露の庭

K邸テラスガーデン

設計/施工:2001年
場所:東京都文京区
担当:柳原博史、大西瞳
協力:佐藤純
製作:鎌建工業(植栽棚)
写真:Mi-Yeon

□ パブリックとプライベートの狭間

エクステリアには、不特定多数の人々に開放される「パブリック(公共的)」な空間と、個人住宅の庭のような「プライベート(個人的)」な空間がある。パブリックな空間は、公共的な立場から、「在るべき」デザインか指向されるべく、デザイナーの役割があり、またそのようなデザインが実施されてきたはずである。しかしながら、この「パブリック」な空間とは何か、ということを深く問いつていくと、たいへんな困難に突き当たる。特に、公園のような極めて多種多様なニーズが交錯する場所においては、今日のような価値観の多様化した社会で、万人にあまねく適合する解を求めることは、ほぼ不可能に近い。ある特定のデザインを施すことが、違った指向性を排除することにもなり得るし、「公共の場」で容認し得ることの限度枠をめぐっては、常に大きなリスクがつきまとう。こうしたリスク回避と、最大公約数的な解を前例的に積み重ねる慣習、メンテナンスの最大限の軽減化傾向、また一部にはデザイナーの怠慢と迎合主義も手伝い、今日のパブリックな空間は、極めて画一的な方向性を向いている。

その点、個人邸宅の庭をはじめとする、「プライベート」な空間は、例えばDIY的なスリリングな制作過程を伴って発展する可能性を大いに秘めている。格式的な日本庭園から逸し、ガーデニングという、進行形で能動的に言い表される活動が隆盛し、一部に「イギリス風」やら「○○風」といったスタイルをまといつつも、多様化している。「プライベート」なガーデニングといえども、決して趣味の閉じられた空間での行為とも言えず、個人のライフスタイルそのものを反映し、多少なりとも「パブリック」に対するインパクトをもつ。住宅街などで、競って植木鉢などを表の通りに向けてディスプレイをする家を見かけるが、個人的な趣味をパブリックに表出するこうした行為は、見る側の嗜好に合うかどうかは別としても、生活感を演出し、一定のメンテナンスが持続する点で、緑とエクステリアの大きな可能性として見てとれる。

しかしながら、ここにも画一化の罠は仕組まれてはいる。メディアの影響や、先の「イギリス風」といった流行、さらに市場と流通の制約から、発想し得ること、出来ることが拘束される。そして、こういった場面で、デザイナーなどの専門家には、より広い知見を持って、多様な、そして新しい方向性を開発する使命があるはずである。

■「緑/エクステリア」と生活

近年、造園業界では、「屋上緑化」が注目されている。東京都をはじめとする、いくつかの自治体で、屋上緑化を積極的に推進していることが拍車をかけ、ビジネスチャンスが拡大するすることで、業界内は、にわかに活気づいている。土や植物などの資材は、軽量化や取り扱いの容易化などの技術開発が飛躍的に進み、また多様化している。都市の緑被面積を増やすことは、二酸化炭素の吸収と、ヒートアイランド現象の抑止によって、都市全体に大きなメリットをもたらすことが期待できる。そして、現在、殆ど活用されていないようなビルの屋上がすべて緑化されたとしたら、その影響力は、計り知れないと思える。

しかし、業界内の賑わいをさておいて、この「屋上緑化」が、果たしてどのように定着してゆくのかが、一般的にわかりやすくイメージされているかどうかは、やや疑問が残る。「屋上緑化」というものが、人々の日常生活に、どのように影響し、メリットをもたらすか、といったことが、あまり具体的に訴求されていない。つまり、緑が量的にばかり捉えられ、質的な評価が看過されているように思えるのである。高層ビルなどの足元に設けられた公開空地というスペースが、面積や量的な緑化率を基準としているために、空間としてどのように公共的貢献を果たしているかという、質的な評価とは、殆ど無関係であることに似ている。もちろん、人間の生活から分離し、隔絶された屋上などの緑の環境が、例えば鳥や昆虫などの生息に寄与するといった、エコロジカルな評価も可能である。しかし、こうしたサクチュアリも、都市内の自然といった繊細さゆえに、一定の人為的なメンテナンスが必要となるはずである。それを義務的にこなす以上のモチベーションを保つための工夫は、常に必要でありつづける。

都市全体に対するメリット、いわば「パブリック」な利益を達成するために、「プライベート」な空間がなし得ることは何か、この両者のつながりを、どのように構築するのか、それが、エクステリアを考える上で、今後ますます重要となる。つまり、屋上緑化に限らずとも、「緑」を扱うエクステリア全般の課題として、緑が、量的に、そして空間的にどう構成されるか、と同時に、どのように人の活動や生活に関わりを持つか、こうした視点で、緑は、より具体的に構想されるべきである。さもなくば、緑は、量的に確保されたとしても、よそよそしく、存在感が薄く、人にとって無関心なものとなってしまう。そして実際に、そのような緑が都市の中に蔓延しはじめている。

「緑」が人の活動に密接化している最も卑近な例として、「桜」が挙げられる。年に一度の数日間の開花を、人々は異常な盛り上がりで迎え、宴をくりひろげる。このように、緑を含めたエクステリア空間を媒介として、人々の生活そのものをデザインのターゲットとすることが、今後、もっと期待されて良い。歴史上の数々の名園とされる庭園でも、その空間的な洗練にも増して、茶会や歌詠みといった、様々なイベントとの結びつきによって成立していることの方が重要であるとすら言えるはずである。

■ セミ・プライベートなテラスガーデン

「屋上緑化」ではないが、身近な人工地盤上のエクステリアを「緑化」したものとして、ここに例示するのは、「テラスガーデン」である。戸建住宅ではなくても、マンションのテラスを「庭」として利用することが可能か、という課題に挑んだこのプロジェクトでも、やはり、このテラスガーデンが、施主である所有者ご夫妻の生活とどう関係するかが、同時にテーマとなっている。それにより、利用価値がさほど高くない、マンションのテラスを、もうひとつの生活空間として活性化することを目指したものである。

マンションのテラス特有の長細い空間を、路地のような通路上の場所に見立てて、植物棚を置き、ご夫妻の意向により、野趣味を演出する「草もの」、実用的な「ハーブ」や「野菜」などの植物を小鉢に仕立て、約30鉢並べている。夏の毎日の水やりは、かなりの重労働であるが、水やりを通じての植物との毎日の接触、ちょっとした変化への気配りは、これまでにないライフスタイルそのものにインパクトを与えている。また、リビングルームに面したこのテラスが、インテリアから視覚的に取り込まれることによって、リビングルームの拡張的なスペースとして捉えられ、さらには、明確な部屋区分から逸脱し、インテリアとエクステリアという区別を越えた、空間の相互作用をつくり出しつつある。

ホームパーティなどを頻繁に催すこのご夫妻にとっては、全くのプライベートな庭ではなく、客を歓待するための場としても、このテラスガーデンが位置づけられている。つまり、ほぼプライベートな空間でありながら、客人を取り込むためのしつらえが意識されており、個人が自らの趣味でつくり続ける、DIY感覚の「庭」とは違った趣きの、ちょっとした「パブリック」に対しての開示を意図している。そのために、DIYが、試行錯誤の過程上にある面白さを見せ得る空間であるのに対して、このテラスガーデンは、一気に作り上げた完成度を持ち、そこに専門家であるデザイナーの役割もある。この「セミプライベート」な空間は、主人と、客人、そしてデザイナーの三者のコミュニケーションによって成立しているのである。

こうした「緑化」は、同時に、ささやかながら都市に対してのインパクトを持ち得るのか、つまり「パブリック」な領域に照準することができるのか、が、このプロジェクトの最後の目標に組み込まれている。屋上緑化と平行した、ビル壁面の緑化によって、このマンションの外を歩く人へ、ちょっとした視線の誘導と、ささやかな「話題」、「季節感」や「和やかさ」の提供、さらに、やや誇大なイマジネーションの先に、このような庭が、より多くのマンション居住者に拡がることで、都市の緑被率の増加に貢献するか、ということである。「セミプライベート」な空間を「パブリック」な領域に開示するための、些細なきっかけとしても、この小さなガーデンを位置づけられる。

「住まいと電化」2002年4月号に寄稿したテクストを抜粋・加筆

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