もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
坐のみではないー七十五巻「正法眼蔵」ー越前下向前
坐のみではない
「正法眼蔵」
- (公案である。信のみではない。解ではない。坐のみでない。もちろん、この公案は、自己、仏性、修行、悟り、を参究する。)
「麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。
佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。」(1)
- 「三者菩薩乘
六波羅蜜の教行證によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。その成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無爲にあらず。ただ成就阿耨多羅三藐三菩提なり。
六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、@(せん)提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪那波羅蜜、般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり。無生無作の論にあらず。かならずしも檀をはじめとし般若ををはりとせず。
經云、利根菩薩、般若爲初、檀爲終。鈍根菩薩、檀爲初、般若爲終(利根の菩薩は、般若を初めとし、檀を終りとす。鈍根の菩薩は、檀を初めとし、般若を終りとす)。
しかあれども、@(せん)提もはじめなるべし、禪那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし。&(ら)篭より&(ら)篭をうるなり。
波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古來の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしともおふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず%(へん)界現成の力量を具足せるがゆゑに。」(2)
- (道元が大@(い)禅師の坐禅していない時の、行動・力量を賞讃している)
「大@(い)禪師は、釋迦如來より直下三十七世の祖なり、百丈大智の嗣法なり。いまの佛祖、おほく十方に出興せる、大@(い)の遠孫にあらざるなし、すなはち大@(い)の遠孫なり。
大@(い)あるとき臥せるに、仰山來參す。大@(い)すなはち轉面向壁臥す。
仰山いはく、慧寂これ和尚の弟子なり、形迹もちゐざれ。
大@(い)おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、大@(い)召して寂子とめす。
仰山かへる。
大@(い)いはく、老僧ゆめをとかん、きくべし。
仰山かうべをたれて聽勢をなす。
大@(い)いはく、わがために原夢せよ、みん。
仰山一盆の水、一條の手巾をとりてきたる。
大@(い)つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香嚴きたる。
大@(い)いはく、われ適來寂子と一上の神通をなす。不同小小なり。
香嚴いはく、智閑下面にありて、了了に得知す。
大@(い)いはく、子、こころみに道取すべし。
香嚴すなはち一椀の茶を點來す。
大@(い)ほめていはく、二子の神通智慧、はるかに&(しゅう)子目連よりもすぐれたり。
佛家の神通をしらんとおもはば、大@(い)の道取を參學すべし。
不同小小のゆゑに、作是學者、名爲佛學、不是學者、不名佛學(是の學を作す者を名づけて佛學と爲し、是の學にあらざれば佛學と名づけず)なるべし。嫡嫡相傳せる神通智慧なり。さらに西天竺國の外道二乘の神通、および論師等の所學を學することなかれ。
いま大@(い)の神通を學するに、無上なりといへども、一上の見聞あり。いはゆる臥次よりこのかた、轉面向壁臥あり、起勢あり、召寂子あり、説箇夢あり、洗面了纔坐あり、仰山又低頭聽あり、盆水來、手巾來あり。
しかあるを、大@(い)いはく、われ適來寂子と一上の神通をなすと。
この神通を學すべし。佛法正傳の祖師、かくのごとくいふ。説夢洗面といはざることなかれ、一上の神通なりと決定すべし。すでに不同小小といふ、小乘小量小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。かれらみな小神通をならひ、小身量のみをえたり。佛祖の大神通におよばず。これ佛神通なり、佛向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外にうごかざるべからざるなり。經師論師いまだきかざるところ、きくとも信受しがたきなり。二乘外道經師論師等は小神通をならふ、大神通をならはず。諸佛は大神通を住持す、大神通を相傳す。これ佛神通なり。佛神通にあらざれば、盆水來、手巾來せず。轉面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。」(3)
- 「參禪は坐禪なり。
坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。
飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。」(4)
- 「しかあるに、近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禪、得胸襟無事了、便是平穩地也(功夫坐禪は、胸襟無事なることを得了りぬれば、便ち是れ平穩地なり)。この見解、なほ小乘の學者におよばず、人天乘よりも劣なり。いかでか學佛法の漢とはいはん。見在大宋國に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。
又一類の漢あり、坐禪辨道はこれ初心晩學の要機なり、かならずしも佛祖の行履にあらず。行亦禪、坐亦禪、語默動靜體安然(行もまた禪、坐もまた禪、語默動靜に體安然)なり。ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨濟の餘流と稱ずるともがら、おほくこの見解なり。佛法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」(5)
(注)
- (1)「現成公案」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、6頁。
- (2)「仏教」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、386頁。#=手偏に主(しゅ)。 @=(せん)尸の中に、羊3つ。&=竹冠に羅(ら) 。%=ぎょうにんべんの偏
- (3)「神通」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、392頁。@=水偏に爲(い)、&=秋の下に鳥 (しゅう)。
- (4)「坐禅儀」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、100頁。
- (5)「坐禅箴」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、104頁。
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