もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
公案
道元は公案禅を否定したという主張をする研究者がいるが、そんなことはない。道元は公案を肯定しており、『正法眼蔵』でも公案を参究させている。
(A)公案の肯定
-
「しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、四大を拈じて大悟す、佛祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。みなともに大悟を拈來して、さらに大悟するなり。その正當恁麼時は而今なり。」(1)
(注)
- (1)「大悟」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、93頁。
(B)種々の公案
「正法眼蔵」
- 「麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。
佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。」(1)
- (即心是佛)
「いはゆる佛祖の保任する即心是佛は、外道二乘のゆめにもみるところにあらず。唯佛祖與佛祖のみ即心是佛しきたり、究盡しきたる聞著あり、行取あり、證著あり。
佛百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。
即公案あり、見成を相待せず、敗壞を廻避せず。
是三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。
心牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
あるいは即心是佛を參究し、心即佛是を參究し、佛即是心を參究し、即心佛是を參究し、是佛心即を參究す。かくのごとくの參究、まさしく即心是佛、これを擧して即心是佛に正傳するなり。かくのごとく正傳して今日にいたれり。いはゆる正傳しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
このゆゑに古人いはく、若人識得心、大地無寸土(若し人、心を識得せば、大地に寸土無し)。
しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、B地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。」(2)
- (山河大地心)
「古徳云く、作麼生是妙淨明心。山河大地、日月星辰(作麼生ならんか是れ妙淨明心。山河大地、日月星辰)。
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去來心は生死去來のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子拂子心は椅子拂子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是佛、不染汚即心是佛なり。諸佛、不染汚諸佛なり。」(3)
- 「出門便是草、入門便是草、萬里無寸草(門を出づれば是れ草、門を入るも是れ草、萬里寸草無し)なり。入之一字、出之一字、這頭也不用得、那頭也不用得(入の一字、出の一字、這頭も不用得、那頭も不用得)なり。いまの把捉は、放行をまたざれども、これ夢幻空花なり。たれかこれを夢幻空花と將錯就錯せん。進歩也錯、退歩也錯、一歩也錯、兩歩也錯なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔するがゆゑに至道無難なり。威儀儀威、大道體寛と究竟すべし。
しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。その頭正尾正に、玉轉珠囘の威儀現前するなり。佛威儀の一隅を遣有するは、盡乾坤大地なり、盡生死去來なり。塵刹なり、蓮花なり。これ塵刹蓮花、おのおの一隅なり。」(4)
- 「 雪峰山眞覺大師、衆に示して云く、三世諸佛、在火焔裏、轉大法輪(三世諸佛、火焔裏に在つて大法輪を轉ず)。
玄沙院宗一大師云、火焔爲三世諸佛説法、三世諸佛立地聽(火焔ゝ三世諸佛の爲に説法するに、三世諸佛地に立ちて聽く)。
圜悟禪師云、將謂猴白、更有猴黒、互換投機、神出鬼沒(將に謂へり猴白と、更に猴黒有り。互換の投機、神出鬼沒なり)。
烈焔亙天佛説法、
亙天烈焔法説佛。
風前剪斷葛藤F、
一言勘破維摩詰。
(烈焔亙天は、佛、法を説くなり、亙天烈焔は、法、佛を説くなり。風前に剪斷す葛藤F、一言に勘破す維摩詰。)
いま三世諸佛といふは、一切諸佛なり。行佛すなはち三世諸佛なり。十方諸佛、ともに三世にあらざるなし。佛道は三世をとくに、かくのごとく説盡するなり。いま行佛をたづぬるに、すなはち三世諸佛なり。たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、かならず三世諸佛なる行佛なり。
しかあるに、三位の古佛、おなじく三世諸佛を道得するに、かくのごとくの道あり。しばらく雪峰のいふ三世諸佛、在火焔裏、轉大法輪といふ、この道理ならふべし。三世諸佛の轉法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず佛道場なるべし。經師論師きくべからず、外道二乘しるべからず。しるべし、諸佛の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。三世諸佛の在火焔裏の化儀、ならふべし。火焔裏に處在する時は、火焔と諸佛と親切なるか、轉疎なるか。依正一如なるか、依報正報あるか。依正同條なるか、依正同隔なるか。轉大法輪は轉自轉機あるべし。展事投機なり、轉法法轉あるべし。すでに轉法輪といふ、たとひ盡大地これ盡火焔なりとも、轉火輪の法輪あるべし、轉諸佛の法輪あるべし、轉法輪の法輪あるべし、轉三世の法輪あるべし。」(5)
- 「三世諸佛の聽法は、諸佛の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を佛と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道なほざりなるべからず。將謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり。」(6)
-
「
正法眼藏第八 心不可得
釋迦牟尼佛言、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。
これ佛祖の參究なり。不可得裏に過去現在未來の窟篭を@(えん)來せり。しかれども、自家の宿篭をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今の思量分別は、心不可得なり。使得十二時の渾身、これ心不可得なり。佛祖の入室よりこのかた、心不可得を會取す。いまだ佛祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著なし、見聞せざるなり。經師論師のやから、聲聞縁覺のたぐひ、夢也未見在なり。」(7)
- 「先師曰く、與宏智古佛相見(宏智古佛と相見す)。
はかりしりぬ、天童の屋裏に古佛あり、古佛の屋裏に天童あることを。
圜悟禪師曰く、稽首曹谿眞古佛(稽首す、曹谿眞の古佛)。
しるべし、釋迦牟尼佛より第三十三世はこれ古佛なりと稽首すべきなり。圜悟禪師に古佛の莊嚴光明あるゆゑに、古佛と相見しきたるに、恁麼の禮拜あり。しかあればすなはち、曹谿の頭正尾正を草料して、古佛はかくのごとくの巴鼻なることをしるべきなり。この巴鼻あるは、この古佛なり。
疎山曰く、大&(ゆ)嶺頭有古佛、放光射到此間
(大&(ゆ)嶺頭に古佛有り、放光此間に射到す)。
しるべし、疎山すでに古佛と相見すといふことを。ほかに參尋すべからず。古佛の有處は、大&(ゆ)嶺頭なり。古佛にあらざる自己は古佛の出處をしるべからず。古佛の在處をしるは古佛なるべし。
雪峰いはく、趙州古佛。
しるべし、趙州たとひ古佛なりとも、雪峰もし古佛の力量を分奉せられざらんは、古佛に奉覲する骨法を了達しがたからん。いまの行履は、古佛の加被によりて、古佛に參學するには、不答話の功夫あり。いはゆる雪峰老漢、大丈夫なり。古佛の家風および古佛の威儀は、古佛にあらざるには相似ならず、一等ならざるなり。しかあれば、趙州の初中後善を參學して、古佛の壽量を參學すべし。
西京光宅寺大證國師は、曹谿の法嗣なり。人帝天帝、おなじく恭敬尊重するところなり。まことに神丹國に見聞まれなるところなり。四代の帝師なるのみにあらず、皇帝てづからみづから車をひきて參内せしむ。いはんやまた帝釋宮の請をえて、はるかに上天す。諸天衆のなかにして、帝釋のために説法す。
國師因僧問、如何是古佛心(如何にあらんか是れ古佛心)。
師云、牆壁瓦礫。
いはゆる問處は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を擧して問處とせるなり。この問處、ひろく古今の道得となれり。」(8)
- (「古佛心、牆壁瓦礫」の公案)
「西京光宅寺大證國師は、曹谿の法嗣なり。人帝天帝、おなじく恭敬尊重するところなり。まことに神丹國に見聞まれなるところなり。四代の帝師なるのみにあらず、皇帝てづからみづから車をひきて參内せしむ。いはんやまた帝釋宮の請をえて、はるかに上天す。諸天衆のなかにして、帝釋のために説法す。
國師因僧問、如何是古佛心(如何にあらんか是れ古佛心)。
師云、牆壁瓦礫。
いはゆる問處は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を擧して問處とせるなり。この問處、ひろく古今の道得となれり。
このゆゑに、花開の萬木百草、これ古佛の道得なり、古佛の問處なり。世界起の九山八海、これ古佛の日面月面なり、古佛の皮肉骨髓なり。さらに又古心の行佛なるあるべし、古心の證佛なるあるべし、古心の作佛なるあるべし。佛古の爲心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆゑなり。心佛はかならず古なるべきがゆゑに、古心は椅子竹木なり。盡大地覓一箇會佛法人不可得(盡大地、一箇の佛法を會する人を覓むるに不可得)なり、和尚喚這箇作甚麼(和尚這箇を喚んで甚麼とか作ん)なり。いまの時節因縁および塵刹虚空、ともに古心にあらずといふことなし。古心を保任する、古佛を保任する、一面目にして兩頭保任なり、兩頭畫圖なり。
師いはく、牆壁瓦礫。
いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり。これらの道取の現成するところの圓成十成に、千仭萬仭の壁立せり、%(そう)地%(そう)天の牆立あり、一片半片の瓦蓋あり、乃大乃小の礫尖あり。かくのごとくあるは、ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正なるべし。
しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古佛心と答取すべし。かくのごとく保任してのちに、さらに參究すべし。いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に參究すべし。造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。造作か、造作にあらざるか。有情なりとやせん、無情なりや。現前すや、不現前なりや。かくのごとく功夫參學して、たとひ天上人間にもあれ、此土他界の出現なりとも、古佛心は牆壁瓦礫なり、さらに一塵の出頭して染汚する、いまだあらざるなり。
漸源仲興大師、因僧問、如何是古佛心(如何なるか是れ古佛心)。
師云く、世界崩壞(世界崩壞す)。
僧曰く、爲甚麼世界崩壞(甚麼としてか世界崩壞なる)。
師云く、寧無我身(寧ろ我身無からん)。
いはゆる世界は、十方みな佛世界なり。非佛世界いまだあらざるなり。崩壞の形段は、この盡十方界に參學すべし、自己に學することなかれ。自己に參學せざるゆゑに、崩壞の當恁麼時は、一條兩條、三四五條なるがゆゑに無盡條なり。かの條條、それ寧無我身なり。我身は寧無なり。而今を自惜して、我身を古佛心ならしめざることなかれ。
まことに七佛以前に古佛心壁豎す、七佛以後に古佛心才生す、諸佛以前に古佛心花開す、諸佛以後に古佛心結果す、古佛心以前に古佛心脱落なり。」(9)
- (臨済、不悟者難得、悟者難得の公案)
「臨濟院慧照大師云、大唐國裏、覓一人不悟者難得
(大唐國裏、一人の不悟者を覓むるに難得なり)。
いま慧照大師の道取するところ、正脈しきたれる皮肉骨髓なり、不是あるべからず。
大唐國裏といふは自己眼睛裏なり。盡界にかかはれず、塵刹にとどまらず。遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず。山人水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。學人かくのごとく臨濟の道を參學せん、虚度光陰なるべからず。
しかもかくのごとくなりといへども、さらに祖宗の懷業を參學すべし。いはく、しばらく臨濟に問すべし、不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずは、未足爲是なり。不悟者難得をも參究せるといひがたし。たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目雍容、巍巍堂堂なる、相見しきたるやいまだしや。たとひ大唐國裏に一人の不悟者をもとむるに難得なるを究竟とすることなかれ。一人半人のなかに兩三箇の大唐國をもとめこころみるべし。難得なりや、難得にあらずや。この眼目をそなへんとき、參飽の佛祖なりとゆるすべし。」(10)
(注)
- (1)「現成公案」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、6頁。
- (2)「即心是仏」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、56頁。
- (3)「即心是仏」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、57頁。
- (4)「行仏威儀」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、62頁。
- (5)同上、69頁。
- (6)同上、72頁。
- (7)「心不可得」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、82頁。@=宛に「リ」(えん)。
- (8)「古仏心」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、87頁。&=广垂に臾(ゆ)
- (9)「古仏心」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、89-91頁。%=しんにょうに匝(そう)
- (10)「大悟」、「道元禅師全集」第1巻、春秋社、1991年、93頁。
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