国鉄最後の日
写真と文 千葉晃
1987年3月31日
国鉄が明日からJRになる、という日。私は高校1年生の春休みでした(@神奈川県立港北高等学校在学中)。明日から高校2年生!

そんな日に、キヤノンさんの銀塩一眼レフカメラAE1+P(エーイーワン・プログラム)にコダックのエクタクロームを入れて、上野、新橋、東京駅まで行っていました。アルバムが押し入れから出てきたので、ここで皆さんに公開します。私より若い方達にご覧いただきたいです。


恥ずかしながら、高校卒業するまで鉄道ファンという雑誌を毎月買っていました。テツだったのです。。。。今は列車にはほとんど興味ありません。毎日乗っていますし。まあ、今でも乗り物は何でも好きです。
▲1987 さようならJNR(日本国有鉄道)のヘッドマークが付けられた (この写真は31日じゃなさそうです。)

当日かどうかわかりませんが、西日暮里かあの辺まで行ったようです。山手、京浜東北ともに、高運転台の103系が担当。この103系は国鉄が最も生産性・サービスともに質が低かった時代に設計されたらしいです。したがって、効率悪いし、騒音もあるし、という最悪の電車だったようです。そもそも国鉄からJRになったのは、強まった「組合つぶし」の意味合いがあったようです。信頼筋の話によれば。当時高校2年生の私にはそんなことは全く知りませんでした。
▲常磐線 2472M 上野駅
 こちらにもヘッドマークがあります。たぶん夕方だったような気がします。これも31日じゃなさそうです。
▲これもたぶん地下ホームで ひたち号の485系ボンネット型だと思います。
JNRマークを撮影。この光線だと4時頃ではないだろうか。撮影日付は31日ではなさそうです。
▲山手線の103系 後ろに東海道の111系が見えるのでおそらく東京駅ではないかと思います。ここからのショットは全て3月31日です。

暮色になって鉄道ファンが増えてきました。みんな私と同じ年代か、ちょっと上のかたみたいですね。
▲京浜東北の103系 これは新橋駅ではないでしょうか。
▲新橋駅でC56 160が展示されていました。結構近寄れたみたいですね。
うしろにケッタイな形をした中銀ビルが写っています。当時は建築のことなんか全く知らなかったので、今になって気付きました。3月31日当日は結構夕方から冷えてきたような印象があります。曇ってきたんですね。スチームが流れているので1/8くらいのシャッタースピードだと思います。ということは三脚持って行ったんでしょうか。
▲C56 160正面から
 ストロボ焚いていたみたいなので、1/60秒でシンクロさせてあるようです。
▲C56 160 お尻の部分
 ライトあるんですね。3月31日、気象庁のページで大手町のデータを見てみると、15時で12.6℃、北北西の4.8m、結構風強く吹いています。雲量10ということなので、この写真とも確認できます。
▲昔はこんな自動券売機でした
 国鉄と書いてあります。カード使えます、とありますが、これはオレンジカードのことです。このデザイン、今見ると非常に懐かしいです。たぶん新橋駅でしょう。
▲寝台特急さくら号が新橋駅を通過していきました。国鉄最後の日のさくら号です。EF66ですね。それまではEF65の1000番台が引っ張っていましたが、パワーの強い貨物用の66に変わりました。当時の鉄道ファンには、大ニュースでした。なぜかEF66のほうが人気があるんですね。
 当日の18時の大手町、ぐっと気温が下がって、7.8℃、北の風5.8mと風強めになってきました。
▲国鉄旅立ちなんとか号
 という臨時列車が運行されました。東京駅から。これは12系の客車ですね。最後尾にはマスコミ各社の通信パラボラが設置されていて、貫通扉が解放されて運行されたようです。信じられない、よく許可でましたね。
▲中央線の201系
 最近リプレイスが著しく進んでいますが、当時は201系全盛。ホームもまだ地上で東京駅の駅舎と一緒に写っています。これも国鉄最後の日の中央線です。

 民営化してサービスが決してよくなったとは思いませんが、JRになってずいぶん変わったのではないでしょうか。あれから、もう20年も経過しました。早いものです。

2007年9月16日作成 推敲中 
2008年11月11日 高校の学年が間違っている!という指摘があり、修正しました。

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