なんでいきなり「大和説」?

勝山古墳の「大発見」について
 
 
 05月30日 纏向勝山古墳出土の建築部材の年輪年代が判明 (Yomiuri On-Line)
奈良県桜井市の纏向勝山古墳の周濠から本年3月に出土した建築部材が3世紀初頭に伐採されたものであることが、年輪年代法により判明した。出土した木材のうちヒノキ材一点に辺材部が残っており、削られた部分を考慮すると199年+4〜12年、つまり、203年〜211年の伐採と判断された。

 なるほど、これは素晴らしい発見ですね。話題になるのも判ります。

 コンピュータ解析を利用した年代測定法の成果です。けれど、浮かれすぎはいけません。 
 ついこの間、考古学的な新発見の危うさが話題になっていたではないですか。この年輪年代法にしても、起年をいつにするかという所で未確定の仮説が使われていたり、科学的な外観がすべてとは言えないので、+4〜12年という断定はどうも...。でも、このYomiuriOn-Lineの記事はまだ冷静ですね。少なくとも事実だけを述べていて、憶断を押し付けていませんから。

 でも、次の日の朝日となると、いきなり冒頭からぶっ飛ばしていましたね。何でこうなるのでしょう?!

奈良県桜井市の勝山古墳の周濠(しゅうごう)から見つかった木製品が、3世紀初めに伐採されたヒノキだったと、奈良県立橿原考古学研究所と奈良文化財研究所が30日、発表した。...(中略)...当時は中国の史書「魏志倭人伝」で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍する時代。これまで弥生時代とされてきた邪馬台国は古墳時代となりそうだ。(05月31日朝日新聞第2社会面より)

 何が問題か、と言うと、この古墳は3世紀のもの(これも怪しいのだが...)、 という「新発見」と3世紀の日本の中心は邪馬台国(中国の史書『魏志倭人伝』正確には、魏志東夷伝中の倭人の項目に記録されている国が倭、女王国、あるいは邪馬壹国)という古代史の常識を組み合わせえて、だから、邪馬台国は古墳時代と結論づける、性急な三段論法が問題なのです。

木製品は古墳の築造直後の祭祀で使われたとみられることから、同古墳は3世紀前半に造られた可能性があるという。(同上朝日新聞記事より)

 年代比定に関して多少の問題はあるにせよ、ここまでは記者発表の範疇だから良しとしましょう。しかし、これが事実としても、古墳時代という時代区分が3世紀からになる、という程度の変更です。一部で報道されていたような「今まで弥生時代だと思われていた邪馬台国が古墳時代になった」わけではないのです。弥生時代は、弥生式土器が使われ始めた時代を現し、この時代はその区分で言えばあくまで弥生時代なのです。古墳時代というのは、まったく別の時代区分でしょう。それにしても、この時代、九州ではまったく古墳が見られないのですから、古墳という文化自体が近畿の銅鐸文化圏で発達してきたもの、と考えるほうが自然でしょう。まして、いきなり、

勝山古墳の近くには卑弥呼の墓との説もある巨大な箸墓(はしはか)古墳(3世紀半ば〜後半)があり、一帯には3世紀代の古墳が集中する。古墳の築造が始まった時期が卑弥呼の活躍した3世紀前半までさかのぼるとすれば、邪馬台国畿内説がさらに有力になると評価する研究者もいる。(同上朝日新聞記事より)

は、どうでしょう。確かにそういう研究者はたくさん居ます。畿内説を取っていた研究者は、多かれ少なかれこの発見に浮かれています。でも、朝日のような大新聞社が一緒にはしゃぐ問題じゃありません。それに、上の「研究者」の談話にしても、この一帯は古墳が集中する一大文明地、しかも3世紀、『魏志倭人伝』には邪馬台国と書いてある、だから...。というのは、チョッと議論が飛躍しすぎです。

 古墳のような巨大建築物が集中していたとしたら、それこそ、倭人伝の記述に反映されるはずじゃないですか? 卑弥呼の墓の寸法まで書いてあるのですから。

 倭人伝の舞台を、どうしても畿内に持って来ようとすると、いつでもこういう無理を重ねる事になります。わたしにとって、一番の目から鱗の体験は、日の出ずる処の天子、タリシホコの朝廷が、大和朝廷でないかもしれない、という事でしたね。この辺りは、『失われた九州王朝』に詳しい論述があります。これも仮説ですから、丸呑みにする必要はないのですが、少なくともその可能性がある、しかもその可能性に説得力がある、ということが新鮮でした。でも、この説、まともな議論の対象にはなっていないですよね。タリシホコはタリシヒコで天皇の自称、ここでは、代理の聖徳太子の事、とこの「定説」は絶対だから、議論するまでもない、という感じみたいです。でも原文に当たってみてください、実にまともな論文ですよ。

 さて、もし、タリシホコの時代でも、大和朝廷以外に、中国から日本の代表王朝と認められる国があった、としたら、まして、卑弥呼の時代に大和畿内地方に邪馬台国以外の政権があったとしても何の不思議もないのです。古墳の築造が、3世紀前半にまで遡るとしたら、それは大和地方に3世紀から古墳文化が花開いていた、ということを意味します。銅鉾文化圏vs銅鐸文化圏というこれも作業仮説なのですが、かなり発掘によって裏付けられている考え方とも、この二王国説は一致するのです。

 それなのに、なぜ、こういう発見があるたびに、近畿説が大騒ぎして喧伝されるのでしょう。実は、その背景に、万系一世の天皇家という暗黙の前提があるようなのです。この考え方は、明治維新以来の日本の天皇制を支えて来た思想ですが、戦後歴史学の中にも、このように形を変えて、邪馬台国→大和朝廷と考えたい、いや、考えるのだ、それが定説だ、というような空気を作っています。それがことあるごとに噴出して、邪馬台国近畿説の合唱になってくるので、こういう報道のされ方をすると、わたしはどうもキナくさい気がしてならないのです。


年輪年代法の問題点

 今回の発見に至る詳細については、朝日新聞(前述)が詳しい。

 200点の祭祀用木製品から10点をサンプリングして、それを以下の方法で年代確定したと言う。

このうち110の年輪があった長さ41センチ、幅26センチ、厚さ2センチの板の最も外側の年代が199年とわかった。樹皮が残っていないため、正確な伐採年は特定できなかったが、樹皮のすぐ内側に当たる「辺材」部分が残っており、最も新しくても211年までには伐採されたという。

 樹皮が残っていなかったから正確な伐採年がわからない???
 年輪年代法というのは、伐採された切り株が丸のまま見つかった場合には有効な年代確定方法です。

春から夏にかけての成長が速く、軟らかい部分(春材部)ができ、涼しくなって成長が遅い秋には、硬い部分(秋材部)ができます。この一年毎の繰り返し成長した部分が、木の横断面に同心円状の輪として現れ、これを年輪と言います。(農林水産消費技術センターHPより、http://www.cqccs.go.jp/xwoodlife/wl04.html 参照)

 だから、木の中心部から細胞分裂を繰り返して育っていくのです。樹皮(外郭部)が残っていれば、起年がわかるわけです。(これを確定するにもかなり誤差を含んだ数字になると思いますが...)
今回は、この樹皮は残っておらず、そのすぐ内側(と学者が推定した)「辺材」部分から起年を199年としたわけです。この年輪がすべて残っていたのでしょうか、「辺材」という遠慮がちな用語が気になります。普通、年輪というのは、春材部プラス秋材部ワンセットで1本と数えるのが普通ですが、それならば、素直に上の記述を信じても、199+110=305となり、早くても4世紀始めの伐採になります。あれ??

 それとも、春材部1本、秋材部1本という変な数え方でしょうか。それならば、199+55=254ですか?
それでも、もっとも早くて211年までに、とはなりませんね。それとも、年輪は断片的なもので、その合計数が110だったのでしょうか。そうだとすれば、すべては考古学者たちの「断定」の真偽にかかっているわけですね。ここで、この間の事件で露見した考古学者の名誉欲についてくだくだ述べる必要はないでしょう。人間だれしも名誉欲はあります。まして学者であれば、少しでも自分の説を補強する発見には大騒ぎしたくなるものです。テレビの画面に向かって、「これが邪馬台国でないというほうがおかしい!」と何度も連呼していた、郷土愛溢れる奈良の考古学者の方の姿が、この「名誉」という言葉にダブってしまうのですよ。