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登山探検  カムイエクウチカウシ山におけるヒグマによる遭難



福岡大ワンゲル部のケルン
このページは、過去にヒグマによる登山者の事故を正確に知ってもらうために作ったものです。
カムエクでの福岡大WVの事故を正確に知っている人が少なく、ずいぶんと誤解を持っている人が多い。登山におけるヒグマを軽んじてる向きもあるので、あえてここにその全容を掲示します。
この内容は、北の山脈(北海道撮影社)の創刊号(1971年)に掲載されたものをできるだけ忠実に掲載しましたが、漢数字はできるだけ変換し、読みやすいように段落をもうけているほかは変更を加えていません。
内容は、
「ヒグマとの対決」        (北の山脈創刊号P101〜104)
「岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報告抜粋」
       (北の山脈創刊号P105〜111)
「ヒグマ 」                   (北の山脈創刊号P29〜32の後段部分のみ)
この3編を掲載しましたが、北の山脈の編集部の考え方を伝えるには、
どれ一つとして省くことができず、また、登山者に知っていただく上でもこの3編の掲載が妥当と判断して掲載しました。
現在の登山マナーの結果が今後大きなヒグマの被害とならないことを願います。
福岡大のヒグマとの遭遇の結果は事故であり、ご冥福を祈ります。
この事故が、無駄にならないためにも顛末が登山者の目に触れ、事実を知り、同じ結果を引き起こさないことが尊い三人の犠牲を尊ぶものです。




ヒグマとの対決
(北海岳友会武山正一昭和45・11・24・記)北の山脈創刊号(1971年)


しゃばの人間は、「よく帰ってきたなあ」「おまえは悪運が強いんだなあ」「貴重な休験をしたなあ」という。しかし、われわれ5人にしてみれば、そう簡単にすまされるものではなかった。とくに今回、岳友である福岡大学ワンダーフォーゲル部員のうち、無惨にも3人もの若い命を奪われてしまったからである。
われわれの昨年の夏山合宿は、日高山系「カムイエクウチカウシ山」(1979m)であった。

7月22日われわれエサオマントッ夕べツ岳班人(渡辺信英、秋田正典、権瓶恵、光武義博、武山)は、ゆうやみせまる札幌をあとにして、一路帯広へと向かった。

7月23日午前6時起床。すばらしい天気である。山脈がとてもきれいだ。屋根つきの大正駅で一泊したせいか、疲れがいっぺんにふきとんでしまった。タクシーをチャーターし、戸蔦別川に沿ってのぼった。オピリネップ沢、ペタヌ沢、トッタベツ橋を通過した。

8時50分、徒渉、ひじょうに流れが速いが全員無事にわたり、朝食をとる。いよいよ第一歩を踏みしめた。戸蔦別川は、ひじょうにきれいな水だが、流れがとても速い。

10時40分、戸蔦別川上流エサオマントッタベツ沢出合いに到着した。左右の小さな滝から水がいきおいよく流れている。イワナがみえる。300メートルほどの滝をのぼり、5時30分、エサオマン北東カールに到着。カールにて晩めしをつくりながら夜空の星をみるのもまた粋なものであった。思えば、あの真新しいテント、われわれの疲れをいっぺんにおしだしてくれたカレーライス。すべてが、われわれ5人を満足させてくれた夜であった。明日のコースを確認しながら深いねむりにおちいった。(明日は……)

7月24日6時起床、快晴である。7時35分、北東カールをあとにして、雪渓をのぼり、札内岳分岐点へと急いだ。コールが聞こえた。玉川パーティー(新冠班)である。われわれは、分岐点で彼らと別れ、エサオマントッタベツ岳(1901m)へと向かった。彼らはシュンベツ岳(1852m)そして1880へと向かっていった。

10時、エサオマントッ夕べツ岳頂上に到着。札内岳(1895m)十勝幌尻岳(1846m)がみえる。遠くの幌尻岳七ツ沼カールがとてもきれいであった。たんのうするのもつかの間、われわれは今夜のキャンプ地・十の沢カールへと足をむけた。

午後1時10分、ナメワッカ分岐点通過。暑さが最高点(30度前後)に達し、われわれも疲労を感じだした。

2時20分、シュンベツ岳に到着。「疲れた」ポリタンの水を一気にゴクリと飲んだ。「うまい」「ジュースでもつくろうか」そのときである。

2時35分。光武「熊のうめき声がきこえる」と、やぶの中から小走りに出てきた。われわれは「どらどら」と、ものほしげに見にいった。
本当である。十勝側のやぶの中から大きな顔をピョコリとだして、こちらをみつめている。わずか10m手前。一見たぬきのような顔つきである。すぐ、ザックを背負い、1880へと急いだ。
クマはわれわれを追ってくる様子はなかった。うしろをふりむくと、頂上で山犬が、ちょうど遠ぼえでもしているような格好をしていた。「写真をとれ」「だめだ、すぐ行け」登りになると、いままで保ってきた呼吸が、いっぺんに乱れはじめたためか、心臓がバクバクしてきた。
うしろをふりむく。クマはいない。「よかった」と思ったとたん、その喜びは一瞬のうちにふきとんだ。いままで頂上にいたクマが、われわれが通ってきた尾根道を、臭いでもかぐようについてきているではないか。ノッシノッシ、まるで足音がきこえるようだ。急ぐ、一団となって、なお急ぐ。呼吸が、いっそう乱れる。うしろをふりむく。クマがみえない。やぶのかげでみえないのだ。
「おい、前の方、少し急げ」と後尾にいた光武の声が聞こえる。急に「止まれ!」ふりむくと10mうしろにクマがみえた。どうやら途中走って追いかけてきたものとみえる。
「そこの岩にあがれ」われわれ五人は4mほどの岩にのぼった。クマとのにらみあいがはじまった。10秒…20秒…30秒…1分…3分…「目を離すな」ヒグマである。うすい褐色がかかった体毛をもつクマで鼻、足が真黒だ。体長はだいたい2mはあろう、巨大なクマである。クマは、どちらかの沢へおりようかと、うろうろしている様子であった。
われわれは「いまおりる」「気の弱そうなクマだ」と、クマの目をみつめながら、励ましあった。
突然、クマの足が動きだした。一瞬、ドキッとした。われわれの眼の下を、ノッシノッシと、通り過ぎていった。時計をみると、ちょうど3時であった。だがその時である。クマは向きをかえ、よだれをたらし、毛を逆立てながら、われわれに襲いかかってきた。
われわれは岩をとりまくようにして逃げた。しかし、クマはしつこい。なおもわれわれをおってくる。……突然、前にいた渡辺の足が、ハイマツに足をとられ、くるぶしまで埋まり抜けない。うしろからクマがくる。しまった!と思ったとたん、かれの足がスルリと抜けた。まさに奇跡であった。
渡辺「ザックを捨てろ」逃げ回りながらザックをおろし、岩の間におしこんだ。光武、渡辺、武山の三つのザックを放棄し(権瓶、秋田はザックをおろすひまがなかったのである)岩の上にのぼった。だが、うしろからクマが登ってくるではないか。
クマとの距離1m50cm弱。私は夢中で岩からとびおりた。この4mの空間が、ひじょうに長く感じられた。かぶっていた白い帽子が、下からの風にあおられてとんでいった。飛び降りた岩の上にピタリととまった。足が岩にすいつけられるようにして、とまったのである。よく4m岩からとびおりて立ったものだと、われながら感心する。
われわれは一団となって、1880へとよじのぼっていった。ただ、逃げるのみである。生も死も、考えてはいられなかった。30mほど走って、うしろをふりむいた。クマは追ってきてはいなかった。おそらく、ザックにかぶりついているのであろう。われわれは、ほんの少しでも、クマから遠ざかるために登りに登った。
30分ほどいくと、さっきの玉川パーティーが、のんきに何か食べている「助かった」はじめて助かったと思った。不思議なものでたとえ3人でも安心感がわいてくるものだ。「クマだ」「クマにやられた」しかし、彼らは横目もくれずに、ただ、もくもくと食べていた。だが、われわれ三人が、ザックを背負っていないのだ。彼らもようやく本気にしたのだった。
1880を通り、4時50分九の沢カ−ルにキャンプを張った。藤井パーティー(コイボクシュシビチャリ川班)とも合流し、総勢11名、身を固めるようにして眠りに入ったのである。
テントをやられたため、三人がビバークした。小枝を拾ってきて火をたき、カールの水がチョロチョロ流れるのをききながら…。頭の方でガサガサークマか。しかし、風である。これが何度もくりかえされたのである。本当に、神経が細くなるおもいであった。
もしあそこで五人のメンバーのうち、一人でもやられていたら……もし、一人がころんでいたら…もし、とびおりたのが岩でなくて、反対側のハイマツだったら…。つぎつぎと冷えびえと脳裏に浮かんでくるのであった。今日までに一番長い日であり、また、一番長かった35分間であった。

7月25日3時、目がさめる。まっかな朝やけがとてもきれいだ。まるで、何事もなかったかのように。4時、全員起床。2人のテントキーパーを残し、きのうの現場へ行った。この登りをどうやって逃げてきたかは、いまは記憶すらなかった。
5時10分、現場に到着。一瞬、びっくりした。あとかたもない。あの大きなキスリング二つを、どうやって運んだのだろう。ロにくわえてか、それとも首にかけてか。まるで、人間(?)が運んだかのようだ。ただ、渡辺のアタックザックのみが残っていた。
ツメでひとかきされ、中のものが全部とりだされて、もう使いものにはならない状態であった。アタックザックからとりだされたものは、岩の上にきれいに並べてあった。まるで人間が並べたかのように。付近をさがしていると、あの白い帽子、ナイフ、地図がみつかった。
どうやら、九の沢カールへおりたらしい。「早くいくべ、クマがまだいるかもしれないぞ」すべてのものがよだれでぬれていた。われわれは、即座にここをあとにした。
われわれは、今回の目的地であるカムイエクウチカウシ山を10時45分アタックし、八の沢の水にひたりながら、八の沢出合いまで降りてきた。他の2パーティーとも合流し全メンバー18名で、日高最後の夜を過ごした。ファイヤーがとてもきれいで、煙がどこまでもすきとおって、高い夜空へ立ちのぼっていった。

7月26日6時起床。テントの中がものすごく暑い。外へとびでる。朝食を済まし下山の準備をした。

午前7時「オーイ、オーイ」われわれは全員、荷物をほうり投げ、声の方へ走った。沢の中から二人、登山靴をびしゃびしゃにしながら、助けを求めにきたのであった。
私は、クマにやられたなと思った。案の定そうであった。彼らは、福岡大学ワンダーフォーゲル部員であった。まだ上に三人がいるとのことである。危ない、三人が危ない!どうやらわれわれを襲ったクマと同じクマのようだ。現場、時間などから判断して……。

あの時の河原君(クマに殺された)の驚ききった真蒼な顔が、いまでもありありと写るのである。もし、あそこで彼が、上にいる三人を助けにいかなかったら……。しかし、彼は岳人である立派な岳人であった。

われわれは、食糧、ホエーブスなどを、彼らにわたし、7時30分警察署に届けるため、急いであの広い札内川を下ってきたのであった。

いまは、ただ、よく助かってもどってきたと思う。新聞・テレビなどで、クマが射殺されたことを知った。われわれを襲ったクマに間違いなしと確信している。本当によかった。

私は、今回の夏山合宿において、多くのことを知らされた。
まず第一に、3人もの若い命を奪ってしまった、北海道のヒグマについて重要視しなかったことで、おおいに反省させられる。
第二に、冷静な判断である。とくにOBの人達は、経験の深い人である。もし、あそこに彼らが存在しなかったらいまごろは……。
第三に、岳友のあたたかい心である。本当に涙がでるほどうれしかった。

今回の夏山合宿は、生涯忘れえぬものになるであろう。しかし悪夢に終わってほしい。
さあ、今度ほ冬山だ。今回の夏山合宿は、いっさいはきすてて、あたたかい岳友とともに、冬山にいこうではないか。
−昭和45・11・24・記−(北海岳友会)




福岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報告書抜粋
北の山脈創刊号(1971年)
1970・7・26カムイエクウチカウシ山におけるヒグマによる遭難


このたび、わが福岡大ワンダーフォーゲル北海道日高縦走パーティーが、日高山脈カムイエクウチカウシ山十勝側、八の沢カールにおいて遭難し、竹末一敏君、興梠盛男君、河原吉孝君の尊い生命が、失われるという最悪の結果に終わりました。ここに関係者の皆様に、多大な御心労御迷惑をおかけしましたことを深く、お詑び申しあげます。
私達は三君のめい福を祈ると共に、今度の遭難が滑落、雪崩等の山岳遭難とは違い、十勝地方では戦後初めて熊に襲われたものであるという特異性はありましたが、この悲しい事実にたいし、ここに深く反省し、その原因を追求するものです。
私達は、この事故にたいする自覚を新たにし、三君の尊い犠牲を無駄にすることなく、今後このような事故を再度くり返さないためにも、日高遭難の諸要因を深く検討するとともに、今日までのワンゲル活動の歴史を顧みて、反省すべき点などをきびしく真剣な態度で追求し、全ての自然にたいして、今一度深く謙虚に考えることが、必要であると思うものです。

事故経過報告

7月25日
15:201900m峰の直下1500mの九の沢カール着、テント設営。

16:30夕食後全員テントの中にいた時、竹末君が熊を発見(テントより6〜7mの所)最初は興味本位に観察、この時テントから2〜3m付近をうろうろ、だんだん近づいてくる(この時はキスリングはテントの外にあった)30分位してキスリングをあさりだした。
食料を食べているのが見える。熊の様子を伺いスキを見てキスリングを全部テントに入れる。その後、火をたき、ラジオの音量を上げ食器を鳴らす、そうしているうちに30分位して熊の姿が消える。

20:00探したが見当らず。

21:00熊の鼻息がし、テントに一回だけ触れ、こぶし大の穴があく。この夜は2人ずつ見張りをし、2時間交替で寝る。

7月26日
3:00起床(快晴)

4:30パッキングも終わりに近ずいた時、再びテントの上方に熊が現われる。15分位はテントの外に出て熊をみていた。昨夜同様、だんだんと近づいて来た。テントに入って様子を伺っていたが、テントの傍まで接近しテントに手をかけ侵入しようとした。我々はテントが倒されないよう、ポールをしっかり握りテントの幕をつかんでいた。
5分位熊と我々はテントの幕を引つ張り合っていた。これ以上はだめだと判った時、竹末君が入り口の反対の方の幕を上げ一斉に1900m峰の次のピークに向かって45〜50m程逃げる。
ふり返えると熊はテントを倒し、その中にあるキスリングをあさっていた。それからすぐ僕と河原君は、竹末君の命令で「九の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、詳細を話しハンターの要請を頼む」と言われたので、すぐに僕は河原君を連れて九の沢を下る(5:00)。

7:15八の沢の出合いで北海道学園大学10人位と会う。彼等の話しによると「我々も熊に襲われたので、直ちに下山する」とのことだったので、僕は彼等に我々の事情を話したら(僕は大学名、パーティーの人名、年齢を紙に書いて渡す)了解してくれハンターの方も引き受けてくれるというので、安心し彼等の情に甘えて食糧二日分、地図、コンロ、ガソリンを借りた。

7:45八の沢出合いより今度は九の沢を登った(これは時間の短縮と安全性を考えて)。

12:30カムイエクウチカウシ山近くの稜線に出る。

13:00稜線に出た竹末君等3人と合流、テント、キスリングは稜線上に上げていたのでパッキング休憩等で1時間費す。僕と河原君が稜線に出て3人と合流する間、稜線上で鳥取大、中央鉄道学園と会う。

15:00カムイエク1900m峰との中間ピークにてテント設営と決定、夕食作りと並行してテントの修繕をする。

16:30夕食をすませ、テントを設営し寝る準備をしていたところ、入口と反対の方向に熊現わる(三度目)。
一斉にカムイエクの方へ縦走路を50m位下る。そこで1時間半位様子を見る。
二回竹末君がテントのすぐ傍まで行き熊の様子を伺う。二回目様子を見に行く前、興梠君と河原君に八の沢カールにテントを張っている鳥取大のところに行き、今晩の宿泊をお願いするよう相談しに行くように命じた。竹末君が二回目熊の様子を見に行って帰った時、「まだ居るので、もう鳥取大のテントへ行こう」と言い、残る3人で鳥取大のテントへ向う。
途中、帰ってくる興梠君と河原君に会い鳥取大のテントは確認したとのことで、5人合流して鳥取大のテントに向う。カールに下るにはカムイエクの頂上を登って行かなければならないけれども時間がないし、全員疲れているので竹末君は頂上手前の稜線からカールに下ると決定、僕も了解した。そこはハイマツも少なく、草が生えており、危険なところではなかった。

18:30稜線から60〜70m下ったところで西井君が後を振り向き熊を発見、僕の後10m前後にあった(下る時は最初に竹末君最後に僕が歩いていた)。熊を発見して全員一斉に下る。
僕は少し下ってすぐ横にそれ、ハイマツの中に身を隠した。熊は僕のすぐ横を通り下へ向った。そして25m位下のハイマツの中で「ギヤー」という声がし、格闘している様子であつた。
とたんに河原君がハイマツの中から出て「チクショウ」と叫び熊から追われるようにカールの方へ下って行った。それからすぐ、竹末君が僕のところへ来ると同時に全員集合の声をかけた。すると西井君が僕等のところへかけつけ興梠君にコールすると約30m下と思われる地点から応答があったが、とうとう来なかった。
そして3人で鳥取大のテントへ向って助けを求めた。すると鳥取大は20分位して、二カ所に火を焚き、ホイッスルを吹いてくれた。その後、鳥取大は沢を下った。
3人集まっていた時、竹末君は、「河原君は足をひきずりながら鳥取大のテントへ向ったのを見た」と言った。それから我々3人(滝、竹末、西井)は一応安全な場所と思われる岩場へ登り、身を隠した。26日の夜は、この岩場で過ごす。(20:00)

7月27日
7:30ガス濃浸し。視界5m。一応8時より行動開始と決定、まず河原君の所在を確認することに決定。

8:00岩場より竹末、滝、西井三君の順で下る。ガス濃くなり視界がきかないため、ゆっくり注意して下る。15分程下った時、下方2〜3mの所に熊現われる。一瞬身を伏せ、様子を見るが、突然熊が「ガウア」と叫ぶ声とともに竹末君が立上がり、熊を押しのけカールの方へ熊に追われながら竹末君が逃げて行くのを確認。すぐ西井君と二人で山の斜面をトラバースし、カールを右手に見ながら八の沢に出て沢を下る。

13:00五の沢、砂防ダム工事現場へ到着。一応、事情を説明し車を待つ。

18:00中札内駐在所へ到着。


興梠メモ(遺体付近かち興梠盛男君の手帳が発見されました。)

クマはまず一つのキスをはこび出し、テントから10m下のしげみの横でむさぼりだす。昨夜は交代で徹夜したので、一人は上の尾根の縦走路で睡眠をとり、二人で見張る。

5:24クマが右下5mぐらい、キスをくわえて移動する。

5:30テントに近づき、たおれたテントをひきかきまわす。キャンパンのついたキスを持って左下の日影のところに持っていくが、なにもせず、またテントに近づく。グランドシートの上においていたセイテツパンを食べているようである。

5:40おそらく竹末さんのキスをもって下方にもっていくが、またそこにおいてテントのところにくる。興梠のキスをくわえて10mぐらい下るが、キスを置いて左へまきながら姿を消すが、また興梠のキスをくわえて下りだす。30m下の低木地帯の中へ入る。

5:48再びテントに近づく。興梠のキスほ下に置いたまま。

5:50左の方へ移動する。左の雪けいの横の岩場に現われる。またかくれる。上に登ってくるようである。テントから左上方200mのところにくる。3人も上方へ上る。

6:00小さな雪けいの近くにくる。しばらくして下りはじめる。

6:07テシトの横にくる。突然ラジオが鳴りだし、クマがあわてて右方向へ走って遠ざかり、カールの尾根で横たわる。

6:13林の中へ姿を消す。行方がわからない。

6:35尾根に3人とも上る。いまのうちにできるだけキスを上げることにする。

7:15縦走路の分岐までキスを3個上げ終わる。

7:30腰を下ろし3人集まって気分をほぐす。

8:30いままで快晴であったが少し雲の割合が多くなり、心配であるが、3人とも歌など歌って気晴らしするが、しばらくすると歌もつきて眠る。

9:25目をさます。

9:30腹がへったので、カンパンを食べる。

9:55水くみ(20L)と残りのキスとテントを取りに行く。

10:35尾根に着く。西井のキスがイカレる。

11:30昼食。

11:45鳥取大現在地を通過。

12:05竹末さん、滝さんを迎へに沢を下る。

13:30現地点で会合。

13:45滝さん帰ってくる。全員無事

7月26日
17:00夕食後クマ現われる。テントを脱出鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。

17:30我々にクマが追いつく。
河原がやられたようである。オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。仕方がないから、今夜はここでしんほうしようと10〜15分ぐらいじっとしていた。
竹末さんがなにか大声で言っていたが、全然聞きとれず、クマの位置わからず。それから、オレは、テントをのぞいてみると、ガケの方へ2〜3カ所たき火をしていたので、下のテントにかくまってもらおうとガケを下る。
5分ぐらい下って、下を見ると20mさきにクマがいた。オレを見つけると、かけ上ってきたので、一目散に逃げ、少しガケの上に登る。まだ追っかけてくるので、30cmぐらいの石を投げる。失敗である。ますますはい上がってくるので、15cmぐらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。それからクマほ10m上方へ後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って、右手の草地の尾根をつたって下まで一目散に、逃げることを決め逃げる。
前、後、横へところび、それでもふりかえらず、前のテントめがけて、やっとのことでテント(たぶん六テン)の中にかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手指れである。中にシュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入りこみ、大きな息を調整する。
もうこのころは、あたりは暗くなっていた。しばらくすると、なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。昨夜も寝ていなかったから、このまま寝ることにするが、風の音や草が、いやに気になって眠れない。
明日ここを出て沢を下るか、このまま救助隊を待つか、考える。しかし、どちらをとっていいかわからないので、鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る。

7月27日
4:00頃、目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。もう5:20である。また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい。

7:00沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。

3:00頃まで(途中判読できず)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。
またガスが濃くなって………。


現地での判漸と行動

S・L滝による現地での判断によると、25日夕方初めて熊が現われ、食料を少し食べられた時に、なぜ、すぐに下山しなかったか、次の3点があげられる。
@時間的に下山するには、余りにも遅く、暗いので危険だった。
A熊の行動が暗くてつかみにくかった。
B過去日高において人に危害を加えた記録がなく、ラジオ、食器を鳴らし、火を焚いたら姿を消したし、また明日、カムイエクウチカウシをピストンして下山する予定だった。
翌26日朝、熊に襲われた時、全員で何故下山せず、2人でハンターの要請に行ったか、という点についてほ、熊が一日中テントに居すわるか、また、テントの回りをうろつくと思った。それに下山するならば、全員、金銭、貴重品はキスリングの中にあったし、キスリング・テントを持ちかえろうとしたからであった。
その後、26日14:00ごろから1時間位歩いて稜線上にテントを張ったのは、翌日カムイエクウチカウシ山をピストンし、八ノ沢へ下るルートがサイト地のすぐ近くにあったからであり、26日カムイエクウチカウシ山を越えて八ノ沢カールに行くには、全員の休力的、精神的に無理であった。また日高へ行く前に得た熊の習性からして、カールボーデンや沢の近くより、稜線上の方が安全度が高いと思ったからであり、熊の行動が低いところより高いところの方がとらえやすかったからであった。

探究

今回の遭難は、誠に不幸な出来事であった。当時、日高山系に入山していた約30パーティの中で、今回のような悲劇にみまわれたのが、たまたま我クラブのパーティーであったということは、不運という外はない。途中熊に出会いさえしなければ、そしてその熊がいままでの常識では考えられない執拗に人を追い人を襲うといった熊でなかったら、全員無事に予定コースを終えて下山していたであろうことは間違いない。
すなわち、熊の件を除けば、今回の日高縦走の計画や装備・食料・治療・気象、その他の準備については、専門家の判断でも特に問題はなかった。ただ、日程の点で若干無理があったとの指摘をうけたが、この点も、カムイエクに来るまでに予備日4日を使い、最初の予定であったペテガリまでの縦走を断念して、カムイエクで打ち切って下山することにしていたので適切であったといえる。したがって、問題を熊の件にしぼって検討して差支えないであろう。
今回のように人を襲って殺すような熊が日高山系に出没するということについて事前にはっきり分っていたならば、今回の悲劇はおそらく避ることができたであろう。その点で事前調査が甘い、北海道の山を知らない、という非難を一部の新聞からうけた。また、最初に熊に襲われていた時に下山しておれば………と言うこともよく聞く。結果的にいえば確かにその通りである。したがって、問題を事前調査の適否と、最初に熊に襲われた段階でのパーティーの判断の2点について、みてみたい。

1事前調査について

なすべき調査は一通り行っていたと言えるであろう。もちろん100%完全といえないとしても、少なくとも手落ちがあったとはいい難い。問題は、これらの資料からは、普通の熊についての習性や対処の仕方については知ることができても、今回の熊のように、いままでの常識でほ考えられない、凶暴な熊についてほ知ることができなかったという点である。
すなわち、我々は今回のような悲劇が起きることを事前に予測しうる状態にはなかったといえるのである。もし我々の事前調査が甘かったとするならば、当然、現地の状況をよく把握して書かれたはずの「ガイドブック」にその点の明確な指摘がなかったことこそ、問題にされなければならないだろう。もう一つ重要な点は、我々がその点を知らなかったのほ、九州に居るからであり、現地ではそのことが分っていたのかということである。この点もそうとは言い難い。今回の遭難は、地元にとってもはじめての事件であり、先例はなかった(しいていえば52年前の大正7年大雪山系で熊に襲われて死亡した事件がある)。我北海道日高パーティーが営林署に入山届を出した時の問合わせに対しても、熊についての警告は与えられていない。また7月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人の中には、本州からのパーティーだけではなく、北大、室蘭工大、小樽商大などの北海道のパーティーや、現地の帯広畜大のワンゲルのパーティーも含まれている。とくに帯広畜大のパーティーとは本学パーティーは、現地附近で顔を合わせ、テントサイトの指示を受けている(そこに熊が現われた)。また、1カ月前、日鉱室蘭の社員が単独登山して行方不明になった時の日高山系の山狩りにほ、とくにハンターを動員してい
なかった。これらのことは、いずれも地元においても、今回のような悲劇が起きることが明確に予測されていなかったことを示している。あるいは極く一部の人々には、このことは予測されていたかも知れないが、われわれだけでなく、地元の人を含めて一般に、今回の悲劇は予測されていなかったと言って良いであろう。
それであればこそ、今回の遭難を新聞も連日のように大きく取扱ったであろう。したがって今回の事件は、地元を含めて日本人全部に大きな衝撃と教訓を与えた最初のケースというべきであろう。その意味で、三君の尊い犠牲を無駄にしないように、今回の事件の教訓を最大限に生かさなければならない。また、今回の熊が、従来の熊についての常識から離れた特別の熊であったという点も重要であろう。普通、熊は特別のことがない限り熊の方から人を襲うことはなく、大きな音をたて、火を焚けば逃げるとされている。しかし今回の熊は、火を見ても、音を聞いても恐れず、積極的に人間に近づき、執拗に人間を追って、ついにこれを襲って殺した。しかも、夏熊はやせているという常識に反して、冬熊のように肥えていたという。恐らく近年、登山者の増大に伴う人間との接触によって熊の習性が変わって、このような熊が出て来たのであろう。そして、そのような熊がいるということが、今回の遭難を通じて初めてはっきりと知らされたと言っていいであろう。

2パーティーの判断について

結果的にいえば確かに最初の襲撃(1回目および2回目)を受けた時点で下山しておれば、今回の悲劇は防げたであろう。その時、なぜ下山しなかったのか、この時のパーティーの判断については別項で述べられたとおりである。これを見ると、この段階でも今回の悲劇が起ころうとは予測してなかったことが分かる。生存者の証言によっても、誰も下山しようとは考えなかったという。結果的に確かに熊に対する判断が甘かったといえるし、また万全を期するという立場からすれば、この時点で下山することは可能であったし、結果的にはその方が良かった。
しかし1回および2回の襲撃では、人を襲うことはなく熊の行動が、いわば従来の常識の枠内であった(1回目には音を立て、火を焚いて、間もなく姿を消した)という点、および事前調査によって得られた知識からは、熊が人を襲って殺すというようなことが起きる可能性については、何等知らされていなかったという点からすれば、そのようなことが起きると予測しなかったとしてもそこに無理があったとは、あながちいい灘い。
今回の事件はそのような意味でも、こういう悲劇が起きることが事前に知らされ、予測されておりさえすれば、防げたであろうが、それを知らされていなかったし、予測されていなかった。そして事前にそれを知り、予測することができなかったが故に発生した遭難であって、そのような意味で不可抗力的であったといわざるを得ないのである。そして、今回の三君の尊い犠牲を通じて得られた一つの教訓は、常に不測の事態に備えて万全の対策をとるということであろう。
−以上・抄録・原文どおりー

この報告書は、福岡大学ワンダーフォーゲル部顧問・西島有厚氏の了承を得て、その抄録を掲載したものである。
全文をご覧になられた方もあるとは思われるが、報告書の性格からみて、それほど多くの方々の目にふれていないと推察し、ここに主要部分を記録したわけである。各山岳会の参考となれば、これに越したことはない。とくに文末の”考察”の項が、大きな意味を持つと思う。
ここでは一切の批判がましいことはさしひかえるとするも、登山以前の問題が持ちこまれている点が注目にあたいする。
この号に執筆ねがった斉藤春雄氏の「ヒグマ」の稿が、何よりこの問題に対する答え、かと考える。【編集部】



ヒグマ
(北海道鳥獣審議会委員斉藤春雄後段部分のみ)
北の山脈創刊号(1971年)

 
ヒグマは孤独性の動物で、仔グマを連れたメス以外は、常に単独行動をとっている。

生息数は増えてないと思われるのに、人間と出会うヒグマの数が減らぬどころか、年々増えてきているということである。戦後の急速な地域開発は、あらゆる山に林道がつけられ、ダム建設や河川改修により山の様相は一変し、どこにでも人影が出没し、自動車やヘリコプターの騒音は、山の隅々にまでひろがってきた。こうした中に、かっての広々としたテリトリーを持ち、食料を確保することのできたヒグマは、いまでは狭められた領域に、餌を求めて右往左往せざるを得なくなった。このため、時には日中の国道や市街地の近くまで姿を見せるようになった。こうした事情の下に、従来はわれわれの考えられなかったヒグマとの出会いが各所におきて、それが悲惨な事故となる場合が多くなった。

このように、ヒグマの行動の変わってきた現在は、山を歩くにも、従来とちがった心がまえが必至になってくる。もちろん、かっての山歩きでも、われわれほヒグマを無視していたわけではない。じゆうぶんな注意を重ねていたが、当時のヒグマの行動は、本来の夜行性動物の性質として」昼間は身をかくしていたので、日没などの動き出すとき以外は、姿を見せることが少なかった。たとえ、その山にいても、われわれの気のつかぬうちに、先方で避けていたのである。多くの場合、ヒグマとわれわれは別の世界にすんでいると云ってよかった。

このようなヒグマの性質は、いまでも本質的には変わっているとは思えないが、追いつめられた彼らの中には、日夜をとわず歩き廻るものもできてきて、人間に近い個所に餌を求めて現われるようになった。その最も著しい例としてほ、日中の登山道路や宿泊地に近寄るヒグマが増えていることである。これは、登山者のいるところに餌があることを知ったヒグマがいるということになる。

手負いか、よはど凶悪なやつでない限り、積極的に人間におそいかかるヒグマは、いまでも多くはない。人間を警戒し、おそるおそる餌をさがしてよってくるのだが、こうした場合、われわれはヒグマを甘くみることが多い。馴れて近寄ってくると思いこんでしまうのである。幼い時から育てたヒグマは実によくなれているが、人間の想像もつかぬ何かのショックで、瞬間、猛獣の本性をあらわし、斃されることが、いままで数多く起きている。ヒグマがサーカスで使われぬのも、この性質によっているのだろう。ヒグマは世界中のあらゆるクマ類の中で、最も危険な種類であることを忘れてはいけない。

いままでに、山の中でヒグマの害を避ける方法はいろいろ伝えられている。夜や日暮れ時に歩かぬこと、というのはいまでも守るべき原則であるし、危い個所では大声で歌でもうたって歩け、というのも当方の存在を相手に知らせて避けさせるためには、いまも昔もかわりがない。突然まがり角なぞでぶつかった場合、相手は驚いて飛びかかってくる場合が多いからである。人間を襲おうと待ちかまえているやつもいて、こうなると所在を知らせることば逆効果になるが、これは非常に特別な場合であるといえる。

襲われたら死んだまねをしろ、とよく言われている。しかし、ヒグマほ死んでいる動物も食べるので、効果のほどはうたがわしいが、ヒグマは自分に対して害心がないということを知れば見過ごすこともあるようで、現に気絶してしまったために無傷で助った例もある。登山者の多い山なぞにいるヒグマの中には、餌を求めて近よることがあるが、こうした際ほ、食料を投げ出して逃げれば、時をかせげるということはできよう。とにかく、こうした事例はいままで数多くあるが、その逆の場合も少なくない。だから、これが絶対の方法というのは、存在していないと云わなければならぬのは、むずかしい性質をもつというより、野生獣類というものを相手にしたときには致し方のないことであろう。

と云って、ヒグマを恐れてばかりいては、北海道の山は歩くことができぬ。それではどうすればよいかということになるが、これは、いままで北海道の本当の登山家が、常に心がけてきたこと、即ち、山を歩くときには、できるだけヒグマに会わぬよう、近づかぬようにして、もしヒグマの行動範囲に入ったときにほ、ただちに退去するという原則を、今後もさらに強く守っていくこと以外にない。このためには、山に入るとき、その土地の人に、ヒグマの現況をよくきいて判断すべきで、危いと思ったら、ちゅうちょなく登山は中止することが必要である。

ガイドブックなぞにも、うかつには各地のヒグマの状況を書かないでほしい。北海道のヒグマはあらゆる山にすみその行動ほ千変万化なだけに、それのみに頼ることは、あるいは逆効果を生ずるおそれがある。およそ登山に際し、その時の気象状況を調べない登山家はいないのとまったく同様に、その土地のヒグマの状況を自分で調べるのは、北海道の登山家にとっては常識といわなければならぬ。(北海道鳥獣審議会委員)