もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
道元の坐禅法=(5)名利を追わない
「貪」の一つであるが、道元禅師は名利を貪ることを厳しく諌める。
(E)名利を追わない
「学道用心集」
- 「龍樹祖師の曰く、ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づくと。然れば乃ち暫くこの心に依りて、菩提心となすべきものか。誠にそれ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず。時光の太だ速かなることを恐怖す、所以に行道は頭燃を救う。」(1)
- 「往古来今、あるいは寡聞の士を聞き、あるいは少見の人を見るに、多く名利の坑に堕して、永く仏道の命を失す。哀れむべし惜しむべし、知らずんばあるべからず。縦い権実の妙典を読むあり、たとい顕密の教籍を伝うることありとも、未だ名利をなげうたずんば、未だ発心と称せず。」(2)
- 「あるが云く、菩提心とは無上正覚心なり、名聞利養に拘わるべからず。あるが云く、一念三千の観解なり。あるが云く、一念不生の法門なり。あるが云く、入仏界の心なりと。かくの如きの輩未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。仏道の中において遠くして遠し。試みに吾我名利の当心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や、一念不生の法門を証するや否や。ただ貪名愛利の妄念のみありて、更に菩提道心の取るべきなきをや。古来得道得法の聖人、同塵の方便ありといえども、未だ名利の邪念あらず。法執すらなおなし、況や世執をや。いわゆる菩提心とは、前来云う所の無常を観ずる心便ちこれその一なり、全く狂者の指す所にあらず。かの不生の念三千の相は、発心以後の妙行なり、猥るべからざるか。」(3)
- 「況や衲子の仏道を行ずる、必ず二た心なき時、真とに仏道にかなふべし。仏道には慈悲智恵、もとよりそなわれる人もあり。たとひ無けれども、学すればうる也。只だ身心を倶に放下して、三宝の海に廻向して、仏法の教えに任せて、私曲を存する事なかれ。
漢の高祖の時、或堅臣の云く、政道の理乱は、縄の結おれるを解が如し。急にすべからず。能々結び目をもて解べし。仏道も是の如し。能々道理を心得て、行ずべき也。法門をよく心得る人は、必ず道心ある人の、よく心得る也。いかに利智聡明なる人も、無道心にして、吾我をも離れず、名利をも捨てざる人わ、道者ともならず、正理をも心得ぬ也。」(4)
- 「いわゆる操行と道と合せんには、如何が行履せん。心に取捨せず心に名利なきなり。仏法修行はこれ人のために修せず。今世の人の如きは、仏法修行の人、その心と道と遠くして遠し。もし人賞翫すれば、縦い非道なりと知るとも乃ちこれを修行す。もし恭敬讃嘆せざれば、これ正道なりと知るといえどもすてて修せず。痛ましき哉、汝等試みに静心にして観察せよ。この心行、仏法とせんや、仏法にあらずとせんや。恥ずべし恥ずべし、聖眼の照らす所なり。
それ仏法修行はなお自身のためにせず、況んや名聞利養のためにこれを修せんや。ただ仏法のためにこれを修すべきなり。諸仏は慈悲もて衆生を哀愍すとも、自身のためにせず、他人のためにせざるは、ただ仏法の常なればなり。ーー(中略)−−諸仏の妙法はただ慈悲一条のみにあらず、普く諸門に現ず。その本みな然なり。既に仏子たり、なんぞ仏風に慣わざるや。行者自身のために仏法を修すと念うべからず、名利のために仏法を修すべからず、果報を得んがために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず。ただ仏法のために仏法を修するこれ道なり。」(5)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、14頁。
- (2)同上、14頁。
- (3)同上、16頁。
- (4)同上、131頁。
- (5)同上、20頁。
「普勧坐禅儀」
(なし)
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