「注連石」は、「しめいし」と読みます。
「注連石」の他に、注連(七五三)柱、注連縄柱、注連掛け柱、注連ぐい、注連掛け鳥居などと呼ばれている地域もあります。

これらに共通しているのは「注連(しめ注連石記念石) 」という言葉で、この「注連」の意味について広辞苑(第二版)では、『①土地の領有を示し、または場所を限るために、木を立てまたは縄を張るなどして標(シルシ)とするもの。 しるし。標識。②しめなわに同じ』とあります。
「注連石」とは、この注連縄を張ったり、掛けたりする石柱です。
このページで、あえて統一して「注連石」と標するのは、天保10年(1839)に建てられた、鳥居と「注連石」の寄進を記念する石に「注連石壱對」という言葉があるためで、 これは恐らく現存する最も古い記録であるからです。もちろん「注連縄柱」などと呼んでも間違いはありません。
なお、神社にある「注連石」のみを調査の対象としました。

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注連石は、どのようなものか以下に数例示します。

①今治市大三島の大山祇神社の稚児柱つき玉垣親柱方式
(以下、方式は無視してください)の注連石。
文政9年(1826)寄進でしたが、現在は移築されています。
(玉垣とは、広辞苑では、「皇居・神社の周囲に設ける垣」)


②尾道市向島の厳島神社の袖垣つきの注連石。
文政11年(1828)、右端部を写真中央上部に拡大表示しています。
注連石の袖垣部分は、文字通り着物の袖のように左右に広がり、
玉垣とは連結されていないことに注目してください。


③今治市伯方島の喜多浦八幡の独立角柱方式の注連石、
右柱の裏に、このページ最初の写真の記念石(天保10年)があります。
柱間隔が広いと注連縄が垂れてしまうので、竹竿などに沿わして飾っています。


④岡山市飽浦の素盞鳴神社の丸柱形式の注連石
文久2年(1862)、向かって右柱表に「注連柱一基」の文字が見える。
(境内が広く一対の写真は撮れていない)


⑤桜井市大神神社の木製注連石
奈良県ではこの木製注連石が数例あるのみ。


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ただし、以下のようなものは当初は注連石として建てられたものではないと考えています。

①天和期(1681-)に建てられた鳥居の両脚の上部を新しく加工して注連縄をくくりつけやすくしたもの
(鳥居がなく、注連石がある神社に多い)


②文政十年(1827)の門柱(門扉を取り付ける金具や何かを取り付けた跡がある)


③安政三年(1856)の冠木門(かぶきもん)に注連縄を掛けたもの


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   注連石を用いて注連縄を展張することは、江戸時代の文化・文政期に始まったと考えていますが、
この頃、神社の注連縄はどのように掛け、吊し、張り渡されていたのでしょうか。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに、天保五(1834)年発刊の「江戸名所図絵」があります。
この中には、当時江戸の有名な寺社の絵が載せられており、
ここから注連縄の展張の様子が判るものを三十五例拾い出しました。
そして、これら注連縄の展張形式を大まかに類型化したのが下図です。

最も多いのが、右端の鳥居に掛ける方法で十九例、次が右から二、三つ目の門に吊す方法で十二例で、これらでほとんどの例を占めていました。
右から四番目は拝殿の軒などに吊す方法、左二例は竹や生木に掛ける方法ですが、これら併せて四例しかありません。
注連石に似たものの例②として引いた品川区高輪二丁目の高輪神社の絵(前出「江戸名所図会」)を下に引用しました。

②の写真の門柱が上図のどこにあるか、よく判りませんが、
海に近い最初の門ならば、それの左右に塀か垣かが広がっているように見えます。

同様に、京、大坂、大和、筑前、播磨、伊勢などの名所絵図を調べましたが、
注連縄を使っている神社が非常に少ないことが判りました。
弘化三(1846)年「金毘羅参詣名所図絵」の中に注連石を用いて注連縄を展張している絵がありました。

現在、岡山県倉敷市にあるこの由加神社(図絵の中では、瑜伽山蓮臺寺の末社と記されて、
現在でも神仏混淆の状況にあるらしい)では、文化四(1807)年五月と刻した注連石が、
現在、この絵の位置とは異なる場所(脇宮の前)ではありますが立っています。

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注連石が寄進される頃、神社での鳥居や灯篭、狛犬はどういうような状況だったのでしょうか。

少し複雑そうに見えるグラフですが、横軸は注連石の寄進年です。
縦軸は同じ神社への鳥居(青丸印)、灯篭(赤い四角印)、狛犬(緑色の三角印)の寄進年です。
1800年から右上に直線が伸びていますが、この直線上は注連石の寄進年と同じ年です。
すなわち、この直線より下は、鳥居、灯篭あるいは狛犬の寄進が注連石の寄進より早かったことになります。
このグラフを大まかに見ると、鳥居が最も早く寄進され、次いで灯篭の寄進があり、
狛犬は注連石より幾分早いかほぼ同じ時期での寄進が多い事がわかります。
石鳥居や石灯篭などの石像物は地震などにより倒壊することがあり、そののち立て替えられるのが一般的です。
現在ある鳥居の寄進年が注連石の寄進年に近いものについては、そのような経緯によるものではないかと考えています。
(このグラフは、江戸期の注連石のあった神社での状況であり、全国の神社にこれらの結論を適用するには危険性があります。)

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これら注連石が、現在国内でどのように広まっているのか調査をしています。
二千社あまりの調査で、全国数万社あると言われる神社の母集団からみれば、まだまだ不十分な調査結果ですが、
大体の状況は判ります。

この図は、注連石の寄進時期を問わず、現在ある注連石の分布を表示
(A/Bの表示は、調査した神社数をB、そのうち注連石のあった神社数をAとし、1数字のみの表示はAのみ)したものですが、
新潟県から鹿児島県までにしか広がっていません。
注連石が寄進されている神社の割合が多いのは瀬戸内海に面した地域(下図)です。
瀬戸内分布
図中では、□が注連石のあった神社、×は無かった神社の位置を示します。
(表示した範囲は、兵庫県から山口県、四国側は徳島、香川、愛媛県で、あえて県境を表示していません。)

江戸時代から最近までの間、注連石の建立数はどのように推移してきたかを見ると、
今後増えてゆくことは期待できない状況になっています。
(下図の実線は注連石の累積建立数に当てはめた、いわゆる成長曲線です)


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注連石がどのように広まっていったかを見る前に、注連石の形式を下図のように類型化しました。

それぞれの代表的な写真は、最初の「注連石とは」のぺージに掲げました。
さらに、注連石には大切な属性として、「祈願文」(宣揚文と称している文献もあります)の有無があります。
そしてその文章形式(漢文調、詠歌調)や内容によっても分類ができます。

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下の二枚の図うち、
上側の図は円柱形式の注連石の分布図で(○印)、
この丸柱形式の注連石は、ほとんどが倉敷地方において江戸時代に寄進されたもので、文化の初め頃から始まり、明治20年頃に終わってしまった注連石群です。
なぜ、この狭い地域から広まらず、しかも約80年間しか普及しなかった形式なのか判りません(詳細調査が必要と考えています)。


下の図は、独立角柱から玉垣親柱形式までの角柱系の注連石について、江戸期の注連石を最も濃い星形とし、
昭和20年頃までに建立されたものについて、徐々に淡い色になるように表示したものです。
この図を見れば、注連石の発祥地域と考えられる今治・尾道とその間の島々から、
四国側においては東側に寄進が始まり、香川県を経て徳島県側に広まっていったことが判ります。
山陽側では、東西に広まっていったものの、東は淡路島と向かいの瀬戸内側、
西では山口の東半分までで、これもほぼ順序よく広まってことが判ります。


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ひろまりをもう少し厳密に調べる場合、対象とする注連石の寄進年代について考える必要があります。
明治維新時、新政府は神道を国家統合の基礎にしようと神道を国教と定めるなどの勅書を出しました。
これら政策に伴い、政治による神道・神社管理のための全国神社の状況調査などが行われ、
民間では激しい廃仏毀釈が起きるました。
また、日清・日露戦役の戦捷祈願なども神社でおこなわれるようになってきました。
ということで、神社の「注連石」の自然な広まりを調べるには明治維新前、すなわち江戸時代の注連石を対象とすることが重要です。

以後、対象を江戸期の注連石に限って議論します。

上の角柱系の分布地図から、瀬戸内の島と浦にあって、その地域では最も古い注連石を抜き出してその地域の代表として、下図に示します。
図では、文政三年(1820)から寄進年代の順に①②③と記号を振っています
(①=1820年-1829年,②=1830-1842,③=1843-1859,④=1860-1882,⑤=1883-1909,⑥=1910-1942、
初期の状況を詳しく判るように、等間隔ではなく、傾斜を付けていることに注意)。

この分布図を見て、①の隣が②、その隣が③というような分布ではなく、全体的には今治・尾道間からひろまっているものの、
かなり早い段階で遠くの地域まで注連石情報が伝わっていった、
すなわち、注連石の伝搬は海上交通によって行われていったと考えてもおかしくはないでしょう。
江戸時代の海上交通は、教科書に書かれている以上に発達していたと考えています。

一方、陸路による伝搬はどうでしょうか。下の図は旧山陽道の宿場の位置を*で示した上に、
その近くにある神社の注連石の寄進年を、上の海路伝搬の場合と同じように順に①②③と記号を振っています。
旧山陽道は海に近いところにも通っていましたので、その地域では海路伝搬の図で示したのと同じ神社が地域代表となっているところがあります。
全体が江戸の末期以降の注連石となっていますが、どのように見たらよいでしょうか。
街道や宿場には、他の地域よりは人が多く住み、神社も多く、注連石寄進も比較的多くなされていたと考えられますが、
注連石が街道を伝わっていったということを、この分布図から読み取ることは難しいのではないでしょうか
(陸路伝搬を否定するものではありません)。


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注連石の発祥地域と考えられる今治・尾道間の分布に焦点を絞り、さらに注連石の属性の観点を入れ、注連石のひろまりを見てみます。

これは、注連石の寄進時期と表面に彫られた祈願文の形式の分布を示しています。
祈願文の様式については、
「人如是愛敬則神又 咲歓而宜守安穏」などを「漢(詩調)」、
「千早振神裳受引微注連縄(ちはやぶるかみもうけひくみしめなわ) 長幾多免新也安計能玉垣(ながきためしやあけのたまがき)」などを「五(七調)」、
「奉 献(この下に寄進者の名前など)」を「奉」、
何も彫られていないものを「無」、
と表示しました。
さらに寄進年の古い順に濃く着色しています。
文政十(1820)年に寄進された最も古い注連石は今治側にあり、「天下泰平 国家安全」の漢詩調で、
この漢詩調の祈願文を持つ注連石は、当初今治側でしたが、芸予諸島から山陽側に広がったことが判ります。
次に古い様式は「奉」で、「奉献」「瑞廣前」や「奉寄進」などの寄進記念のものですが、これらは芸予諸島から広がっています。
五七調の詠歌を刻した注連石は、今治側から芸予諸島まで広がりましたが、江戸期においてはここまでのひろまりしかありませんでした。

今のところ、注連石は今治城下が発祥地と考えておりますが、江戸期の注連石数は、
角柱系が95神社(一つの神社に江戸期の注連石が二基あるところもあるが、一社一基を基本とした)
円柱形が倉敷地方に45基しか見つけていなく、これだけの母数では何事も断定ということは困難です。

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注連石は誰が寄進したのでしょうか。

江戸期の140基の注連石のうち、寄進者の生業が判ったのは40%(連名の中で1名でも判ったものを含む)、
不思議に武士階級の具体的な氏名が刻された氏名はまだ見つけていません。
上図のなかで、役付百姓とは「庄屋」、「組頭」、氏子中は、「氏子中」、「産子中」、「同族方中」などを指し、
事業主・商人のなかには「塩田主」を含んでいます。その他は「塾頭」と「神官」です。
すなわち、寄進者の1/3以上は、地元の百姓・町人階級でした。

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瀬戸内海周辺に注連石が早くから分布している理由の一つとして、良質の花崗岩の産地がこの地域に数多くあったと考えています。
産業総合研究所-目で見る地学-花崗岩
これらの石は(たとえば大阪城、広島城などの)築城や港湾整備などに多く使われております。
また街づくりにも活用され、たとえば尾道は古くから栄えた街で、海側から見ると石造りの街といった様相を示しています。
この硬い花崗岩を見事に加工・彫像する職人も当然ながら瀬戸内に数多く育っていました。
尾道には石屋町という名前の路地があり、多くの石職人(石工、古くは石大工)が住んでいたらしい。
一方、今治にも多くの石工がいて、代々同じ名前を嗣いでいました。
たとえば、今治の中谷元右衛門、尾道の山根屋源四郎はともに70年以上にわたって活躍しています。

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さて、地元の民は、何の目的で建立を発願し、そしてどのように注連石を具現化したのでしょうか。
何の目的でということは、注連石に彫られた祈願文に込められていると見てよいと思います。
ただし、その祈願文の出典までも検討しなければならないと考えています。
たとえば、今治の多伎神社の注連石の寄進者は地元に帰農した武士の末裔で、祈願文は今治藩の家老が詠んだ歌です。
詠歌の内容は、多伎神社の奥の滝を読んだものですが、なぜ百姓が家老の詠歌を注連石とともに寄進したのだろうか。
これを解明するには、両者の関係を詳しく調べる必要があます。

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ここからは、寄進者の人物や生活状況など注連石がひろまっていった時代の状況、また注連石を一つの小さな文化として見た場合の文化のひろまりについて考察しておりますが、
その内容をすべてを紹介するには、かなり広いスペースが必要でWeb上での公開は不可能です。
拙著「しめいし」(自費出版本のため、国会図書館や瀬戸内地方の府県立図書館にのみ配布)をご一読ください。
ここでpdfファイルがダウンロードできます
ただし、印刷や内容の編集はできないようにしております。
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