もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
経典の肯定・否定=弁道話・学道用心集
(a)経典の肯定
「弁道話」
- 「又、讀經念佛等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、佛事功徳とおもへる、いとはかなし。佛法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、經書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず證をとらしめむとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千萬誦の口業をしきりにして佛道にいたらむとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。又、圓孔に方木をいれんとせんとおなじ。文をみながら修するみちにくらき、それ醫方をみる人の合藥をわすれん、なにの益かあらん。口聲をひまなくせる、春の田のかへるの、晝夜になくがごとし、つひに又益なし。いはむやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし。それ利貪のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからむや、もともあはれむべし。」(1)
- 「嘗觀すべし、身心一如のむねは、佛法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて、生滅せざらむ。もし、一如なるときあり、一如ならぬときあらば、佛説おのづから虚妄にありぬべし。又、生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、佛法をいとふつみとなる。つつしまざらむや。
しるべし、佛法に心性大總相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法、萬象森羅ともに、ただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり。あへて異違なしと談ずる、これすなはち佛家の心性をしれる樣子なり。
しかあるをこの一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらむや。すでに佛子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきを、みみにふるることなかれ。」(2)
- 「とうていはく、この行は、いま末代惡世にも、修行せば證をうべしや。
しめしていはく、教家に名相をこととせるに、なほ大乘實教には、正像末法をわくことなし。修すればみな得道すといふ。いはむやこの單傳の正法には、入法出身、おなじく自家の財珍を受用するなり。證の得否は、修せむもの、おのづからしらむこと、用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし。」(3)
(注)
- (1)「弁道話」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、466頁。
- (2)同上、474頁。
- (3)同上、476頁。
(c)経典の言葉の否定のよう
「学道用心集」
- 「あるが云く、菩提心とは無上正覚心なり、名聞利養に拘わるべからず。あるが云く、一念三千の観解なり。あるが云く、一念不生の法門なり。あるが云く、入仏界の心なりと。かくの如きの輩未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。仏道の中において遠くして遠し。試みに吾我名利の当心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や、一念不生の法門を証するや否や。ただ貪名愛利の妄念のみありて、更に菩提道心の取るべきなきをや。古来得道得法の聖人、同塵の方便ありといえども、未だ名利の邪念あらず。法執すらなおなし、況や世執をや。いわゆる菩提心とは、前来云う所の無常を観ずる心便ちこれその一なり、全く狂者の指す所にあらず。かの不生の念三千の相は、発心以後の妙行なり、猥るべからざるか。」(1)
- 「もし己見を存せば、師の言ば耳に入らざる也。師の言ば耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。又只法門の異見を忘るるのみに非ず、又世事を返して、飢寒等を忘て、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてある也。是の如く聞く時、道理も不審も明めらるる也。真実の得道と云も、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひ行けば、即ち実の道人にてある也。是れ第一の故実也。」(2)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、16頁。
- (2)同上、63頁。
「弁道話」
- 「とうていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗、華嚴教、ともに大乘の究竟なり。いはむや眞言宗のごときは、毘盧遮那如來したしく金剛薩@につたへて師資みだりならず。その談ずるむね、即心是佛、是心作佛というて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覺をとなふ、佛法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。
しめしていはく、しるべし、佛家には教の殊劣を對論することなく法の淺深をえらばず、ただし修行の眞僞をしるべし。草花山水にひかれて佛道に流入することありき、土石沙礫をにぎりて佛印を稟持することあり。いはむや廣大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり、轉大法輪又一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即坐成佛のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直證菩提の修行をすすむるに、佛祖單傳の妙道をしめして、眞實の道人とならしめんとなり。」(1)
- 「とうていはく、三學のなかに定學あり、六度のなかに禪度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禪も、そのひとつなるべし、なにによりてか、このなかに如來の正法あつめたりといふや。
しめしていはく、いまこの如來一大事の正法眼藏、無上の大法を、禪宗となづくるゆゑに、この問きたれり。
しるべし、この禪宗の號は、神丹以東におこれり、竺乾にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ佛正法をしらず、坐禪を宗とする婆羅門となづけき。のち代代の諸祖、みなつねに坐禪をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、實をしらず、ひたたけて坐禪宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡して、ただ禪宗といふなり。そのこころ、諸祖の廣語にあきらかなり。六度および三學の禪定にならべていふべきにあらず。
この佛法の相傳の嫡意なること、一代にかくれなし。如來、むかし靈山會上にして、正法眼藏涅槃妙心、無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりにみしもの存ぜり、うたがふべきにたらず。おほよそ佛法は、かの天衆、とこしなへに護持するものなり、その功いまだふりず。
まさにしるべし、これは佛法の全道なり、ならべていふべきものなし。」(2)
(注)
- (1)「弁道話」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、467頁。@= 土偏に垂(た)
- (2)同上、468頁。
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