烏兎沼先生の民話の語り With Real Audio 2.0 (注)このサウンド再生にはリアルオーディオ2.0以上が必要です。 再生時の拡張子は.raです。(設定項目を参照)


追悼、同行二人の旅の前に
       
赤坂 憲雄


 烏兎沼宏之先生が亡くなられてから、七ヵ月あまりが過ぎました。遊佐の友人の家で先生の思いがけぬ訃報に接したときの衝撃と、遊佐から帰る道筋の最上川沿いのいつもと変わらぬ風景、そして、いくつもの無念さの交錯のなかにあふれて止まらなかったみずからの涙を、ぼくはけっして忘れないでしょう。病院へは一度だけお見舞に伺いました。そのとき、烏兎沼先生がぼくの手を握りしめて流された涙が、無念の涙であることに気付いたのは、うかつにも最上川のかたわらを走る車のなかだったのです。早く元気になられて戻ってきてください、学生たちが楽しみに待っていますよ……、そう語りかけることしかできなかった自分が、今となっては恨めしいばかりです。先生はそのとき、ご自身の病気をご存じで、必死に迫りつつある死と戦っていたのですね。

 この秋に、ぼくの責任編集で創刊になる雑誌『東北学』には、烏兎沼先生のオナカマ研究の集大成が連載される予定でした。東北芸術工科大学での講義は、その準備作業としてお願いしたものでした。ぼくは烏兎沼先生のオナカマ研究がどれほど画期的なものであるか、折に触れて語ってきました。そして、烏兎沼先生みずからが、数も知れぬオナカマさんたちへの鎮魂の碑でもある『オナカマの研究』を書くことで、それを実証してくださることを望んでいました。これはほかの誰にもできない仕事ですよ、オナカマさんたちの思いを背負った先生には、それを果 たすべき責任がありますよ……、初めてお会いした日に、そんな脅迫まがいのことを喋ったことを鮮やかに思い出します。かなわぬ夢となりました。もはや『オナカマの研究』を書き残せる人は、この世に誰ひとり存在しません。ぼくにできるのはただ、先生の無念の思いのいくらかを分かちもつ者として、残されたノートや資料をもとに、編集者をなさっている長女の佳代さんと二人で力を合わせ、可能なかぎりのかたちに『オナカマの研究』を再構成しつつ編むことだけです。

 『まんだらの世界の民話』はとても美しい、豊かな可能性の種子の詰まった書物です。もはや『遠野物語』など不可能だと思っていたぼくの前に、不意に姿をあらわした、もうひとつの『遠野物語』の世界でした。できるならば先生にお尋ねしたいことが、ページごとに転がっており、小さな絶望に駆られます。先生と言葉を交すことのかなわぬもどかしさに、苛立ちばかりが募ります。作谷沢という土地がまんだらの里として発見され、それはさらに豊穰に展開されてゆくはずでした。ぼくの手元には、烏兎沼先生の「作谷沢はなぜマンダラの里なのか」と題された、原高用紙にして五十枚ほどの遺稿があります。作谷沢という土地にたいする、先生の執念にも似た深い愛着が籠もっている、そんな原稿です。『東北学』の創刊号に、掲載させていただこうと思っています。

 烏兎沼先生の代わりに、芸工大の東北文化論の講義を終えたばかりです。代わりなど務まりようもないのを知りながら、稲作以前の東北の基層文化について語りました。東北の地に埋もれた豊かな文化の脈流を掘り起こすことは、烏兎沼先生の志でもあったはずだと信じています。先生の志のいくらかでも受け継がねばならない、そう、あらためて思います。

烏兎沼先生とのひそかな対話を、ぼくは続けてゆくことでしょう。もうひとつの東北へと到る道を、同行二人、ぼくは烏兎沼先生の半ばにして果たされなかった志とともに歩いてゆかねばなりません。この秋、『東北学』はおぼつかぬ旅立ちをします。烏兎沼先生、どうぞぼくのささやかな戦いを、遠くから見守っていてください。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。……合掌。
 
(東北芸術工科大学 助教授)


アースワークが死んだ日/再生する日
上田高弘


 思想ないし運動としてのエコロジーを「善の標榜」と喝破したのは、たしか椹木野衣だったとう。そのとおりだ、ほとんど完璧に。

 学生時代の卑近な例をだすが、割り箸が環境破壊につながると頑固に主張し、それだけなら平凡だが牛丼の吉野家に昔みたいに丸箸(洗って使う竹製の)を使用せよと抗議文まで送り付けた友人がいた。あるとき、その彼がぼくに箸箱をくれた。ありがたくない贈り物だった。ぼくは使わなかった。学食に箸箱をもっていくのはいやだとハッキリいったとき、彼はほとんど、ぼくを殺しても足りないという眼をした。

 善は他者を許容しない。自己以外のものは悪だ。むろん、すべてのエコロジストがそのような単細胞であるとはいわないが、農薬浸けでもいいから死ぬまでたっぷり食いたいと本音を語ってしまうぼくのような人間を白い目で見るいっぽうで、日本全土が無農薬農業に切り替わったら日本人の人口は何分の一かに削減されねばならない確度の高い予測一一そしてそれを食料輸入などで回避しようものなら世界のどこかの食糧事情にシワ寄せがいく現に起こっているような事態一一のことは一顧だにしない人びとが、草の根うんぬんといって運動の実動的な部分を担うこと、じつにしばしばなのである。

 ところでぼくは、似た理由から、あのアースワークの大御所クリストがきらいだ。
 なんでもかんでも布で覆う行為に、美術史的意味なしとはしえない。任意の建造物/場所の非日常的な相をあらわにするその行為は、たしかにある時期、コンセプチュアルな時代精神をとらえていた。

 だが、それもせいぜい、80年代にはいってマイアミの島をピンクの布で覆った例の<作品>以前の話だ。あれはたんなる工芸品だ。
 反論はあるだろう一一そこでは住民運動さながらにプロジェクトを現実化してゆくプロセスそのものが<作品>なのだ(あっ、あの箸箱の友人と同じ眼をしている。)。  すると、ぼくはここでこそ毒づくのである一一予想されるあらゆる事態を想定した安全実験を積み重ね、ひいてはそれでもプロジェクトに反対する者を悪と映じさせる現実化のプロセスそのものが、じつはもっとうさん臭いのだ、と。

 こう明言することで、よりいっそうの悪のレッテルを貼られるぼくのような人間が真に抱いているのは、スポンサー無しが美化して語られるけどそもそもコラージュやポストカードの類の販売で数十億を稼ぐ異様はどうなのだという疑問であり、どんなに周到な実験をしてもそれをしばしば超越するのが自然だし、また現実なのだ、だがしょせんはそういうことが現に起こらないとクリストは善であり続けるのだろうという締念なのだった。

 その起こらないはずのことが、現に起こった。このたび阪神地方をおそったカタストロフでの高速道路の哀れほどではないにしても、どんな強風でも吹き飛ばないはずの傘が吹き飛んで死亡事故を起こした。日米両国で同時開催されたあのアンブレラ・プロジェクトでの、アメリカ側での出来事だ。  さあ、プロセス・アーティストよ、どうする? 彼はプロジェクトを急遽中止した。それのみで、プロセス・アーティストとして期待された誠実な対応がない、その間にも、傘の撤去作業中に 、こんどは日本側で作業員が感電死した。これはもうプロセス完了後で、だから死亡者数に数えないのか、それとも…。

 クリストをもてはやしたマスコミは、その美の、善の、破綻にふれることをタブーとするかのごとくにほとんど沈黙した (急遽中止を潔しとする建畠晢の朝日新聞紙上の記事、「呪われた傘」のコピーで興味本位にあつかったフジテレビ系のニュース、『ラジウムエッグ』第1号(1992)におけるぼくのクリスト批判、をのぞいては)。そして、あの傘のポストカードなんかだけは、いまだに店頭を飾っている…。

 アースワーク系の他の作家たちもこの件について沈黙していたのだとしたら、この日、じつはアースワークが一つの死を迎えたのだとぼくは思っているのだが、どうなのだろう。とにかく、そんな自己批判めいた話は、ぼくは寡聞にして知らないのである。
  反論するなら、どうぞ。タブーをつき破って、まずはだれか語ってください。
  真正のアースワーク論一一再生されたそれへの一一は、それからやりましょう。(未完)


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