もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
道元の坐禅法=(3)我見・我執を捨てる
「我見」「我執」は、自己に苦をもたらし、他者を害する「煩悩」に関わる。ここには、特に「我見」「我執」に関係する語を集めた。
我見・我執を捨てる
「学道用心集」
- 「龍樹祖師の曰く、ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づくと。然れば乃ち暫くこの心に依りて、菩提心となすべきものか。誠にそれ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず。時光の太だ速かなることを恐怖す、所以に行道は頭燃を救う。」(1)
- 「かくの如きの輩未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。仏道の中において遠くして遠し。試みに吾我名利の当心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や、一念不生の法門を証するや否や。ただ貪名愛利の妄念のみありて、更に菩提道心の取るべきなきをや。古来得道得法の聖人、同塵の方便ありといえども、未だ名利の邪念あらず。法執すらなおなし、況や世執をや。」(2)
- 「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(3)
- 「人の師たる者、人をして本を捨て末を逐わしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専らにし、みだりに他人をして邪境に堕ちることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だこの邪惑を知らざれば、弟子何すれぞ是非を覚了せんや。悲しむべし、辺鄙の小邦仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず。もし無上の仏道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥かに心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学ばざるにしかず。それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応するこれ乃ち正師なり。」(4)
- 「ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(5)
- 「初め門に入る時、知識の教えを聞いて教えの如く修行す。この時知るべき事あり。いわゆる法我を転ずると、我法を転ずるとなり。我能く法を転ずる時、我は強く法は弱し。法還って我を転ずる時、法は強く我は弱し。仏法従来この両節あり、正嫡にあらざれば未だ嘗てこれを知らず、衲僧にあらざれば名すらなお聞くこと罕(まれ)なり。もしこの故実を知らずんば、学道未だ弁ぜず、正邪なんぞ分別せん。今参禅学道の人は、自らこの故実を伝授す、所以に誤らざるなり。余門にはなし。仏道を欣求する人、参禅にあらざれば真道を了知すべからず。」(6)
- 「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。それ人みな身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。この身心をもって直に仏を証する、これ承当なり。いわゆる従来の身心を廻転せず、ただ他の証に随って去るを直下と名づけ、承当と名づくるなり。ただ他に随い去る、所以に旧見にあらず。ただ承当し去る、所以に新巣にあらざるなり。」(7)
- 「右、仏法修行は、必ず先達の真訣を稟けて、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心をもっても得べからず、無心をもっても得べからず。ただ操行の心と道と符合せざれば、身心未だ安寧ならざれば、身心安楽ならず。身心安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。」(8)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、14頁。
- (2)同上、16頁。
- (3)同上、16頁。
- (4)同上、24頁。
- (5)同上、28頁。@(けん)点の「けん」は、「検」の字のつくりで手偏。
- (6)同上、32頁。
- (7)同上、36頁。
- (8)同上、20頁。
「普勧坐禅儀」
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「てづくり素材館 Crescent Moon」