多孔質な庭
老人ホーム「スイトーピー新横浜」スイトピーガーデン
設計:2006年
場所:横浜市港北区
担当:柳原博史、大西瞳、増澤昌
施工:(株)グリーンケア
クライアント:日総ニフティ(株)
写真:アレッシオ・ジョルダーニ
□ 「空間」への
闖入
者
実家の庭にピラカンサという樹があった。これは、植物などに全く興味のない母が、たまたま誰かに貰った苗を、庭を統括管理する父の目を盗んで植えたところ、十数年で8m程に生長してしまったものである。通常ピラカンサは、低木の類で、これほど大きなものは珍しく、出入りの植木屋も感心していたことを覚えている。父の自慢の庭は、ヒメシャラにヤマボウシ、ウメやキンモクセイなどの高木が適切な配置で植わり、根元にはシダやギボウシに混ざって春に
紫蘭
が咲き誇るといった、純和風でもなく、適度に野趣ある、センスの良い庭であった、と子どもながらに思っていた。そこに赤や橙色の派手な実を付けるピラカンサが、不意に闖入したのだ。白でまとめたモダンなインテリアの中に、ロココ調の装飾過剰な椅子が一脚持ち込まれたようなもの。家具は退かせば済むが、庭の8mの木を伐採、伐根するのは難儀である。おまけに棘があり、樹形も不格好に年々成長するこの樹を、父は見上げるたびに眉を歪めたが、紅い実に無邪気に群がる鳥たちに免じて放置した。
□ デザインの排他性
さて、建築を含め、デザインとは、ある「空間」の中で徹底した合理性を追求するべく、不要な要素を削ぎ落とし、
洗練
、
統合
された世界を創出することである、と考えられる。様々な与条件があったにせよ、それを「コンセプト」と称した一本のベクトルに束ね上げることに力量が試され、当然「シンプル」たることが崇められる。住宅にせよ、公共施設にせよ、またプロダクトにせよ、大いに社会性を帯びるデザインという営為は、しかし、少なくとも二つの点で社会的不合理を伴う。ひとつは、不要な要素を削ぎ落とす過程での排他的態度。もう一点はデザインが完成した瞬間、建築で言えば竣工した時点で、ある目標が達成されたとしても、その先に世界が平穏に維持される保証がないこと、である。かつてモダニズムの隆盛期は、社会改革的野心漲るデザイナー達が、来るべき社会を自らのデザインのベクトルに合致させることができた。しかし現代では、「デザイン」は、社会の多種多様性におけるひとつの選択肢でしかない。常に流動的で混沌に向かう社会において「シンプル」なデザインは、普遍的なのではなく、雑多な中で異彩に見えるだけである。時にこのシンプルさは、社会的どころか、逃避的で欺瞞的にも見え得る。更にデザイナーズマーケットの中は、「シンプル」の百花繚乱だ。
□ リアル環境に対するデザイン
かくして、ランドスケープの設計においても、完成予想図としての設計図の中に、膨大な要素を整理し取捨選択する過程で、植物といっても工業製品の如く行儀よく生産された樹たちとともに一貫した空間性を画策してゆく。しかし、ランドスケープでは、公園などの公共空間であれ、個人庭であれ、デザインが「自然風」にせよ、「シンプルでモダン」にせよ、完成した翌日から、招かざる闖入者の脅威に晒される。容赦ない雑草の群れをはじめ、予測に反して枯れる草、成長し過ぎる樹。公園では予想を裏切る行為に及ぶ者、個人庭であれば、後から気まぐれで植えてみた可愛い花、厚顔な野良猫の糞等々。そう、ここは「空間」という崇高な世界ではなく、刻々と変化する「環境」という海原である。
この「環境」を対象とするにあたり、まずは、一本のベクトルに固執せず、「多孔質」な許容力を持つことが希求されてよい。「多孔質」とは、溶岩のように表面に無数の穴を持ち、多彩な闖入者との共存の道を開くことである。そしてこれらを承認済みでデザインした、と10年後に言い切ってみせる。そこにシンプルでも混沌でもない、新しい「空間」が生成しているかもしれない。
「ハロー・アーキテクト」2006年に寄稿したテクストに加筆
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