Trials to summarize OKAZAKI KYOKO's unbind comics岡崎京子の未単行本化作品を要約する試み

2002年に太陽出版より刊行された「岡崎京子研究読本 OKAZAKI-ism(オカザキズム)」に寄稿した、当時単行本化されていなかった「ヘルタースケルター」や「市中恋愛観察学講座 東方見聞録」、「恋とはどういうものしら?」収録の短編や、いまだ単行本未収録の小品などの要約集です。

No cherry girl, non cherry boy 漫画ブリッコ(白夜書房) 1984年1月号

まゆみと彼氏は彼の部屋での性行為の後眠ってしまったようだ。起きた時には彼氏の母親の帰宅する時間。多分気付いているであろう彼の母親と台本に書かれているかのような挨拶をし彼の家を後にする。彼氏に送られる道すがら16才の私があんな事できるなんて信じられない、と思う。自宅では家族の団欒の中、11PMでエッチなシーンが流れる。頓着しないまゆみだが、両親は過敏にまゆみを部屋に追いやろうとする。まゆみは「私自身が『あーゆーコト』をしてるなんて知らないだろーなー」などと考える。また別の日、彼氏宅でのセックスの折「こどものくせにこんなコトしてていーのかな?」と尋ねてみる。「そうは思わない」と答える彼がたまたま流した音楽は「君たちはあまりに早くやりすぎた」という曲だった。「大きなお世話だっ!」「まあね」

手描きの書き込みから件の曲はスペシャルズのものらしく、最後の決めゴマのバックにツートーンの格子を配するなど、分かりやすく趣味が反映されている。10代のセックスの危うさを説くとかでなく、かつ年齢だけでコドモあつかいするなというわけでもなく。コドモ故に感じる「居心地の悪さ」のようなもの。あるいは「性は隠蔽されるもの」といった社会通念に対してのアンチテーゼ。処女と非処女の差異は初期の岡崎京子に度々見られるモチーフで、自身の「カラダを使った遊び」「どうしてみんなしないのかなー」といったセックス観(月刊カドカワ'90年8月号)が多分に反映されている様に感じる。

爆裂女学校(バーストガールズスクール) 漫画ブリッコ(白夜書房) 1984年8月号〜10月号、12月号 ※短編集「RUDE BOY」(2012年7月 / 宝島社)に収録

女子高という狭い世界を舞台とした極初期の中編。主人公・むつみはそれなりに楽しい日常を過ごしつつも、退屈を感じてる。物語は彼女の転入当時の回想、それを元にした妄想、現実がからみ合いつつ進行する。「退屈な日常の打破」。むつみはそれを黒髪の美少女・佐伯さえ子に期待する。ポテンシャルへの期待感とテンション。彼女とならこの退屈をふきとばせるかも。結局のところ、彼女は退屈を楽しんでいて、むつみの過剰な期待や焦りのようなものも楽しんでいただけで、何も起こらないままに、物語は終わる。

ネームも分かりづらく、人物描写も構成も甘い。非常に読みづらい。というか、理解しづらい。その拙さは、かつての「シラけないようにドラマが描けるようになりたい。」発言の、反省の元となったと思われる。だが、いわゆる少女漫画的なページ構成や手法は、彼女の立ち位置を示すものと思うし、何より「退屈/日常」が既に創作のテーマになっていたのは興味深い。バージン所収の「花」や「WEEKEND」の雰囲気で、もっとドラマチックにしようとした努力が加味された印象。

夢みる私のリカちゃん人形 リカの想い出・香山リカ+土肥睦子編集(NESCO) 1986年

リカちゃんは小学生なのにドレスを沢山持っていたけど何の疑問も持たなかったし、下着もセクシーで「私もこんなの欲しい」と思った。自分自身が小学生になって、同じ小学生ながらあんなドレスが着れる事にもオシャレでいいな、もっとリカちゃんグッズほしいな、と思うだけだった。寝る時はふとんに一緒。「リカちゃんは目を開けたまま眠れるのかな?」ヘアデザイナーやデザイナー、漫画家、イラストレーターに憧れていて、余り布でリカちゃんに(へんな)洋服を作ったりしたものの、ちょうちん袖に挫折してヒスを起こしたり、頭痒くないのかな?と銭湯に行った際に洗ってあげるも爆発ヘアーにしてしまったり。そんなケーケンからかヘアデザイナーでもデザイナーでもなく、リッパなマンガ家になりました。「ありがとうリカちゃん!!」

「お散歩(UNTITLED所収)」でのみっちゃんが人形遊びに興じるシーケンスを抜き出し拡大し、所々に今の彼女がチャチャをいれている感じを思い浮かべてもらえれば、大筋間違っていないと思う。「女の子の人形に対する想い(あるいはリカちゃん特有なもの?)」は生憎想像する事しか出来ないのだけれど、こういうことなんだろうな、と思う。玩具であると同時に、友人であり、憧憬の対象であり。彼女自身の幼少期のエピソードが語られる機会はままあるけれど、(マンガとしての脚色はあるにせよ)そのひとつとして。

東方見聞録 ヤングサンデー(小学館) 1987年No.1〜No.14 ※2008年2月、小学館クリエイティブより単行本刊行

吉太郎がサックスの練習を双子の姉たちに咎められ、マスでもかくか、とエロ本を広げいざ始めようとすると、東京タワーの展望台、望遠鏡から「私の相棒」と吉太郎を見つけていたキミドリが唐突にやってきた。キミドリによれば、彼女の祖母と吉太郎の祖父は熱い恋仲だったが事情により結ばれる事はなく、その思いを孫に託した、という。キミドリは「私のフィアンセとして、一緒にいろんなところに行き、一緒に写真を撮ってアメリカの祖母に送らせて欲しい。53枚集まれば祖母の遺産がもらえるから、そしたら50%あげるから!」と、誘うが、吉太郎は聞く耳持たず帰らせてしまう。翌日制服を着て学校にまで乗り込んできたキミドリの熱意に、日常に退屈していた吉太郎は例え祖父の話がウソだとしても、キミドリが頭の足りないコだとしても、そう悪い話じゃない、と旅立つ決意をする。

祖母の思い出の地である銀座からはじまり、国会議事堂、中野、国立、江ノ島、青山墓地、井の頭公園、神田書店街へ赴きデート(のようのもの)を続けていく。途中、吉太郎がクラスメイトの鈴木さんと良い雰囲気になりつつも、自室でいざキスしようとしたら鼻血を出しフラれたり、キミドリの祖母が危篤の知らせ(ガセ)を受け一時ハワイに戻り、吉太郎のもとにハワイ土産としてエロ本が送ってきたり、二人で近所の中学生のデート(らしきもの)を尾行して観察したり。

ある日唐突に「今度は祖母がホントに危ないからハワイに帰らなければいけなくなった」とキミドリから聞き、吉太郎は空港で別れ際に「キミの事、ちょっと好きだったよ」と告げる。「冬休みにはバイトしまくってハワイに行くから」と。

ハワイに連れ戻されたキミドリ。父と義母に学校に行かずワガママ放題であることをたしなめられる。登校拒否児童のあなたが学校に行くのなら好きなところへと行かせてあげると言われた彼女は迷わずに「日本がいいな」。

恋愛もの。互いの気持ちの疎通が物語のカタルシスであり、ハッピーエンド。少女漫画の王道としか言えない(青年誌の連載で、主人公はオトコだけど)展開。そういった漫画的な部分よりも、ある種東京(と近郊)観光案内であり、漫画と言う形を借りて東京に対しての彼女の雑感や主張のようなものが盛り込まれていると点が魅力的。矢口博康による観光地楽団が1984年、中沢新一と細野晴臣の観光(及び、細野によるモナドレーベル)が1985年からと見ると、その辺りからの影響か?

ハイリスク WEEKLY漫画アクション(双葉社) 1989年6月13日号〜7月4日号 ※短編集「カリブsong 狩撫麻礼作品集」(2014年2月 / 双葉社)に収録

建築設計の会社で秘書を勤めるリエは退屈な毎日を送っていたが、ある日友人と出かけたクラブで、「影のない男・リョウ」を見かける。彼を追い、突き止めると、彼(とその姉)の裏社会に生きるしかなかった、愛される事のなかった半生を知る事になる。姉弟は影のない事を指摘した彼女もまた危険な存在だと言う。姉弟はリエの抹殺を企てるが、リエの優しさに触れたリョウは、彼女の抹殺ではなく、自身らの乗っているクルマのハンドルを無理に切る事を選んだ。そして残されたリエもまた、影のない「ハイリスク」となった。

ディティールの遊びに「岡崎京子らしさ」を垣間見る事はできるが、原作付きということもあり、風呂敷は広げてみたものの的な内容で特筆すべき作品とは思えない。逆に設定のみの流用で、岡崎自身が好き勝手に描いたらどうなるのだろう?という興味はある。

砂漠王子と砂漠王女 月刊砂漠王(ラジカル・ガジベリビンバ・システム・パンフレット) 1989年12月号 チャオ★アンファンテリブル(BNN) 1992年3月 SWITCH(スウィッチ・パブリッシング) 2000年1月号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

世界にたった二人残された人口受精児、のび太としずかはドームの中でネコ型育児ロボットどらえもんに育てられていたが、二人の15回目の誕生日、どらえもんは耐用年数を迎え、動かなくなってしまった。残された二人はどらえもんの力に頼る事も出来なくなり、食料を調達する為にテレビやビデオで見知った「世界」に期待と不安を抱きながら「ドームの外」へ旅立った。が、ドームの外に胸踊るものは何もない。何もないが、とりあえず二人はラリったりセックスしたり、面白おかしく暮らした。いつまでも生理も精通もない、成長の止まった二人は「いつか」誰かが見つけてくれる、と地面に大きな大きな絵を書いてみたりする。

藤子不二雄のキャラクターを借り、手塚治虫の空気の底をベースにした短編。閉じられた世界、止まった成長は、そのまま「漫画の中」であり、本来何も起こらない(予定調和)世界で、いきなりの喪失、しかし、それもまた「前提」に押しやられ、「いつか(=世界の終わり)」まで「日常」が続いていくという、切なく美しい漫画批評的な作品。短編集「カトゥーンズ」に収められていそうな作品ではあるが、あれらがスパッと定ページ数に合わせて切り取られた日常で、ドライな印象であるのに対して、もっと湿った読後感がある。

恋人たち1 銀座3丁目から(マガジンハウス) 1990年9月号※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

土曜日の午前中、動物園の熊のようにうろうろと動き回りながら彼からの電話を待っていた彼女だが、いざ電話がかかってきてみれば、口紅は上手くのらないし、洋服も決まらない。髪の毛はぐしゃぐしゃでイライラしてしまう。それでも彼に逢いに行かなければならない。あんなに逢いたかったのにひどく億劫になって、彼女はユウウツになる。出かけた先ではバナナジュースが飲みたかったのにミルクティを頼んでしまったり、彼も何かに疲れているようで、何もかもがちぐはぐな日曜の午後。特に話す事もなく、お茶を飲んだり、街中を歩き回ったり、(面白くもない)ナイターを見に行ったり。そして彼の家に向かい、抱き合って眠る。ちぐはぐな感情も複雑な気持ちも、夢の国には潜りこめない。

恋人同士という関係においても、互いの自我を内包していて、時にそれが「幸せ」の障害になるとかそういう読解をしたけれど、意味以前にもっと叙情的で、それは(画力も表現力も格段に上達しているのはいうまでもないけれど)単行本バージン所収の初期短編のような手触りを感じる。

時期的には彼女の結婚と重なり月刊カドカワで結婚について答えていた、一緒に暮らすことで見えてくるヤな部分や煩わしさを感じる部分、「楽しい!」だけじゃやっていけない部分、そういった意識が含まれている気がしなくもない。

恋人たち2 銀座3丁目から(マガジンハウス) 1990年10月号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

夜と朝の間、ネオンも消える光のない、影の出来ない時間に家を抜け出す。昨日であった、名前を聞いたけど忘れてしまった男の子を部屋に残して。恋人たちのいない、墓場のような公園に来てみる。あの人とはじめてキスした公園に。たばこに火をつけ、退屈を感じる。二人の関係性において権利や義務といった言葉を持ち出す彼のコトを考える。あんなに愛していたなんてウソみたいだ。また別の夜、知り合った男の子を家に連れ込み、誰かがどこかへ(大抵はベッドの上へ)連れていってくれるのを待っている。そして目が覚めると一人。ユウウツになるほどの青空の下、ソフトクリームを舐めながらあの公園に向かう。あの人と一晩中キスしたベンチには別の恋人たちが座っていて、あの人とピクニックした芝生には家族連れがのんびりお弁当を食べていて、私はあんなに愛したあの人の顔を忘れてしまっていて。

「恋人たち」という定義のケーススタディ。たとえば、恋人たちと題された単行本があって、例えば24編の色んな恋人たちの日常が描かれていて、その内のひとつ、といった印象。内田春菊がシーラカンスロマンスに於いて「処女喪失」をテーマにそれをしていたけれど、ひとつふたつではなく、まとまった形で読んでみたい。

自分の気持ちと裏腹に(?)「忘れてしまう」彼女のモノローグに、ハルメンズの「お散歩」という曲を思い出すのだけれど、その曲よりももっとヘビィ。ちなみにその曲のボーカルを取っていたのは元ピチカートファイブの野宮真貴さん。

東京は朝の7時 朝日ジャーナル(朝日新聞社) 1992年5月29日号 KAWADE 夢ムック・文藝別冊岡崎京子(河出書房新社) 2002年 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

不勉強ゆえ、どの程度の影響かは知り得ず恐縮なのだけれど、谷川俊太郎の詩にインスパイアされたという小品。ストーリーと呼べるものはなくて、一言でいうならば、いろんな人に、色んな形の朝がやってくる、といったところか。

「東京に居るものは山手線のように同じ日常をぐるぐる空虚に回るしか道はない。」それがもうひとつのテーマであり、色んな事が色んな場所で起こっているのも、それも全てなんでもない日常でしかない。

カトゥーンズが直列の時間軸をスイッチングしながら進んでいくなら、これは同時刻をパラレルに切り取って、東京の色々な場所で、同じ時刻に色々な事が無関係に起きている、というお話。眠りこける編集者と、その編集者に連絡を取りたい漫画家と、漫画家の原稿を待つ印刷所と、という絡みによる遊びもあるのだけれど。

「終わらない夏(好き好き大嫌い・所収)」の冒頭で江智香が集合住宅を眺めて、その事務用ロッカーのような佇まいに「そのひとつひとつに家族とローンがあると思うとごくろうなことだ」と思ったように、俯瞰的な視線で日常を捉えた表現手段のひとつ。

平成枯れすすき YOUNG ROSE(角川書店) 1993年11月号 ※岡崎京子展覧会(世田谷文学館)公式図録「岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ」(2015年1月 / 平凡社)に収録

今日子21歳と次郎23歳は同棲中。飲み過ぎた夜に知り合った次郎とその日から何も考えずに一緒に暮らしているが、これでいいのか、と今日子は思っている。またも仕事先をクビになった次郎は、女友達から金をせびり、バラの花束を今日子にプレゼント。お金がないのに花束を買う次郎に、所帯じみたこ生活のルールを説く今日子。「こんな女にしたのはオレなのか?」と自問。同棲をはじめて一年目、ケーキを買って、待つ今日子。時計の針は翌日に。ひどく酔っぱらって次郎が帰宅する。お互いの「今の生活」に対する焦燥感からいさかいを起こしてしまう。翌日、今日子は何ごともなかったように「バイトさぼっちゃダメよ」と仕事に出かけ、残された次郎は金策に走り、またクスリを入手する。今日子はライターの仕事で編集者と会う。小さいながらもコラムの連載を持ちかけられる。そして今晩の予定を聞かれる。「あたしだってこどもじゃありませんから」と誘いを受けホテルへ。帰宅して目についたのは違法ドラッグ。いつだってちゃんとしたいと思ってる、という今日子に「これで儲けて、ハワイへ行こう。帰ってきたらカタギになってしっかりするから。」という次郎。そんな次郎がどんどん分からなくなっていく今日子。次郎がコンビニに買い物に出た間に今日子は警察を呼ぶ。「愛しているかそうでないのか、いつも分からなかった。けど、通報したって事は愛していないんだわ。」訳も分からず次郎は町内をドタバタと逃げ回るが、結局次郎は取り押さえられる。「くそったれ!!おめーなんか最初から全然好きじゃなかったよーだ!!このボケアマ!!地獄に落ちやがれ!!」暴言を吐く次郎を、今日子はヒトゴトのように眺めていた。

単行本「ヘテロセクシャル」の後書きで触れられていて、その際の『JLGの「勝手にしやがれ!」と上村一夫の「同棲時代」を石ノ森章太郎のコマ割りでリミックス』が一番的確に表していると思われる。その表現は、かえってどんな作品だったのか戸惑わせるものでもあるのだけれど、読んでみれば間違いなく岡崎京子の作品。

中華刑事・周 夜霧よ今夜もありがとう asayan(ぶんか社) 1994年創刊2号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

黒の中華王・陳陳林は世界料理戦争に勝つ究極の料理の為に、美しく清らかで高貴な処女を素材にしようと、日本一の華僑令嬢を誘拐監禁し、今まさに中華包丁を振り下ろそうとしていた。そこへ現われたのは白の中華王・周富徳、即ち中華刑事・周だった。「家庭料理こそこの世で一番の高級料理!」周は、陳の手下である暗黒料理軍団を「必殺!!腐乳雪花」や「奥義!!エビのオーロラソース」で打ちのめす。そして「中華の基本はネギチャーハンにあり!」と陳をもなんとなく倒し、すがる華僑令嬢に目もくれず、夜霧に消えていく。

コミック自体が冗談なので、真面目に書くのも気が引けるのだけれど、周富徳を題材にした香港コーリング(退屈が大好き・所収)を想像してもらえば、九割九分間違ってない。必殺技が料理であったり、ネギチャーハンを食べた陳の頭が吹っ飛んだりと、いわゆるジャンプ的コミックのパロディ。批評性をどうこうと言うよりも、力の抜けた冗談として楽しんだ方が正解。

冷蔵庫女 CUTiE(宝島社) 1994年8月号 CUTiE comic(宝島社) 2000年3月号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

酒田三太はゴミ捨て場で冷蔵庫を物色していた。気に入った冷蔵庫は異様に重くて、開けてみたら中には女が入っていた。「私は成績の悪い死神で、冷蔵庫はあの世とこの世の転送装置。もう少しであのまま廃棄処分されるとこでした。ありがとう。」行くあてがない女は超絶的な舌技とフィンガーテクを持っていて、三太は家に置く事にした。一緒に暮らしはじめてしばらくしたある日、三太が帰宅すると、女が泣いていた。ポストに投げ込まれていた通販エロビデオのビラが当局からの指令で、そこには「酒田三太を今晩中にあの世に連れていけ」と書いてあると言う。結局彼女はサカタをあの世に連れていけず、ひとり冷蔵庫に入り、時計の針は0時をまわる。そして彼女は姿を消す。名前も知らなかった事、愛されつつも愛せなかった事を思う。

喪失感。手後れである事。作品の感触は「愛の生活」に近い。全ての設定や過程は読後のインプレッションの為の道具であって、話そのものは実際にはどうでもいいのではないか、と思う。

みりん星人大襲撃 CUTiE(宝島社) 1994年9月号 CUTiE comic(宝島社) 2000年2月号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

のび太としずかは同棲中で、週に3日は互いのチンポとマンコを舐めあう程にラブラブだ。ある夏の夜、二人仲良くスイカを食べているところに、爆発したみりん星から逃げ延びたみりん星人たちが落ちてきた。のび太に一目惚れした王女はのび太の気をひこうと、可変の体をのび太好みに姿を換え求婚し、王と王妃もそれを応援する。しかしどれほどにのび太の理想に近付けても、のび太としずかの共有した時間こそがふたりをつなぎ止めているのだ、と聡明な王女は気付き、結局身を引く。突然の事態に驚き、そんな状況でも同情する優しすぎるのび太に立腹して部屋を飛び出したしずかだが、追ったのび太と夜の公園で和解。みりん星人たちに行くあてがない事には変わりなく、のび太の部屋に住みついていた。

冷蔵庫女やドナドナにしてもそうなのだが、短編の短さにおいてはドラマを描くというよりも1つのエピソードで読後感に主眼を置いて描かれている気はする。次のページではどうなるのだろう?といった展開よりも、気持ちよく読めるかどうか。そういった意味において「音楽のようなマンガが描きたい」と言っていた彼女の言葉は十分実現しているのだと思う。

ドナドナ CUTiE(宝島社) 1994年10月号 CUTiE comic(宝島社) 2000年4月号 ※短編集「恋とはどういうものかしら?」(2003年5月 / マガジンハウス)に収録

ユカは、ほったらかしにしていた男が他に女を作っていたり、やっと入った大学も卒業する時には就職難だったり、世間とずれていると言うか、ついていない。テレビに美空早乙女というガキでナゾの占い師が出ていて、彼女のファンで、夢中になって番組をみている母と軽口を交わし、夜遊びに出かけるといきなりの雨。店先で雨宿りしていたら、そこへ現われたのは黒服の男から逃げている早乙女だった。追っ手を巻き、一息ついた早乙女は煙草に火をつけ、子供のような外見だけれど自分は実は24才であることをユカに告げる。二人はユカの遊び場へ移動する。友達らの占いや相談等を受けていた早乙女だったが、疲れて休んでいる時に、コドモっぽい服を好むユカに「私ならもっとセクシーな服を着て、真っ赤な口紅をひくのに。」と子供を演じなければならない胸の内を打ち明ける。しばらくすると黒服の男らが嗅ぎ付けた様で、友達らが足止めをしてくれている間に、ユカと早乙女は店を抜け出す。友達の一人である千葉ちゃんが車を用意してくれ、そそくさと乗り込む。早乙女の希望で車は海に向かう。浜辺で早乙女はユカに身の上話をする。小学5年生の時に高熱をだしてから色んなものが見え、聞こえるようになった事。中学生くらいから自分の成長が止まった事。あたしはこれからどうなるんだろう?朝が来て、黒服の男たちが追い付く。マネージャーの様なものである彼らに付いて、早乙女は文句を言いながらも帰っていく。ユカ自身の恋愛のコトと、ユカの母の病気についての予言を残して。そして、その後ユカは千葉ちゃんとつき合うようになり、母の良性腫瘍も早期発見で大事に至らず、早乙女はボルネオの王様に呼ばれた(らしい)。

異論もあるかもしれないが私自身はフリッパーズギターの「Friends Again」に似た印象を受ける。コミックと音楽という違いはあるのだけれど、穏やかで静かで、乾いていて切ない。

ゴダールまんが - タイトルは“恋はマニエラ・バロックね” ユリイカ(青土社) 1994年臨時増刊号 文藝(河出書房新社) 2001年秋号

マンガと呼んでいいのか。いわゆる漫画ではない。形式的にはそうであるけれども。手法。実験。カットアップ。サンプリング。リミックス。断片の積み重ね。

常々、引用やサンプリングを繰り返してきた彼女ではあるけれど、コラージュであることは過程であって、手法そのものが表現や効果ではなかったと思う。あるいは、新しい組み立て方の模索であったのかも知れない。そういった成果が後のロシアの山等で実を結んだのだと思う。

ヘルタースケルター FEELYOUNG(祥伝社) 1995年7月号〜9月号、1995年11月号〜1996年4月号 FEELYOUNG(祥伝社) 2002年8月号〜2003年4月号 ※2003年4月、祥伝社より単行本刊行

このうえない美貌のタレントであり、モデルであるりりこは骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコ以外はつくりものだ。田舎から上京してきた彼女は事務所の社長の夢を託され、多額の投資のもと違法で特殊な整形医の手術とメンテナンスで美貌を得た。が、相次ぐ患者の自殺から、不当に高額な治療費、臓器売買の疑いから医者が捕まる。メンテナンスのできなくなった体は次第に原形をとどめないぼとに崩壊していく。テレビに映る彼女に興味を持った検事浅田は、臓器売買ブローカーを捜査中、件の整形医に辿り着く。その顧客リストからりりこに近付くことになる。被害者を増やさない為にも証言を考えて欲しい、と訪ねてきた彼の残した「昔」の写真やレポートがマスコミに流れ、一夜にして彼女のバッシングが始まる。それに対しての記者会見が開かれるが、結局彼女は壇上に現れなかった。控え室に眼球を残し、姿を消した。そして社長に託された夢である伝説となることを成就する。5年後、事務所の後輩であり、結果的にりりこを追い詰めていたモデルタレントこずえがメキシコのロケ先で覗いたフリークショーで堂々たるりりこを見つける。

繊細で、暴力的で、激しく、そして美しく一人の女の子の駄目になり方が描かれている。時折挿入される「当時を知る...の証言」的な部分も含めて、「チワワちゃん」が近しい印象を持ちうる。証言中心の回想という形ではなく、もう少しリアルタイムで本人を追っている感じ、がニュアンス的には近いと思う。ただチワワちゃんの様なセンチメンタリズムは皆無。

BABY IN ACTION GO!! GO!! GO!! FEEL YOUNG(祥伝社) 1995年10月号 ※「未完作品集 森」(2011年9月 / 祥伝社)に収録

吉本まゆこ(27)、水泳インストラクター、バツいち、子持ち。富岡多恵夫(23)、電機会社マーケティング部勤務、独身。世界の平和は彼ら、ミラクル・ピンキィとワンダー・レッドによって守られていた。

ある日のコト、山田君(23)と鈴木君(22)がフランスと中国の核実験に関して、両国製品は捨てた、中華料理反対、と語り合っていたら、目についたのはシャネル、A.P.C.、アニエスb、カルチェなどで着飾り、肉マンを頬張り、ウーロン茶やエビアンを飲み食いしているお嬢さんたちだった。「分かってない。彼女らに進言しよう。」と試みるが、逆にソシガヤオークラジモティギャルズ(16)の彼女らに「欲しいもん手に入れて何が悪い?アタシたちの青春のアカシなんだよ」とシメられてしまう。「結構、可愛い顔してんじゃん。体アジミして、Hな写真撮ってトーコーしちゃお。」と、犯されかけたその時「ちびっこたち、頭を冷やせ!!」とミラクル・ピンキーとワンダー・レッドが駆け付け、「全員を」ボコボコにして解決する。ちびっこたちに愛と勇気を教え、二人は風のように去っていく。

富岡は「会議を抜け出しちゃってボーナスの査定に響くなあ」、吉本は「大学時代は楽しかったけど、もうトシだしあと2、3年かな」、二人は帰りの山手線でそんなことを話していた。

戦隊?ヒーローものといった設定は遊びであって、フランスと中国の核実験強行への世間の反応に対する彼女のスタンスが垣間見えて面白い。エッセイ漫画のような形で真面目に演説するよりも、遥かに余裕を感じるし、漫画を生業とするもののプライドを感じる。

FEEL YOUNG(祥伝社) 1996年6月号 ※「未完作品集 森」(2011年9月 / 祥伝社)に収録

ヨコタは小学生の時、授業中に校庭の一本の大きな樫の木を見るのが好きだった。じっと眺めていると深い森に見えてきて、その中に迷いこみ、探検するのが好きだった。
電話番号と呼び名しか知らないような「おともだち」と朝まで遊び、帰宅する。家にはヒトミが寝ている。そして求められるままにヒトミとセックスをし、ヨコタはヒトミが「いる」ということを確認する。彼女の体温を感じながら、昔のコトを思い出す。去年、4つの死に遭遇した。13年飼っていた実家の犬、子宮癌で体重が半分になった叔母、これから良い感じになれそうだった大学のクラスメイト、そして中学時代からの唯一の「ともだち」マブチ。

ヒトミは金持ちの家のお嬢様で、去年のクリスマスパーティで知り合った。ヨコタが着ていたベトコンのジャケットに興味を持ったヒトミが「抜け出そう」と声を掛けてきたのだ。「ベトナムの女の子に生まれてきたかったの。そして人民の為に戦って死んでいくの。」それが彼女の口癖であり、あるいはないものねだり。ヨコタはヒトミと出会った(そして一緒に眠った)夜、マブチのコトを忘れて眠った。ヒトミはヨコタの中の何かをおだやかに吸収していった。そうしてマブチや他の死体を忘れていくはずで、それはゆっくりと実現していた。

そんな折、マブチの彼女であったミソギさんと再会する。偶然に。そして「森」に迷いこんでしまうことになる。

全体のトーンは村上春樹の「ノルウェイの森」を色濃く感じる。岡崎作品に於いては「恋愛依存症 KARTE.3(UNTITLED所収)」の手触りに近い。三回連載予定の内の第一回で中断してしまったこの作品がどこへ向かおうとしていたのか、本人の口から語られるほか、知る術はないのだけれど、最初に語られるヨコタのモノローグ「すべてはばらばらでありつつ同時にすべてがつながっているということ。そしてそのことにすこやかに対処するのはとてもむつかしいということだ。」、前述の感触からとても内省的な、乱暴な言い方をすると山田視点のリバーズ・エッジが出来上がったのではないか、という気がしなくもない。