もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

無所得・無所期
(A)無所得・無所期
「正法眼蔵随聞記」
- 「況や、衲僧は、是には超えたる心を持つべき也。衆生を思ふ事、親疎をはかたず、平等に済度の心を存じ、世出世間の利益、都(すべて)、自利を憶わず、人に知られず、主に悦ばれず、唯人の為に善き事を、心の中になして、我は是の如きの心、もたると、人に知られざる也。
此の故実は、先ず須らく世を捨て身を捨つべき也。我が身をだにも、真実に捨離しつれば、人によく思われんという心は無き也。然ども、又、人は何にも、思はば思へとて、悪き事を行じ、放逸ならんは、又、仏意に背く。唯、好き事を行じ、人のためにやすき事をなして、代を思に、我がよき名を留めんと思わずして、真実無所得にて、利生の事をなす。即、吾我を離るる、第一の用心也。
此の心を存ぜんと欲せば、先づ、須く無常を念うべし。一期は夢の如し、光陰移り易し。露の命は待がたふして、明るを知らぬならひなれば、唯、暫も存じたる程、聊(いささか)の事につけても、人の為によく、仏意に順はんと、思べき也。」(1)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、105頁。
- (2)同上、xx頁。
(B)「無所得・無所期」の語ではないが果、悟りを求めるな
「正法眼蔵随聞記」
- 「示に云く、学道の人は、吾我の為に、仏法を学する事なかれ。只、仏法の為に、仏法を学すべき也。その故実は、我身心を、一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべき也。其後は、一切の是非を管ずる事無く、我心を存する事なく、成し難きことなりとも、仏法につかわれて、強いて是をなし、我心になしたきことなりとも、仏法の道理に、なすべからざることならば、放下すべき也。あなかしこ、仏道修行の功をもて、代りに善果を、得んと思う事無れ。只、一たび仏道に、廻向しつる上は、二たび自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて、行じゆきて、私曲を存すること莫れ。先証、皆、是の如し。心にねがひて、もとむる事無ければ、即ち大安楽也。」(1)
- 「仏道は人の為めならず、身の為也といって、我身心にて仏になさんと、真実にいとなむ人も有り。是は、以前の人々よりは、真の道者かと覚ゆれども、是もなを、吾我を思うて、我が身よくなさんと思へる故に、なお吾我を離れず。又、諸仏菩薩に、随喜せられんと思ひ、仏果菩提を、成就せんと思へる故に、名利の心ろ、猶、捨てられざる也。
是までは、いまだ百尺の竿頭をはなれず、とりつきたる如し。只、身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までも、のぞむ事なく、修行しゆく、是を不染汚の行人という也。有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ、という、この心なるべし。」(2)
- 「信心銘にいわく、至道かたき事なし。ただ、揀択(けんじゃく)を嫌ふ。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すというは、我を離るる也。いわゆる、我が身仏道をならん為に、仏法を学することなかれ。只、仏法の為に、仏法を行じゆく也。たとひ千経万論を学し得、坐禅、とこをやぶるとも、此の心無くば、仏祖の道を学し得べからず。只、須く身心を放下して、仏法の中に他に随ふて、旧見なければ、即ち直下に承当する也。」(3)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、131頁。
- (2)同上、147頁。
- (3)同上、144頁。
- (4)同上、xx頁。
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