もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

無常を観ずる
(A)無常を観ずる
「正法眼蔵随聞記」
- 「我執を捨て、知識の教えに随ふ也。其大意は、貪欲無也。貪欲無からんと、思はば、先須く吾我を離るべき也。吾我を離るるには、観無常、是第一の用心也。
世人多、我は元より、人に、よしと言れ思はれんと思ふ也。其が即、よくも成得ぬ也。只、我執を次第に捨て、知識の言に随いゆけば、昇進する也。
禅僧のよく成る第一の用心、只管打坐すべき也。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」(1)
- 「学人、第一の用心は、先、我見を離るべし。我見を離るとは、此の身を執すべからず。たとひ、古人の語話を窮め、常坐鉄石の如くなりといえども、此の身に著して、離れずば、万劫千生、仏祖の道を得べからず。いかにいわんや、権実の教法・顕密の聖教を悟得すといへども、此の身を執するの心を離れずば、いたずらに他の宝を数えて、自ら半銭の分なし。只請うらくは、学人静坐して、道理を以って、此の身の始終を尋ぬべし。身体髪膚は、父母の二滴、一息にとどまりぬれば、山野に離散して、終に泥土となる。何を以っての故にか、身を執せんや。いわんや、法を以って之を見れば、十八界の聚散、いずれの法をか定めて我が身とせん。教内教外なりといえども、我が身の始終不可得なる事、之を以って、行道の用心とする事、これ同じ。先ず、この道理を達する、実の仏道顕然なるもの也。」(2)
- 「然れば」これ程に、あだなる世に、極めて不定なる死期をいつまで、いきたるべしとて、種々の活計を案じ、あまつさえ他人の為に、悪をたくみ思ふて、いたずらに時光を過す事、極めて愚かなる事也。」(3)
- 「況や、衲僧は、是には超えたる心を持つべき也。衆生を思ふ事、親疎をはかたず、平等に済度の心を存じ、世出世間の利益、都(すべて)、自利を憶わず、人に知られず、主に悦ばれず、唯人の為に善き事を、心の中になして、我は是の如きの心、もたると、人に知られざる也。
此の故実は、先ず須らく世を捨て身を捨つべき也。我が身をだにも、真実に捨離しつれば、人によく思われんという心は無き也。然ども、又、人は何にも、思はば思へとて、悪き事を行じ、放逸ならんは、又、仏意に背く。唯、好き事を行じ、人のためにやすき事をなして、代を思に、我がよき名を留めんと思わずして、真実無所得にて、利生の事をなす。即、吾我を離るる、第一の用心也。
此の心を存ぜんと欲せば、先づ、須く無常を念うべし。一期は夢の如し、光陰移り易し。露の命は待がたふして、明るを知らぬならひなれば、唯、暫も存じたる程、聊(いささか)の事につけても、人の為によく、仏意に順はんと、思べき也。」(4)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、66頁。
- (2)同上、117頁。
- (3)同上、96頁。
- (4)同上、105頁。
- (5)同上、xx頁。
- (6)同上、xxx頁。
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