もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
証を待つ思いなかれ=「正法眼蔵弁道話」「学道用心集」
(a)証を待つ思いなかれ
「弁道話」
- 「とうていはく、この坐禪の行は、いまだ佛法を證會せざせんものは、坐禪辨道してその證をとるべし。すでに佛正法をあきらめえん人は、坐禪なにのまつところかあらむ。
しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ、修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本證の全體なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるがゆゑなるべし。すでに修の證なれば、證にきはなく、證の修なれば、修にはじめなし。ここをもて釋迦如來、迦葉尊者、ともに證上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく證上の修に引轉せらる。佛法住持のあと、みなかくのごとし。
すでに證をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を單傳せる、初心の辨道すなはち一分の本證を無爲の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ證を染汚せざらしめんがために、佛祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本證手の中にみてり、本證を出身すれば、妙修通身におこなはる。」(1)
(注)
- (1)「弁道話」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、470頁。
「学道用心集」
- 「いわゆる操行と道と合せんには、如何が行履せん。心に取捨せず心に名利なきなり。仏法修行はこれ人のために修せず。今世の人の如きは、仏法修行の人、その心と道と遠くして遠し。もし人賞翫すれば、縦い非道なりと知るとも乃ちこれを修行す。もし恭敬讃嘆せざれば、これ正道なりと知るといえどもすてて修せず。痛ましき哉、汝等試みに静心にして観察せよ。この心行、仏法とせんや、仏法にあらずとせんや。恥ずべし恥ずべし、聖眼の照らす所なり。
それ仏法修行はなお自身のためにせず、況んや名聞利養のためにこれを修せんや。ただ仏法のためにこれを修すべきなり。諸仏は慈悲もて衆生を哀愍すとも、自身のためにせず、他人のためにせざるは、ただ仏法の常なればなり。ーー(中略)−−諸仏の妙法はただ慈悲一条のみにあらず、普く諸門に現ず。その本みな然なり。既に仏子たり、なんぞ仏風に慣わざるや。行者自身のために仏法を修すと念うべからず、名利のために仏法を修すべからず、果報を得んがために仏法を修すべからず、霊験を得んがために仏法を修すべからず。ただ仏法のために仏法を修するこれ道なり。」(1)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、20頁。
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