屋根裏部屋SE > 小説 > メルヘンヴェール
<コンテンツページに戻る>
メルヘンヴェール:第四話 神の酒
「――いまだから言える〜……もう離さないで〜」
「きゃああああ!」
「ルナちんさすがー!」
「イエー!」
「るら、ほんろーにうたうまふなったわれぇ!」
「本当ですか、お母様!」
「さすが、あらひのむふめ! うふ!」
 ……。
 私たちがディーバの館に訪れてから既に六時間近くが経過している。 あれから間もなくカラオケパーティが始まり、ディーバ、ルナ、精霊たち三人は、まあ酒が入っているせいもあるが、テンションを一切落とすことなく延々と歌い続けている。 精霊たちも今ではルナのことをルナちんと呼んでいるし、すっかり和気藹々モードに入ってしまっているようだ。
 ちなみに私は、ひとり疲れてソファでぐったりとしている。
「コラぁ! 暗いじょっ! ひゃんと飲んれるか、ぶえーる!」
 そう言って、突然ドカッと私の横に腰を降ろすディーバ。 右手には酒の入ったグラス、そして左手には酒瓶を握っている。 リバティオーとかいう高級酒らしい。
「汚い呼びかたしないでください。 というか私はまだ未成年ですよ」
「天下の女神が飲んれいいって言ってるんらから飲め! 命令!」
「んな無茶苦茶な……」
 さきほどから何度も絡まれているので既に慣れているのだが、ディーバは酒癖が悪すぎる。 そういえば私の母上も絡み酒だったな。 父上がいつも泣かされていた。
 それにしても、ここに来て最も驚かされたのはルナの歌声だ。 どうも私にはフェーブスの神殿を出てから聞いていたルナの美声のイメージが強く、カラオケのイントロが流れたときはまさかと思ったのだが、彼女は今流行の歌を惜しげもなくノリノリで歌っている。 もちろん美声には違いないのだが。
 美声といえば、ディーバもまたルナに負けず劣らず、さすが歌の女神と呼ばれるだけのことはある。 ポップスからオペラ、演歌に至るまでなんでもござれ。 こうして絡んできているときの濁声からは想像もできないような感動すら覚える歌声を披露してくれる。
 更に聞いた話では、この館の一角には専用の収録スタジオとかいうものがあるらしく、そこで作曲したり歌詞を創ったり歌ったりして、記録した物を所属している事務所とかいうところに送って収入を得ているらしい。 よくわからないが、つまり彼女はプロの歌手ということだ。
 この際だから言うが、ルナとディーバだけではない。 精霊たちもまた見事だ。 ソロでもじゅうぶんに上手いが、特にルナのバックコーラスとして盛り上げる三人の存在は、もはや欠かすことのできないパーツといえよう。 正直、ルナと精霊たちだけでひとつのバンドグループが成り立つのではないかと思えるほどだ。
 彼女たちがフェリクスで歌手をやったら、バカ売れ間違いなしだな。
「それよりディーバよ。 私は先を急がねばならないのだ。 いいかげん海の神ネプトゥーヌスの居場所を」
「ネプトゥーヌスだとぉ! あんな二股男! ふーんっ!」
「……」
 年甲斐もなく、精一杯の膨れっ面を見せるディーバ。
 彼女は海の神ネプトゥーヌスが心底嫌いらしい。 ネプトゥーヌスの名前を出すたびにディーバは荒れ始める。 最初に聞いた話では、どうもネプトゥーヌスが別の女神と不倫をして子供までもうけてしまったらしく、それ以来、既に八〇〇年近く別居状態が続いているらしい――いや、規模のでかい話にはもう慣れた。
 ところが、当のネプトゥーヌスはその不倫相手とも破局。 結局、ディーバとよりを戻そうと努力をしているらしいが、ディーバはこんな状態だし、ネプトゥーヌスもまた神としての仕事が忙しいらしく、そうそう上手くはいっていないらしい。
 ディーバはグラスに残った酒をグイと一気に飲み干すと、手に持った酒瓶と空のグラスをテーブルの上に置いて大きなため息をついた。 そして今までとはやや違った表情で私に視線を向ける。
「まあ、冗談はさておきヴェールよ。 そなた、あの男に会うのは得策とは思えませんよ」
「!」
 突然、素面の口調で話しはじめるディーバ。
 な、なんだ? 今までの泥酔状態は演技? いや、顔はじゅうぶんに赤いのだが。
 さすがに驚いたが、とにかく私も、話を聞く姿勢を変えた。
「得策ではない? それはいったい」
 するとディーバは片手を上げて 「待ちなさい」 と言った。
「その前にそなた、ヴェール族を知っていますか?」
 ……その言葉を聞くたびに、ため息が出る。
「またその名だ。 彼女たち――」 と言って、カラオケに夢中になっている精霊たちに掌を向ける。 「精霊たちもまた私をひとめ見るなりヴェールと呼んだ。 だが私には何のことかまったくわからない。 なぜあなた方は私をヴェールと呼ぶのだ」
 すると、ディーバは小さく息を吐いた。
「やはりそうですか」
「?」
 ディーバはしばらく無言のまま、空になったグラスに酒をつぎ、そのグラスを手に持つと、ちびちびと飲み込んだ。 そして唇からグラスを離すと、グラスに視線を据えたまま再び口を開いた。
「では、フェリクスに古くから伝わるヴェール伝説ならば聞いたことがあるでしょう?」
「ヴェール伝説? ああ、そういえば子供の頃にたしか……しかし、それが私とどんな関係が?」
 ディーバは更に小さく酒を飲むと、やや複雑な表情でこう言った。
「よいですか。 わたしは大神の命により永い間、人としてフェリクスで暮らしたことがあります。 そしてその間、ヴェールの一族にもたびたび出会いました」
 私の眉間にしわが寄る。
「ヴェール族に出会った?」
 うなづくディーバ。
「そなたは……彼らと同じ姿をしているのです」
「――んなっ!」
「伝説を知っているならば、それが何を意味するのか、もうお分かりでしょう」
 ま、待て。 私がヴェールの一族と同じ姿をしているだと? というか、ヴェールとはこのような半人半獣の姿をしているのか。 いや、そもそも ヴェールというのは架空の生物ではなかったのか?
 幼いころ、私が寝付けないときに母上が神話の伽(とぎ)をよく話してくれた。 ヴェール伝説もその一つだ。 随分と昔のことなので伽の詳しい内容については思い出せないのだが、しかし、たった一つだけ覚えていることがある。 そう、当時幼かった私にはあまりにも衝撃が強すぎて脳裏に焼き付いてしまったヴェールにまつわる怖い話。
 もしも私が本当にヴェールの姿をしているのだとすれば、今の私は、決して逃れられない神の奴隷――。
 ディーバは寂しげな目で私を見た。
「わたしはフェリクスでも歌手をしていましたが、いつまで経っても歳を取らないわたしに疑問を抱いた者が現れ、そしてついに女神だと気付かれてしまった。 わたしは一人の歌手として人々に感動を与え続けたかったのに、それ以来、わたしを歌手として見る者がいなくなってしまったのです。 結局わたしはフェリクスにいることができなくなり、フェリクスを出てこの地へと移り住みました」
「え、ここに住むようになったのは海の神ネプトゥーヌスのせい……」
 ディーバがとてつもない形相で私を睨む。
「もう一度言います、わたしはフェリクスを出てここに移り住みました」
「フェリクスを出て……って、まさかここは!」
「そう。 つまりここはフェリクスの外。 秩序などまったく存在しない荒れ果てた世界です。 ここはそなたが……ヴェールが決して居てはならない世界なのです。 フェリクスの外にいるヴェールは与えられた使命を捨て神のもとから逃げ出した者――つまり大罪を犯した者とされるのですよ」
 私は手をばたつかせた。
「ま、待て。 待ってくれディーバよ。 私は自分からここに来たのではない。 気がついたときにはもう」
「言いたいことはわかっています。 ですが事情はどうであれ、今のそなたは紛れもなくフェリクスの外にいるヴェール。 神のもとで、この事実から目を背けることはできないのです」
「……」
 なんてことだ。 気がついたらヴェールという架空生物になっていて、しかも、いつの間にかフェリクスの外の世界にいただなんて。 いったい私の身に何が起きたというのだ。
 ふと顔を上げると、トロい感じの精霊がなにやら子供っぽい歌を歌っていた。 他の精霊二人とルナはカラオケ御用達のやかましい音を出す楽器をシャカシャカと鳴らしながら大騒ぎしている。
「王子とやら」
 ディーバが呼んだので、再び彼女に顔を向ける私。
 今の私は、いったいどのような顔をしているのだろう。 ふとそんな疑問が過ぎった。
「わたしもルナや義父様――太陽の神フェーブスの意見に賛成です。 神に永遠の忠誠を誓うことが罪人となったヴェールの末路……このままフェリクスに向かったとしても、そなたを待っているのは耐え難い永遠の苦しみ、それだけです」
「……」
「ヴェールよ。 この地に腰を据えてみるのも一つの選択ではありませんか? 幸いルナはそなたに気があるようですし、義父様も気に入られているご様子。 かくいうわたしも、そなたは憎めない」
 そう言って、彼女は私の手の上に軽く手を乗せた。
「命を粗末にしてはいけません。 冷静になって、よくお考えなさい」
 私は応えるまで時間を置いた。 しかし、別に考えているわけではない。 何を言われようと答えを変えるつもりはないのだから。
 私は五秒ほど経ったところで口を開いた。
「ありがとうディーバ。 だが私はフェリクスに帰りたい。 帰らねばならないのだ」
「……」
「頼む。 ネプトゥーヌスに会う方法を教えてくれないか」
 ディーバはグラスの中の酒をしばらく転がしたあと、小さくクスリと笑った。
「まったくルナも、命知らずなとんでもない王子様を好きになったものね。 本当は母親として、そなたをここに留めたい気持ちの方が強いのだけど……いいでしょう。 南のかなた、海の果ての迷宮に行けばネプトゥーヌスに会うことができます。 途中、海を渡らなければなりませんが、そなたにはそれほど難しいことではないでしょう。 念のために後ほど紹介状を書いておきます。 それをあのバカ、ネプトゥーヌスに渡せば、もしかしたら何とかしてくれるかもしれません」
「何から何まで申し訳ない。 感謝するよ」
 ディーバは更に小さく笑うと、グラスに残った酒をぐいと飲み干した。
 間もなく私は、思い出したように顔を上げた。 話に夢中で気づかなかったが、今はルナが歌っていた。 バラードだな。 女神をモチーフにした詩のようだ。 静かなピアノのメロディーにビブラートのきいたルナの高音がうまく調和している。
「……」
 ――なんて美しい。
 そのとき、誰かが小さなため息をついた。
 見ると精霊たちは目を閉じてウットリとした顔をしていた。 そしてディーバもまた、いつの間にか目を閉じてルナの歌声に耳をすませていた。
 私も目を閉じる。
 見えたのは暗闇ではなく、とても暖かな光に包まれたルナの姿だった。 なんだろう。 まるでルナに優しく抱かれているような、そんな安心感というか、もう何もかも忘れて自然の流れに身を任せてしまいそうな――。
「……」
 長いようで短いひとときだった。
 静かな拍手の音で我に返り、目を開ける私。
 皆が拍手をしている。 そういう私も、自然と拍手をしていた。
「素晴らしかったよルナ。 ありがとう」
 ルナにそう言うと、彼女はやや恥ずかしそうに微笑んだ。
 この素晴らしい歌を最後に、長らく続いたカラオケパーティーはおひらきとなった。


 ディーバに案内され、一晩泊まるための部屋に向かっている私。 ちなみにルナと精霊たちは既に別の部屋に案内され、これから皆で風呂に入るのだと言っていた。 私もルナに誘われたのだが、精霊たちが「ええ?」という顔をしていたし、ルナが冗談で言っていることはわかっていたので断った。
「そういえばディーバよ」
「なんですか?」
「ルナはヴェールのことを全く知らないようだったが、いったいどういうことだ。 ヴェール伝説はまだ歴史が浅いのか?」
 首を横に振るディーバ。
「ヴェールは人類の生誕とともに生まれた歴史の古いものです」
「では、なぜ?」
「さあて。 少なくともルナはフェリクスに行ったことがありませんし、その目でヴェールを見たこともないでしょう。 ヴェールとは本来、人の目にも、そして神の目にもそうそう触れるような存在ではないのです」
「……神にも?」
 うなづくディーバ。
「フェリクスにおける神々の使命はそれほど多くはありません。 そのためフェリクスへ行くことを命じられる神は限られているのです。 そしてヴェールはフェリクスにしか存在しない。 フェリクスの外にいることは許されないのです。 わたしがそなたをひと目見て驚いたのもわかるでしょう?」
「……」
 間もなく、あっという表情を見せるディーバ。
「ヴェール。 そなた、海に着いたらヤン・トモリという男を訪ねてみなさい」
「ヤン・トモリ?」
「わたしのバカ息子です」
 ああ……そういえば放浪癖のある兄がいるとルナが言っていたな。
「少なくとも、わたしよりは彼の方がネプトゥーヌスと会う機会も多いでしょう。 フェリクスで人のフリをしながらライターをしているので地上界のゴシップネタにも詳しい。 もしかしたら、そなたに何か良い知恵を与えてくれるかもしれませんよ」
 いわゆる神族の情報屋だな。
 私は何度もうなづいた。
「そういうことならば、まずはあなたの息子に会ってみよう」


 次の日の朝、私たちはディーバの館の門前に立っていた。
 昨日あれほど飲んでいたというのに、どいつもこいつもケロッとしている。
「ヴェール。 この紹介状をネプトゥーヌスにお渡しなさい」
 一つの封筒を私に差し出すディーバ。 私はそれを受け取った。
「わかった」
「それとそなた、これに見覚えはありますか?」
 そう言ってディーバは、手のひらサイズのいかにも高貴そうな刺繍の施されたエンブレムを私に差し出した。
「……これは! 私が無くした王家の紋章だ!」
 だが、ディーバは首を横に振った。
「これはわたしがまだフェリクスにいた頃、とある国の王より贈られたものです。 これがそなたの持っていた王家の紋章と同じだとすれば、そなたはもしかして、湖の国の王子ということですか?」
 ディーバから王家の紋章を受け取り、それと彼女を交互に見る。
 そういえば、どこの国の王子かまでは言っていなかったかもしれない。
「王というのは、まさか父上のことか?」
 すると、ディーバは吹き出した。
「ルナが生まれる前……二千年以上も昔の話ですよ」
 なんと、湖の国は意外と歴史が古いのだな。 我が故郷なのに新たな驚きを覚えた。
 私がエンブレムを返そうとしたら、ディーバはそれを拒んだ。
「それをそなたに授けましょう」
「え?」
 私が狼狽えていると、ディーバは、エンブレムを持つ私の手を両手で握った。
「今のそなたには王子の証となるものが何もありません。 そのままフェリクスに帰れたとしても、そなたを見て王子と呼ぶ者はいないでしょう。 この王家の紋章が僅かながらそなたの力になることを願います」
「そうか……ありがとう。 本当にありがとう、ディーバよ」
 ディーバは優しく微笑みうなづくと、今度はルナに視線を移した。
「ルナ。 あなたもやはり?」
 コクッとうなづくルナ。
「王子様について行きます」
 すると、ディーバはやや悲しげな表情でルナに顔を近づけた。 そして二人が内緒話を始める。 そのとき、ルナは一瞬だけ沈んだ表情を見せたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「わかっていますわ」
 そして、私に顔を向けるルナ。
「わたしは王子様のお役に立ちたい、ただそれだけです」
 ため息をつくディーバ。
 今の言葉を聞いて、ディーバがルナに何を話したのか、なんとなく察しがついた。
 初めは確かに強引な成り行きだったが、今の私にとってルナは大切な旅の友。 彼女と出会ってまだ一週間と経っていないのだが、私の横には常にルナがいる――それが既に当たり前のように感じていた。
 そう、私にとっては旅の友。 しかしルナにとっては……彼女が私についてきた本当の理由は友以上の……ダメだ。 これ以上彼女と旅を続ければ、後々に彼女が受けるであろう心の傷はとてつもなく深いものになってしまう。
 ――彼女とはここで別れよう。
「ダメですよ、王子様」
「!」
 頬をぶーっと膨らませて、私の顔を下から覗き込んでいるルナ。
 私は慌ててしまい、おもわず目を反らしてしまった。
「王子様が何を考えているのかくらい判ります。 でも何と言われようと、わたしは王子様についていきます」
「だ、だがルナ。 この先はもっと危険かもしれないんだぞ?」
「わかっています」
「楽しい旅になるとは限らない」
「そうですね」
「私はヴェールなんだぞ」
「王子様は王子様です」
「フェリクスへたどり着ける可能性は低い」
「行ってみせます」
「……君は、月の女神としての仕事があるだろう」
「サフィルスがいます」
 淡々と答えるルナ。
 どうあっても曲げるつもりはないのか……だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「ルナ、フェリクスの民は皆、君の月を見て心の安らぎを覚える。 その月が輝いていなければ皆の心も沈んでしまうだろう」
「……」
「だからルナ、君はここで引き返――」
「いやです!」
 突然、ルナの手が私の頬を捉えた。
 顔の向きを誘導されて面と向かい合う私たち。
「……」
 ルナは、今にも泣きそうな目をしていた。
「ひどいです王子様、どうしてはっきりと言ってくださらないのですか?」
「え?」
「じらさないで、はっきりと言ってください。 わたしとはつきあえないと!」
 ルナに怒鳴られてドキリとする。
 ルナは、泣くのをこらえながら私に言った。
「昨晩、お母様から聞きました……王子様は結婚を約束されているフェリクスのお姫様のところへ帰るために旅をしているのですよね。 どうして黙っていたのですか」
「……」
 気づくと私は目を反らしていた。
 それを見たルナが、声にならない声を漏らす。
 ――別に隠していたわけじゃない。 何度も言おうとした。 だが言い出せなかった。 彼女の真っ直ぐな気持ちが痛いほど伝わっていたから。 いや、それだけではない。 私自身、彼女との旅が楽しかったのだ。 結局、言い出せなかったのは自分のわがままでしかなかったのか……。
 そのとき。
「ヴェールよ。 一つそなたに聞いてもよいですか?」
 おもむろにディーバが私に尋ねた。
 私がディーバに顔を向けると、彼女は複雑な表情をしていた。
「そなたは、まことに森の国の姫のことを愛しているのですか?」
 ……なんだって?
 ディーバの言葉を理解するまで、かなり時間がかかった。
 そして、やっとの思いで理解する私。
「なっ何を言い出すんだディーバ! 言っただろう、私は森の国の姫と!」
「でもっ!」
 突然、私の頬に触れたまま叫ぶルナ。 私は驚き、言葉を飲んだ。
 ルナを見ると、彼女は涙をぽろぽろと落としていた。
「でも、あなたのその恋はまだ実っていない――」
「……」
 何が起きた?
 気づいたときにはルナの顔が目の前にあった。 そして唇に触れる柔らかいもの。
 どれくらい時間が経っただろう。
 しばらくして、唇から、そして目の前からルナの顔が離れていった。
 呆然とした状態でルナを見続けている私。
 頬を染めて下を向いたまま、縮こまっているルナ。
「わあ」
「ルナ様、やるう」
 そんなヒソヒソ声のする方を見ると、精霊たちが何やら目を輝かせていた。
 私は……ルナにキスされたのか?
「ヴェール。 いえ王子」
 とディーバ。 視線を向ける。
 ディーバはなぜか、ちょっと怒っている様子だった。
「そなたは王子である前に一人の男でしょう。 これ以上、女の子に恥をかかせるものではありませんよ」
 何か反論しようとしたのだが言葉が出ない。
 ディーバはルナの頭にポンと手を乗せた。
「今まで男の子には全く興味を示さなかったこの子が、こんなにもそなたのことを想ってくれているのですよ」
「……」
「少しだけでいい。 フェリクスに帰るまでの間だけでいいから、ルナにもチャンスを与えておあげなさい。 それでもそなたの気持ちが変わらなければこの子も諦める道を選ぶでしょう。 それにこの子は女神としてはまだ半人前ですが、かといって足手まといになるほど未熟ではありません。 旅の友として、きっとそなたのお役に立てるはずです」
「王子様。 ルナ様を連れて行ってください」
「わたしからもお願いします」
「王子様」
 周りから一斉にお願いコールを受ける私。
 わ、私はどうすれば……。


 私はディーバの館を出てから、更に精霊たちとも別れ、そして――。
 チラリと背後を見る。
「……」
 ルナは下を向いたまま、私から少し離れた後方を無言で歩いていた。
 私はルナと共に旅を続ける決意をした。 別に嫌々というわけではない。 ディーバが包丁を握って震えていたからでもない。 ましてや精霊たちが私を持ち上げて高いところから落とそうとしたからでもない。 だいたい本気でそんなことをすればルナが黙っていないだろう。 だから彼女たちの行為も本気ではなかったはずだ。
 そんなことは関係ない。
 本音を言うと、なぜ彼女と再び旅を続ける気になったのかは自分自身わかっていない。 ただ私は彼女と旅を続けたかった、彼女ともっと一緒にいたかった。 その気持ちを素直に表に出しただけである。
 この気持ち……私が姫と愛を誓い合ったときとなんだか似ている。
 だが何かが違う。
 この妙な気恥ずかしさ。 相手を意識するようになった途端、互いに目を合わせるのが難しくなってしまったこの感覚。 逆に目が合うとドキドキして胸が苦しくなるこの感覚。 姫と一緒にいたときには感じなかったこの妙な気持ちはなんだ。
 姫と過ごしたひとときはもちろん楽しかった。 楽しかったが、ルナとの旅はそれ以上に楽しいと思っている。 そんな暢気なことを考えている余裕は私にはないはずなのに、なぜか楽しいと思ってしまう自分がいる。
 そのとき、ディーバの言葉が頭を過ぎった。
 ――そなたは、まことに姫のことを愛しているのですか?
「……」
 再び背後を見る。 彼女は相変わらず下を向いたまま歩いていた。 ディーバの館を出てから一言も話していない。 恐らくあのとき彼女が発した言葉が、互いに引っかかって話し難くしているのだろう。
 ――そうだ、ディーバだけではない。
 彼女もまた、なぜ私にあのようなことを言ったのだろうか。
 私は立ち止まって振り返ると、彼女に言った。
「ルナ」
 すると彼女は、慌てて顔を上げて立ち止まった。
「は、はい。 なんでしょうか」
「先ほどディーバの館で、君は私の恋がまだ実っていないと言ったね?」
 途端にビクッと飛び上がるルナ。 間もなく彼女はとてつもなく不安そうな表情でそわそわしだした。 彼女の視線は定まっていない。
「ああのっ、ごごごめんなさい、申しわけございません! わわたしったら気が動転してて王子様の気持ちも考えず無神経なことを言ってしまいました。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい――」
「あ、ち、違う、そうじゃないんだルナ、落ち着いて!」
 だが、ルナは口元で両手を組んで謝り続けている。
 相手の気持ちを考えていないのは私の方だ。 なにが紳士だ……。
「ごめんルナ。 私の訊き方が悪かった」
「……」
 ルナは恐怖に脅えた目で涙を浮かべている。 私が怒ると思ったのだろう。
「恐がらないで。 私は別に怒ってるわけじゃないんだ」
 私はルナの前に立つと、彼女の頭にそっと触れて胸に引き寄せた。 彼女は小さくなったまま震えている。
「ごめんよルナ。 君がそういう意味で言ったんじゃないことくらいもちろん判っている。 だからこそ尋ねているんだ。 意味もなく君がそう言ったとは思えない。 よかったら聞かせてくれないかな?」
 私たちは、しばらくそのままの状態で立っていた。
 そして、彼女の震えが落ち着いてくると、ルナは小さな声で話し始めた。
「王子様。 人がなぜヴェールになるのか、ご存知ですか?」
 なぜヴェールになるのか?
 正直なところヴェールに関しては無知に等しい。
 私は否定した。 すると彼女は両手で軽く私の胸を押して三〇センチほど離れた。 彼女の瞳は涙で濡れている。 ルナは私の胸に視線を置いたままこう続けた。
「お母様から聞いた話です。 恋が実らぬまま命を落とした人は、半身、獣の姿をしたヴェールとなり再びこの世に蘇る、と」
 ――なるほど。
 その答えは、なんとなく察しがついていた。
 だが、そうなると、彼女の言うとおり姫と私は……。
「……」
 見ると、彼女は再び涙をぽろぽろと落としていた。
 私は両手を伸ばして彼女の頬にそっと触れた。 ゆっくりと顔を上げる彼女。 ひくひくと肩をふるわせている。 私はルナの頬に触れたまま、親指で彼女の涙を拭った。
「泣かないでルナ。 君が話してくれてすっきりしたよ」
「……え?」
 私は彼女の体を引き寄せると優しく抱いた。
「たぶん君の言う通りかもしれない……まだよくわからないがね」
 姫と私は恋をしていなかった……どちらに問題があったのかはよくわからない。 だが、私たちの恋が成立していなかったのは、このヴェールの姿を見れば一目瞭然だ。 もし恋が成立していたら私はヴェールとして生まれ変わることはなかったのだ。
 なんだか複雑な気分だな……あれ?
 生まれ変わるって……ちょっと待て!
 すると、私は一度死んだことになる。 なぜ私は命を落としてしまったのだろう。 まるで身に覚えがないのだが……いや待てよ。 まさか、あの魔法使いが私を!
「おっ王子様、くるしい」
「!」
 私は慌てて彼女を離した。 無意識のうちに、腕に力が入ってしまったようだ。
「ご、ごめんルナ」
 だが、ルナは再び沈んだ表情を見せた。
「ぐすっ……やっぱり怒ってる……」
 私は手をばたつかせると、慌てて笑顔を造った。
「あはっ、ちっ違う。 そうじゃないんだ!」
 私は彼女の両肩に手を乗せて続けた。
「君のおかげで、私の身に起きたことがようやく見えてきたんだよ」
 首を傾げるルナ。
「王子様の身に起きたこと、ですか?」
 私はうなづいた。 そして彼女の背後――遠くの風景を眺めながら続けた。
「私がまだフェリクスにいた頃の話だ。 フェリクスの森の国では、姫の花婿探しという国を挙げた催しが盛大に行われ、城の者から城下の民まで、多くの者がその試練に参加した。 実は私もその一人で、最後まで残ったのは私ともう一人、青年に姿を変えた魔法使いだった。 だが、その試練はあくまでも王としての資質を調べるもので、姫自身の気持ちは考慮されていない。 だから最後は姫自身が私とその魔法使いのどちらを選ぶのかを決めた。 そして選ばれたのは私だった。 しかし、それからというもの、その魔法使いはことあるごとに私に嫌がらせをするようになった」
 ルナに視線を向ける。
「どうやら私は、その魔法使いに殺されてしまったらしい」
 それを聞いたルナは、一瞬だけ目を大きく見開くと、途端にウルウルとしだした。
「なんてかわいそうな王子様。 命を奪うだなんて酷すぎる……」
 そう言って彼女は両手を伸ばすと、私にぎゅっと抱きついた。
「ありがとうルナ……」
「魔法使い、許せませんわ」
「はへ?」
 視線を落とすと、彼女は私の胸に顔を押しつけたまま、ぷるぷると震えだした。 そして、次第に強くなってくる彼女の締め付け。 つ、強い!
「げええ……く、くるしいぞルナ。 は、離して……」

 さて、これからどうなることやら――。