ルイス・キャロルの意味論

宗宮喜代子 著

まえがき

『不思議の国のアリス』(1865)と『鏡の国のアリス』(1871)は現代もベストセラーとして読み継がれている児童文学の古典である。また想像力を刺激する面白い読み物として一般的にも知られている。実際に読んだことがなくても、日常の生活のさまざまな場面で私たちはアリスや、懐中時計をもったウサギ、卵のような体型をしたハンプティー・ダンプティー、トランプやチェスのキングとクイーンといったキャラクターに出会う。独特のナンセンスな台詞も聞けばすぐにそれと分かるほど『アリス』は私たちの身近にある。

この2つの『アリス』の著者ルイス・キャロル(1832-1898)が本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンといってオックスフォード大学の数学教師であり論理学者であったことを知る人も多い。当時のヴィクトリア女王が『アリス』に魅せられて他の著書も取り寄せたところ難しい本がどっさりと送られてきて驚いた、という話は有名である。

『アリス』は専門的な分析の対象にもなっている。大人の19世紀イギリス文学として論じられたり、あるいは現代思想家によって論じられることも多い。哲学者ヴィトゲンシュタインに影響を与えていると考える人々もいる。言語学でもよく引用される。特に意味論のことを分かり易く説明するために、いくつかの有名な場面が「定番」のように議論の冒頭を飾る。

本書では『アリス』を冒頭の飾りとして断片的に引用するのではなく、『アリス』自体を意味論の書とみなして解読してみたい。そうすることで新しい『アリス』解釈ができるのみでなく、現代の意味論への入門も果たせるからである。解読のヒントとなるのは、著者キャロルが古典論理学者であったことと、ことばに対する鋭い感覚を持つ人であったことである。古典論理は不器用で、ことばの意味をゆがめ狭めてしまう。キャロルはこの理論を信じている。しかし、ことばの生きた姿はこの理論では捉えきれない。キャロルはこのような理論と直観のせめぎ合いに葛藤したのではないだろうか。そしてこの問題意識を物語に織り交ぜて読者に示したのだ。そんな2つの物語の中では、基本的に、奇妙な登場人物たちがキャロルの理論を代弁し、アリスの方はキャロルの直観と常識を代弁する。本書ではこのような『アリス』理解に基づいて議論をすすめていく。

論理学が現代に生まれ変ろうとする時代にあって、キャロルは伝統の中に終始し、そのために論理学者としては高い評価を得ることはなかった。キャロル研究家サザランド(R. D. Sutherland)の「数学や論理学ではさしたる成果をあげなかった(p.64)が一方でことばへの思いを物語の中に結実させた(p.15)」ということばは一般的なキャロル観を代弁している。しかし、実は論理学者としての不成功こそが作家としての成功につながったのだ。彼の論理学と物語は2つの別々のものではなく、あわせて1つの意味の理論となっている。

こうして意味論の観点から本腰を入れて『アリス』を読むと、不思議の国と鏡の国で起こる突拍子もないできごとのつじつまが合ってくる。登場人物のちぐはぐで苛立たしさすら感じる会話が意味を持ち始め、著者からのメッセージが浮き彫りになってくる。ナンセンスなのになぜか笑いとばせない、心にひっかかる、その理由が分かってくる。キャロルを水先案内人として、キャロルと一緒に考えながら2つのおとぎの国を歩くうちに、われわれは現代の意味論に到達する。それほどに『アリス』は現代の意味論への予言に満ちている。

キャロルの信奉した古典論理学は、19世紀後半に突如として登場した記号論理学のために、影の薄い存在になった。記号論理学は、現代的な言語哲学に支えられた強力な論理学である。その記号論理学は、キャロルを悩ませた問題のうちおもなものに答えを与えたが、同時にキャロルが悩まずにすんだことが新たに問題となって現れた。本書では、答えの出たものもそうでないものも含めて、キャロルの問題を現代の意味論の視点から捉えてみたい。

現代の意味論者の中には、記号論理学を意味分析に用いる立場を、古典論理学と同じ誤りを犯しているとして「古典的」あるいは「アリストテレス的」と呼んで批判する人々もいる。いったい「古典的」とはどういうことであるのか、あまり顧みられないまま、現在ではそちらのアンチテーゼの立場の方が優勢になっている。本書ではキャロルの問題を追ううちに、現代の相対立する立場について、基本的な相違点や共通点を考えることにもなる。

キャロルの意味論を追ううちに、われわれは自然と語用論の領域にも連れていかれる。ことばの意味を知っていることとことばを適切に使えることは同じではない。不思議の国と鏡の国の住人たちは、ことばの意味を講釈することには感受性を発揮するが、ことばをうまく使ってコミュニケーションをとることは苦手である。文字通りの意味にこだわる彼らは、同じことばの意味が場面によって変わることや、あるいはことばにならないまま間接的に伝わる意味もあるのだということを理解していない。そのため彼らの発する文は論理的で無矛盾ではあるが、情報としての価値がなかったり現実ばなれしていたりして常識人のアリスを困らせることになる。

このように意味論は論理学やその背後の言語哲学と部分的に重なり合い、また広義の意味論である語用論の核を構成する。本書では全体を3部に分け、論理学・意味論・語用論を、各々、キャロルと現代との対比を通して概観する。

まず第1部第1章では古典論理について述べる。ここでは特にハンプティー・ダンプティーが古典論理のエース格で登場する。キャロルを束縛してやまなかったアリストテレス以来の古典論理はどのようなもので、キャロルは古典論理のどの部分に疑問を抱いたのだろうか。古典論理はどのような世界観を反映しているのだろうか。次に第1部第2章では現代の記号論理学を解説する。言語哲学と表裏一体の記号論理学は古典論理の限界をどのように乗り越え、それによって意味論はどれほど洗練されたのだろうか。

第2部第3章では2つの『アリス』の中の奇妙な会話やできごとを解釈して、著者キャロルと一緒に語の意味を分析したり、ナンセンスの由来を模索する。個々では白のナイトが読者に頭の体操を挑んでくる。続く第2部第4章ではキャロルの直観が現代の競合し相補い合ういくつかの理論のうちどれに近いか、キャロルの時代から現代までにどのような発展があったのか、などについて考える。その過程で、現代の意味分析の方法をいくつか対比的に観察することになる。

第3部第5章では登場人物たちとアリスの会話を語用論の観点から分析する。ここでは、人と交わる時に社会性や相手への思いやりが重要であること、また、会話をあまり論理的に行うことが逆にナンセンスにつながることを観察する。最後の第3部第6章では現代の語用論を意味論と照らし合わせて概観する。語用論はどのように意味論を利用し、あるいは意味論を否定するものであるのだろうか。

以下、読者諸氏の関心に応じて読んでいただければ幸いである。

 

目次

第1部 論理学

第1章 古典論理学者としてのキャロル
   1.1 認知科学の起こり
   1.2 ハンプティー・ダンプティーの名辞論理学
   1.3 アリストテレスの3段論法
   1.4 キャロルのダイアグラムとヴェン図
   1.5 キャロルの「アキレスと亀」論文:3段論法に潜む無限退行の落とし穴
   1.6 2値論理

第2章 現代の記号論理学
   2.1 命題論理学
   2.2 真理条件
   2.3 述語論理学
   2.4 「主語・述語」の文法と論理

第2部 意味論

第3章 意味論者としてのキャロル
   3.1 超素朴実在論:実体と属性の意味論
   3.2 語義の必要十分条件
   3.3 白のナイトと歌の名前
   3.4 ジャバウォッキーの詩:第1種のナンセンス
   3.5 懐中時計をもったウサギ:第2種のナンセンス
   3.6 赤のキングの夢:第3種のナンセンス
   3.7 キャベツと王様:第4種のナンセンス

第4章 現代の意味論
   4.1 名前には意味があるのか
   4.2 ソシュールの構造主義
   4.3 意味関係分析
   4.4 成分分析
   4.5 形式意味論と認知意味論

第3部 語用論

第5章 語用論者としてのキャロル
   5.1 1日おきのジャム:文脈ということ
   5.2 首はね論争:前提ということ
   5.3 自分から話しかけてはいけない:社会の規則

第6章 現代の語用論
   6.1 「外圧」でできた語用論
   6.2 フェイス

あとがき
参考文献
事項索引
人名・登場人物索引

 

 

 

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