もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

定慧一等=随聞記
修行は、わけもわからず、やるものではない。わかっていなければならない方向・目標がある。
(a)証上の修
「正法眼蔵随聞記」
- 「信心銘にいわく、至道かたき事なし。ただ、揀択(けんじゃく)を嫌ふ。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すというは、我を離るる也。いわゆる、我が身仏道をならん為に、仏法を学することなかれ。只、仏法の為に、仏法を行じゆく也。たとひ千経万論を学し得、坐禅、とこをやぶるとも、此の心無くば、仏祖の道を学し得べからず。只、須く身心を放下して、仏法の中に他に随ふて、旧見なければ、即ち直下に承当する也。」(1)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、144頁。
(b)定慧一等・教行一致
「正法眼蔵随聞記」
- 「古人云、言天下に満ち口過無く、行天下に満ち、怨悪を亡ず。是則言ふべき処を言、行べき処行ふ故也。至徳要道の言行也。世間の言行は私然を以計らい思ふ。恐らくは過のみあらん事を。衲子の言行、先証是定れり。私曲を存ずべからず。仏祖行来れる道也。」(1)
- 「学道の人、各自己身を顧みるべし。身を顧みると云は、身心何か様に持つべきぞと顧みるべし。然るに衲子は則ち是釈子也。如来の風儀を慣べき也。身口意の威儀、皆な千仏行じ来れる作法あり。各其儀に随べし。俗猶、服、法に応じ、言、道に随べし、と云へり。一切私を用いるべからず。」(2)
- 「もし己見を存せば、師の言ば耳に入らざる也。師の言ば耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。又只法門の異見を忘るるのみに非ず、又世事を返して、飢寒等を忘て、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてある也。是の如く聞く時、道理も不審も明めらるる也。真実の得道と云も、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてある也。是れ第一の故実也。」(3)
- 「内には我執を破て、名聞を捨つる、第一の用心也。(中略)
是の如きの事、人に対面もし、出来る事に任せて、能々思量すべき也。所詮は、事に触て、名聞我執を捨つべき也。」(4)
- 「世間の治世は、先規有道を稽(たしなみ)求むれども、猶、先達知識の、たしかに相伝したるなければ、自し、たがふる事も有也。仏子は、たしかなる、先規教文顕然也。又、相承伝来の、知識現在せり。我に思量あり、四威儀の中にをいて、一々に先規を思ひ、先達にしたがひ、修行せんに、必、道を得べき也。俗は天意に合せんと思ひ、衲子は仏意に合せんと修す。業等して、得果勝れたり。一得永得、大安楽の為に、一世幻化の身を、苦しめて、仏意に随はんは、行者の心にあるべし。
然りといえども、又、すぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと、仏教には、すすむること無き也。戒行律儀に随ひ行けば、自然に身安く、行儀も尋常に、人目も安き也。只、今案の我見の安立をすてて、一向、仏制にしたがうべき也。」(5)
- 「喩へば、皆、人に謗ぜられ悪(にくまる)とも、仏祖の道に、したがふて、依行せば、其の冥、実に我をば、たすけんずれば、人のそしればとて、道を行ぜざるべからず。又、かくの如く、謗讃する人、必しも仏道に通達し、証得せるに非ず。何としてか仏祖の道を、善悪をもて、判ずべき。然も世人の情には順うべからず。只、仏道に依行すべき道理あらば、一向に依行すべき也。」(6)
- 「況や衲子の仏道を行ずる、必ず二た心なき時、真とに仏道にかなふべし。仏道には慈悲智恵、もとよりそなわれる人もあり。たとひ無けれども、学すればうる也。只だ身心を倶に放下して、三宝の海に廻向して、仏法の教えに任せて、私曲を存する事なかれ。
漢の高祖の時、或堅臣の云く、政道の理乱は、縄の結おれるを解が如し。急にすべからず。能々結び目をもて解べし。仏道も是の如し。能々道理を心得て、行ずべき也。法門をよく心得る人は、必ず道心ある人の、よく心得る也。いかに利智聡明なる人も、無道心にして、吾我をも離れず、名利をも捨てざる人わ、道者ともならず、正理をも心得ぬ也。」(7)
- 「示に云く、学道の人は、吾我の為に、仏法を学する事なかれ。只、仏法の為に、仏法を学すべき也。その故実は、我身心を、一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべき也。其後は、一切の是非を管ずる事無く、我心を存する事なく、成し難きことなりとも、仏法につかわれて、強いて是をなし、我心になしたきことなりとも、仏法の道理に、なすべからざることならば、放下すべき也。あなかしこ、仏道修行の功をもて、代りに善果を、得んと思う事無れ。只、一たび仏道に、廻向しつる上は、二たび自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて、行じゆきて、私曲を存すること莫れ。先証、皆、是の如し。心にねがひて、もとむる事無ければ、即ち大安楽也。」(8)
- 「吾我を離るべし。たとひ千経万論を学し得たりとも、我執をはなれずば、ついに魔坑にをつ。古人いわく、仏法の身心なくば、いずくんぞ、仏となり祖とならん。我を離るというは、我が為に仏法を学すること無き也。只、道の為に学すべし。身心を仏法に放下しつれば、くるしく愁うれども、仏法にしたがって、行じゆく也。乞食をせば、人、是をわるしと、思はんずるなんど、是の如く思ふ程に、いかにも仏法に入り得ざる也。世情の見をすべて忘れて、只、道理に任せて学道すべき也。我身の器量をかへりみ、仏法にもかなうまじき、なんど思ふも、我執をもてる故也。人目をはばかる、即、我執の本也。只すべからく、仏法を学すべし。世情に随ふこと無かれ。」(9)
- 「学道の用心というは、我心にたがへども、師の言ば、聖教のことばならば、暫く其れに随て、本の我見をすてて、改めゆく、此の心、学道の故実也。」(10)
- 「学人、第一の用心は、先、我見を離るべし。我見を離るとは、此の身を執すべからず。たとひ、古人の語話を窮め、常坐鉄石の如くなりといえども、此の身に著して、離れずば、万劫千生、仏祖の道を得べからず。いかにいわんや、権実の教法・顕密の聖教を悟得すといへども、此の身を執するの心を離れずば、いたずらに他の宝を数えて、自ら半銭の分なし。只請うらくは、学人静坐して、道理を以って、此の身の始終を尋ぬべし。身体髪膚は、父母の二滴、一息にとどまりぬれば、山野に離散して、終に泥土となる。何を以っての故にか、身を執せんや。いわんや、法を以って之を見れば、十八界の聚散、いずれの法をか定めて我が身とせん。教内教外なりといえども、我が身の始終不可得なる事、之を以って、行道の用心とする事、これ同じ。先ず、この道理を達する、実の仏道顕然なるもの也。」(11)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、60頁。
- (2)同上、61頁。
- (3)同上、63頁。
- (4)同上、81頁。
- (5)同上、101頁。
- (6)同上、113頁。
- (7)同上、130頁。
- (8)同上、131頁。
- (9)同上、137頁。
- (10)同上、141頁。
- (11)同上、117頁。
(d)しかし学し知るのみと思うな
- 「学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随て転ずる也。先律儀の戒行を守らば、心も随て改るべき也。宋土には、俗人等の、常の習に、父母の孝養の為に、宗廟にして、各、集会して、泣まねをするほどに、終には実に泣なり。学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり。
初心の学道の人は、只、衆に随て、行道すべき也。修行の心故実等を、学し知らんと、思ふことなかれ。用心故実等も、只一人、山にも入り、市にも隠れて、行ぜん時、錯なく、よく知りたらば、よしと云ふ事也。衆に随て、行ぜば、道を得べきなり。譬えば舟に乗りて行には、故実を知らず、ゆく様を知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも、知ざるも、彼岸に到るが如し。善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也。」(1)
(参照)知解ではない
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、56頁。
このページのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」