もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
道元の坐禅法=(A)言語による思考をやめる
=「普勧坐禅儀」および「学道用心集」
言語による分別、思考をやめという。道元がそういう言葉を抽出した。
(A)言語による思考をやめる
「普勧坐禅儀」
- 「ゆえに須らく言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。須らく回向返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。」(1)
- 「それ参禅は静室よろしく、飲食節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥にかかわらんや。」(2)
- 「兀々として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。」(3)
- 「嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、この力に一任することを。いわんや、また、指竿針鎚を捻ずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だこれ、思量分別の能く解するところにあらず。あに、神通修証の能く知るところとせんや。声色の外の威儀たるべし。なんぞ知見の前の軌則にあらざるものならんや。然れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者をえらぶことなかれ。専一に功夫せば、正にこれ弁道なり。」(4)
- 「祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁麼なることを為さば、須くこれ恁麼なるべし。」(5)
- 「いわゆる坐禅は習禅には非ず、ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。
公案現成羅籠未だ到らず、若し此の意を得ば、龍の水を得るが如く、虎の山によるに似たり。まさに知るべし、正法自ら現前し、昏散先ず撲落することを。」(6)
天福本「普勧坐禅儀」
さらに、天福本「普勧坐禅儀」も参考になる。書き換える前は、道元は、如浄のもとでの修行をこういう言葉で受け止め、初期は、この言葉で実践に導いたのである。
- 「念起こらば即ち覚せ。之を覚せば即ち失す。久久に縁を忘れ、自ら一片に成る。此、坐禅の要術なり。」(7)
- 「当に知るべし、正念現前し、昏散曷到することを。」(8)
- 「一切時において、定力を護持すべし。」(9)
- 「六根を放下し、全道を見転す。一念生ぜざれば、十方を坐断す」(10)
(注)
- (1)「普勧坐禅儀」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、4頁。
- (2)同上、4頁。
- (3)同上、6頁。
- (4)同上、6頁。
- (5)同上、8頁。
- (6)同上、6頁。
- (7)同上、11頁。
- (8)同上、11頁。
- (9)同上、11頁。
- (10)同上、12頁。
「学道用心集」
- 「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(1)
- 「心操を調うる事もっとも難し。長斎梵行もまた難からざらんや。身行を調うるの事もっとも難し。もし粉骨貴ぶべくんばこれを忍ぶ者昔従り多しといえども、得法の者これ少なし。斎行の貴ぶべくんば古従り多しといえども、悟道の者これ少なし。これ乃ち心を調うること甚だ難きが故なり。聡明を先とせず、学解を先とせず、心意識を先とせず、念想観を先とせず、向来すべてこれを用いずして身心を調えもって仏道に入るなり。釋迦老子いわく、観音流れを入して所知を亡ずと。即ちこの意なり。動静の二相了然として生ぜず、即ちこれ調なり。もし聡明博解をもって、仏道に入るべくんば神秀上座その人なり。もし庸体卑賤をもって仏道を嫌うべくんば曹渓高祖あに敢えてせんや。仏道を伝え得るの法は、聡明博解の外に在る事ここにおいて明らけし。探りて尋ぬべく、顧みて参ずべし。」(2)
- 「心においても身においても住することなく着することなく、留まらず滞らず。趙州に僧問う、狗子に還って仏性ありや也なしや、趙州云く、無と。無の字の上において擬量し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。請う試みに手を撒せよ、且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り看去れば、自然に動静の二相了然として生ぜず。この不生の時、これ頑然なるにあらず、人のこれを証することなく、これに迷うものはこれ多し。参学の人、且く半途にして始めより得たり、全途辞することなかれ。」(3)
- 「その風規たる、意根を坐断し知解の路に向かわざらしむ。これ乃ち初心を誘引するの方便なり。その後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。」
(初心の人には、特別の指導がある。次に放下させる。)
「おおよそ、自己仏道に在るを信ずるの人、最も得難し。若し正しく道に在るを信ぜば、自然に大道の通塞を了し、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐断せよ。十の八九は忽然として見道することを得ん。」(4)
- 「法を明らめ道を得るは、参師の力たるべし。ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(5)
- 「いわゆる操行と道と合せんには、如何が行履せん。心に取捨せず心に名利なきなり。仏法修行はこれ人のために修せず。今世の人の如きは、仏法修行の人、その心と道と遠くして遠し。もし人賞翫すれば、縦い非道なりと知るとも乃ちこれを修行す。もし恭敬讃嘆せざれば、これ正道なりと知るといえどもすてて修せず。痛ましき哉、汝等試みに静心にして観察せよ。この心行、仏法とせんや、仏法にあらずとせんや。恥ずべし恥ずべし、聖眼の照らす所なり。」(6)
- 「仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。」(8)
- 「已に声色の繋縛を離れば、自ずから道心の理致に合わんか。」(9)(声色は色聲香味觸法)
- 「人の師たる者、人をして本を捨て末を逐わしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専らにし、みだりに他人をして邪境に堕ちることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だこの邪惑を知らざれば、弟子何すれぞ是非を覚了せんや。悲しむべし、辺鄙の小邦仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず。もし無上の仏道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥かに心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学ばざるにしかず。それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応するこれ乃ち正師なり。」(10)
- 「道に礙えられんことを求む、道に礙えらるる者は悟跡を亡ず。(11)
- 「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。」(12)
- 「この身心をもって直に仏を証する、これ承当なり。いわゆる従来の身心を廻転せず、ただ他の証に随って去るを直下と名づけ、承当と名づくるなり。ただ他に随い去る、所以に旧見にあらず。ただ承当し去る、所以に新巣にあらざるなり」(13)
- 「仏法の威は加と不加とに見われ、参と不参とに分る。あるいは教家の久習、あるいは世典の旧才も、みな禅門を訪うべし、その例これ多し。南嶽の慧思は多才の人なり、なお達磨に参ず。永嘉玄覚は秀逸の士なり、已に大鑑に参ず。法を明らめ道を得るは、参師の力たるべし。」(14)
- 「初め門に入る時、知識の教えを聞いて教えの如く修行す。この時知るべき事あり。いわゆる法我を転ずると、我法を転ずるとなり。我能く法を転ずる時、我は強く法は弱し。法還って我を転ずる時、法は強く我は弱し。仏法従来この両節あり、正嫡にあらざれば未だ嘗てこれを知らず、衲僧にあらざれば名すらなお聞くこと罕(まれ)なり。もしこの故実を知らずんば、学道未だ弁ぜず、正邪なんぞ分別せん。今参禅学道の人は、自らこの故実を伝授す、所以に誤らざるなり。余門にはなし。仏道を欣求する人、参禅にあらざれば真道を了知すべからず。」(15)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、17頁。
- (2)同上、26頁。
- (3)同上、32頁。
- (4)同上、36頁。
- (5)同上、28頁。@(けん)点の「けん」は、「検」の字のつくりで手偏。
- (6)同上、20頁。
- (8)同上、36頁。
- (9)同上、15頁。
- (10)同上、24頁。
- (11)同上、34頁。
- (12)同上、36頁。
- (13)同上、36頁。
- (14)同上、28頁。
- (15)同上、32頁。
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