もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
道元の坐禅法=(G)坐のみでない
(a)坐のみでない
「正法眼蔵随聞記」
- 「学道の人、各自己身を顧みるべし。身を顧みると云は、身心何か様に持つべきぞと顧みるべし。然るに衲子は則ち是釈子也。如来の風儀を慣べき也。身口意の威儀、皆な千仏行じ来れる作法あり。各其儀に随べし。俗猶、服、法に応じ、言、道に随べし、と云へり。一切私を用いるべからず。」(1)
- 「行者、まず。心を調伏しつれば、身をも世をも捨つる事は易き也。言語に付き、行儀に付きて、人目を思う。此事は悪事なれば、人、悪く思うべしとて、なさず、我、此事をせんこそ、仏法者と人は見め、とて、事に触れ、能事をせんとするも、猶、世情也。然ればとて、又、恣(ほしいまま)に、我意に任せて、悪事をするは、一向の悪人也。所詮は、悪心を忘れ、我身を忘れ、只、一向に、仏法の為に、すべき也。」(2)
- 「世間の治世は、先規有道を稽(たしなみ)求むれども、猶、先達知識の、たしかに相伝したるなければ、自し、たがふる事も有也。仏子は、たしかなる、先規教文顕然也。又、相承伝来の、知識現在せり。我に思量あり、四威儀の中にをいて、一々に先規を思ひ、先達にしたがひ、修行せんに、必、道を得べき也。俗は天意に合せんと思ひ、衲子は仏意に合せんと修す。業等して、得果勝れたり。一得永得、大安楽の為に、一世幻化の身を、苦しめて、仏意に随はんは、行者の心にあるべし。
然りといえども、又、すぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと、仏教には、すすむること無き也。戒行律儀に随ひ行けば、自然に身安く、行儀も尋常に、人目も安き也。只、今案の我見の安立をすてて、一向、仏制にしたがうべき也。」(3)
- 「只、なにとなく世間の人の様にて、内心を調へもてゆく、是、実の道心者也。然れば、古人いわく、内、空しくして、外したがふ、といひて、中心は我身なくして、外相は他にしたがひもてゆく也。我身、我が心という事を、一向にわすれて、仏法に入て、仏法のおきてに任せて、行じもてゆけば、内外ともによく、今も後もよき也。」(4)
- 「示に云く、学道の人、身心を放下して、一向に仏法に入るべし。古人云く、百尺竿頭上、猶一歩を進む。何にも、百尺の竿頭の上て、足を放たば、死ぬべしと思て、つよくとりつく心の有也。其を思切りて、一歩を進と云は、よもあしからじと、思ひきりて、放下する様に、度世の業より始て、一身の活計に至るまで、何にも捨得ぬなり、其を捨ざらん程は、何に頭燃をはらひて、学道する様なりとも、道を得こと叶わざる也。思いきり身心倶に放下すべし。」(5)
- 「学人、第一の用心は、先、我見を離るべし。我見を離るとは、此の身を執すべからず。たとひ、古人の語話を窮め、常坐鉄石の如くなりといえども、此の身に著して、離れずば、万劫千生、仏祖の道を得べからず。いかにいわんや、権実の教法・顕密の聖教を悟得すといへども、此の身を執するの心を離れずば、いたずらに他の宝を数えて、自ら半銭の分なし。只請うらくは、学人静坐して、道理を以って、此の身の始終を尋ぬべし。身体髪膚は、父母の二滴、一息にとどまりぬれば、山野に離散して、終に泥土となる。何を以っての故にか、身を執せんや。いわんや、法を以って之を見れば、十八界の聚散、いずれの法をか定めて我が身とせん。教内教外なりといえども、我が身の始終不可得なる事、之を以って、行道の用心とする事、これ同じ。先ず、この道理を達する、実の仏道顕然なるもの也。」(6)
- 「信心銘にいわく、至道かたき事なし。ただ、揀択(けんじゃく)を嫌ふ。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すというは、我を離るる也。いわゆる、我が身仏道をならん為に、仏法を学することなかれ。只、仏法の為に、仏法を行じゆく也。たとひ千経万論を学し得、坐禅、とこをやぶるとも、此の心無くば、仏祖の道を学し得べからず。只、須く身心を放下して、仏法の中に他に随ふて、旧見なければ、即ち直下に承当する也。」(7)
- 「いわゆる出家というは、先づ吾我名利を、はなるべき也。是をはなれずしては、行道、頭燃をはらい、精進、手足をきれども、只、無理勤苦のみにて、出離にあらざるも有り。」(8)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、61頁。
- (2)同上、84頁。
- (3)同上、101頁。
- (4)同上、91頁。
- (5)同上、104頁。
- (6)同上、117頁。
- (7)同上、144頁。
- (8)同上、145頁。
(c)聞法の時
「正法眼蔵随聞記」
- 「もし己見を存せば、師の言ば耳に入らざる也。師の言ば耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。又只法門の異見を忘るるのみに非ず、又世事を返して、飢寒等を忘て、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてある也。是の如く聞く時、道理も不審も明めらるる也。真実の得道と云も、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてある也。是れ第一の故実也。」(1)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、63頁。
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