六華寮に春が来た
JR新潟駅の変貌
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我が葬送(案)
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拉致
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我が葬送(案)
最後の免許更新?
宇宙論の摘まみ食い
終戦の日(戦後78年)
18年後の広島
御巣鷹事故から38年
四季の新潟
あだな西堀・東堀
夏のバカンス
 


 六華寮に春が来た
 久しぶりに新潟大学時代の資料に出会った。菅村 洋治著「六華寮に春が来た」である、早速購入する。
彼は昭和17年(1942)生まれ、1才年下である。何故か長崎県生まれ。
昭和36年新潟大学医学部入学、
1961~1967年の6年間を新潟で過ごしている。
嬉しいのは”りっかりょう”を六花ではなく六華と表示している。
 
  新潟大学での4年間
同時期を彼と同じく過ごしている。ただ彼は医学部、英才である。小生は理学部化学科、言うなれば庶民である。共通するのは当時西大畑町に「理学部キャンバスがあり」「同地域に学生寮六華寮があった」ことである。
 
 
   
  この時代を共にした人は懐かしい。実は、当地にも理学部の後輩がいることを知ったのは数年前である。ただ、9才年下という。ということは大学キャンバス及び学生寮が「西大畑地区」から「五十嵐地区」に移ってしまった時代であり、時代感覚が違いすぎる気がする。
多分、(宇宙人)と話ているような!
 
   
  【空白の12年】
昭和39年(1964)、新潟大学を卒業、社会人となる。その年の
6月、新潟地震もあり気にはなっていたが余裕のない時代、帰省の度に新潟を中継したが、
ただ素通りするだけであった。


車を持ち、結婚もし、長女も生まれた昭和51年、実に12年ぶり
に帰省の途中、新潟を訪れた。そしてあの衝撃である。

「理学部校舎もない!」「六華寮もない!
 
 移転していた新六華寮
   只寮があるだけ
   昭和39年4月~昭和51年8月までの12年間が全くの空白期間になってしまった。  
  難産の末の五十嵐地区への移転  
  理学部校舎、六華寮については、認識不足であった。そもそも、あの古い「木造建造物」があってはならなかったのである。
新潟大学は、戦前からの新潟高校を引き継いだものであり、戦後(昭和24年)新たに「新制大学」として発足、私の世代は12回生になる。まだ各部は県内に分散していた。
最近わかったことであるが、
 ・1960年代にはキャンパスの整備・移転構想が動き出し。
 ・1965年に五十嵐地区への移転綜合計画が決定
 ・1969年、この構想が白紙撤回され
 ・1970年4月、「教養部」と「理学部」が移転
 ・その後12年かけ1982年、教育学部の移転で完了。
  
 
古き新潟を知る最後の世代!か
  ・「理学部キャンパス」「六華寮」がまだ西大畑地区にあり、
・昭和の建物が残っていた
・古町がまだ新潟の中心繁華街であり、歩いて行けた
・街がまだ学生に寛容だった