もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
「信」にとどまってはいけない=「学道用心集」
「信」にとどまってはいけない
「学道用心集」
- (行じて迷いから離れる必要がある)
「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(1)
- (しばらく修行してから、始めより本来仏とわかる。どの時点でわかるか、悟りの時か。「礼拝得髄」巻に、妙信尼から、半分得た、とある。行じない限りわからない。信だけ、面授だけでは、まだわからない。)
「心においても身においても住することなく着することなく、留まらず滞らず。趙州に僧問う、狗子に還って仏性ありや也なしや、趙州云く、無と。無の字の上において擬量し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。請う試みに手を撒せよ、且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り看去れば、自然に動静の二相了然として生ぜず。この不生の時、これ頑然なるにあらず、人のこれを証することなく、これに迷うものはこれ多し。参学の人、且く半途にして始めより得たり、全途辞することなかれ。」(2)
- (信の後、・明・行が必要。明は悟りか。)
「仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。」(3)
- (信ではなく、坐禅が必要である。坐禅するだけではなく、心識を遊化することが必要とされている。また、坐禅が行証を左右するとされている。)
「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。」(4)
- (信ずるならば、坐断して見道せよ)
「おおよそ、自己仏道に在るを信ずるの人、最も得難し。若し正しく道に在るを信ぜば、自然に大道の通塞を了し、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐断せよ。十の八九は忽然として見道することを得ん。」(5)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、17頁。
- (2)同上、32頁。
- (3)同上、36頁。
- (4)同上、36頁。
- (5)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、36頁。
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