もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
師の指導を受けよ
- (A)師に随う
学解でもない、目的もなく坐禅するのでもない。そのように微妙なものであるから、会得した師への参禅が必須である。
(A)師に随う
「学道用心集」
- 「右、仏法修行は、必ず先達の真訣を稟けて、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心をもっても得べからず、無心をもっても得べからず。ただ操行の心と道と符合せざれば、身心未だ安寧ならざれば、身心安楽ならず。身心安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。」(1)
- 「参禅学道は正師を求むべきこと
右、古人云く、発心正しからざれば万行空しく施すと。誠なる哉この言。行道は導師の正と邪とに依るべきか。機は良材の如く、師は工匠に似たり。縦い良材たりといえども、良工を得ざれば奇麗未だ彰われず。縦い曲木といえども、もし好手に遇わば妙功忽ち現わる。師の正邪に随って悟の偽と真とあること、これをもってさとるべし。ただ我が国昔より正師未だ在らず、何をもってかこれが然るを知るや。言を見て察するなり、流れを酌んで源をたずぬるが如し。我が朝古来の諸師の篇集せる書籍、弟子におしえ人天に施す、その言これ青く、その語未だ熟せず、未だ学地の頂に到らず、何ぞ証階の辺に及ばん。ただ文言を伝え、名字を誦せしむ。日夜他の宝を数えて自ら半銭の分なし。古の責ここに在り。あるいは人をして心外の正覚を求めしめ、あるいは人をして他土の往生を願わしむ。惑乱ここに起り、邪念これをもととす。縦い良薬を与うといえども、銷方を教えざれば病となること、毒を服するよりも甚だし。我が朝古より良薬を与うるの人なきが如く、毒薬を銷するの師未だ在らず。ここをもって生病除き難く、老死何ぞ免れん。みなこれ師の咎(とが)なり、全く機の咎にあらざるなり。所以いかんとなれば、人の師たる者、人をして本を捨て末を逐わしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専らにし、みだりに他人をして邪境に堕ちることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だこの邪惑を知らざれば、弟子何すれぞ是非を覚了せんや。悲しむべし、辺鄙の小邦仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず。もし無上の仏道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥かに心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学ばざるにしかず。それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応するこれ乃ち正師なり。」(2)
- 「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。それ人みな身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。この身心をもって直に仏を証する、これ承当なり。いわゆる従来の身心を廻転せず、ただ他の証に随って去るを直下と名づけ、承当と名づくるなり。ただ他に随い去る、所以に旧見にあらず。ただ承当し去る、所以に新巣にあらざるなり。」(3)
- 「法を明らめ道を得るは、参師の力たるべし。ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(4)
- 「初め門に入る時、知識の教えを聞いて教えの如く修行す。この時知るべき事あり。いわゆる法我を転ずると、我法を転ずるとなり。我能く法を転ずる時、我は強く法は弱し。法還って我を転ずる時、法は強く我は弱し。仏法従来この両節あり、正嫡にあらざれば未だ嘗てこれを知らず、衲僧にあらざれば名すらなお聞くこと罕(まれ)なり。もしこの故実を知らずんば、学道未だ弁ぜず、正邪なんぞ分別せん。今参禅学道の人は、自らこの故実を伝授す、所以に誤らざるなり。余門にはなし。仏道を欣求する人、参禅にあらざれば真道を了知すべからず。」(5)
- 「もし己見を存せば、師の言ば耳に入らざる也。師の言ば耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。又只法門の異見を忘るるのみに非ず、又世事を返して、飢寒等を忘て、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてある也。是の如く聞く時、道理も不審も明めらるる也。真実の得道と云も、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてある也。是れ第一の故実也。」(6)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、20頁。
- (2)同上、22頁。
- (3)同上、36頁。
- (4)同上、28頁。
- (5)同上、32頁。
- (6)同上、63頁。
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