もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
「面授」は悟りではない、怠ってはいけない=「学道用心集」
仏道は、容易ではないところがある。面授しても未熟なのだから、それぞれの段階において、何が我見・我執か、なぜ苦を生じるのか、どうしたらよいのか、等々、師に質問すべきである。
面授しただけでは、悟りではないのは当然だから、初心と古参では差が出てくる。進度に応じた指導がされる。
(a)師に質問する(入室・独参)
「学道用心集」
- (面授時には、まだわからない。半途にして面授以前から得ていたことがわかる)
「心においても身においても住することなく着することなく、留まらず滞らず。趙州に僧問う、狗子に還って仏性ありや也なしや、趙州云く、無と。無の字の上において擬量し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。請う試みに手を撒せよ、且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り看去れば、自然に動静の二相了然として生ぜず。この不生の時、これ頑然なるにあらず、人のこれを証することなく、これに迷うものはこれ多し。参学の人、且く半途にして始めより得たり、全途辞することなかれ。」(1)
- (師にあえたら、よく聞法せよ。師にあっても我を捨てなければ得られない。面授しただけでは、もちろん、脱落=悟りではないから。)
「ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(2)
- (面授の後、このように行じて迷いから離れる必要がある)
「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(3)
- (しばらく修行してから、始めより本来仏とわかる。どの時点でわかるか。面授時ではなくて、しばらく修行してから(半途にして)である。しかも、面授時からはなくて、はじめから備わっていた(始めより得たり=自己本道中)と知る。)
「心においても身においても住することなく着することなく、留まらず滞らず。趙州に僧問う、狗子に還って仏性ありや也なしや、趙州云く、無と。無の字の上において擬量し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。請う試みに手を撒せよ、且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り看去れば、自然に動静の二相了然として生ぜず。この不生の時、これ頑然なるにあらず、人のこれを証することなく、これに迷うものはこれ多し。参学の人、且く半途にして始めより得たり、全途辞することなかれ。」(4)
- (参師の後、聞法と坐禅が必要。面授時脱落説ではないからである。)
「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。」(5)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、32頁。
- (2)同上、28頁。@(けん)点の「けん」は、「検」の字のつくりで手偏。
- (3)同上、17頁。
- (4)同上、32頁。
- (5)同上、36頁。
(b)指導は進度に応じて
「学道用心集」
- (初心の人には、方便の指導がある。次に第二の指導がある。面授時脱落していないから、師が進度に応じて指導してくれる。)
「その風規たる、意根を坐断し知解の路に向かわざらしむ。これ乃ち初心を誘引するの方便なり。その後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。」
「おおよそ、自己仏道に在るを信ずるの人、最も得難し。若し正しく道に在るを信ぜば、自然に大道の通塞を了し、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐断せよ。十の八九は忽然として見道することを得ん。」(1)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、36頁。
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