙りこくっていた。
上機嫌な母とは対照的に、姉妹の間には何とも気まずい空気が流れ、お互いに口をきこうともしない。
ヨキの鼻歌だけが、静かな部屋に響いていた。
「これで良し!」
ユウヒの髪をリンと同じように上げ終わると、ヨキは一息ついてパンパンッと手を2回打った。
「ほいっ、お二人さん! こっち来てここに座んな!!」
ヨキの言葉に素直に従い、リンがやってきてすとんと座った。
ユウヒはまだ許すわけにはいかないと主張するかのように、リンに若干背を向けて、言われた通りに座りなおした。
「うん…それでいい」
ヨキの声が低い。これは娘達に何かを言って聞かせる時の声だ。
二人の顔つきが神妙になった。
「最近、喧嘩が多いねぇ。まぁ、それはいいよ。人が二人以上いりゃ揉め事ってのは起こるもんだ。親子だろうと姉妹だろうと、それはもう関係ない」
喧嘩をしていた事を咎められるのだろうと思っていたユウヒとリンが、驚いたように顔を上げた。
思った通りの反応に、思わずヨキの顔がほころぶ。
「何? 喧嘩した事を私が怒るとでも思ってたかい? 馬鹿らしい。どうせまたしょうもない理由だろう? そんなのにいちいち怒ってられるほど私は暇じゃないんだよ」
ぴしゃりと言われ、娘達はばつが悪そうに小さくなった。
ヨキはそんな二人を愛おしそうに目を細めて見つめ、そしてまた言葉を続けた。
「喧嘩もけっこう、存分にやればいいさ。ただね、約束して欲しいことがあるんだよ」
母の言葉にユウヒもリンもドキリとして母の目を見つめた。
「どんなに喧嘩をしてもいいけど、別れ際には嘘でも何でも絶対に仲直りしなくちゃいけない。喧嘩したまんまで別れるのは絶対にだめだ。何でかわかる?」
問いかけられても、幼い二人にはわけもわからず、喧嘩していた事も忘れて顔を見合わせ首をかしげた。
ヨキはゆっくりと頷き、また口を開いた。
「もしその人に何かあったら、もう二度と謝れない、許せない、許されない。一生仲直りが出来なくなっちまうからなんだよ。またねと言って別れた人にもう一度会えるってのは、当たり前のようで当たり前じゃない。たくさんの奇跡の積み重ねなんだよ」
母の言葉を黙って聞いている幼い姉妹は、驚いたように目を丸くして、まるで母の言葉を一語一句聞き逃すまいとしているかのように真剣だった。
「例えば今日、ユウヒが遊んでいる途中で大怪我をして、もし死んじゃったりしたら、リンはもう死ぬまでユウヒには許してもらえない。その逆だったら、ユウヒは許してって泣くリンの事を、もう一生許してあげられない。二度と二人は仲直りができなくなっちゃってたんだよ」
優しいが心にずしりと重たい言葉が、ユウヒとリンの背中を丸くさせた。
その『もしも』を想像して、二人とも俯いてしまった。
「旅だとかそんな大げさなもんじゃなくても、その別れが一生の別れになってしまうかもしれない。行ってきますって出ていった人が、必ず帰ってくるとは限らないんだよ。だからね、喧嘩したままで別れるのは絶対にだめなんだよ。言ってること、わかるだろう?」
沈黙の後、ユウヒが口を開いた。
「わかった…ごめんなさい……」
「ご、ごめんぁ……」
リンは言葉に詰まり、床にポタッポタッと涙を落とした。
「……わかりゃいい。ほら、おいで!」
ヨキが両腕を広げると、ユウヒとリンが不安そうな顔で飛びついてきた。
リンはまた泣き始めて、ひっくひっくとしゃくりあげている。
「人の別れなんていつ来るかわかんないんだよ。もう二度と会えなくなるかもしれないって思ったら、喧嘩なんてやってられない。相手が悪かろうが何だろうが、とっとと自分が折れて謝っちまいな。納得行かなかったら、次に会った時にまた喧嘩っすりゃいい。そして別れ際にはまた仲直りする、絶対にもめてるまんまで別れちゃいけないんだ。相手が誰でも、これだけは絶対だ。約束、守れるね?」
二人は母の顔を見て頷くと、そのまま母の胸に顔を埋めてしばらくの間ずっと泣き続けていた。
一緒にいられる幸せと今ここにいることの奇跡に感謝する事を忘れないようにと、ヨキは娘二人をしっかりと抱きしめて子守唄のように何度も何度も繰り返した。
やがて二人は泣き疲れて、そのまま母の傍らで寝てしまった。
ヨキは二人の寝床を整えると、一人ずつ抱えて運び、起こさないようにそっと下ろして布団をかけてやった。
「明日も元気な顔を見せておくれよ。ユウヒ。リン…」
そう言って灯りを落とすと、引き戸を閉めて土間に戻った。
「あぁ、この作りかけのおかず、どうするんだぃ…」
ため息を一つ漏らす。
「明日の朝にでも、食べるとするかねぇ……」
そうつぶやくと、ヨキは幸せそうな笑みを浮かべ、照れくさそうに頭を掻いた。