もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

師の指導を受けよ
- (A)師に随う
坐禅が悟り、縁起説を思索するだけのことならば、師に参ずる必要もなかろうが、道元は師への参禅を強調する。
- (B)師の説法を何度も聞く
師の説法を何度も聞く、という。その説法の内容とは「坐禅が悟り」ならば、「坐禅が悟り」という内容の説法だけのはず。しかし、道元禅師は、ほかのことも多く説法しているのではないか。
(A)師に随う
「正法眼蔵随聞記」
- 「学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随て転ずる也。先律儀の戒行を守らば、心も随て改るべき也。宋土には、俗人等の、常の習に、父母の孝養の為に、宗廟にして、各、集会して、泣まねをするほどに、終には実に泣なり。学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり。
初心の学道の人は、只、衆に随て、行道すべき也。修行の心故実等を、学し知らんと、思ふことなかれ。用心故実等も、只一人、山にも入り、市にも隠れて、行ぜん時、錯なく、よく知りたらば、よしと云ふ事也。衆に随て、行ぜば、道を得べきなり。譬えば舟に乗りて行には、故実を知らず、ゆく様を知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも、知ざるも、彼岸に到るが如し。善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也。」(1)
- 「学人最も百丈の規縄を守るべし。然るに其儀式、護戒坐禅也。昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す、と云事は、古人の行李にしたがふて、祗管打坐すべき也。坐禅の時、何の戒か持たれざる、何功徳は来らざる。古人の行じをける処の行履、皆、深心あり。私の意楽を存ぜずして、^只、衆に従て、古人の行履に任せて行じゆくべき也。」(2)
- 「我執を捨て、知識の教えに随ふ也。其大意は、貪欲無也。貪欲無からんと、思はば、先須く吾我を離るべき也。吾我を離るるには、観無常、是第一の用心也。
世人多、我は元より、人に、よしと言れ思はれんと思ふ也。其が即、よくも成得ぬ也。只、我執を次第に捨て、知識の言に随いゆけば、昇進する也。
禅僧のよく成る第一の用心、只管打坐すべき也。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」(3)
- 「一日、参学の次、示に云く、学道の人、自解を執することなかれ。縦ひ所会有りとも、もし、又、決定よからざる事もあらん、又、是よりも、よき義もや有んと思ふて、ひろく知識をも訪い、先人の言をも尋ぬべき也。又、先人の言なれども、堅く執すること無し。若、是もあしくもや有ん、信ずるつけても、思て、勝(すぐれ)たることあらば、次第につくべき也。」(4)
- 「世間の人にまじわらず、己が家ばかりにて、生長したる人は、心のままにふるまい、おのれが心を先きとして、人目を知ず、人の心をかねざる人、必ずあしき也。学道の用心も是の如し。衆にまじはり、師に随ひて、我見を立せず、心をあらため行けば、たやすく道者となる也。」(5)
- 「学道の用心というは、我心にたがへども、師の言ば、聖教のことばならば、暫く其れに随て、本の我見をすてて、改めゆく、此の心、学道の故実也。」(6)
- 「世間の治世は、先規有道を稽(たしなみ)求むれども、猶、先達知識の、たしかに相伝したるなければ、自し、たがふる事も有也。仏子は、たしかなる、先規教文顕然也。又、相承伝来の、知識現在せり。我に思量あり、四威儀の中にをいて、一々に先規を思ひ、先達にしたがひ、修行せんに、必、道を得べき也。俗は天意に合せんと思ひ、衲子は仏意に合せんと修す。業等して、得果勝れたり。一得永得、大安楽の為に、一世幻化の身を、苦しめて、仏意に随はんは、行者の心にあるべし。
然りといえども、又、すぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと、仏教には、すすむること無き也。戒行律儀に随ひ行けば、自然に身安く、行儀も尋常に、人目も安き也。只、今案の我見の安立をすてて、一向、仏制にしたがうべき也。」(7)
- 「信心銘にいわく、至道かたき事なし。ただ、揀択(けんじゃく)を嫌ふ。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すというは、我を離るる也。いわゆる、我が身仏道をならん為に、仏法を学することなかれ。只、仏法の為に、仏法を行じゆく也。たとひ千経万論を学し得、坐禅、とこをやぶるとも、此の心無くば、仏祖の道を学し得べからず。只、須く身心を放下して、仏法の中に他に随ふて、旧見なければ、即ち直下に承当する也。」(8)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、56頁。
- (2)同上、65頁。
- (3)同上、66頁。
- (4)同上、116頁。
- (5)同上、131頁。
- (6)同上、141頁。
- (7)同上、101頁。
- (8)同上、144頁。
- (9)同上、xx頁。
(B)師の説法を何度も聞く
「正法眼蔵随聞記」
- 「然らば、学人、道心なくとも、良人に近づき、善縁にあふて、同じ事をいくたびも、聞き見べき也。此言、一度聞き見れば、今は見聞かずともと思うことなかれ。道心一度発したる人も、同じ事なれども、聞くたびにみがかれて、いよいよ、よき也。況や、無道心の人も、一度二度こそ、つれなくとも、度々重さなれば、霧の中を行く人の、いつぬるるとをぼへざれども、自然に恥る心もおこり、真との道心も起る也。」(1)
- 「故に、知りたる上にも、聖教を又々見るべし、聞くべし。師の言も、聞たる上にも、聞きたる上にも、重々聞くべし、いよいよ深き心有る也。道の為にさはりと、なりぬべき事をば、かねて是に近づくべからず。善友には、くるしく、わびしくとも、近づきて行道すべき也。」(2)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、142頁。
- (2)同上、143頁。
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