中国古小説に見える《科学小説》的記述について

――ロボット編――

【凡例】
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  2. 難読な語句には〔 〕で読みを付し、難解な語彙等については(注 )の形で注番号を付し、【注】において解説を加えた。
  3. 書物については、分かる限りに於いて( )で成書年を記した。

「ロボット」、それはSFの代表的且つ古典的テーマの一つであり、同時に工学的な意味において最も現代的であるという点で、非常に興味深いテーマだと言えよう。そして、おそらくは最も世間一般に知られた概念であるとも言える。ロボットSFといえば、やはりアイザック・アシモフが想起されるが、彼の唱えた《ロボット三原則》は、某重機メーカーのコマーシャル・フィルムに使われたりもしており、今やSF関係者以外にも広く知られている。
 この「ロボット」という興味深いテーマについては、石原博士の『SFロボット学入門』という優れた著作がある。その巻末には「古典ロボットSF解説年表」が付されており、石原博士は、ホメロスの『イーリアス』より始め、西行の『撰集抄』にもふれつつ、様々な古典ロボットについても解説を施しておられる。それは今日においても非常に貴重な研究であることに間違いはないが、残念ながら中国の古典についてはふれておられない。(とはいえ、その価値が揺らぐというものではない。)
 そこで、浅学菲才の身も顧みず、その補遺を試みたのが本稿である。

 さて、中国古典小説において、最も活躍するロボットといえば、恐らくは「〔ナタ〕」であろう。この名を『西遊記』(1570ごろ)の第4回及び第83回に登場する「托塔天王李靖の三男」としてご記憶の方もおられよう。しかし、彼が本当に活躍するのは、同じ章回小説の『封神演義〔ホウシンエンギ〕』(注1)である。どちらも、龍を退治するほどの力を持っていたが、死んだ後に人智を越えた力によって新たな肉体を与えられて再生した、という点で共通している。「ロボット」と言うよりは、その事情の類似性から、平井和正氏が「エイトマン」をサイボーグと規定していたのに倣うべきであるかも知れない。
 また、『封神演義』には、「黄巾力士」という完全なアンドロイドが登場する。これは仙人達に使役されているもので、いつも首に黄色の布を巻いている為にその名がある。ただ、その活躍は非常に限定的なもので、大体が、殺されそうな人間を一瞬の内に仙人の元に連れてきて、その命を助けるというもので、自らの意志を持って動いているというわけではない。
 ともあれ、「」や『封神演義』については門外漢が下手な解説を加えるよりも、現物を読んで戴くのが一番よいと思われる。『封神演義』は、日本でこそ殆ど知られてはいないが、『平妖伝』(17C半ば)(注2)とともに、その面白さでは四大奇書(注3)を上回るともされている。また、その奇想天外な兵器の数々を駆使した戦争の様子は、インドの「マハーバーラタ」にも匹敵するといってよい。
 章回小説の中にも、SF的に極めて興味深い作品・描写は数多く存在するであろうが、筆者は明・清の章回小説を守備範囲とはしていないので、ここでは以上の解説に止めたい。以下、宋以前の小説を中心に、SF的作品を見て行きたい。尚、今回は考察よりも、作品の紹介に重きを置きたい。

 まず、「ロボット」についての最も古い記述であろうと思われるのは、『列子』(成書年不詳)湯問篇に見える所謂「偃師〔エンシ〕造人」である(注4)。話は以下の通りである。
周の穆王 西に巡狩して崑崙を越え、山〔ケイザン〕に至りて反還る〔不があるのは他所の記載と合わない。削るべきである〕。未だ中國に及らずして、道に工人を獻ずる有り。名は偃師。穆王 之を薦めて問ひて曰く、若〔ナンジ〕 何の能有るか、と。偃師 曰く、臣 唯だ命のままに試みる所なり。然れども臣 已に造る所有り、願はくは王 先づ之を觀ん、と。穆王 曰く、日に以て倶に來れ、吾 若と倶に之を觀ん、と。翌日 偃師 王に謁見す。王 之を薦めて曰く、若の與偕〔トモ〕に來たる者は何人ぞや、と。對へて曰、臣の造る所の能く倡する者なり、と。穆王 驚きて之を視るに、趨歩俯仰 信に人なり。巧夫 其の頤〔アゴ〕を〔ウゴ〕かせば、則ち歌ひて律に合し、其の手を捧ぐれば則ち舞ひて節に應ず、千變萬化 惟だ意の適〔ユ〕く所なり。王 以爲く實の人なりと。盛姫内御と竝びて之を觀、技 將に終らんとするに、倡者 其の目を瞬きて王の左右の侍妾を招く。王 大いに怒り、立ろに偃師を誅せんと欲す。偃師 大いに懾〔オドロ〕き、立ろに倡者を剖散し、以て王に示す。皆な革木・膠漆・白墨・丹青を傅會〔フカイ〕して爲くる所なり。王 諦らかに之を料するに、内は則ち肝膽心肺脾腎腸胃、外は則ち筋骨支節皮毛齒髮、皆な假物なり。而も畢く具へざる者無し。合會せば復た初めに見たるが如し。王 試みに其の心を廃すれば則ち口 言ふ能はず、其の肝を廃せば則ち目 視る能はず、其の腎を廃せば則ち足 歩む能はず。穆王 始めて悦びて歎じて曰く、人の巧なるは乃ち造化者と功を同じうす可きか、と。貳車〔ニシャ〕に詔りして之を載せて以て歸る。夫の班輸の雲梯〔ウンテイ〕、墨〔ボクテキ〕の飛鳶〔ヒエン〕は、自ら能の極なりと謂ふ。弟子東門賈〔トウモンカ〕 禽滑釐〔キンカツリ〕 偃師の巧を聞きて、以て二子に告ぐ。二子 終身 敢へて藝を語ずして、時に規矩〔キク〕を執る。

 周王朝五代の王・穆王(BC1000頃)は西へ行幸し崑崙山を越え、山にまで行って帰ってきた。まだ中国に帰り着かない内に、途中でとある国が一人の技術者を献上した。名は偃師といった。穆王は彼を自分の前に進ませて「お前はどんな能力を持っているのか」と尋ねた。偃師は答えた「私は命じられたままに試みます。しかしながら私には既に拵えた物がありますので、まずそれを御覧になって下さい。」そこで穆王は「ならば日を改めて持参せよ。儂はお前と共に見るとしよう。」翌日、偃師は王に謁見した。王は「お前と一緒に来たのは何者か。」と訊ねた。偃師は「私の作った役者人形です」と答えた。穆王は驚いてこれを見たが、立ち居振る舞いは本当の人間のようだった。偃師が人形の顎を動かしてやれば旋律に合わせて見事に歌をうたい、腕を持ち上げてやれば音楽に合わせて舞を踊った。様々な仕草も思いのままであった。王は本当の人間ではないかと思った。盛姫や側女たちと見物していたが、演技が終わろうというときになって、人形は目を瞬いて穆王の側女たちに誘いをかけた。それで王は立腹し、忽ち偃師を殺そうとした。偃師は震え上がって、すぐさま人形を解体して穆王に示した。なるほど、みな革や木を材料として膠や漆で固め白黒赤青といった色を塗って組み立てたものであった。穆王が詳細に調べてみると、内は肝臓・胆嚢・心臓・肺臓・脾臓・腎臓や胃腸、外は筋肉・骨格・手足や関節・皮膚や毛髪・歯に至るまで、全て作り物であった。しかも揃っていないというものは無かった。それを組み立てると元通りになった。穆王が試みに心臓を取り外すと口がきけなくなり、肝臓を外せば目が見えなくなり、腎臓を外せば歩けなくなった。穆王は「人間の技術も極めれば造物主と同じ事が出来るのかのう」と感心して、副車(乗り換えるための予備の車)に命じて偃師を載せて都へ連れ帰った。さて、かの魯の班輸は雲梯を作り、墨子は飛鳶というからくりを作り、各々自分の技術こそ最高だと自負していた。班輸の弟子の東門賈と墨子の弟子の禽滑釐は偃師の技術のことを聞いて、それぞれ師に告げた。それから班輸と墨子は二人は死ぬまで技術を自慢しなくなり、時にコンパスや定規を手にするだけになった。

 木・革・漆・膠という材料がなんとも東洋的であるが、極めて精巧なアンドロイドであることは間違いなかろう。「其の心を廃すれば則ち口 言ふ能はず」云々というのに、何の意味があるのかと疑問に思われるかもしれないが、これは五行による対応である。もっともこの五行の対応というのが、いろんな書物、時には同一の書物内に於いてすら統一を見ないことがあるので、ここの対応が「正しい」かどうかというのは判断がつかないのであるが、ともあれ、この対応が備わっているということは、ただの「からくり」ではなく、極めて人間に近いものであることを物語っているのである。ここで敢えて、五行思想を持ち出してきているのは、道家の書である『列子』の性格のためであり、その点は純然たる小説でも神話でもないことをうかがわせる。
 さて、ここで最も重要なのは、「人の巧なるは乃ち造化者と功を同じうす可きか」と穆王が「悦びて歎じて」いることであろう。このことは、換言すれば世界で最も現実的であるといわれる中国人は、人間の技術で完全なアンドロイドを作り出すこと、より普遍的には自然の存在や作用というものは全て人工的に再現することが可能であると、千年以上も前に恐らくは確信していたということである。他の地域では、「ロボット」に類する存在が概ね神話の中でが語られ、そこに神の力が介在していたこととは一線を画している。もっとも、章回小説あたりになると仙人が介在してくる――「黄巾力士」の例がこれに当たる――のであるが、仙人はあくまでも人間の延長線上に位置付けられるもので、人とは隔絶した次元に位置付けられる「神」とは異なるので、大筋では『列子』の主張が保たれていると言えよう。

 先秦漢魏の書物における「ロボット」の記述というのは、他には殆ど見られないようである。また例えあったとしても、見つけだすには諸々の書物を個別に読破しなければならず、極めて困難である。今回はそれを行うような時間もないことから、以下、漢魏以降、主として六朝唐五代の小説(注5)を集めた類書『太平広記〔タイヘイコウキ〕』(注5)中より、「ロボット」的記述のある作品を抜き出してみたい。
 まず、『太平広記』巻225から227にかけて「伎巧」という部立てで集められている中に、『列子』同様の「からくり」系の話が幾つか見られる。
 恐らく六朝の頃の話と思われるが、「魯般」〔出『酉陽雑俎〔ユウヨウザッソ〕』(注7)〕という話がある。

魯般は、燉煌〔トンコウ〕の人。年代を詳かにする莫し。巧 造化に〔ヒト〕し。凉州に於いて浮圖〔フト〕を造る。木鳶を作り。毎に楔を撃つこと三下にして、之に乘りて以て歸る。何〔イカン〕する無く、其の妻の妊〔ミゴモ〕る有り。父母 之を詰り、妻 具さに其の故を説く。其の父 後に鳶を伺ひ得て、楔すること十餘下、之に乘り、遂に呉會に至る。呉人 以て妖と爲し、遂に之を殺す。般 又た木鳶を爲り之に乘り、遂に父の屍を獲たり。呉人の其の父を殺せるを怨む。肅州城南に於いて、一木仙人を作り、手指を東南に擧ぐ。呉の地 大旱なること三年、卜して曰く、般の爲らる所なり、と。齎物〔セイブツ〕巨千もて之に謝す。般 爲に其の一手を斷つ。其の月 呉中 大いに雨ふる。國の初め、土人 尚ほ其の木仙に祈祷す。六國の時、公輸班も亦た木鳶を爲り、以て宋城を窺ふ。

魯般は、敦煌の人である。生没年の詳しいことは分からない。その技術の巧みさは造物主の技に等しいかと思われた。凉州の地で仏塔を造った。その時、木の鳶を作り、いつもからくりを動かすこと数回で、これに乗って飛んで帰っていた。ほどなくして、彼の妻が妊娠した。彼女の父母は不義と思ってそのことをなじったので、妻は具さにそのわけを話した。魯般の父は後に鳶を見てこれを密かに手に入れて、からくりを十数回動かし、これに乗って、そして呉会に至った。呉の人は妖怪だと思って、そこで彼を殺してしまった。魯般はまた木の鳶を作ってこれに乗り、そして父の遺体を取り返した。呉の人が父を殺したことを怨んだ。そして粛州城の南で、一体の仙人の木像を作り、東南を指し示させた。呉の地は三年間も大旱魃に襲われれ、占いをして、魯般の仕業だと分かった。(呉の人々は)供物をふんだんに施して彼に謝罪した。魯般はそこで木像の腕を切り落とした。(すると)その月の内に呉には大雨が降った。本朝〔唐のこと〕建国の間もない頃、土地のものたちは、まだこの木仙に祈りを捧げていた。戦国時代、公輸班も木鳶を爲り、それで宋国の城の様子を窺った。

 篇末に名のみえる公輸班は、「偃師造人」の班輸と同一人物である。一名を魯班また魯般といい、魯班尺を作った人物とされている。結果的に本篇の主人公・燉煌の魯般は彼と同姓同名になる。同一人物という説もないではないが、戦国時代には「敦煌」はまだ無かったはずであるし、一つの話の中で魯般と公輸班という違った呼称を一人の人物に対して使うことは余りにも不自然であるから、同名の別人と考えるのが妥当であろう。或いは、技工に巧みなことから、「魯般」の名をもって呼ばれたのかも知れない。なお、魯の公輸班については『孟子』離婁〔リロウ〕篇上、『荀子』法行篇のほか、『墨子』魯問篇・公輸篇に見える(注8)。彼が木鳶を作ったというのは、『墨子』魯問篇に「公輸子削竹木以爲鵲、成而飛之、三日不下。(公輸子 竹木を削りて以て鵲を爲る、成して之を飛ばさば、三日にして下らず。)」(注9)とあるのが元であろう。ちなみに、公輸班と墨子は、恐らく文献で確認できる限りに於いては中国史上最も早く、ともすれば世界初と言ってよい戦術シミュレーションを行っている(注10)。
 それは兎も角、本篇に見られた「からくり」は『列子』のものに比べれば見劣りはするが、基本的な姿勢には違いがない。かなり精巧にできていて一見人智を越えていそうでも、それは「優れたからくり」であって、純粋に高度な技術の産物として扱われている。また、「巧 造化にし。」とあるように、その技工の巧みさは「造化」つまり「自然」と比べられている。ここにも『列子』同様の「人間の技術に対する確信」を見いだすことが出来る。
 ただし、後半の「木仙人」のくだりは「からくり」とは何の関わりもない。木像の中に仕込んだ「からくり」で雨を降らしているわけではないのである。こう言った記述は、どちらかと言えば神仙譚に近いものであり、その点でこの物語は他の「伎巧」のものとは多少異なった傾向を見せている。「木仙人」のくだりを解説するならば、東照宮の眠り猫ではないが、「非常に巧妙に作られたものは本物と同じ作用を持つ」という風な考えに基づいた記述と言える。非常に上手く描かれた人物画を傷つけたら、モデルとなった人物が苦しみだした、という話は唐以前の六朝時代(かの“書聖”王羲之〔オウ・ギシ〕の時代)から存在しているが、ここの「木仙人」は、これらの系列に位置付けられよう。また蛇足ながら、私の見た限りにおいて『列仙伝』(BC6ごろ)、『神仙伝』(300ごろ)、『集仙録』(10Cごろ)といった書物が集めている古典的な仙人譚の中には「ロボット」という「技術」の産物は登場しない。これもまた興味深いが、稿を改めて論じるべきものであろう。
 さて、引き続いて『太平広記』〈伎巧〉中から、いくつかの事例を見てみる。まず、『朝野僉載〔チョウヤセンサイ〕』(7Cごろ)(注11)から引かれている三篇が興味深い。

◎殷文亮
洛州の殷文亮は曾つて縣令爲り。巧を性とし酒を好む。木を刻みて人を爲り、衣せるに綵〔ソウサイ〕を以てす。酒を酌〔シャク〕して觴〔サカズキ〕を行ひ、皆な次第有り。又た妓女を作る。歌を唱ひ笙〔ショウ〕を吹き、皆な能く節に應ず。飮みて盡きざれば、即ち木小兒 把るを肯んぜず。飮みて未だ竟らざれば、則ち木妓女 歌管連催す。此れ亦た其の神妙を測る莫し。

洛州の殷文亮はかつて県知事であった。技巧に心酔し酒を好むたちだった。木を刻んで人を造り、あやぎぬの衣を着せた。酒を酌して杯を勧め、それらはすべて順序が整っていた。また妓女を作った。歌をうたひ笙という笛を吹き、それらはすべて音楽の節にあっていた。客が酒を飲み尽くしていなければ、木の子供は杯を受け取ろうとはしなかった。酒をまだ飲み終わっていなければ、木の妓女は歌をうたい笛を奏でて促した。此れらはその神妙な技術を計り知る者はなかった。


◎楊務廉
將作大匠楊務廉は甚だ巧思有り。常つて沁州〔シンシュウ〕市内に於いて木を刻して僧を作る。手に一椀を執り、自ら能く行乞す。椀中 錢 滿つれば、關鍵 忽ち發し、自然として聲を作りて布施と云ふ。市人 競ひて觀、其の聲を作さしめんと欲す。施 省日 數千に盈つ。

 将作大匠(注12)の楊務廉は大変技工が巧みであった。かつて沁州城内で木を使って僧侶の像を作った。手に一個の椀を持って、自ら托鉢を行った。椀の中に金がいっぱいになると、機構が働いて、自ずから声を発して「布施」と言うのであった。町の人たちは先を争って見に集まり、その声を出させようとした。おかげで、布施は日に数千銭にもなった。


◎王
州〔チンシュウ〕刺史 王 木を刻して獺を爲す(※7)。水中に沈みて魚を取り、首を引きて出だす。蓋し獺の口中に餌を安じ轉關を爲す。石を以て之に縋〔スガ〕らしむれば則ち沈む。魚 其の餌を取らば、關 即ち發し、口 合ひて則ち魚を銜み、石 發して則ち浮きて出づ。

 州の長官の王は木を使って川獺〔カワウソ〕を作った。水の中に潜って魚をとり、首をのばして浮かび上がってくる。さて川獺の口の中に餌を入れ、機械と連動させる。石を縄で結わえ付けると沈む。魚が餌をとると、機構が働いて口を閉じて魚をくわえ、石がはずれて浮かび上がってくるのである。

 以上の例は、「からくり」という技術について正面からとらえた話であり、非常に冷静な視線で事柄をを観察し記述する張文成らしい記載であると言える。ここでひとつ気がつくのは、これらが如何に巧妙なからくりではあっても、それは単一の目的のために作られたものであり、けして汎用であったり万能であったりするものではないということである。『列子』の「ロボット」も一見万能に見えたが、「役者」という特定の目的のために作られたものであった。こうしてみてくると、どうやら古代中国の「ロボット」というものは「オートメーション」の延長というか、極めて「現代の産業ロボット」に近い存在であり、アトムやその他小説や映画に登場する「アンドロイド」や「ロボット」とは根本的に異なるもののように思える。
 次に挙げる「馬待封」も、純粋な技術の話――単一の目的の為に作られたオートメーションの話である。

◎馬待封〔出『紀聞〔キブン〕』(760ごろ)(注13)〕
開元の初め法駕を修む。東海の馬待封 能く伎巧を窮む。是に於いて指南車・記里鼓・相風鳥等、待封 皆な改修す。其の巧 古を踰〔コ〕ゆ。待封 又た皇后の爲に粧具〔ショウグ〕を造る。中立鏡臺、臺下兩層、皆な門戸有り。后 將に櫛沐〔シツモク〕せんとせば、鏡奩〔キョウレン〕の後 啓〔ヒラ〕き、臺下 開門し、木婦人の手づから巾櫛〔キンシツ〕を執りて至る有り。后 取り已〔オ〕えれば、木人 即ち還る。面脂〔メンシ〕・粧粉〔ショウフン〕、眉黛〔ビタイ〕・髻花〔ケイカ〕に至るまで、用ひんとする所の物に應じて、皆な木人執りて、繼いで至り、取り畢〔オ〕えれば即ち還り、門戸 復た閉づ。是の如く供給は皆な木人たり。后 既に粧すること罷〔ヤ〕むれば、諸門 皆な闔〔ト〕ぢ、乃ち持ち去る。其の粧臺〔ショウダイ〕は金銀もて彩畫〔サイカク〕し、木婦人の衣服裝飾は、窮極精妙たり。待封 既に鹵簿〔ロボ〕を造り、又た后帝の爲に粧臺を造る。是の如くすること數年、敕して但だ其の用を給するのみ。竟に官を拜せず、待封 之を恥づ。又た奏して欹器〔キキ〕・酒山・撲滿〔ボクマン〕等の物を造らんことを請ふ。之を許す。皆な白銀を以て造作す。其の酒山・撲滿中、機關 運動し、或いは四面開定し、以て風氣を納〔イ〕る。風氣轉動し、陰陽向背〔コウハイ〕する有り。則ち其の外をして泉流〔センリュウ〕 吐納〔トノウ〕せしめ、以て杯〔ハイカ〕に〔ク〕む。酒使の出入すること、皆な自然の若し。巧 造化を踰えたり。既に成りて之を奏す。即ち宮中の有事に屬せしめ、竟〔ツイ〕に召し見えず。待封 其の數奇を恨み、是に於いて姓名を變え、西河山中に隱る。開元の末に至り、待封 晉州從〔ヨ〕り來り、自ら道者呉賜と稱す。常に粒を絶つ。崔邑令李勁と酒山・樸滿・欹器等を造る。酒山 盤中に立ち、其の盤 徑四尺五寸、下に大龜有りて盤を承〔ウ〕く。機運は皆な龜腹内に在り。盤中に山を立つ。山 高さ三尺。峯巒〔ホウラン〕 殊妙たり。繞山 皆な酒池に列なる。池外 復た山有りて之を圍む。池中 盡く荷を生ず。花 及び葉 皆な鍛鐵〔タンテツ〕もて之を爲す。花 開き 葉 舒〔ノ〕ぶ。以て盤葉に代え、脯醢珍果佐酒〔ホカイ・チンカ・サシュ〕の物を花葉中に設く。山南の半腹に龍有り。半身を山に藏〔カク〕し、口を開きて酒を吐く。龍下の大荷葉中に、杯有りて之を承く。盃 受くること四合、龍 酒を吐くこと八分にして止む。當に飮むべき者は即ち之を取る。酒を飮むこと若〔も〕し遲ければ、山頂に重閣有りて、閣門 即ち開き、催酒人の衣冠を具〔そな〕へ板を執りて出づる有り。是に於いて盞〔サカズキ〕を葉に歸す。龍 復た之に注ぐ。酒使 乃ち還り、閣門 即ち閉づ。如し復た遲ければ、使の出づること初めの如し。直ちに終宴に至れば、終に差失〔サシツ〕する無し。山の四面東西 皆な龍の酒を吐く有り。酒を池に覆すると雖も、池内に穴有り、潛〔ヒソカ〕かに池中の酒を引きて山中に納る。席闌終飮〔セキランシュウイン〕に比〔オヨ〕び、池中の酒も亦た遺こる無し。欹器二、酒山の左右に在り、龍 酒を其の中に注ぐ。虚ならば則ち欹〔カタム〕き、中ばなれば則ち平、滿つれば則ち覆す。則ち魯廟の所謂〔イワユル〕 侑坐〔ユウザ〕の器なり。君子 以て盈滿〔エイマン〕を誡〔イマシ〕む。孔子 之を觀て以て誡む。杜預〔ド・ヨ〕 欹器を造りて成らず。前史の載せる所なり。呉賜の若きや、之を造ること常器の如くなるのみ。

 開元年間(713-741)の初めごろに皇帝が外出するときに使う車を修理した。東海郡の馬待封は技巧が大変優れていた。そこで指南車・記里鼓・相風鳥(注14)等、馬待封がこれらをすべて改修した。その巧みなことは古のものを凌駕していた。待封は皇后の為に化粧道具も作った。台の上には鏡が立っており、台の下は二層になっていて、それぞれに戸がついている。皇后が櫛ろうとすると、鏡を入れた箱の後ろが開き、台の下の戸も開き、婦人の木像が手に布巾や櫛を持って出てくるのであった。皇后が取り終えると、木人は元のところに戻る。面脂・粧粉、眉黛・髻花〔白粉や黛、髪飾り〕に至るまで、使おうとするものに応じて、すべて木人が持ってやってきて、取り終えると元に戻って戸が閉じるのである。このように道具をわたすのはすべて木人であり、皇后が化粧を終わると、全ての門が閉じ、全ての道具が持ち去られるのである。その化粧台は金銀で装飾され、婦人の木像の衣装も非常にすばらしいものであった。待封は既に天子の行列に用いる装備(注15)を作り、また皇后のために化粧台を作った。そのようにすることが数年続いたが、玄宗皇帝(注16)は用があるときに勅命で呼び出すだけだった。待封はついに官職を拝することがなく、そのことを恥じた。また上奏して欹器・酒山・貯金箱などの物を作ることを願い出た。皇帝はこれを許可した。それらはすべて白銀で作られていた。その酒山や貯金箱の中では、からくりが動いており、或いはその四面が開いて、風を取り入れる。風は機関を動かし、陰と陽、前と後に分かつ。それによってその外側に酒を泉のようにわき出させ、杯や斗にくむのである。酒を酌するものが出入することも、すべて自動である。その技工は造化を越えたいってよい。それが完成するとかれは皇帝に報告した。皇帝は宮中に仕事にかこつけて、ついに取り合おうとしなかった。待封は己の運命を恨んで、姓名を変えて、西河山中に隠れてしまった。開元の末になって、待封は晋州からやって来て、自ら道者呉賜と名乗った。常に穀物を絶っていた。崔邑県の知事の李勁と一緒に酒山・貯金箱・欹器などを作った。酒山は盤の中にそそり立っていて、その盤の差し渡しは四尺五寸、下に大きな亀があって盤を支えている。からくりはすべてその亀の腹の中に納められている。盤の中には山が立っている。その山の高さは三尺。連なる峰は非常に見事であった。巡れる山はすべて酒の池に列なっている。池の外にもまた山があって周りを取り囲んでいる。池の中にはことごとく蓮が生えている。花や葉はすべて鍛えた鉄で作られている。花は開き葉は伸びている。それをもって皿の代わりにし、干し肉・塩辛・珍しい果物など酒の肴を花や葉の中に盛りつけた。山の南側の中腹に竜がいる。体の半分を山に隠していて、口を開いて酒をはいている。竜の下には大きな蓮の葉の中に杯があってそれを受けている。杯には四合入るが、竜は八分まで酒を吐いたところで止まる。飲むものはこれを手にとるのである。酒を飮むのがもし遅かったら、山頂に楼閣があり、その門が開いて、酒をすすめる人形で衣冠を身につけ拍子木を持ったもの(酒使)が出てくる。そこで杯を葉にもどす。すると竜はまたこれに酒を注ぐ。その後、酒使は元に戻って、楼閣の門も閉じる。もし復た遅ければ、酒使は初めと同じように現れる。そのまま宴が終わりになり、最後まで滞るところはなかった。山の四面東西には、すべて酒を吐く龍が備え付けられている。酒を池に注いでも、池の内には穴が有って、人知れず池の中の酒を山の中に引き入れてしまう。宴が終わり酒を酌み交わすことが終わると、池の中の酒も一滴も残らないのである。欹器が二つ、酒山の左右に設けて、龍が酒をその中に注ぐと、空っぽならば器は傾き、中ばまでは平らになり、いっぱいに満ちるとひっくり返る。すなわち魯廟の侑坐の器がこれである。君子はそれによって充ち満ちることを誡め、孔子もこれを視て誡とした。晋の杜預(222-284)は欹器を造ろうとしたが成功しなかった。これは史書が載せているところである。呉賜(こと馬待封)のごときは、これを作ることが恰も普通の道具を作るかのようであった。

 「指南車・記里鼓・相風鳥等、待封 皆な改修す。其の巧 古を踰ゆ。」として馬待封の技工の巧みさを強調している。「指南車」は歯車の巧妙な組み合わせによって、台座である車がどちらを向いても、上に載っている人形が南を向き続けるという道具であり、台車の両輪の円周の差は一パーセントでも致命的となるほどの精密さを要求される。今日でも非常に高く評価されている物の一つである。尚、詳しくはロバート・K・G・テンプル氏の『図説 中国の科学と文明』〔河出書房新社〕p.107-110、或いはその元となったジョセフ・ニーダム氏の『中国の科学と文明』第八巻〔思索社〕p.380-402をご参照いただきたい。ちなみに、ニーダム氏によれば、指南車の発明は少なくともAD三世紀に遡るというが、晋の崔豹〔サイ・ヒョウ〕(300ごろ)の『古今注』によれば、中華文明の鼻祖・黄帝が作ったと言い、また孔子が敬愛し理想とした周公旦〔シュウコウ・タン〕(BC1000ごろ)が作ったとも言う。また晋の杜預にしても、「春秋左氏伝」に注を施しており、それは今日でも「春秋左氏伝」を読む際の基本とされている。「其の巧 古を踰ゆ。」とは、これら大聖人・大学者を越えているという事を意味している。
 本篇では、それらに次いで、皇后のための「粧具」について述べられている。この「粧具」も人の動きに呼応して動作するからくりであるという点で、非常に興味をひかれる。しかし、この小説はそれらについてはごく簡単な説明をしているに過ぎず、ほぼその全力をもって「酒山」を描写している。その執拗なまでの描写は全体の形から内部の構造、果てはその運用例にまでいたる。これほどまでに「からくり」に拘り、それを技術的に記した例は、他に類を見ない。
 さて、これまで紹介してきた諸篇は、『酉陽雑俎』所収の「魯般」一篇を除いて全て所謂盛唐(720-770)に成立した書物に引かれている。また「魯般」にしても、『酉陽雑俎』という書物は晩唐(西暦830年頃-唐滅亡まで)の成立であるが、この話の主要部分は唐以前の六朝には成立していたと思われる。さて、盛唐というのは“詩仏”の王維、“詩仙”の李白、“詩聖”の杜甫をはじめ、「登觀鵲樓」で知られる王之渙〔オウ・シカン〕、辺境への従軍に主題をとった詩を得意として辺塞詩人と呼ばれた岑参〔シン・ジン〕などの詩人たちが活躍した時代であり、詩が文学の主流を占める、言うなれば「詩の時代」である。この時代、小説は極めて素朴であり、六朝以来の「記録文学」的な形を残したものであったのだが、こういった段階に於いて、ここに引いたような科学的に冷静な視点で「からくり」を描いた作品が存在したことは、非常に興味深い。なぜならば、唐代の小説はこの後、中唐(770-830)に入って爆発的に増加成熟するのだが、その時代の小説というのは、才子佳人の恋愛譚や異類婚姻譚(注17)などが主となるからである。つまり、非常に早い段階でSF的視点への発展の可能性を小説に持ち込んでいながら、それが志怪的な観察し記録するという姿勢と非常に密接に結びついていたが故に、世界でもっとも早く中国で本格SFが誕生するという、ニーダムの言をを借りれば「西洋人の中国への負い目」を益々増大させるような可能性は、盛唐から中唐に至り小説が成熟する過程で摘み取られてしまったのである。それは、当時の小説の作り手たちを取り囲む社会的情況や小説消費の場という要素が関わっているのであるが、それはここで論ずるべき問題では無かろう(注18)。

 では、最後に日本人の登場する作品を紹介して、本稿を締めくくりたい。『杜陽雑編〔トヨウザッペン〕』(876)(注19)所収の「韓志和〔カン・シワ〕」である。唐滅亡直前の小説集に特有の事柄を淡々と述べ、そこに何の「ひねり」も見いだせず、何が言いたいのかよく分からないという話であるが、古典的なガジェットを忠実に引き継いでいると言う点と、作者に明確な創作意識があれば、もしかしたらSF的なものに成っていたかも知れないという可能性だけは、それなりに評価できるのではないかと思う。

穆宗〔ボクソウ〕の朝、飛龍士・韓志和なるもの有り。本と倭國の人なり。善く木を雕〔ホ〕りて、鸞鶴鴉鵲〔ラン・カク・ア・ジャク〕の状を作す。飮啄悲鳴〔インタクヒメイ〕し、眞と異なる無し。關を以て腹内に捩置〔レツチ〕し、之を發せば則ち空を凌〔シノ〕ぎて翼を奮ふ。高さ百尺可〔バカ〕りにして、一二百歩外に至り、方に始めて却下す。兼ねて木猫兒を刻し以て雀鼠〔ジャクソ〕を捕ふ。飛龍使 其の機巧を異とし、之を奏す。上〔ショウ〕 覩〔ミ〕て之を悦ぶ。志和 更に踏床〔トウショウ〕の高さ數尺なるを雕る。其の上は之を飾るに金銀綵繪〔キンギンサイカイ〕を以てす。之を見龍床と謂ふ。之を置けども則ち龍形見えず、之を踏まば則ち鱗鬣爪角〔リンリョウソウカク〕 倶に出づ。始めて進ぜしとき、上 足を以て之を履む。而らば龍の夭矯〔ヨウキョウ〕すること雲雨を得るが若し。上 恐畏し、遂に撤去せしむ。志和 上の前に伏す。「稱るに臣は愚昧にして、致すに聖躬〔セイキュウ〕を驚忤〔キョウゴ〕せしむる有り。臣 願はくは別に薄伎〔ハクギ〕を進め、以て陛下の耳目を娯〔タノシ〕ませ、以て死罪を贖はん。」上 笑ひて曰く、「解く所は何の伎ぞ。試みに我が爲に出だせ。」と。志和 懷中より一桐木合の 方 數寸なるを將〔モ〕ち出だす。其の中に物有り 名は蠅虎子〔ヨウコシ〕。數ふるに啻〔タ〕だ一二百のみならず。其の形 皆な赤、丹砂〔タンサ〕を以て之に啗〔クラ〕はしむるが故なりと云ふ。乃ち分ちて五隊と爲し、梁州を舞はしむ。上 國樂を召し、以て其の曲を擧れば、虎子 盤回宛轉〔バンカイエンテン〕し、節に中〔アタ〕らざる無し。詞を致す處に遇ふ毎に、則ち隱隱として蠅の聲の如し。曲の終るに及び、累累として退く。尊卑等級有るが若し。志和 虎子を指上に臂〔ヒ〕し、蠅を數歩の内に獵せしむ。鷂〔ヨウ〕の雀を擒るが如くして、獲ざる者有る罕し。上 其の伎の小しく觀る可きもの有るを嘉び、即ち賜ふに雜彩銀器を以てす。而るに志和 宮門を出づれば、悉く人に轉施す。年を逾えずして、竟に志和の在る所を知らず。上 殿前に於いて千葉の牡丹を種う。花の始めて開らくに及び、香氣 人を襲ふ。一朶千葉、大にして且つ紅なり。上 芳盛なるを覩る毎に、人間の未だ有らざるを歎ず。是自り宮中 夜毎に、即ち黄白の蝴蝶の萬數なる有り、飛びて花間に集ふ。輝光照耀〔キコウショウヨウ〕、曙に達して方に去る。宮人 競ひて羅巾〔ラキン〕を以て之を撲す。獲ざる者有る無し。上 網を宮中に張らしめ、遂に數百を得、殿内に於いて縱〔ホシイママ〕に嬪御〔ヒンキョ〕をして追捉〔ツイソク〕せしめて、以て娯樂と爲す。明くるに遲りて之を視れば、則ち皆な金玉なり。其の状 工巧にして、以て比と爲す無し。而して内人 爭ひて絲縷〔シル〕を用て其の脚を絆び、以て首飾と爲すも、夜 則ち光 粧奩〔ショウレン〕中より起こる。其の夜 寳廚〔ホウチュウ〕を開らき、金屑玉屑〔キンサツギョクセツ〕の内に藏せるを視るに、將に化して蝶と爲る者有らんとす。宮中 方に覺る。

 穆宗の御代、近衛兵の飛龍隊の兵士に韓志和というものがいた。もとは日本国の人であった。木彫りの技術に優れ、鸞・鶴・鴉・鵲などの像を作った。水を飲んだり悲しげに鳴いたりし、本物と異なるところはなかった。からくりを腹の内に仕掛け、これを動かせば翼を羽ばたかせて空に舞い上がる。百尺ほどの高さにまで達し、百歩あるいは二百歩向こうまで飛んで、それから降りてくる。また木彫りの猫を作り雀や鼠を捕まえさせた。飛龍隊の指揮官はその技術をすばらしいものだと考え、このことを天子に奏上した。穆宗はこれを見て喜んだ。韓志和は更に高さ数尺の踏み台を作った。その上は金銀や絹で飾ってあった。これを「見龍床」と言った。置いてあるだけでは龍の姿は見えないが、これを踏むと鱗やたてがみ、爪や角までも出てくるのである。献上したとき、穆宗は足で台を踏んだ。すると龍が雲雨を得たかのような姿で昇り騰がった。穆宗は大変驚いて、撤去させてしまった。韓志和は穆宗の前にひれ伏して言った。「考えてみますに私が愚かで、陛下を驚かせることとなりました。私は別に拙い技を披露して、陛下の耳目を楽しませ、死罪を贖わせていただきたいと存じます。」穆宗は笑って言った。「出来るというのはどのような技であるか。朕のために披露してみよ。」韓志和は懐から数寸四方の桐製の箱を取り出した。その中には何かが入っており、名は蠅虎子(蠅とり蜘蛛)といった。数は百や二百といったものではなかった。その姿は皆な赤で、丹砂で飼うのでそのようになると言うことだった。それを五隊に分けて、梁州曲を舞わせた。穆宗は宮廷楽隊を召し出し、梁州の曲を演奏させると、虎子はくるくると回って踊り、曲に合わないと言うことはなかった。詞を歌うところになるたびに、かすかに蠅の様な声で鳴いた。曲が終ると、ぞろぞろと戻った。あたかも上下の身分があるかのようであった。韓志和は虎子を指の上に載せて、数歩離れたところの蠅を取らせた。鷂〔ハイタカ〕が雀を獲るかのようで、的を外すことはなかった。穆宗はその技にいささか見るべきものが有ったことを喜び、すぐに色とりどりの器を韓志和に賜った。しかし韓志和は宮門を出たところで、全て人に恵んでしまった。そして一年足らずの内に、韓志和の所在は分からなくなってしまった。穆宗は宮殿の前に千輪の牡丹を植えていた。花が咲き始めると、香気が人を襲うほどにあたりに満ちる。この牡丹は一枝に千輪咲き、大きくて紅色であった。穆宗はその盛んな様を見るたびに、世の儚さに感嘆した。このころから宮中ては夜毎に、黄白の蝴蝶が数万も現れ、牡丹に飛び集うのであった。きらきらと光り輝いていたが、夜が明けると飛び去ってしまった。女官たちは競ってうすぎぬのハンカチでこれを捕らえた。捕まえられない者はいなかった。穆宗は網を宮中に張らせて、数百匹を捕まえ、宮殿内に解き放って女たちに追いかけさせて、それを見て楽しんだ。夜が明けて見てみると、皆な黄金や玉璧でつくられていた。その様は巧みでこれに匹敵するものはないようであった。女たちは争って糸で蝶の脚を結び、首飾にしたけれども、夜になると化粧箱の中で発光するのであった。その夜 宝物庫を開いて、収蔵されている金の屑や玉の屑を見てみると、蝶となろうとしているものがあった。宮中はそこで事情を悟った。

【 注 】

  1. 章回小説とは、おおむね40回から120回からなる明・清時代の口語で書かれた小説。そのスタイルは講談・戯曲の姿を残していると言われる。『封神演義』は講談社文庫と光栄の単行本の二種の翻訳がある。新たに読まれる方には、光栄の『完訳 封神演義』をお薦めする。
  2. 『平妖伝』は正式には『北宋三遂平妖伝』といい、明の羅貫中〔ラ・カンチュウ〕が20回本を、明末の馮夢龍〔フウ・ボウリュウ〕がそれを膨らませて40回本を著した。これについても詳しい解説は差し控えるが、邦訳があるのでそれを読んでいただきたい。ちくま文庫版が手軽でよいが、これは後半が抄訳となっているので、平凡社・中国古典文学大系本の方が格段によい。
  3. 四大奇書は『西遊記』(1570ごろ)、『三国志』(1494ごろ)、『水滸伝』(1510ごろ)、『金瓶梅』(1600)の四作品を指す。いずれも平凡社・中国古典文学大系、或いは平凡社・奇書シリーズ(中身は中国古典文学大系と同じ)で読める。もちろん他にも翻訳はたくさんある。ちなみに『西遊記』は現在刊行中の岩波文庫版が底本となるテキスト、注の詳しさからいって最も良い。しかし、完結するには後10年位かかりそうである。『水滸伝』も清水茂氏による完訳が岩波書店より刊行されている。これはかつて岩波文庫で出ていた吉川幸次郎氏と清水茂氏の共訳のものに、清水氏が加筆・修正を施したもので、現在のところ、最も良いと言える。
  4. 『列子』は、「二十二子」本をテキストとし、手軽でありかつ信頼性の高い小林勝人氏の訳注(岩波文庫)を参考とした。『列子』は成立年代はよく分からないが、作者とされる列禦冦〔レツ・ギョコウ〕はBC400年頃の人らしい。しかし、魏晋の頃の偽作という説もある。兎も角、その書物そのものについては、とても一言では言えない問題があるので、岩波文庫の解説などを参照していただきたい。
  5. 六朝の小説は一般に「志怪」と呼ばれ、唐代の小説は「伝奇」と呼ばれる。但し、唐代においても志怪が消滅したわけではない。詳しくは中国小説史を論じた書を参照していただきたい。学研の『魯迅全集』所収の『中国小説史略』が最も古典的且つ基礎的なもの。
  6. 日本語で「類書」といえば「類似の書」という意味であるが、中国学における「類書」とは「類を以て事例をあつめた書」である。辞書・百科辞典といったイメージで考えていただければほぼ間違いない。その類書である『太平広記』は宋の太平興国2年(977)3月、勅命によって編集された。目的は「道蔵・釈蔵・野史・稗官」の類を収集することで李〔リ・ボウ〕ら13人の学者文人が編集に当たった。完成したのは翌年8月で、875種の古書から奇談の類約7000則を抜き出し、神仙・神・道術・夢など92項目に分類した全500巻の書物である。太平興国6年に出版の詔が下ったが、小説の類は学者には不必要であるとの異論が出て遂に出版されず、保管された版木もいつしか紛失した。テキストとしては、明の嘉靖〔カセイ〕45年(1566)に談〔ダン・ガイ〕が入手した写本をもとに出版、隆慶元年(1567)に修正を加えた談本。その談本に修正を加えている明の許自昌〔キョ・ジショウ〕による許刻本、清・乾隆年間の黄晟〔コウ・セイ〕の黄氏巾箱本〔コウシキンショウボン〕が三大版本である。また、重要なものに北京図書館所蔵の非公開書である、清の陳仲魚〔チン・チュウギョ〕が史上唯一発見された宋本と許刻本と校合して、その結果を許刻本に書き入れた陳氏手校本、呉県の沈氏の家より発見された談刻本とも系統が異なる明代の写本・野竹斎鈔本〔ヤチクサイショウホン〕(明鈔本)がある。1957年に、人民文学出版社が談刻本を底本として、これらの諸本によって校勘した活字本を出版、後に中華書局がその誤りをただして再版した。今回の底本にはこの中華書局本を用い、必要に応じて手元にある黄氏巾箱本(1969年新興書局影印本)と、蘇州聚文堂坊刻巾箱本〔ソシュウシュウブンドウボウコクキンソウボン〕(1806)を参照した。『太平広記』は、その出典となった書物の大半が散逸して伝わらないので、六朝隋唐五代の小説を研究する上で、非常に貴重な資料となっている。
  7. 〔 〕中に示したのは、『太平広記』が記している出典。『酉陽雑俎』は唐の段成式(803-863)の撰。六朝から唐に至るまでの様々な方面の話を集めた書で、小説と言うよりは、小規模な「類書」と言える。平凡社・東洋文庫に全五巻の翻訳がある。今でも注文すればすぐに手にはいる。ただし全巻揃えると1万円くらいはするのでお薦めはしない。また『酉陽雑俎』を見ると、この「魯般」の話は『朝野僉載〔チョウヤセンサイ〕』という初唐の書物(詳しくは後述)に有ると書かれているが、現行の『朝野僉載』にはこの話は見えない(二つの版本で確認した)。『酉陽雑俎』はかなり信頼性の高い書物であるから、これは恐らく『朝野僉載』の佚文と考えられる。なお、この話は訳本の四冊目177頁に見える。
  8. 『荀子』『孟子』ともは岩波文庫におさめられており、これらが最も手軽である。『墨子』については、集英社・全釈漢文大系本がよいが、絶版である。テキストにはいずれも二十二子本(中文出版社)を用いた。
  9. 『墨子』では「」に作っているが、『太平御覧〔タイヘイギョラン〕』(834)という類書では「鵲」に作っている。
  10. 『墨子』公輸篇に見える。
  11. 『朝野僉載』は唐の張文成〔チョウ・ブンセイ〕(658-730)の撰。当時の風聞を書き留めたような書物であり、専門外の方々には小説集というよりは随筆集や備忘録といったほうがわかりやすいかも知れない。なお、撰者の張文成は、日中を問わず『遊仙窟〔ユウセンクツ〕』の作者としての方が有名である。ちなみに、ASAHIネットの『ハードSF研究所』例会会場のsalonで紹介した「郭純」(『太平広記』巻238)も『朝野僉載』所収のものである。
  12. 将作大匠は官職名で、木工頭の唐名。
  13. 『紀聞〔キブン〕』は唐の牛粛の撰。『紀聞』は典型的な散逸書で、現存する本はすべて輯本である。また、牛粛は両『唐書』にもその伝は見えず、『元和姓纂〔ゲンナセイサン〕』や『紀聞』中の記載などにわずかに足跡を残すだけであり、詳しい経歴などは不明。
  14. 指南車は、からくりによるコンパスのようなもの。記里鼓は一定の距離を進むごとに太鼓をならす仕掛けのある車、相風鳥は風見鶏のようなもの。
  15. 「天子の行列に用いる装備」は原文では「鹵簿〔ロボ〕」である。鹵簿は本来は天子の行列のこと。ここでは、冒頭の「法駕」や「指南車」など、天子の行列に用いられる諸道具と解した。
  16. 本文中、「玄宗」とは書かれていないが、冒頭に「開元」と年号があるので、天子が玄宗皇帝であるとわかる。
  17. 異類婚姻譚とは、たとえば人間の男と雌の狐など、人間とそれ以外の存在(異類)との婚姻を描くものをいう。人間の男と異類の女、人間の女と異類の男という二つの組み合わせが考えられるが、概ね前者は悲恋に終わり、後者は異類の男が略奪者を演じる。日本の例でいえば、前者では羽衣説話を、後者では白猿の嫁取り説話を思い起こしていただければ、ほぼ間違いがない。もっとも、どちらも中国古小説を輸入したものである。
  18. 中唐の小説の作者たちの多くは、科挙に望む書生や、これから役人になろうかという進士たちであった。小説は彼らの文学集団を中心に、宴席において語られたのだが、当時の若い文人たちは多く妓女たちとの自由恋愛を楽しみ、また妓女たちも彼ら文人の宴席に同席することもあったようであり、そのようなことが小説創作に影響しているようである。文人と妓女の関係については、晩唐のものであるが『北里志』という妓館の記録に詳しい。訳としては齋藤茂氏の『北里志・教坊記〔ホクリシ・キョウボウキ〕』(平凡社・東洋文庫)がある。尚、この中唐という時代を代表する文人としては、元〔ゲン・ジン〕・白居易〔ハク・キョイ〕・劉禹錫〔リュウ・ウシャク〕・韓愈〔カン・ユ〕・柳宗元〔リュウ・ソウゲン〕がおり、何れも詩人として知られているが、実は小説も彼らの周囲、特に元白の文学集団を中心に作られている。
  19. 光啓〔コウケイ〕二年(886)の進士・蘇鶚〔ソ・ガイ〕の撰。広徳〔コウトク〕元年(763)から咸通〔カンツウ〕十四年(873)年までの珍聞奇聞を三巻にまとめたもの。成立はその自序によれば乾符三年(876)八月。「韓志和」は『唐代伝奇集2』(東洋文庫)に訳がある。