北海道関係リンク
  むかし、北海道は「蝦夷」と呼ばれていましたが、1869年(明治2年)開拓使が設置され、蝦夷地を「北海道」と改称し、11国86郡を置きました。1882年(明治15年)に開拓使が廃止され、3県(函館県・札幌県・根室県)が設置されたが、北海道の過渡期であったのか、1886年(明治19年)に3県が廃止され、赤煉瓦で有名な北海道庁が設置されました。
 現在親しまれている「北海道」の名称は、1946年(昭和21年)に施行された道府県制によるものです。

北海道・14支庁

北海道

総務部 知事政策部 企画振興部 環境生活部 保健福祉部
経済部 農政部 水産林務部 建設部 出納局
企業局 議会事務局 教育委員会 選挙管理委員会 人事委員会
監査委員事務局 労働委員会 収用委員会 海区漁業調整委員会  

14支庁

石狩支庁 渡島支庁 檜山支庁 後志支庁 空知支庁
上川支庁 留萌支庁 宗谷支庁 網走支庁 胆振支庁
日高支庁 十勝支庁 釧路支庁 根室支庁  

180市町村(35市・130町・15村)

石狩支庁(6市1町1村)

札幌市 江別市 千歳市 恵庭市 石狩市 北広島市 当別町 新篠津村

渡島支庁(2市9町)

函館市 北斗市 松前町 福島町 知内町 木古内町 七飯町 鹿部町
森町 八雲町 長万部町          

檜山支庁(7町)

江差町 上ノ国町 厚沢部町 乙部町 奥尻町 今金町 せたな町  

後志支庁(1市13町6村)

小樽市 島牧村 寿都町 黒松内町 蘭越町 ニセコ町 真狩村 留寿都村
喜茂別町 京極町 倶知安町 共和町 岩内町 泊村 神恵内村 積丹町
古平町 仁木町 余市町 赤井川村        

空知支庁(10市15町)

夕張市 岩見沢市 美唄市 芦別市 赤平市 三笠市 滝川市 砂川市
歌志内市 深川市 南幌町 奈井江町 上砂川町 由仁町 長沼町 栗山町
月形町 浦臼町 新十津川町 妹背牛町 秩父別町 雨竜町 北竜町 沼田町
幌加内町              

上川支庁(4市16町2村)

旭川市 名寄市 富良野市 士別市 鷹栖町 東神楽町 当麻町 比布町
愛別町 上川町 東川町 美瑛町 上富良野町 中富良野町 南富良野町 占冠村
和寒町 剣淵町 下川町 美深町 音威子府村 中川町    

留萌支庁(1市7町1村)

留萌市 増毛町 小平町 苫前町 羽幌町 初山別村 遠別町 天塩町
幌延町              

宗谷支庁(1市7町1村)

稚内市 猿払村 浜頓別町 中頓別町 枝幸町 豊富町 礼文町 利尻町
利尻富士町              

網走支庁(3市15町1村)

北見市 網走市 紋別市 美幌町 津別町 斜里町 清里町 小清水町
訓子府町 置戸町 佐呂間町 遠軽町 上湧別町 湧別町 滝上町 興部町
西興部村 雄武町 大空町          

胆振支庁(4市7町)

室蘭市 苫小牧市 登別市 伊達市 豊浦町 壮瞥町 白老町 厚真町
洞爺湖町 安平町 むかわ町          

日高支庁(7町)

日高町 平取町 新冠町 浦河町 様似町 えりも町 新ひだか町  

十勝支庁(1市16町2村)

帯広市 音更町 士幌町 上士幌町 鹿追町 新得町 清水町 芽室町
中札内村 更別村 大樹町 広尾町 幕別町 池田町 豊頃町 本別町
足寄町 陸別町 浦幌町          

釧路支庁(1市6町1村)

釧路市 釧路町 厚岸町 浜中町 標茶町 弟子屈町 鶴居村 白糠町

根室支庁(1市4町)

根室市 別海町 中標津町 標津町 羅臼町      

 昔北海道は、アイヌの住む蝦夷地と呼ばれていました。それがいつ、どのように「北海道」の名前がつけられたのでしょうか?

 それは、伊勢生まれの探険家「松浦武四郎」が「北海道」の生みの親のようです。松浦武四郎は、明治政府から依頼されて作成した「北海道命名に関する意見書」の中で、北加伊(ほっかい)道、海北道、海島道、東北道、日高見道(ひたかみ)、千島道の六つの候補をあげました。結果は、松浦武四郎が提案した「北加伊道」の変形「北海道」に収まりました。原住民のアイヌには文字がなく、「夷人(アイヌのこと)自ら呼んで”加伊”という。」と言うことを重んじ、北のアイヌの国を意味する『北・加伊・道』を提言しました。最終的に「加伊」は「海」に変化し決着しました。

 ここに「北海道」という呼び名が正式に決まり、明治2年(1869)8月15日太政官布告として告知されました。北海道は松浦の雅号でもあったのです。 それまでの呼称は『蝦夷が島』『蝦夷地』などで、日本人ではない「異民族」の住む土地という扱いでありました。

 そもそも蝦夷という言葉は、中華思想に基づく異民族蔑視の呼称で、古代中国で使用された東夷(トウイ)・西戎(セイジュウ)・北狄(ホクテキ)・南蛮(ナンバン)と違わない。これは稲作文化、すなわち年貢・税金としての米を価値基準に捉えていた江戸政権が米の獲れない北の台地を軽視していたことにほかならないようです。
 ところが江戸末期、西欧各国が日本の沿岸に武装船で現れ、鎖国中の日本を棒切れでつつく態度をとるようになりました。とくに北方においてはロシアが触手を伸ばし始め、その行為は狼のようなもので、あだ名の熊のようにすきあらば襲って食してしまおうという態度で暴れ始めました。

 幕府はそれを見て慌て、それまでのように鎖国を言い訳に、知らん振りをして寝転んでいるわけにはいかなくなったのです。満ち寄せる潮のように、時代は明らかに変わっていきました。函館に奉行所を設置し北の防備に充て、その後明治維新という内乱を経てやっと明治政府は正式に「北海道」の名称を定め、北海道が日本固有の領土であることを内外に宣言しまし、結果としてこのことが「近代・北海道」の出発点となりました。