空の庭 ー1
福岡スカイステーション他
ー福岡スカイステーション
設計:2002年12月〜2003年12月
竣工:2004年4月
場所:福岡県福岡市
担当:柳原博史、大西瞳、増澤昌
クライアント:株式会社マサキ・エンヴェック/
ジェイアール九州コンサルタンツ株式会社設計
□ 環境ベンチャー企業とのコラボレーション
この一連のプロジェクトは、長崎に拠点を置く、環境ベンチャー企業、マサキ・エンウ゛ィックの前社長、真崎健二氏と出会った2001年の初め頃からはじまった。マサキ・エンウ゛ィックは、屋上緑化用の軽量土壌を、中国四川省の標高4000mの地から産出する泥炭を用いて、独自に開発し、厚さ10cm程で芝生などを生育でき、それ以外に特に複雑な仕組みも無く簡単に施工が出来るという画期的な環境資材を売り出し始めた時期であった。屋上緑化は、通常、建築への負荷を軽減化させるために軽量であることに加え、日照などの厳しい条件下での植物の生育を支持するために、保水性が高く、同時に雨天時の過剰な水を速やかに排水出来る、排水性も必要という、矛盾する2つの性質を備えていることが好条件とされる。この条件に最も適っている泥炭に目を付け、製品化したのである。
真崎氏は、明るく、常に前向きで、適度にアグレッシブな姿勢で、土や屋上緑化の無限の可能性を語り、その人柄に多くの人々が惹き付けられ、真崎氏自身も土も、たちまちのうちに注目を浴びるようになった。私が初めて出会ったのは同社が出展する展示会会場であったが、これまでの造園業会のどのタイプとも違う異彩を放っていたのを鮮明に覚えている。そして真崎氏は、自社の製品を売るだけではなく、土も緑も、それを人が、いかに利用して行くかという点を重要視していた。その頃の屋上緑化は、大都市圏で、一定規模以上の新築の建物の屋上緑化の義務づけがなされ、にわかにビジネスチャンスが拡大してはいたものの、義務的に緑化しても意味が無く、むしろ人がそこにいかに関わって、その緑を育てて行くかが重要であることを見抜いていた。それ故に、真崎氏は、敢えて手間のかかる芝生や、野菜を育てるための屋上緑化にこだわっていた。
それから、私たちは、噴水のごとく沸き出す真崎氏のアイデアと、同社になだれ込む多大な実際のプロジェクトを絵に描き起こす手伝いを始めることとなった。その中でひとつの節目となったのが、福岡市の中心部に2004年オープンをした「スカイステーション」である。これは、真崎氏のアイデアに賛同したJR九州コンサルタンツとの協同出資により実現化した、いわば屋上緑化を普及させるための窓口となるモデルルームである。私たちは、その約2年前から、福岡市内の様々な屋上を見学し、場所探しから関わらせて頂いた。当初は、モデルルームという機能を持ちつつ、カフェや企業の会議、商談等に使えるスペース、それと野菜畑との組み合わせなど、様々な案をスタディし、その一方で、場所が決定すると、立地条件からプログラムを絞り込み、むしろ周辺に勤務する人や住民、子どもなどが気軽に遊びにこられる場所を目指すこととなった。私個人は、デザイン的に洗練されていないことにやや不満があったが、真崎氏は、「そんなものは、デザイナーの自己満足でしかない」、と一蹴し、「庭園は、デザイナーがつくるものではない。そこを使う人がつくるモノだ」と説いた。しかしその後、「もちろん最初に来てもらうためには良いデザインである必要はあるけどね。」とフォローをしてくれた。
それ以降も、同社が東京営業所を拡大し、真崎氏自身も東京にいる時間が長くなるに連れて、様々なビル、デパートなどの屋上を緑化し、同時に利用する案を、その場所や建物のポテンシャルに合わせて真崎氏と私たちで一緒に考え、何枚もの絵にしていった。スーパーの屋上に託児所を兼ねた子どもの遊び場、スポーツジムに付帯したフィールド、パーティ会場、屋外図書館、スパ、そしてレンタル菜園など、実現化したものは、ほんの僅かであったが、屋上の可能性と同時に、真崎氏と私たちの視界も大きく広がって行った。たかが屋上と言えどもビルの建設現場は、様々な思惑が交錯するキナ臭い現場でもある。それでも真崎氏はめげることも、愚痴をこぼすことも無く、空を見上げて、考えを膨らませていった。
そして、私たちも真崎氏に引っ張られて、様々なプロジェクトに挑む覚悟でいた矢先、真崎氏がガンの手術をしたことを知った。表立ってお会いする限り、そのような素振りは一切無く、様々なオファーがあることや、マスコミに紹介されたことを自慢気に語り、次々と私たちにデザインを使命してくるばかりであったのが、自身はとんでもない苦悩の直中に立たされていたのである。2008年の夏、「また、新しい相談があるから来てくれ」と電話を受け、数日後に同社に向かって駅を出た直後、真崎氏から電話があり、初めて、少し悲痛な声で、「ゴメン、ちょっと調子が悪いんで、また今度にしてくれるかな。こっちから連絡するから。」と言われた。それから1カ月を過ぎても連絡がなく、2ヶ月後にこちらからメールをしてみると、奥様からすぐに返事を頂き、余命数日であることが知らされた。
屋上緑化が以前に比べて、当たり前のように見られるようになった今日であるが、真崎氏が生きておられたら、決して満足はしていないはずである。真崎氏の目指していたものは、「緑化」などといった狭い話ではない。そこがもっともっと、生き生きとした空間になっていなくては意味がないのだ。空と緑とそれを支える土と、そしてその上で戯れる人が一体になってはじめて、真崎健二の理想とする屋上に一歩近づくのだ。
back >
|