もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

久しく
(A)久しく
「普勧坐禅儀」
- 「凡そ夫れ、自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐を務めて、兀地に礙えらる。万別千差というといえども、祗管に参禅弁道すべし。なんぞ自家の坐牀を抛却して、みだりに他国の塵境に去来せん。もし一歩を錯れば、当面に蹉過す。既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ることなかれ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽しまん。しかのみならず、形質は草露のごとく、運命は電光に似たり。しゅく忽として便ち空じ、須臾に即ち失す。こいねがわくは、其れ参学の高流、久しく摸象に習って、真龍を怪むことなかれ。直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁麼なることを為さば、須くこれ恁麼なるべし。宝蔵自ら開けて、受用如意ならん。」(1)
(注)
- (1)「普勧坐禅儀」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、6頁。
- (2)同上、x頁。
「正法眼蔵随聞記」
- 「況や衲子の仏道を行ずる、必ず二た心なき時、真とに仏道にかなふべし。仏道には慈悲智恵、もとよりそなわれる人もあり。たとひ無けれども、学すればうる也。只だ身心を倶に放下して、三宝の海に廻向して、仏法の教えに任せて、私曲を存する事なかれ。
漢の高祖の時、或堅臣の云く、政道の理乱は、縄の結おれるを解が如し。急にすべからず。能々結び目をもて解べし。仏道も是の如し。能々道理を心得て、行ずべき也。法門をよく心得る人は、必ず道心ある人の、よく心得る也。いかに利智聡明なる人も、無道心にして、吾我をも離れず、名利をも捨てざる人わ、道者ともならず、正理をも心得ぬ也。」(1)
- 「我執を捨て、知識の教えに随ふ也。其大意は、貪欲無也。貪欲無からんと、思はば、先須く吾我を離るべき也。吾我を離るるには、観無常、是第一の用心也。
世人多、我は元より、人に、よしと言れ思はれんと思ふ也。其が即、よくも成得ぬ也。只、我執を次第に捨て、知識の言に随いゆけば、昇進する也。
禅僧のよく成る第一の用心、只管打坐すべき也。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」(2)
- 「夜話に云く、祖席に禅話を覚得る故実は、我本知り思ふ心を、次第に知識の言に随て改めて去(ゆ)く也。仮令、仏と云は、我本知たる様は、相好光明具足し、説法利生の徳有し、釋迦弥陀等を仏と知たりとも、知識、若、仏と云は、蝦蟇蚯蚓(がまみみず)ぞ、と云はば、蝦蟇蚯蚓を、是を仏と信じて、日比の智恵を捨也。此蚯蚓上に、仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求るも、猶、情見改たまらざる也。只、当時の見ゆる処を、仏と知る也。若、是の如く、言に従がって、情見本執を改めもて去けば、自(おのずから)、合ふ処あるべき也。然るに、近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とは、とこぞ有べけれ、又、我存ずる様にたがへば、さは有まじ、なんどと言て、自が情量に似る事や有ると迷いありく呈に、をほかた仏道の昇進無き也。
亦、身を惜て、百尺の竿頭に上て、手足を放て、一歩進め、と言時は、命有てこそ、仏道も学せめ、と云て、真実に知識に随順せざる也。能々思量すべし。」(3)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、131頁。
- (2)同上、66頁。
- (3)同上、73頁。
このページのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」