もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
在家・出家=「正法眼蔵弁道話」
(a)在家・出家平等
「弁道話」
- 「とうていはく、この行は、在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。 しめしていはく、祖師のいはく、佛法を會すること、男女貴賎をえらぶべからずときこゆ。
とうていはく、出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禪辨道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して無爲の佛道にかなはむ。
しめしていはく、おほよそ、佛祖あはれみのあまり、廣大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を證入せしめんがためなり、人天たれかいらざらむものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その證これおほし。しばらく、代宗順宗の帝位にして、萬機いとしげかりし、坐禪辨道して佛祖の大道を會通す。李相國、防相國、ともに輔佐の臣位にはむべりて、一天の股肱たりし、坐禪辨道して佛祖の大道に證入す。ただこれこころざしのありなしによるべし、身の在家出家にかかはらじ。又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。いはむや世務は佛法をさふとおもへるものは、ただ世中に佛法なしとのみしりて、佛中に世法なき事をいまだしらざるなり。
ちかごろ大宋に馮相公といふありき。祖道に長ぜりし大官なり。のちに詩をつくりてみづからをいふに、いはく、
公事之餘喜坐禪、
少曾將脇到牀眠。
雖然現出宰宦相、
長老之名四海傳。
(公事の餘に坐禪を喜む、曾て脇を將て牀に到して眠ること少し。然しか宰宦相と現出せりと雖も、長老の名、四海に傳はる。)
これは、宦務にひまなかりし身なれども、佛道にこころざしふかければ、得道せるなり。他をもてわれをかへりみ、むかしをもていまをかがみるべし。
大宋國には、いまのよの國王大臣、士俗男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門文家、いづれも參禪學道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ世務の佛法をさまたげざる、おのづからしられたり。
國家に眞實の佛法弘通すれば、諸佛諸天ひまなく衞護するがゆゑに、王化太平なり。聖化太平なれば、佛法そのちからをうるものなり。
又、釋尊の在世には、逆人邪見みちをえき。祖師の會下には、@者樵翁さとりをひらく。いはむやそのほかの人をや。ただ正師の教道をたづぬべし。」(1)
- 「鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家(鎭州臨濟院義玄禪師曰く、夫れ出家は、須らく平常眞正の見解を辨得し、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得せば、眞の出家と名づく。若し魔佛辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて眞正の出家と爲すこと得ず)。
いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。」(2)
(注)
- (1)「弁道話」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、475頁。@=獸偏に葛(りょう)
- (2)同上、286頁。
- (2)同上、xx頁。
- (2)同上、xx頁。
- (2)同上、xx頁。
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