もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

正師に参ずべし
(A)師に参ずべし
「正法眼蔵随聞記」
- 「学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随て転ずる也。先律儀の戒行を守らば、心も随て改るべき也。宋土には、俗人等の、常の習に、父母の孝養の為に、宗廟にして、各、集会して、泣まねをするほどに、終には実に泣なり。学道の人も、はじめ道心なくとも、只強て道を好み学せば、終には真の道心も、をこるべきなり。
初心の学道の人は、只、衆に随て、行道すべき也。修行の心故実等を、学し知らんと、思ふことなかれ。用心故実等も、只一人、山にも入り、市にも隠れて、行ぜん時、錯なく、よく知りたらば、よしと云ふ事也。衆に随て、行ぜば、道を得べきなり。譬えば舟に乗りて行には、故実を知らず、ゆく様を知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも、知ざるも、彼岸に到るが如し。善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也。」(1)
- 「我執を捨て、知識の教えに随ふ也。其大意は、貪欲無也。貪欲無からんと、思はば、先須く吾我を離るべき也。吾我を離るるには、観無常、是第一の用心也。
世人多、我は元より、人に、よしと言れ思はれんと思ふ也。其が即、よくも成得ぬ也。只、我執を次第に捨て、知識の言に随いゆけば、昇進する也。
禅僧のよく成る第一の用心、只管打坐すべき也。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」(2)
- 「世間の治世は、先規有道を稽(たしなみ)求むれども、猶、先達知識の、たしかに相伝したるなければ、自し、たがふる事も有也。仏子は、たしかなる、先規教文顕然也。又、相承伝来の、知識現在せり。我に思量あり、四威儀の中にをいて、一々に先規を思ひ、先達にしたがひ、修行せんに、必、道を得べき也。俗は天意に合せんと思ひ、衲子は仏意に合せんと修す。業等して、得果勝れたり。一得永得、大安楽の為に、一世幻化の身を、苦しめて、仏意に随はんは、行者の心にあるべし。
然りといえども、又、すぞろに身を苦しめ、作すべからざる事を作せと、仏教には、すすむること無き也。戒行律儀に随ひ行けば、自然に身安く、行儀も尋常に、人目も安き也。只、今案の我見の安立をすてて、一向、仏制にしたがうべき也。」(3)
- 「もし己見を存せば、師の言ば耳に入らざる也。師の言ば耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。又只法門の異見を忘るるのみに非ず、又世事を返して、飢寒等を忘て、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてある也。是の如く聞く時、道理も不審も明めらるる也。真実の得道と云も、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてある也。是れ第一の故実也。」(4)
- 「一日、参学の次、示に云く、学道の人、自解を執することなかれ。縦ひ所会有りとも、もし、又、決定よからざる事もあらん、又、是よりも、よき義もや有んと思ふて、ひろく知識をも訪い、先人の言をも尋ぬべき也。又、先人の言なれども、堅く執すること無し。若、是もあしくもや有ん、信ずるつけても、思て、勝(すぐれ)たることあらば、次第につくべき也。」(5)
- 「信ずまじき事を、かたく執して、尋ぬべき義をも、とぶらわざるは、あしき也。」(6)
- 「夜話に云く、祖席に禅話を覚得る故実は、我本知り思ふ心を、次第に知識の言に随て改めて去(ゆ)く也。仮令、仏と云は、我本知たる様は、相好光明具足し、説法利生の徳有し、釋迦弥陀等を仏と知たりとも、知識、若、仏と云は、蝦蟇蚯蚓(がまみみず)ぞ、と云はば、蝦蟇蚯蚓を、是を仏と信じて、日比の智恵を捨也。此蚯蚓上に、仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求るも、猶、情見改たまらざる也。只、当時の見ゆる処を、仏と知る也。若、是の如く、言に従がって、情見本執を改めもて去けば、自(おのずから)、合ふ処あるべき也。然るに、近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とは、とこぞ有べけれ、又、我存ずる様にたがへば、さは有まじ、なんどと言て、自が情量に似る事や有ると迷いありく呈に、をほかた仏道の昇進無き也。
亦、身を惜て、百尺の竿頭に上て、手足を放て、一歩進め、と言時は、命有てこそ、仏道も学せめ、と云て、真実に知識に随順せざる也。能々思量すべし。」(7)
(注)
- (1)「正法眼蔵随聞記」、「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、56頁。
- (2)同上、66頁。
- (3)同上、101頁。
- (4)同上、63頁。D-10
- (5)同上、116頁。
- (6)同上、117頁。
- (7)同上、73頁。
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