千葉晃の自然地理専攻へのモチベーションと仙台市青葉区中山八丁目の昔、小学校について

 文・写真 千葉晃

高解像度の写真のリンクです。

 小職は地理(ことに自然地理)の研究と教育活動をしています。その自然地理を好きになった原点が、かつて住んでいた宮城県仙台市
青葉区中山八丁目にありました。その周辺の昔の写真とともに地形環境や学校変遷を中心に、昔の中山ニュータウンについてエッセイ的
に書いてみました。現在中山に住んでいる方へのアドバイスとなれば、と思い筆をとりました。

 この中山には2回住んだことがあります。まず幼稚園年長さんの1年間、そして小学校2年生の9月から小学校5年生の9月終わりまで
です。特に記憶があるのは、後者の期間となります。

 最初、青森から転校してきたばかりの時は、中山小学校に入りました。確か2年8組だったと思っています。ちょっと暗い教室で、K先生と
いう女性の先生が担任でした。茶色いコロナで通われていました。昔は、今とは違い食が細かったので、よく給食を食べ残していたようです。
お教室は日も当たらなく、薄暗いのであまり行きたくありませんでした。中山小学校は「マンモス校」と呼ばれ、川平小学校ができるので分か
れることになりました。体育館で説明会があったような記憶があります。私は新しい川平に行くことになりました。体育館の床は何故か緑色
のゴム製。スライディングをすると、熱かったです。

 さて、本題に入ります。

写真1: 川平小学校の開校時に配布された斜め空中写真(1980年頃)

 まず、写真1。仙台市立川平小学校開校の際に、生徒に配布された斜め空中写真です。この写真は、引用の範囲内として解釈しておりま
す。まだ月急山が残っています。写っている範囲からいうと、川平小学校の学区範囲をかなり意識しているものと思われます。おそらく仙台
空港から飛び立ったセスナで撮影したのでしょう。うとう溜池、ちょうど削っているところです。西勝山や川平はまだスカスカ。誰も住んでいな
い感じです。中山9丁目のことを「すぎとや」地区、という言い方をしていました。

  現在の空中写真を見ると、こんなにびっしりと住宅があります。空中写真(標準画像),CTO971X,仙台,C3,4(国土地理院による)

 川平の初代校長は音楽の先生だったような気がしています。校歌をつくった方。銀色のブルーバードに乗っていました。後からきた教頭は、
バリに行ってケチャをみてきた、という話を全校朝会でしていました。音楽系の先生が強かったのかもしれません。今思うと宮城教育大の音楽
閥っぽい感じもしています。川平小学校校歌「泉よはるかー、嶺青く」。あれから30年近く経過していますが、今でも歌えます。当時はまだ校舎
の半分しかできていませんでした。5年生の時にはプレハブで授業を受けました。その時のI先生は、白いカペラで通われていました。

 2000年頃、都内にある小売業者さんでアルバイトをしていたとき、なんとこの川平小学校卒業の女性が会社内の経理部にいました。
私は売店を管理するセクションで、電話応対や伝票処理を行なっていました(伝票系の業務はここで覚えました)。彼女はたまに伝票チェック
などをしにきていました。同い年。東京にも川平小学校卒業者がいて活躍しているのです。


写真2: 1979年頃の月急山(がっきゅうさん) 奥のほうに貯水槽が見えます
(土曜日の夕方、この景色をみながら、角界を引退された竜虎さんが出演されていた料理天国という番組をよく父と見ていました。チャンネルは1、
TBS系の東北放送だったような気がします)
 
 小職の父は、T社というサザエさんのスポンサーをしていた電気メーカーに勤務していました。中山8丁目の電力研究所(固有名詞化して
いますが、もちろん東北電力のことです。地元では東北を省略します)のウラ(←仙台弁っぽいです。標準語では後ろ、背後と言います)に
住んでいました。ここはT社の福利厚生のための社宅で、1976年頃に建てられました。建設中の時に見に行ったことを覚えています。そこに
は、2度住んだことがあると上述していますが、まずは北側の2階、そして一番南側の3階です。

 北側には1976年頃から77年までの幼稚園年長時代。すぐそばの双葉幼稚園というところに通っていました。幼稚園の先生、お名前は忘れ
てしまいましたが、当時22歳程度ではないかと思います。あれから30年経っているので、もう50歳代なんでしょうか。整ったお顔をされてい
たような気がします。双葉幼稚園、何も感じていませんでしたが、この仙台市の中山を開発した会社(双葉綜合開発さん)が経営していたよう
です。

 もう亡くなってしまいましたが大正5年生まれの祖父は、山に入るのが好きで、たまに拙宅に来て、国見の無線中継所のほうまで連れて行って
もらったことを覚えています。写真2にある小さな山は月急山と言います。ここには、薬草も植わっていました。祖母はせんぶりなどを採っていた
記憶があります。

 拙宅では、よく土日に、北仙台に住んでいる祖父母宅を訪れていました。地方なので、タクシーを使っていました。帰りに、北仙台(正確には堤
町)からタクシーに乗って帰宅するとき、父は通常コースと「山コース」を使い分けていました。通常コースとは、中山7丁目、すなわち電力グラウ
ンドから回る距離的に遠いコース。山コースとは、、今は整備されていますが、電力研究所を左に折れて月急山を経由するコースです。山コース
は険しい未舗装の山道。降雨後はぬかるみます。通常コースには、一方通行があったので、若干遠回りになる傾向がありました。したがって、父
はよく距離的に拙宅に近いという理由でたまに選んでいました。

 ある時、昔のバイオレットのタクシー、なんと月急山でスタックさせてしまったのです。それで、やむなく、歩いて拙宅まで、ということがありまし
た。あれから30年、家族では一切語られることのなかったタクシー会社さんへの営業妨害、今ここでカミングアウトされました。


写真3: T社社宅ベランダから 今は中山8丁目交番付近(1979年頃)

 この写真は南側を撮影したもの。何故か崖があって、ここに登って友達とよく遊びました。奥には国見の無線中継所が写っています。

 ここの土壌は白色ですごくもろい。私は土質は全くダメなので、東北大の院に進んだ後輩に聞いてみたところ、「多分,千葉さんが見たのは,
シルトか凝灰質シルトだと思います.埋没した葉や、硬くなった木は,その上部に最近になって堆積した崖錘の堆積物だと思われます.」という
見解を頂戴しました。大変感謝しています。うーんシルトかぁ。 こんな海抜100mを超えているところで。


写真4 昔のうとう溜池近辺 (このシルト質の空地で私はよく遊びました。後でもう一度詳しく説明します。)

 私の友達のE君(これも東北チックなお名前)と一緒に、埋没した木(当時はテッカボクって言っていたような気がします)を探したこともありまし
た。固結したシルトを割ってみると、中から木の葉などが出てきました。ドラえもんで三葉虫の化石のシーンがあって、当時はそれを想像したこと
があります。

 なんと拙宅から10秒走ると、仙台市ではなく、当時は宮城郡宮城町になっていました。上の写真は宮城町なんです。この辺から行政の境界と
いうものを非常に意識したのでしょう。ただ、どうやって宮城町だ、というのを知ったかは謎です。ここでかつてたこ揚げをしたり、雪が降ればミニス
キーをしてあそんでいました。ミニスキーでスキージャンプ!みたいなこともしていました。1mくらいしか飛んでいませんでしたが結構スリルあり
ました。ここには、一人で歩いていると本当に自分一人になるので、夕方以降は怖かったです。東京だと誰かしら周りにいるので、安心ですが、
地方にはこういうところがたくさんあります。人いないんです。


写真5:北側にカメラをふったところ。黒川郡方面。(1979年頃) 電力グラウンドが見えます。

 私は、大学院の時、横浜でアマチュア無線の免許をとりました。無線は見通しのきくところでは、かなり遠くまで電波が飛びます。在仙当時は
免許を持っていませんでしたが、こんな環境で無線をやってみたかったです。たぶんここだと、144メガのSSBで、5エレの八木程度で青森まで
10Wで飛ばせる自信があります!少なくとも盛岡までは余裕でしょう。

 電力研究所は、川平か中山小の時に社会科見学かなんかで、車に落雷させる実験を見せてもらったことがあります。どこからアースされるの
か、何万ボルトという高圧電流がいかに威力があるのか小学生ながら、体にしみつきました。小学生の社会科見学、というのは結構教育効果
があるのだと感じています。要するに、ルーチンの授業ではないため、インパクトが大きいのかと思われます。さて、電力研究所の中は、一応フ
ェンスがありましたが、誰でも通り抜けが可能でした。今はどうなのでしょう。毎日見ている河北新報に、電力グラウンドは売却されマンションが建
設されるとの記事をみつけました。

 もう一つ、川平小学校まで通うときに、ショートカットしようと思って西勝山に下りる崖を下っていました。そこには湧水があったのです。もしかす
ると大腸菌やSO4の2マイナスがたくさん入っている排水かもしれないのですが、あー、崖から水が湧くんだー、と小学3年くらいで体得していまし
た。


写真6:月急山にユンボが!(1980年頃?)

 小学3年の頃、夏休みに、中山9丁目(現中山ジャスコ)付近にあった農業用の溜池に釣りに行ったのを覚えています。それは「雷魚」探しでし
た。ちょっとシーラカンスチックな珍しい魚を捕りに行こう!という企画でした。朝すんごい早起きして、きつねドンベイとポットを持って、釣りに行
きました。結局、コイしかつれなかったのですが、企画自体はおもしろかったです。

 そうこうしている間に、突然ユンボとダンプががんがん押し寄せてきました。当時は工事情報などは把握することもなく、どうなるんだろうと思っ
てあれこれ思案するのが精一杯。とにかく、月急山が削られていきました。


写真7:なんとぺっちゃんこに! ちなみにここの残土、どこに持って行ったんでしょうか?教えてください。
(1980年の春頃 雲高が若干低く、芝生が青くないので、4月頃か? 仙台市内が見えます)

 月急山は削られて、貯水池も削られました。ここで大転機。視界が開けて仙台湾が一望できるようになったのです。視界が開けると、視程が
気になり、気象や気候への関心を持つようになったのもこのあたりからです。今までは、上記写真2のように非常にクローズした視界だったの
が、こんなになってしまった。もしも、地理が大好きになるようなお子さんに育てたかったら、こういう視界のよいところにお住まいになるのが秘
訣ではないかと考えています。

 道路をつくるのと宅地造成だったんですね。


写真8 ここは上記の写真3に対応するところです。
現在は国見ヶ丘方面ではないでしょうか。うとう溜池が写っています。確かに土壌は白い!(1980年頃)

 
 写真9 うとう溜池(1980年頃)
 
 仙台弁、地元ではウドヌマと言っていました。うとう溜池は、旧版地形図を見て確認したら、なんと梅田川の上流部なのです。梅田川は、北仙台
の祖母宅近くを流れるドブ川。ここと接点があるなんて、あとで驚きました。上記写真は1980年の春頃ではないかと思います。水が枯れています。


 写真10:うとう溜池雪景色 舗装されて整備されているので、1981年の2月頃か?

 その冬、おそらく1980年から81年にかけての冬だと思いますが、それ以前に道路が開通しました。ただ、道路は解放されていませんでした。
1980年の暖候期にこの道路で転んで太ももを縫うけがをしました。ちゃりで下っていて、後ろを振り向いたらバランスを崩してコケてしまったの
です。道路植栽の木に足がささって、太ももが血だらけ。頭も打ってコブができ、かつ太ももも何針か縫いました。T社社宅に住まわれているSさん
(これも福島県にしかいない苗字の方)の、茶色のコロナに乗せてもらい、4丁目の河村外科に連れていってもらいました。今でも足には傷があり
ます。

 1980年当時、コロナは相当に売れていたのでしょう。私のヴァイオリンの先生もコロナに乗られていました。特にそのコロナだけは、オーバー
ヘッドにDOORとかのウォーニングランプが並んでいたので、かなり上級グレードだったのではないかと思います。


 写真11:中山8丁目に虹がでた 2個も 1981年の春頃

 昔の中山のことが知りたくなり、会社を早く出てタクシーで、九段会館(旧軍人会館)の手前にある関東測量部まで行ってみました。コンター
が10mなのにもかかわらず、うとう溜池の北側に山があることが表現されていません。ただ、崖のマークはありますが。


↑ 2万5千分の1(旧版)地形図「仙臺西北部」(昭和33年3月30日発行 昭和3年測図、同5年鉄道補入 同21年資料修正 同33年資料修正(行政区画


↑ 2万5千分の1(旧版)地形図「仙台西北部」(昭和41年7月30日発行 空中写真は昭和38年12月撮影で、現地調査は昭和39年10月)



 ↑ 2万5千分の1(旧版)地形図「仙台西北部」(昭和43年6月30日発行 空中写真は昭和38年12月撮影で、現地調査は昭和42年12月)

 両者の地形図を比較すると、中山ニュータウンが開発されていった際の、地形改変前の状況がわかります。数年間で大規模に開発された
ことがわかります。上記176.4mの三角点、下記172.7mの三角点はおそらく同一のもので、貯水池になっていたところです。形状はピラ
ミッド型です。ただ、フェンスがあって入れませんでした。越えて一回くらい登ったことがあったかも。

 これら2葉の地形図からわかることは、以下の点です。
 ・梅田側の上流部がうとう溜池であること。
 ・中山ニュータウンの道は尾根伝いにつくられたこと。
 ・中山ドライビングスクールのところには小さな沼があったこと。
 ・現在の7丁目あたりにも沼があったこと
 ・現在ジャスコがあるところは、判場と呼ばれていたこと

 ※地形図は出典の明記を行えば掲載ができます。詳しくはこちらへ

 
 写真12:うとう溜池と野焼き 1981年春頃

 話は大変長くなりましたが、私が自然地理が大好きになった原点はここ↑なのです。この切り崩した月急山、うとう溜池のちょっと上流に田んぼ
がありました。ここは、It's a small worldで、地形学の教科書的なところなのです。狭い峡谷に、小河川が流れている。流水の関係がわかりやすい
ところでした。

 ここにはイナゴがいました。私はイナゴの佃煮も食べていましたし、昔イナゴをここで捕まえていました。捕まえたイナゴちゃんをビニールに入れ
て持って帰りました、今は結構ダメ。バッタを食べるなんて。前述の祖父母。ここの現地研究をよくしてくれました。祖父母は山野草の植生に詳しか
ったです。この辺にはカタクリ、シャガ、ヒメシャガ、サギソウ、モジズリソウなどがありました。この山道をどうにかして登っていくと、国見の無線中
継所まで行けるんです。 ヒメシャガは小さいアヤメです・今見たら祖父を思い出して泣いてしまうかもしれないです。薄ーい、紫色をした花。ヘビも
いました。ヤマカガシという赤いやつ。あぜ道をくねくねしていました。

 
写真12:上記写真の上流側 流水は梅田川です! 1981年春頃

 たぶん今、公団住宅前のガソリンスタンドがあるあたりでしょう。今から25年前はこんな感じでした。ここの写真を公開しているのは、日本で私だ
けだと思います。


写真13:奥がジャスコ。公団住宅の前。この左側がちょうどIt's a small worldだったところです。2006年8月12日深夜

 ところで、1980年の12月、56豪雪というのを体験しました。クリスマスにすごい雪が降って、仙台が停電したことです。ちょうど終業式。雪まみ
れになって、自宅まで帰宅。その後なんと停電に。湿った雪が電線にくっついて、電線がその重みで切れて、停電になったのです。うちでは母親
とローソクで過ごしました。寂しく東北放送のラジオをきいていました。ただ幸い、ガスだけはきていたので風呂には入れました。ただ、バスも不通
になって父は、中山ドライビングスクールのとこから歩いて中山まで上がってきたようです。

 その年はそのほかの日にも雪が降ったと思います。すごい雪降ったとき、仙台市営バスの左のミラーを運転手さんが何かにひっかけて割って
しまい、荒巻本沢の北仙台営業所で強制的にバス交換させられたこともありました。一緒に乗っていた方いませんか?満員で私は立っていました。

【まとめ】
 わたしは自然地理を専門としています。この後、1981年に横浜に転校し、その時にもいろいろと契機になることはあるのですが、自然地理に関係
する興味関心の原点は、やはり自然があふれていたこの時期、それも仙台市青葉区中山8丁目という土地にありました。山歩きや植物や植生に関
しての興味については、小職の専門ではありませんが、祖父母の影響をかなり大きく受けていると、今感じています。逆に、私が地形図を持って
「こっちの土地が低い とか この水はこっちに流れる」などと言いながら、もう一度祖父と一緒にこの辺を案内して散策してみたかったです。大変残
念です。自然いっぱいの仙台市、中山8丁目に感謝します。


【コンタクトがありました】
さて、2007年9月7日に中山在住の某氏より、小職宛に1通のメールがありました。この中山の昔のことにご興味をお持ちの方でした。とてもうれしくて、すぐにメールをバックして、やりとりをさせていただいております。この方と、是非中山を散策したいと思っています。私よりも年上の方でした。

後日郵便物が届きました。まず、仙台・青葉区中山地区平成風土記という冊子が入っていました。


 2006年12月に刊行されたもののようです。編者は中山地区平成風土記作成委員会さんとなっております。発行者は中山学区連合町内会、いきいき青葉区推進協議会青葉区平成風土記作成委員会となっています。私はどこかでググった時にこの冊子の存在を知っていましたが、今回手にするまですっかりその存在を忘れていました。せめて、ISSNでもISBNでも書き入れるようにして、国会図書館にでも納本してほしいです。この辺が甘い!せっかく作っても、地元で読まれるだけでは学術的な価値が半減してしまう。読みたい人は、こんな400km離れた所にいるんですから。せめてPDFにしてどっかにアップしていただきたいと思いました。

 私は運良く入手できました。中山のことが非常に細かく書いてあり、中央線の満員電車の中で読んだら、すぐにJRの内藤新宿駅に到着しました。

 感じたことは3つ。(1)意外に北山駅のことが大々的に書かれていること。そんなに中山から北山駅の利用者が多いのだろうか。もひとつ(2)この中山から著名人が結構出ているということ。私は勿論凡人なのでリストアップされていないが(笑)、社宅や公務員宿舎があることで、それ相当の職につく人が多いのだろう。(3)なんと私の大好きな姫神さんが来て、中山の歌を作っていること。そんなのは知らなかった!私は姫神が大好きで、故人のお父様の姫神さんに手紙を出したら、ちゃんと返事が来たのが印象的です。

 何故ここで書き留めたか、というと、この冊子を読んだ後では、脳内の薄れたメモリーが蘇り、今までの記憶と異なる記述がなされる可能性があるからです。事実、これを読んで思い出したこともありますので、この前後では記載事実の信憑性が若干異なります。

【パークハウス中山ヒルズ】
 上記のコンタクトされた方から、マンションのパンフレットが入っていました。三菱地所さんがやられているパークハウス中山ヒルズのもの。


 「なしてこんなの入ってんだべ?」と思ってペラペラめくっていたら、なんと私が住んでいた東芝アパートの跡地にこの物件が建設されているのでした!!家内に言っても、「あっそ」と昭和天皇のような反応しか示さなかったのですが、私にとっては重要な案件です。父の転勤による転校をしたことのある人にしかわからないことなのでしょう。特に反対とかはしないので、地所さん、東芝さん安心してください。
 ここで思ったのは、かつて今から30年も前は、東芝さんのような企業にとって、社宅があるということは福利厚生の重要なアイテムだったのでしょう。ただ、現在は年収も上がり、住宅供給の意味が薄れているのではないかと感じました。したがって精算の意味も含めて、この土地を売却したのでしょう。ちょっと哀しいですが、この場所は大変景色のよいところです。私は残念ながら東京で暮らしていますが、仙台にいたらここに住みたいです。
 パークハウス中山に住まわれていて、いつかなんとわなしに(これ仙台弁?=なにげに)このページをご覧になった方、是非私を招待してください!ワイン持って伺います(帰りは運転代行で)。目的は、この物件のベランダから風景をデジタル媒介で撮影したいのです!

 ここまで2007年9月30日追記



部分結氷したうとう溜池
 後方の建設現場が私が住んでいた東芝中山アパートの跡地。
2008年2月9日撮影



うとう溜池にあるミズバショウ群生地
 これは仙台市が植えているのだろうか?自生ではなさそうですが。
この近辺は、昔からこういう赤い土で、脂ぎっているような
ぎらぎらした水が流れていました。そういう土壌なのでしょう。

2008年2月9日撮影


2009年2月7日夕方、中山を通りました。

祖母葬儀で仙台入りして、急遽上記コンタクトをしてくださった方と面会するために
通過しました。1年前には建設中でした中山8丁目13番地のマンションが竣工して
いました。上層階へ是非おじゃましたいです!



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