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メルヘンヴェール:第二話 猫の草
「ンン〜」
 私の左を歩く少女が、透き通るような美しい声で歌っている。
 歌といっても歌詞らしきものは無く、彼女の奏でる音階だけが心地よく私の耳に届いている。 いや、聞いているのは私だけではない。 この砂漠と化した荒れ果てた大地を優しく潤してくれるかのような、とても瑞々しさを感じさせる彼女の歌声は、私たちの周囲をうろつく魔物たちの心までも静めてくれているようだ。 太陽の神殿を出てからというもの、アキナケスを一度も振るっていないのだ。
 ――いや待て、暢気に歌を聞いている場合ではないぞ。
 困った、どうする……月の女神がついてきてしまったぞ。
「ララ〜、あら。 どうかなさいましたか王子様?」
 歌っているときの笑顔のまま、身をかがめて私の顔を覗き込む彼女。
 その屈託のない笑顔に、私はどう答えて良いか一瞬悩んだ。
「その、あんまり綺麗な歌声だから聞き入っていたんだよ」
 すると月の女神は頬を染め、もじもじと体を動かしながら、あからさまに嬉しそうな仕草を見せた。 そして、しばらくすると再び歌いはじめる彼女。 本当に楽しそうだ。
「……」
 月の女神の祖父であるフェーブスの剣幕は異常だった。 彼女と結婚しなければ本気で私を殺す気だったらしい。 もちろん私には結婚を約束した森の国の姫がいる。 つまり月の女神と結婚をする気など私には毛頭ないのだ。
 しかし、フェーブスの魔の手から私を救ったのは、他でもない、月の女神――。

「お爺様、わたし王子様についていきます」
「なんじゃと、そのようなこと断じて許さんぞ!」
 真剣な眼差しでフェーブスと向かい合う月の女神。
 フェーブスと私がもめているときに、月の女神が突如割って入ってきたのだ。
「だいたい、月の女神が月を離れるなぞ以ての外じゃ」
「サフィルスに代役を務めさせて外出なんて、いつものことではないですか」
「そ、そりゃあ……ひゅーひゅー」
 途端に下手くそな口笛を始めるフェーブス。
 神でも仕事をサボるのか。
「そんなにご心配なさらないでください。 フェリクスに着いたらすぐに帰りますから」
「し、しかしのう」
 すると、月の女神はフェーブスにニコッと微笑んで見せた。
「でしたら、アレをお母様にバラしてもよろしいのですね?」
「ふっ!」
 ルナのその一言を聞くなり、顔を真っ青にするフェーブス。
 なんだアレって?
 すると、月の女神が私の疑問系の顔に気づいたのか、私に向かって口を開いた。
「これは以前お父様から聞いたお話ですが、お母様がお父様と結婚をしてまだ間もない、そう――まだわたしくらいの歳の頃、お爺様ったらおフロでお母様の下着を」
「だわああああ! お、おまえの好きにせい!」
 途端に、笑顔でフェーブスに抱きつくルナ。
「ありがとうございますお爺様、大好きですわ!」
「……下着?」
「やかましい! まあ構わんじゃろう。 どうせすぐに諦めて引き返すぞい。 フォッフォッ」
「?」

 そんなわけで、あの灼熱の神殿からなんとか無事に脱出することができた。 とりあえず第一関門突破といったところだろう。
 しかし、この状況は非常にまずい。 このまま彼女を連れてフェリクスに帰るわけにはいかない。 だいたい姫になんと説明をする。 姫に会わせた途端 「カレシです〜」 なんて発言でもされたら私の人生はお終いだ。
「……なあ」
 私は月の女神に声をかけた。 彼女が歌を止めて 「はい?」 と応える。
「月の女神が月を離れて本当に良いのか?」
 すると、笑顔でうなづく彼女。
「サフィルスに任せていますから平気ですよ。 ただ、普段はわたしの魔力で月の輝きを増幅しているので、いつもよりほんのちょっとだけ明るさは落ちますけど、でも機能そのものには影響ありません。 今やオートメーションの時代ですからね、満ち潮用の引力制御も全てコンピュータ化されていますし、仕事といっても魔力の注入と、あとは制御卓の監視くらいなんです」
「……?」
 オートメーション? コンピュータ? セイギョタク?
 神々が使う専門用語というのは、今ひとつよくわからない。
「ところで王子様」
 と、再び私の顔を覗き込む彼女。
「なんだい?」
「わたしのことはルナと呼んでください」
「あ、ああそうか、わかったよルナ」
 ルナは小さくコクリとうなづき 「はい」 と応えた。
 おしとやかな仕草が実に可愛らしい――噂というものはあてにならないものだ。 神々のことは国民の誰もが知っている。 まあ、知っていると言っても神話に書かれている程度のことしか知らず、実際にこの目で神を見たのは私自身初めてのことだが、月の女神であるルナに関しては頭脳明晰、容姿端麗、ただし気性が激しく心の醜い冷めた性格だと聞いていた。 時にセレネやダイアナ、狩猟の神、処女性の神、闇の女神などとも呼ばれている。 だから、夜の世界で彼女の猛攻撃を受けたときは、実はそれほど意外だとは思っていなかった。
 ところがどうだ。 心が醜いなんてとんでもない。 それどころか素直でとても優しい子ではないか。 まあ多少強引な点や、キレると容赦なく攻撃してくる点は確かに怖いが、普段は心のおだやかな、ごく普通の少女である。
 彼女をちらりと見る。
「!」
 目が合った。 どうも歌が聞こえないと思ったら、ずっと私を見ていたようだ。
 柄にもなく動揺する私。 彼女がクスクスと笑う。
 しばらくして、自然と私の顔にも笑みがこぼれた。 笑い合う私たち二人。
 ――まあ、過ぎてしまったことは仕方がない。 ひとりで寂しく旅をするより、仲間と旅をする方が気も楽だろう。
 もっとも、旅の仲間が女神というのは普通じゃないが。
「しかし困ったな」
「はい?」
「フェーブスは何かを知っている様子だったが、結局最後までフェリクスへの行き方を教えてはくれなかった。 終いには、そんなに行きたければ海の神ネプトゥーヌスに聞けと吐き捨てるように言われ、しかもネプトゥーヌスの居場所は女神ディーバに聞かねば判らないときてる。 神と言っても全知全能というわけではないのだな」
 すると、ルナはフフッと苦笑いをした。
「全知全能なんて夢物語ですわ。 わたくしも恥ずかしながら学園の成績は普通でしたし」
 学園? 神でも学校には行くのか。
「ルナ。 君はフェリクスについて何か知ってるかい?」
 私が不意に尋ねると、彼女は人差し指をピトッと顎に当てて、うーんと唸った。
「詳しくは存じませんが……ただ、フェリクスはとても綺麗な場所だと聞いています。 前々から一度行ってみたいと思ってはいたのですが、お仕事の方が忙しくて、もっぱら空から眺める一方で。 だからフェリクスへ行くの、実はとっても楽しみなんですよ」
 それを聞いて、互いに微笑む。
「そうか、君は月の女神だから、空からいつも地上を見ているか。 もしかして君はフェリクスまでの道のりを知っているのかい?」
 彼女は首を横に振った。
「わたしの担当は夜の月。 残念ながら地上はよく見えません。 遠いですし」
 言われてみれば、その通りだ。
「あ、しかし、昼間の月もあるだろう」
「昼間はお恥ずかしながら睡眠中でして……サフィルスが担当をしています」
 そうか、いくら女神でも一睡もせずに番をするのは不可能だよな。
 しかし、もしそうだとすると、サフィルスがフェリクスまでの道のりを知っていたかもしれないわけだ。 とはいえ私は奴にすっかり嫌われてしまっている。 尋ねたところで答えてはくれないだろう。 ルナが太陽の女神だったらなあ。
「あれ待てよ。 すると太陽神であるフェーブスは昼間だから、やはり知っていたな!」
「あ、そういう意味では知らないと思います」
「……なぜ?」
「老眼なんです。 それに最近お爺様ったら、もの忘れも多くて」
 肩を落とす私。
 結局、フェーブスの言う通り、女神ディーバを尋ねるしか道はなさそうだ。
「ディーバのところまでは遠いのかい?」
「そうですわね。 距離的にはたぶん二日もあれば。 ただ」
「ただ?」
 うーんと困った顔を見せるルナ。
「この先の岩山に住処を造り平穏に暮らしているのですが、その岩山の入り口に千年も前から魔獣ギアスが住み着いてしまったおかげで誰も通れなくなってしまったのです。 それと、わたしもお母様に最後にお会いしてから随分と経ちますし、岩山の新居はギアスが住み着いた後に建てられたものなので一度もお邪魔したことがなくて、実は詳しい場所を知りません」
 ……なに?
「お母様?」
「はい。 歌の女神ディーバはわたしのお母様です。 カラオケ大好きなんですよ」
 そう言って、マイクを持って歌うふりをしながら、楽しそうに答えるルナ。
「つかぬことを伺うが、君の父上は?」
「海の神ネプトゥーヌスですわ。 趣味は釣りと囲碁です」
「……」
 神話がますます信じられなくなってきたぞ。
 というか、神のくせに趣味が平凡すぎやしないか。
「そうだったのか。 しかし家族がバラバラに暮らしていて寂しくはないのかい?」
 すると、彼女は苦笑いを見せた。
「お父様とお爺様は仲が悪くて会うたびに喧嘩ばかりしているんです。 見ているわたしも気が気ではないので、これはこれで良いのではないかと」
 私も苦笑い。 神でも親子喧嘩をするのか。
「でも、お爺様は内心焦っています。 さすがにもうお歳ですから太陽の神の後継者を探さなくてはならないのですが、お父様は全くその気がなく海の神に選ばれてしまいましたし、兄は放浪者でどこにいるのやら」
 神の後継者探しか。 神というのも結構大変なんだな。
「そんなときに現れたのが王子様です」
「へ?」
 彼女は急に立ち止まり、私と向かい合うと、両手で私の手を取った。
「!」
 細くて白い、綺麗な手の温もりが私の手に伝わる。
 唐突のことなので私の鼓動が高まる。
「王子様。 お爺様の後継者になりませんか?」
 数秒間の沈黙。
「……ち、ちょーっと待ったあ!」
 慌てて手を引っ込める私。
 ルナがきょとんとする。
「王子様?」
 かっ彼女、今さりげなく、とんでもないことを口にしたぞ!
「い、いや、その話は後にしよう。 今の私には頭を整理する時間が必要なんだ」
 一転してニッコリと微笑む彼女。
「そうですわね。 時間ならたっぷりありますし」
 再び歩き出す私たち。
 心臓に悪すぎる。 神の一族は行動が突発的すぎて予測しにくい。
 しばらく歩いて落ち着きを取り戻すと、先程の会話を思い出した。
「そういえば、その岩山の入り口に居座っているとかいう魔獣ギアスとはいったい?」
 すると彼女は、ちょっと声を強めて語りだした。
「とっても恐ろしい魔獣です。 強い魔力を砲弾化して飛ばしてくるので近づくこともままなりません。 以前、お爺様やお父様など多くの神々がギアスの退治を試みたのですが、ギアスの強大な魔力を防ぐことができず断念しました」
 驚きを見せる私。
「神でも手が着けられない魔獣なのか」
 そう言って顎を掴む私。
「だがしかし、そのギアスとやらを倒さねば先に進めないとなると倒すしか方法はないわけだ……フェーブスがすぐに引き返すと言っていたのはこのことだったんだな」
 すると、彼女はまた唐突に私の真正面に立ちはだかり、私の手を強く握った。
「!」
 不安そうな瞳で私を見つめているルナ。
「命を粗末にしないでください。 それよりもお爺様の後継者になって共に暮ら――」
 私は彼女の手から逃れ、そのまま彼女の背中に手を回した。
 ルナは小さな悲鳴をあげて飛び上がると、咄嗟に両手を縮こませた。 顔を赤くし、驚いた顔で私を見る。
 彼女のペースに乗せられたらお終いだ。
 私は口元を結び、笑顔で言ってやった。
「なにごともやってみなくちゃわからないさ」
「え?」
「こう見えて剣技には若干の心得がある。 行けるだけ行ってみようルナ」
 しばらくすると、彼女の顔に笑顔が戻ってきた。 そしてうなづいて私に応える彼女。
 私はルナの案内で、目的の岩山へと歩みを進めた。


 あれから四日が経過した。
 ルナは初め、二日ほどあれば岩山に着けると言っていたのだが、困ったことに、えらく幅の広い地割れに行く手を拒まれ、大きく迂回することになった。 ルナは浮遊術とかいう高等魔法で地割れを飛び越えることができるらしく、それで二日と言ったらしい。
 ちなみに浮遊術とは、自分が着ている服に術をかけて体を浮かせる魔法で、相当な魔力を消耗するらしく有効時間は約二分。 それ以上続けると気絶してしまうらしい。 まあ、そもそも何も身につけていない私は浮遊術以前の問題なのだが……オムニアのマントを貰ってくれば良かったな。
 それはそうと、この三泊四日は野宿で夜を過ごした。 前もって言っておくが、私と彼女は別に変なことはしていない。 夜は寒いからと寄り添って寝た程度だ……いや、だから、それ以上のことはしていない。
 次第に近づいてくる巨大な岩山。
 それに伴い、地面から突き出す岩石の数も増えてきた。
 さすがに歩きにくいな。
「ルナ、足元に気をつけて」
「ありがとうございます。 わたしはフェスティノーを履いていますから平気ですよ」
「……なんだい、そのフェスティノーというのは?」
「岩場を普通に歩くことができる魔法の靴ですわ」
 そう言うなり、彼女は着ている白い洋服のスカートを捲し上げた。 すらりとした脚線が露わになり、あまりの美しさに、私としたことが生唾を飲み込んで見とれてしまった。
 間もなく、私のイヤラシイ視線に気づいたルナが慌てて脚を隠した。 彼女の気分を害してしまったかと一瞬焦ったが、相変わらずニコニコの顔で恥ずかしそうにしているだけだったので胸をなで下ろす。
 ああ……肝心の靴を見忘れてしまったな。
 しかし、岩場を普通に歩ける魔法の靴か。 いいな。
 だが女性用の靴では履けないし、そもそも今の私の足は獣と化している。 靴が欲しければオーダーメイドするしかなかろう。 無い物ねだりをしても仕方がないので、私は我慢して岩場を歩くことにした。


 そして、ついに魔獣ギアスが住み着いているという岩山の入り口に辿り着いた。
「……」
 岩陰から入り口を覗き込むと、そこは見上げるほど背の高い岩山に挟まれた一本道になっていて、確かにそこにはライオンのような巨大な獣が鎮座していた。 手を舐めて顔にこすりつけている。 まるで猫だ。
「あ、あれがギアス? まさか、あれほどまで大きな獣だとは思わなかったぞ」
 正直、巨大なんてそんな生易しいものではない。 下手をすれば私なぞ前足の肉球だけでペシャンコにされてしまうだろう。 私がいくら剣技を習っているとはいえ、あんな巨大な獣を相手に一人で戦うなんて自殺行為もいいところだ。
「王子様」
 ルナも私と同じように覗き込みながら言った。
「この大きな岩山の向こう側へ行くためには、この道を通らなくてはなりません」
 私は岩山の上の方に視線を向けた。 通れないならば、この岩山を登って超えれば良いのではないかと思ったからだ。 しかしそれは無理そうだ。 絶壁なんてものではない。 場所によっては直角どころか、鼠返しのように反り返っている場所もある。 プロ級のロッククライマーでもこの岩山を征するのはまず無理だろう。
「ふむ。 空でも飛べない限り、この岩山を超えるのは難しそうだな」
「残念ながら、空も無理ですわ」
「え?」
「岩山を越えるには飛行できる時間が足りませんし、魔獣ギアスの上を飛べば魔法弾で狙い撃ちされてしまいます。 この岩山を無事に越えられるのは、今のところ鳥さんと妖精さん、それに精霊さんとサフィルスだけだと思います」
「そうだった、魔法弾か……ううむ困った。 本当にどうしたものか」
 困り果てて、無意味に辺りを見回す私。 何か武器になりそうなものが落ちてないか探してみるが、見えるのは岩と砂漠に生える雑草ばかりで他は何もない。
 そうだ。 この高くそびえ立つ豊富な岩山を崩して奴を下敷きにすれば……いや無理だ。 そもそもこの硬い岩山をどうやって崩す。 アキナケスの魔法弾程度では岩を小さく削って小石を落とすのが精一杯だぞ。
「まいったな……ん?」
 辺りを見回しながら、ある一点に目が留まった。 私たちの背後に見える巨大な地割れ。 この地割れは私たちがやってきたずっと向こう側まで続いていて、崖の底は見えず、対岸までも相当な距離がある。
 ふむ。 奴をこの穴に落とすことができれば……だが、どうやって奴をここに誘い込めばいいのだろう。 ここから魔法弾を撃って奴の注意を惹いたとしても、奴はその場で我々に向かって魔法弾を撃ってくるに違いない。 奴に魔法弾の攻撃をさせずに、ここまで誘い込む方法は――。
「あらあら可愛い、こんなところに巨大な猫じゃらしが生えてますわ」
「はへ?」
 ルナの予想だにしない発言に、間抜けな返事をしてしまう私。 見ると彼女は、岩場の隙間に突き刺さっている直径五センチはありそうな緑色の太い棒を握ったまま真上を見上げていた。 私も見上げると、先端に見えるのは確かにフサフサの付いた巨大な稲科の猫じゃらしだった。 風になびいてグラグラと揺れている。 全長は恐らく二〇メートル近くあるだろう。 フサフサの部分の大きさはそう、およそ二メートルといったところだ。
 よく見ると、この付近だけ何本か生息している。
 ――はっきり言って可愛いどころかグロテスクだ。 遠くから見れば猫じゃらしの何物でもないのだが、近くで見ると無数のトゲが生えている不気味な生物にしか見えない。 食虫植物じゃないだろうな。
「なんでこんなところに……いや、待てよ」
 猫じゃらし、猫じゃらし――ネコ!
 そうだ、奴の仕草は猫そのものだ。 もしかしたらこの猫じゃらしを使って奴を誘い込むことができるかもしれない。
 そもそも、この猫じゃらしがあるから奴もここに居座っていたりして。
「試してみるか。 ルナ、少し離れて」
「はい?」
 彼女が猫じゃらしから離れるのを確認すると、アキナケスの切っ先を猫じゃらしの根本の茎にあててグッと構えた。 そして一気に押し込む。 ザクッというじゅうぶんな手応えを感じて、猫じゃらしはゆっくりと傾きはじめた。
 倒れてフサフサが地面に落ちると、砂煙が派手に舞い上がる。
 私は、倒れた猫じゃらしの茎を掴んで持ち上げてみた。 重いのではないかと思っていたが意外と軽い。 これならいけそうだ。
「危ないから、ルナはそっちの岩陰に隠れているんだ」
「大丈夫でしょうか……?」
 私が何をしようとしているのかを悟ったらしい。 不安そうな眼差しで私を見つめる。
「今のところ、これ以外に方法はなさそうだからね」
 ルナは小さくうなづくと、言われた通り岩場の陰に身を潜めた。
 さて――。
「フギャアアアアアアアアアア!」
「んいっ?」
 私の耳にドスドスドスという腹の底に響くような重低音と獣の爆声が飛び込んできた。 慌ててその方向に顔を向けると、なんとギアスが私に向かって突進してくるではないか。
「はわあああああああああああっ!」
 なっなんで! なんで! なんでよ! まだ心の準備がっ!
 とにかく私は、巨大な猫じゃらしを掴んだまま崖に向かって全速力で逃げ出した。
「ひいっ、ひいいいいい!」
 一瞬だけ後ろを振り返る。
「フギャアアアアアアアアア!」
「ぎゃあああああ!」
 ギ、ギアスは、すぐそこまで迫っていた!
 こ、怖い! 死ぬ! 死ぬ!

 この作戦、果たしてうまくいくのだろうか――。