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メルヘンヴェール:第五話 野放し
 ディーバの館を後にしてから、およそひと月ほどが経過した。
 最初はぎこちなかった私とルナだが、次の日にはすっかり元の状態に戻っていた。 それからは共に戦い、助け合い、幾多もの試練を乗り越えた。 彼女とは息もピッタリ合うし、安心して戦うことができた。
 そう、彼女は意外と強い。
 強いと言っても、決して相手の命は奪わないのだが、しかし、それが逆に凄い。 神の力とでも言うべきか、不思議な術を駆使して相手を傷つけることなく気絶させる。 一瞬、催眠術でもかけているのかと思ったのだが、聞くところによると脳の中枢神経とかいうものに直接魔力を当てて相手の気を失わせるという、神々の間では普通に使われている護身術の一種らしい。 それを食らった奴は二、三日は目を覚まさないらしいが、目を覚ますと何事もなかったかのように動けるようになるのだそうだ。
 他にも、術者の周囲一メートル以内に魔法壁、いわゆるバリアを張って敵を近づけなくするという睡眠中だけ有効な魔法もあり、大変重宝している。 おかげで睡眠中は彼女と寄り添って寝る必要があるのだが、まあ彼女は喜んでるし、私も悪い気はしない。


 話変わって、現在私たちは、辺り一面が氷山に囲まれた超極寒の地に立っている。
「さ、ささささむ、がちがちがちがち」
「だ、大丈夫ですか王子様」
 寒いなんてものではない。 自然環境で氷山ができているくらいだ。 とてつもなく気温が低いことは言うまでもない。 おまけに私は裸。 下半身はまあ毛で覆われているので寒いと言ってもこんなものだろうが、上半身はそれこそ真っ裸。 こんなところに裸で立ってる奴をバカと言わずしてなんと呼ぶ。
「き、ききき君はささ寒くないのかい?」
 ルナを見ると、別に縮こまっているわけでもなく普通に立っている。
「このお洋服は空調機能が付いているんです。 やはりお母様に頼んで着るものを用意すべきでしたね」
 クウチョウキノウ?
 だめだ考える余裕もない。 なんにせよ彼女は平気なようだ。 とにかく私は寒いを通り越して痛い。 このままでは全身しもやけになってしまう。
「王子様、そのまま……」
 彼女はそう呟くと、黙って私の全身を抱きかかえた。
「……?」
 あれ? 暖かい。 彼女が私に抱きついた途端、寒さが嘘のように消え去ったぞ。
「こ、これは」
「わたしの周囲三〇センチ以内は、このお洋服にかけられた空調魔法が働きます。 どうです、寒くありませんか?」
「ああ、生き返る……助かったよ」
 私はこの暖かさを満喫した。
 本当に彼女には助けられてばかりだ。 情けない……。
「誰だ君たちは?」
「!」
 突然、何者かの声がした。
 声のする方を向くと、なんと長髪の男が呆れた顔で私たちを見ていた。
「こんな辺境地でラブラブチュッチュするなんて、物好きだね」
 その言葉を聞いて、ルナは小さな悲鳴をあげたあと、私を突き飛ばすようにして私から離れた。
 途端に襲いかかってくる極寒の空気。
「ひっひぐうっ! ギギギギギギギッ!」
「なんだ、君はヴェールか。 それに……お前、ルナか!」
 私は寒くて敵わないので、とりあえず耳に入った言葉だけ聞いてもらう。
「お、お兄様?」
「やはりルナか。 久しぶりだな。 こんなところでヴェールと何をしているんだ?」
「そ、そ、それは……おっお兄様こそ、このような場所でいったいなにを?」
「野暮用でね。 しかしすっかり大きくなったなあ。 随分とオンナらしくなってー」
「い、妹を変な目で見ないでください!」
「はっはっは。 しかし千年ぶりか。 あの岩山に住み着いていたギアスはどうした? じっちゃんがついに倒したのか?」
「ギアスを倒したのは王子様です」
「王子様?」
 それから次の言葉が聞こえるまで、数秒かかった。
「きゃあ! やだ王子様しっかり!」
「バカか君は! なんの装備も無しにこんなところに来たのか!」
 私の身に何が起きているのだろう……だめだ。 意識が遠のいていく……。


 グツグツグツ。
「――ん」
 暖かい。 ここはどこだ。 ゆっくりと目を開けると、そこは木で造られた見知らぬ部屋だった。 意識がはっきりするまでしばらく天井を見つめている私。 どうやらベッドで寝ているらしい。 とても良い気分だ。 あ、なんだろう、この美味しそうな匂いは。
「うン……」
「!」
 すぐ近くで妙な声が聞こえた。 頭を起こして見てみると、なんとベッドの縁で腕枕をつくり、涙を流しながら眠っているルナがいた。
「しんじゃいや、おうじさま……」
「……」
 そうか。 私はあの極寒の地で寒さに耐えきれず、意識を失ってしまったんだ。 また彼女に助けられてしまったな……くそ。 自分のあまりの無力さに腹が立つ。
「おや、目が覚めたかい?」
「!」
 男の声だ。 私は慌てて声のする方を見た。 そこにいたのは長髪の男。
「……ヤン・トモリ?」
「そうだよ」
 彼はそう答えると、クスッと笑った。 彼がルナの兄上か。
 私はルナを起こさないよう、そうっと上半身を起こした。
「ルナが世話になっているようだね」
 ギクリとする私。 世話になっているのは私の方だ。
 私が応えずにいると、彼は私の心の内を察したかのように更に笑った。
「落ち込むことはない。 ここは神でさえ恐れる無秩序な世界。 いくら月の女神として力を持つ妹が君についていたからといって、君のような普通の人間が、あの世界の果てからここまで無傷で来られたのはほとんど奇跡に等しい。 それにやり方はどうであれ、千年もの間、いかなる神でも倒せなかった魔獣ギアスを君はあっさりと倒してしまったんだ。 少しは自信を持つことだな」
 そう言うと、ヤン・トモリは体の向きを変えて、目の前の鍋を掻き回し始めた。 いい匂いの正体はあれだな。
「それはそうと、ルナは君にぞっこんのようだね。 君をここに運んでから、ずっとそこで君の看病をしていたんだよ。 ついさっきまで起きていたんだが、どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい」
「……」
 ルナの顔を見る。 口が可愛らしくむにゅむにゅと動いたあと僅かに微笑み、聞き取れるかどうかといった小さな声で 「よかった……」 とだけ呟いた。 半分起きてるのだろうか。
 そんなルナの様子を見て、私にも笑みがこぼれる。
「事情は妹から聞いている。 フェリクスの王子なんだってね」
 彼は一方的に話しているので、私は口を挟まず聞いた。
「普通ならばとても信じられる話ではないが、妹だけでなくじっちゃん、それに他人を滅多に信用しないあの母さんまで君を認めているらしい。 ここは一歩譲って信じるとするが、ならばなぜ君はフェリクスで蘇らなかった? フェリクスで命を落としたのならフェリクスで蘇るはずだろう」
 どうやら質問らしい。 彼が答えを待っているので私は口を開いた。
「それは私にも判らない。 恐らく魔法使いの手によって殺され、あの地へ飛ばされたのだろう。 今はそれしか言えない」
 ヤン・トモリは左手に持った小皿に、鍋のスープを小さく盛り、味見するようにそれをすすった。 そして満足そうに一つうなづく。
「まあ神ですら通れないギアスもいたわけだし、君の話は本当だろうね。 だが君はもう王子じゃない。 ヴェールだ。 今さらフェリクスに帰るだなんて無理だよ」
 私は思わず 「なぜだ」 と大声で言いそうになり、口をつぐんだ。 すぐそばでルナが寝ているのに起こしたくはない。 私は冷静を装って静かな声で言った。
「なぜ無理と?」
「君やルナが知らないことはまだまだある」
「?」
 ヤン・トモリは、木でできた器に鍋の中身を盛りつけると、それを持って私のところへやってきた。 そしてやはり木製のスプーンと一緒に私に差し出す彼。
「私の得意料理でね、自家栽培の寒地野菜で作ったスープだ。 体が温まるよ」
 私はそれを受け取ると、しばらく眺めた。 薄茶色のスープの中に、適度な大きさに切られた数種類の野菜が無数に入っている。 私はその野菜のひとつをスプーンにすくうと口に運んだ。
 ……うまい。 私はその味の虜になり、二口、三口と休むことなく食べていった。
「はは。 慌てなくてもおかわりはいくらでもある。 ゆっくり食べるといい」
 ヤン・トモリはそう言うと、近くの椅子に腰掛けた。
「ところで、これから父さん――海の神ネプトゥーヌスに会いに行くんだってね。 だが気をつけた方がいい。 父さんはヴェールを酷く嫌っている」
 スプーンを持つ手が止まる。
「嫌っている?」
 彼がうなづく。
「君は知っているか知らないが、ヴェールにはフェリクスにおける重大な使命がある。 それなのにフェリクスの外にヴェールがいるとすれば、それは使命を放棄した、罪を犯したヴェール、つまりフェリクスから逃げ出したヴェールということになる」
「……そうらしいな」
「知っているなら話は早い。 父さんは大神の命令により、その逃げ出したヴェールをつかまえなくてはならない立場にある。 だから君が父さんに会うというのは正直どうかと思う」
 私はスプーンの先をスープの中に沈めた。
「危険は承知の上だ。 私はネプトゥーヌスに会い、そしてフェリクスに帰る」
 ヤン・トモリはしばらく無言のまま私を見続けていた。
 そして、やっと経ってから口を開く。
「妹の話だと、君は今までも何度かフェリクスに帰ることを止められたそうだが、ことごとく断っているそうだね。 君はそうまでして、なぜフェリクスに帰りたがる」
 私が口を開こうとしたら、ヤン・トモリは手を出して私の発言を止めた。
「待て。 さっきも言ったが事情ならばルナから聞いている。 私が聞きたいのはそんなことではなく、今の君のフェリクスへ帰ろうとする目的が何なのかということなんだ」
「……?」
 私がフェリクスに帰る目的?
 そんなもの初めから決まっている。 フェリクスに帰り、そして――そし……?
「……」
 私が答えに困って黙っていると、彼は小さくため息をついた。
「万に一つの可能性としてフェリクスに帰れたとして、それから君はどうするつもりなんだ。 城に帰る? 姫に会ってみる? まあそれもいいだろう。 だがその後はどうする。 どんなに親しい仲だったとしても、その姿ではバケモノ扱いされるのがオチだぞ」
「そ、そんなことはない。 姫なら」
「まだそんなことを言っているのか」
 やや強めの口調で言うヤン・トモリ。 私は圧倒され言葉を飲んだ。
「たとえば君が逆の立場だったらどうする。 今の君ならいざ知らず、君がまだヴェールについてほとんど知らなかった頃に、突然目の前に、頭に角の生えた半人半獣の生物が現れて 『私は姫です』 と言われたら、君はその獣の言うことを信じることができるのか? いや、たとえ信じることができたとして、君は変わらず接することができるのか。 永遠に注がれるであろう周囲の冷たい視線から姫を守り続けることができるのか。 周囲の冷たい視線に君は耐え続けることができるのか。 罪人として追われる立場にあるヴェールを神の手から守り続けることができると本気で思っているのか」
「くっ!」
 反論したい。 だができない。 彼の言うことは正論すぎる。
 私が黙っていると、ヤン・トモリは口調を静めて、ため息混じりにこう言った。
「しかしヴェール、こんなことを考えるのは、今さら野暮ってものだよ」
「え?」
「今の君は、それ以前の話だということに既に気づいている」
 私が疑問系の顔を向けると、彼は小さく息を吐いた。
「命を落として終わらず君はヴェールとして蘇った、その理由が、もうわかっているんだろう?」
「……っ!」
 私がヴェールとして蘇った理由。
 そう、私と姫は恋をしていない……姫との恋は本物ではなかったのだ。 私が姫を愛していなかったのか、それとも姫が私を愛していなかったのか。 そのことを知ったひと月前はまだ半信半疑だったが、ルナと旅を続けていくなかで、それは次第に確信へと変わっていった。
 姫に対する私の愛が偽物だったのだ。
 そもそも、本当に姫との間に運命的なものがあれば、あの数えきれないほどの男連中が参加した過酷な試練など必要なかったのだ。 姫と私は、互いに王家の者として以前から面識があったのだから、本当に互いを意識していたのなら、あのような国をあげた催しなど必要ないはずだ。
 だいたい私が試練に落ちていたらどうなっていた。 姫と結ばれることはなかっただろう。 愛とは、そんな他人を蹴落として勝ち取るようなものではない。 運命的なものがあれば必然的に結ばれるものなのだ。
 そういう意味では、姫もまた本気で私を愛してくれていたのかどうか……レースに勝ち残った私と魔法使いのうち、比較的面識のあるマシな方を選んだ……所詮、私たちの愛は、その程度のものでしかなかったのではないか。
「……」
 そのとき、私は妙な気分に襲われた。
 そのことに気づいた私が今まで考えなかったこと。
 いや、あえて考えようとはしなかったこと。
 ――なんのために私はフェリクスへ向かっているのか。
 ディーバの話を聞いてフェリクスへの旅が危険なことは重々承知していたはずだ。 なのに、なぜ私は今でもフェリクスを目指しているのか。 なぜ旅をやめようとしないのか。
 一度は愛を誓い合った姫を裏切らないため? 違う。
 魔法使いへの復習のため? そんなんじゃない!
 ――わからない。
 私の目的とは、いったいなんだ。
 いったい何が引っかかっているというのだ!
「……」
 私が自分の世界に入って自問自答を繰り返していると、一つのため息が私の意識を呼び戻した。 ヤン・トモリに顔を向けると、彼は口を開いた。
「よく聞くんだヴェール。 父さんの目を逃れてフェリクスの外に逃げ出すことができたヴェールは過去に一人としていない。 どんな経緯があったにせよ、君が神の目に触れることなくここに、強いては世界の果てを歩いたという事実は神にとって驚異以外の何者でもない。 わかるかい? こんなところにヴェールがいるはずがない――そこが重要なんだ」
 そこまで言うと彼はゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられたコートに手をかけた。 そして、それを持って私のところへと歩いてくると、そのコートを眠っているルナの背中にそっと掛けた。
「これが最後のチャンスだ。 まだ迷いがあるうちに考え直せヴェール。 少なくともこの地にいれば君は罪人として追われることはない。 もちろん、いつかは父さんに見つかってしまうだろう。 だが君に救いの手を差し伸べる者は多い。 私、母さん、じっちゃん、精霊たち、そしてルナ。 これだけ証人がいれば父さんも君の味方をしてくれるだろう」
「……」
 ルナを見ると、彼女は気持ちよさそうにすやすやと眠っていた。 口元にちょっと見えるヨダレが可愛らしい。 おもわず私の顔がほころぶ。
 ――そうだな。 この地に残るのも悪くないかもしれない。 だいたい命を落として墓の下で眠っているはずの人間が突然目の前に現れて 「生き返りました」 なんて言ったところで、結局は姫を怖がらせるだけ……!
 いや待て、私はここにいるだろう。 墓の下ではない。
 ヤン・トモリも言っていた。 フェリクスで命を落としたならばフェリクスで蘇るはず……つまり、私が死んだのはフェリクスではなく、あの最初に目を覚ました世界の果て!
 そうか。 姫は、私が死んだことさえ知らないはずだ! せいぜい行方不明――。
 そのとき、更にハッとする私。
 そういえばあの魔法使い、自らの姿を変える能力が……そうか。 わざわざ私を世界の果てまで飛ばして殺した本当の理由は、私をフェリクスに戻れない状況にして、私に姿を変えて自らが王子に成りすますため!
「なにを百面相してるんだ。 迷うことなんてないだろう?」
「!」
 少しくらい考える時間をくれてもいいのに、妙に急かされている気分だ。
 私は彼に顔を向けて、もう少し考えさせてくれと言おうとした。 だが、彼の目を見て口をつぐむ――なんだ彼の表情は。 いっけんすると私の目を直視しているようで、微妙に定まっていない彼の視線……何かを隠しているのか?
 そういえば彼はたしかフェリクスでライターを……なるほど。 ならば少し突いてみるか。
 私は、あえて笑顔を作って彼に言った。
「ありがとうヤン・トモリよ。 どうやら私が間違っていたようだ」
 無表情から一転し、笑顔を見せるヤン・トモリ。
「それじゃ」
 私は彼の言葉を制して続けた。
「私は自分のことしか考えていなかった。 このような姿で姫に会ったところで、結局は姫に多大な迷惑をかけるだけだ……だから目的を変える」
 案の定、怪訝そうな顔をするヤン・トモリ。
 私は笑顔を消すと、毅然とした態度で彼の目を見た。
「ディーバから、あなたは人に成りすまして地上で記者業をやっていると聞いている。 森の国の姫と結婚寸前の私がもし行方不明になれば、結構な騒ぎになったはずだ」
「……」
 彼の表情は掴みにくいが、一瞬だけ確かに困ったような顔を見せた。
 これは図星だな。
 私は黙って彼の言葉を待った。 すると、諦めたようにため息をつくヤン・トモリ。
「仕事柄ポーカーフェイスには自信があったのだが……もちろん君を見くびっていたわけではない。 まさかこの私の表情を読むとは、どうやら、そんじょそこいらのダメ王子というわけじゃなさそうだな」
「それって誉めてるのか?」
 すると、彼は目つきを変えてクスッと笑った。
「言っておくが、私の情報料は高いぞ」
「着る服すらない貧乏人なんだ、安くしてくれ」
 彼は更に笑うと、現在もグツグツと煮込んでいる鍋の所に向かいながら口を開いた。
「その様子ならば既に察しがついているのだろう。 フェリクスの森の国では数ヶ月前、盛大な挙式が行われた。 君と姫の結婚だ」
「!」
 その答えを覚悟はしていたが、いきなり言われてギクリとしてしまった。 言うまでもないが、私はその挙式に出た覚えはない。 つまりそれは――。
 ヤン・トモリは続けた。
「王家の結婚式など、たいして興味はなかったが仕事だからね。 私も取材で顔をだしたよ。 あの王子は明らかに君だった。 いや、君と同じ姿をしていたというべきかな」
「やはり魔法使いが?」
「恐らくね」
 彼は鍋に突き刺さっている棒を手に取ると、鍋の中身を軽くかきまぜ始めた。
「私もルナの話を聞くまでは、それが君のニセモノだとは思いもしなかった。 こう見えて眼力には自信があるのだがね……それほど似ていたんだよ、あの偽王子は」
「姫も全く気づいていないのか……父上は?」
「君には酷な答えかもしれないが、誰一人として、あの偽王子を疑う者はいなかったな」
「……」
「もちろん、ここ最近の異変にはさすがに気づいているようだがね」
「異変?」
 彼は突然、指をパチンと鳴らした。 すると鍋にかかっていた火がボウと音を出して突然消えてしまった。 ちょっとカッコイイかもしれない。 間もなく彼は新たな器にスープを盛りつけ始めた。 そして、その器とスプーンを持ってテーブルに向かうと椅子に腰掛けた。
 そこで初めて、私が手に持っている器を思い出した。 話に夢中ですっかり忘れていたのだ。 私はスプーンに手をかけると一口だけ煮野菜を食べた。 この固すぎず柔らかすぎずの絶妙な食感がたまらない。
「神々は下界……つまりフェリクスについてはあまり関心がないので気づいていないようだが、森の国は今とんでもないことになっているらしい。 私の情報も風の便りだからどこまでが正確かは自信ないが、森の国は荒れ果てて、すっかり美しさを失っているらしい。 森の国の民は魔物に追われ国を出てゆき、今では城だけがその姿を残していると聞く」
「!」
 姫が魔法使いと――私の姿に成りすました魔法使いと結婚をしているところまでは想像していた通りだが、その先が間違っていた。 奴は私の立場を利用して、湖と森の国の利権を牛耳ろうとしているのではないかと考えていたのだが、甘かった。 まさか僅か数ヶ月の間に、森の国が魔物に侵され破壊されようとは。
「聞くところによると、森の国を占領している魔物共は次第にその行動範囲を拡げ、恐らくそう長くないうちにフェリクス全土を覆い尽くすのではないかとのことだ」
 それからは、しばらく沈黙が続いた。 ヤン・トモリはスープを静かに食べている。 私に考える時間を与えてくれているのだろう。 しかし、その考える時間が、そう長くかからなかったのは言うまでもない。
 ――私の新たな目標が決まった。
 私の決意を悟ったのか、ヤン・トモリは食す手を止めて言った。
「どうやら決心を固めてしまったようだね」
 互いに目を合わせてニッと笑う。
「では約束だ、情報料を払ってもらおうかな?」
「は?」
 更にニヤリと笑うヤン・トモリ。 情報料って、あれ冗談じゃなかったのか?
「生憎、金は持っていないのだが……いくらだ?」
「金は最初から期待していないよ。 約束を二つ守ってくれたらそれでいい」
 約束?
「わかった、言ってくれ」
「言わなくても判ってるんだろう?」
 そう言ってルナに目をやるヤン・トモリ。
「ルナを大切にしてやってくれ」
 ――なんだか、うまくヤン・トモリに乗せられてしまった感じがする。
 だが、悪い気はしなかった。
「もう一つは?」
 一瞬だけ間を置くと、彼はゆっくりと私に顔を向け、いやらしい目つきで言った。
「前から可愛い弟が欲しかったんだ。 私をお兄ちゃんと呼んでおくれ」
「……」
「そんな顔をするな、冗談だよ」
 そう言いながら吹き出す彼。 今のヤバイ目は本気に見えたんだが……。
「君自身も幸せになれ。 これが条件だ」
「……」
 ルナを見る。 何度見ても同じ寝顔だが、見ていて飽きない。
 私は小さく笑うと、ルナに視線を据えたまま彼に言った。
「この先の試練を考えると、本当に高い情報料だな」
 それからは、しばらく二人で笑い合った。 私たちは割と普通の声で話しているのだが、ルナは一向に起きる気配を見せない。 よほど疲れていたんだな。 私はベッドから出ると、彼女をそっと抱えて、代わりにベッドに寝かせた。
「ほほう、さすが様になってるじゃないか。 抱っこのしかたが、まるで王子様とお姫様だな」
「ヤン・トモリよ。 あなたは性格が悪いとよく言われないか?」
 私はテーブルを挟んでヤン・トモリの真向かいの席に座った。
「よし。 君にもう一ついいことを教えよう。 この情報はタダでいいよ」
「これ以上は払えそうにない」
 彼は一度吹き出すと、話を始めた。
「私の妹――というか父さんの娘が、この氷山のどこかに閉じこめられ、父さんはひどく嘆いているらしい」
 笑顔から一転し、怪訝な顔をしてしまう私。
「らしい?」
 なんか妙な言い回しだ。
「ここ数日の出来事でね、私も知人の伝で昨日知ったばかりなんだ」
「いや、というか妹って……ルナのことか?」
 するとハハッと笑うヤン・トモリ。
「ルナはそこにいるじゃないか。 私が言っているのはもう一人の妹のことだ」
 もう一人だって?
「まだ兄妹がいたのか。 ルナの兄妹はあなただけかと思っていた」
「ルナは妹の存在を知らない。 なんたって、父さんの不倫相手の子供だからね」
「な!」
「魔獣ギアスのおかげで、私らとルナは千年もの間会うことができなかったんだ。 父さんの不倫騒動はここ八〇〇年くらい前の話なんでね、もちろんルナとメール文通をしていた母さんは知っていたけど、母さんがそのことをルナに教えるとも思えないし」
 そりゃそうだ……。
「で、その妹さんの名前は?」
「ミノス・ムーメ。 金髪で軽いパーマがかかっている。 ややイケイケが入っているよ」
「イケイケ……?」
「見たらわかるよ。 しかし」
 そう言って、熟睡しているルナに視線を向けるヤン・トモリ。
「前もってルナにそのことを話しておかねばショックを受けるかもしれないな」
「そりゃそうだろう」
 しばらく沈黙したあと、ふとした疑問が沸き上がり、彼に尋ねた。
「しかし、その妹さんは、なぜこんな危険なところに?」
「どうやら私を尋ねてくるつもりだったらしい」
「は?」
「お兄ちゃん子でね。 でも途中で道に迷って……そもそもここ、道なんてないし、はは」
「原因はあなたか」
 彼は悪びれる様子もなく、はっはっはと笑った。
 この男は切れ者だが、ときどき掴み所がなくなる。
「まあそんなわけで、君がムーメを助けてくれ。 父さんの身内が全員君の味方になれば、いくら父さんだって心を開くようになるだろう。 成功率は高いに超したことはない」
 苦笑いしてしまう私。
「できれば下心抜きで助けたいのだが……で、その妹さんは、どこの氷山に閉じこめられているんだ?」
 すると、「んー」 と言って首を傾げるヤン・トモリ。
「私も探していたんだが、その最中に君らと遭遇したものでね」
「ああ、だからあんなところにいたのか。 まあ、そのおかげで助かったわけだが」
「私が声をかけなければ、ルナと抱き合ったまま氷山を抜けるつもりだったんだろう?」
「……」
「いい男が恥ずかしがるなよ。 はは、君はすぐに顔に出るから面白い」
 つくづく、この男には隠し事ができない。 そういえば記者の相手はフェリクスにいた頃もずいぶんと苦労したな……私は無意味に咳払いをした。
「しかし氷山に閉じこめられてるって、そんな悠長にしていて大丈夫なのか?」
「命の心配をしているなら大丈夫だ。 私ら神の血を引く者は高等魔法が使えるのでね。 衣類に空調魔法をかけることくらい朝飯前だよ。 それに万が一のための非常食携帯も義務づけられている。 一ヶ月程度ならそれで持ち堪えられるよ。 もちろん彼女に危害を加えるような輩が現れなければの話だがね。 彼女はまだ神聖学園の中等部だから攻撃系の魔法はちょっとしか習っていないはずだし」
 ううむ。 なんとも生々しい話だ。
「それと、ここの氷山は熱では溶かすことができない。 気温が低すぎて溶かしてもすぐに固まってしまうからね。 だからこの薬を持っていくといい」
 そう言って、彼は私に一つの小瓶を差し出した。
「これは?」
「私が作った氷を溶かす薬だ。 もともとはこの家の土台を建てるために作った薬なんだが、化学変化で水の成分を変えて一時的に融点を下げる効果がある。 これを氷山にぶっかけるだけで溶かすことができるよ」
「それはありがたい」
 私はそれを受け取ると、巾着の中にそっと仕舞った。
「間違っても飲むなよ」
「だれが飲むか」
 そして、ふと思い出す。
「そういえば、ディーバは、海に行けばあなたに会えると言っていたが、なぜこんなところに?」
「海の家は津波にやられてねグシャグシャ。 先日こっちに引っ越してきたばかりなんだよ」
「……妹さんが道に迷ったのはそのためか」

 それから私たちはルナが目を覚ますのを待ち、彼女に一連のことを伝えた後、彼の家で一晩過ごしてから彼と別れた。